月山富田城見学を決意する
翌朝は6時半に起床。今朝は昨日までと違って好天である。さて今日はどうするかであるが、それは体調で決まることになる。まずは朝風呂で体をほぐすことにする。
今朝は夜のうちに男女の浴槽が入れ替わっている。と言っても構成にそんなに大きな違いがあるというわけではない。露天風呂はやや湯がぬるすぎるので内風呂でゆっくりと体をほぐすことにする。
腰の状態は良くはないが、特に悪くはなっていないようである。コルセットで固定して杖を突きながらならまあ歩けるだろう。そう考えたところで今日の予定は決まる。そもそも今回の遠征を企画した主目的であるところの月山富田城見学をこの際実行することにする。
今回の平日休みに際して、鳥取・島根という目的地が浮上した理由は、10年ぶりぐらいに月山富田城を再訪したいと考えたからだ。というのも、ここのところ「お城君」こと千田氏がやけにこの城を宣伝しており、確かに以前に訪問した時よりもかなり整備が進んだことが実感できたからだ。それによくよく考えてみると、以前に訪問した時の記憶は既にほとんどない。昔は私の山城攻略はとにかくスピード勝負のようなものだったから、かなり駆け足で回っている。今回改めて、もっとじっくりと「大人の」山城見学をしたいと考えた次第である。
ついでに月山富田城を攻略するために毛利元就が築いた勝山城も見学したいと考えていたのだが、さすがにこれは断念する。完全に整備されている月山富田城と違い、こちらは本格登山を覚悟する必要があるので現在の体調では無理である。これは身体が回復して、経済的に余裕も出来てからのリターンマッチとすることにする。と言うわけでこれで大体今日の予定は定まった。
朝食も堪能して準備万端
風呂から上がると朝食。昨日と同じ無農薬米のご飯がべらぼうに美味い。朝からガツガツと腹いっぱいに平らげる。
後はチェックアウト時刻までワーケーションである。GoTOを利用してワーケーションまでやってるなんて、私ってつくづく根っからの愛国者だな(笑)。そう言えば今では完全死語になっているプレミアムフライデーなんかもたまにやっている。
道の駅で情報収集
さぎの湯温泉から月山富田城は車で10分とかからない。手前には道の駅っぽい施設があり、それが安来市立歴史資料館と隣接している。ここでマップを入手。館内には月山富田城の立体模型も展示されている。
ちなみにこの地では「山中鹿之助を大河ドラマ主人公に」の運動をやっているようで(安来市はかなり以前から尼子関係を大河ドラマにという運動をやっている)、その怪しいポスターも飾られている。まあ山中鹿之助の方が伊能忠敬よりはよほど大河ドラマ向きではあるが、問題は1年分のネタがあるかだ。
月山富田城攻略開始
ここから道に沿って回り込むと磯田氏も紹介していた立体模型(屋外設置)があって、その奥から車道が出ているが、ここが登り口。さていよいよ城攻め開始となる。今日は昨日までと一転しての好天で格好の城攻め日和。贅沢を言えばもう少し涼しければ万全。しかし太陽が出ていたら、基本太陽光エネルギーで精神が回る私の行動力は上がる(私は太陽光で動くひ弱な人間なので「華奢ーン」と呼ばれている(笑))。
車道をしばし進むと石段があっていよいよ入口である。ちなみにこの車道をそのまま進むと山中御殿下の駐車場にたどり着くので、せっかちな人はそこまで行けば良い。私は城攻めの王道として手前の千畳平から見学するつもり。
石段を登っていくとすぐに広い曲輪に出る。千畳平の名の通り、確かにかなり広大である。これが一番手前で城の入口を守る曲輪となる。この奥に太鼓櫓に通じる道があり、東の方を見下ろすと馬上馬場と記されたかなり広大な曲輪がある。
太鼓壇で山中鹿之助とご対面
千畳平の奥が太鼓壇となる。ここの奥に山中鹿之助の像が立っている。彼は月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったそうだが、その祈りの通りその後の彼の人生はまさに七難八苦となる。ただし彼が祈ったのは「七難八苦を乗り越えた先に尼子家再興がある」ことのはずだが(最初から七難八苦だけ求めたのなら、単なるドMである)、残念ながらそれは叶わなかった。なお先ほどの歴史資料館を見てきた後では「我に大河ドラマ主役の座を与えたまえ」と月に祈っているようにも見える(笑)。
この奥が奥書院となる。何やら石碑が見えるが、それはこの手の城跡にはよくある忠魂碑。
ここからは一旦下に降りてから、花の壇に登ることになる。花の壇の奥には何やら小屋が建っているが、かつての城内にも兵士の宿所としてこの手の小屋が多数あったはずである。
城の中心部の山中御殿に向かう
この奥はいよいよ月山富田城の中心で最大の曲輪である山中御殿の間近となっていくわけだが、その手前では深い堀切で断ち切られているので、まずはV字に折れた通路で一旦降りる必要がある。ちなみにこの場所が「英雄たちの選択」で千田氏が弓兵と火縄銃に襲撃されて大はしゃぎしていた場所である。
山中御殿手前の曲輪はかなり高い崖となっており、ここが山中御殿の手前を守っている。完全なバリケードでしかも上から狙い撃ちである。当然ながら守りは鉄壁である。一つの曲輪が落ちることで連鎖的に攻略されないように、独立した曲輪が並立して入口を死守している。
山中御殿へと
この曲輪の奥にある石垣城には多門櫓があり、山中御殿の入口を思っている。その奥には山中御殿本体とその奥に山上の曲輪が見える。手前には水堀も兼ねた巨大な軍用井戸(実質的には池だ)がある。
山中御殿はとにかく広大の一言である。なお今はここまで強引に車で登ってくることも可能ではあるようだ(途中の道は未舗装であまり良い道ではないが)。山上の本丸へは案内看板等が立っている奥の石垣に登り口がある(奥に見える石段)。
山上の本丸へ向かう
そこからは七曲がり急な山道になるが、綺麗に舗装されているので足元に不安はない。不安があるのは体力と腰の具合だけ。幸いにして腰はまだ大丈夫だが、計算違いはコロナ籠りで著しく体力が低下していたこと。腰の痛み云々以前にあっという間に息が上がってしまう。心臓は苦しくないというか、心臓が苦しくなる前に息が詰まる。相当肺の能力の方が堕ちてしまっている印象。途中で立ち止まって風景を眺めたりしながら、休み休みで昇っていく。
途中には山吹井戸があって今でも水が溜まっている。こんな山の山上でも井戸が湧くのには驚き。ここから山上へはもう一息である(が、実はここからが一番キツかった)。
ようやく山上に到着
半分死にかけてようやく山城に到着すると目の前は三の丸で、右手は西袖ヶ平である。ここからの風景はまさに絶景。
三の丸に登ると何やら鳥居が立っている。三の丸は奥に深く、一段高い奥は二の丸となる。
二の丸と本丸の間は深い堀切で分かたれており、二の丸虎口を通って降りてから再び本丸に登る必要がある。最後の最後まで徹底抗戦できる構えだが、実際にはここまで敵に迫られる状態は事実上の落城であり、この後はせいぜい君主の切腹のための時間稼ぎぐらいである。
そして本丸へ
本丸に上がると、この曲輪も奥にかなり深い。そして一番奥は神社となっている。三の丸にあった鳥居はこの神社の鳥居か。ちなみにこの神社の奥が正真正銘のどん詰まりの最果てである。
10年前に訪問したおぼろげな記憶がこれでやっとつながった。とにかく山上は奥にやたらに深かったことだけは印象に残っていた。にしても全山を要塞化したとにかく巨大で堅固な城である。この城を力攻めするのは犠牲が多すぎるので、毛利元就が周囲の城(尼子十旗)から順次攻略して孤立させた上で圧力をかけたのは正解だろう。尼子氏もこの城を落とせるとは思っていなかったのではなかろうか。実際にこの城を落とすには内通者が出ることなどが不可欠である。
ちなみに件の山中鹿之助はこの城を奪回するために兵を挙げたが、敵の策略にはまったこともあって奪回に失敗している。ただそもそもこの城は数千単位から一万単位の城兵が立て籠もって守ることが前提となっているような巨大城郭であり、もし奪回しても尼子残党の手勢だけで守り切れるのかは若干の疑問はある。
山城の見学を終えたところで慎重にゆっくりと下まで降りてくる。石段は足腰にダメージを与えるのは主に登りよりも下りである。杖を使って一段ずつ時間をかけて降りてくることにする。
麓に戻ってきて見学終了
山中御殿まで降りてくると下にある大土塁を見学。とにかくその規模には圧倒される。
大土塁から軍用井戸の脇を回って花の壇にたどり着くと、ここから最後に馬上馬場を見学する。ここは正真正銘一番手前の曲輪。かなり広く、その名の通り馬を乗り回すことも可能だろう。ここも下からはかなりの高さがあるが、ここが落ちても千畳平や太鼓の櫓とはかなりの高度さがあるので、守りには問題ない構造になっている。
道の駅で昼食を摂ると共に土産物を購入
ようやく全域を回り終えて下まで降りてくる。かなり疲れたし、いささか腹も減ったので麓の道の駅で昼食に「割子そば」を食べることにする。
簡単なそばで本格感はないにもかかわらずなかなかに美味い。やはり出雲蕎麦は侮りがたいところである。
そばを食べた後は土産物を物色。月山富田城の御朱印せんべいなどもあるが、安来にちなんで「あらエッサくん」のせんべいを購入する。
月山富田城を堪能したことで本遠征の主目的は達成することができた。しかも思いの外の感動をしたことで体内がアドレナリンシャワー状態で痛覚等が完全にマヒしているようだ。そう思った時に、もう毒食わば皿までで先日果たせなかった課題の一つをこの勢いで解消してしまおうと考える。豪雨のせいで断念した米子城攻略を実施しようと思い立つ。米子城を訪問したのはやはり10年前に月山富田城とセットで訪問している。その時にはとにかく立派な石垣に感動し、なぜこの城が100名城に入っていないのかと疑問を感じたものである(ちなみに後に続100名城には余裕で選ばれた)。確か、記憶によるとそんな無茶な高さを登ってはいないと思うから(そもそも米子城は米子藩の藩城だった近世城郭なので、そんなべらぼうな高山に築くはずがない)、何とかなるだろうという考え。貧乏性を根底にしたバーサーカー状態が久しぶりに発動してしまった。こうなると私は自分の体力のことと財布の中身のことを考える知性がどこかにぶっ飛んでしまう。
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