長岩城を目指す
翌朝は6時起床。朝風呂を浴びてからバイキングの朝食。朝食メニューは結構充実しているのでガッツリと頂く。
今日からは車で移動の予定で、駅前のタイムズレンタカーを予約している。8時過ぎにチェックアウト。タイムズで用意されていた車は日産のマーチだった。相変わらず非力さが目立つ車。高速に乗るとかなり踏み込まないと流れに乗れない。目の前を爆走している西鉄バスについて行くのが一苦労。なお西鉄バスの爆走は九州では有名で、走行車線を100キロで走行していたらバスにあおられたとか、追い抜かれたなんて話もある。実際に見ていると今でも優に100キロを超えた速度で走行しており、非力なマーチだと完全に置いて行かれるというのが実態(実際に最終的には完全にちぎられてしまった)。
さて今日の最初の目的地は長岩城。大分自動車道を玖珠ICで降りると、耶馬溪に向かって北上する。この辺りは紅葉もあってかなり風光明媚。ここは帰りに立ち寄ることにして先を急ぐ。
カーナビの最初の目標地点は耶馬溪中学校に設定していたのだが、ここに到達した時点でさらに目的地をその先の永岩小学校に設定し直す。県道28号線から県道2号線に乗り換えたところで道幅はかなり狭くなり、両側には切り立った山が迫ってくる。
その中をしばし走行、やがて集落近くになると長岩城の案内旗差しが目立つようになり、長岩城の手前にはキチンと観光客用のトイレ付きの駐車場(4台程度駐車可)までが整備されており、ここが満杯の場合にはさらに進んだ永岩小学校の辺りにも駐車場があるとの親切極まりない案内が表示されている。どうやらこの地域も「お城で村おこし」を始めたようである。
長岩城は豊前の守護であった宇都宮氏の一族である野仲氏の城郭で、野仲重房が1198年に築城したと言われている。野仲氏は戦国期には大内氏の配下となるが、大友氏の豊前侵攻の前に降伏、その後黒田氏が中津城に入った時にこれに反抗して落城、野仲氏は滅亡したとのこと。と言うわけでこの城郭もクロカン関係と言うことで、どうやら明らかに最近になって整備された跡があるわけが納得できる。この世界はとかくこういう「大河特需」が大きい。
案内に従って田んぼのあぜ道を抜けるとそこに来訪者ノートがある。その先は川(そう大きくない川だが実はこれが耶馬溪の上流)を橋で渡るとそこから先が長岩城になる。山道を登り始めるとそこからいくらと進まないところにいきなり立派な石垣が現れて見学者のテンションを上げてくれるが、これが一之城戸。
ここからさらに進むと二之城戸が現れるが、もうこの石垣辺りからこの城の最大の特徴である登り石垣が見られるようになる。
ここから見学路は沢沿いのかなり険しい道になってくる。それをしばし登ったところに現れるのが三之城戸。ここまで来るとかなり大規模な登り石垣となる。ここで陣屋方向と本丸方向に道が分かれるが、とりあえずまずは本丸方向を目指す。本丸方向へは一段と険しさを増した道を登り石垣に沿って進む印象。
ようやく平地に出てホッとしたところが東之台。本丸下を守る出曲輪のような場所。そしてここから呆れるほど大規模な登り石垣が本丸方向に向かって連なっている。この石垣に沿って最後の一踏ん張りとなる。それにしてもかなり急な斜面なのであるが、こんなところに延々と登り石垣を組んだ執念には呆れるばかり。そう大きくはない瓦のような平たい石を積み上げてあるのだが、一つ間違えれば全体が崩壊したのではないか心配になる。下から順番に積み上げていったのだろうか。労力を考えると頭痛がする。
完全に息が上がった頃にようやく本丸へとたどり着く。さして広くはない本丸を腰曲輪が取り巻く形式だが、腰曲輪まで含めても面積はしれている。この本丸から放射状に裏手にも登り石垣があるようで、これらの登り石垣で敵の進行方向を限定して防御する構造になっているようである。
本丸の見学を終えて一息つくと、西之台を経由して降りていく。西之台には一端下ってから尾根続きで登っていく構造で、途中には堀切があり、一番低い部分には一文字堀虎口の跡も残っている。
西之台も石塁などで守られた小さな平地。ここが本丸の西側を守る拠点か。ここの石塁がまた高さ的に半ば身を隠しながら敵を狙撃するのに適した構造になっている。まるで銃撃戦を想定した要塞のようなのであるが、こういう形態の石組みがこの城の最大の特徴をなしている。一般的な城の石垣は、弓矢戦や接近戦を想定して敵の進撃を阻止するために高さを稼ぐのを目的として組まれていることが多いのだが、ここの石垣は敵を銃撃するための防壁といった組み方になっている。だから正直なところ、戦国期の城郭と言われるよりも、西南戦争で西郷軍が政府軍を防ぐためにあり合わせの材料で構築した陣地とでも言われた方が納得できる造りになっている。この辺りがこの城を回っていて感じる大きな違和感である。元々は鎌倉期に建造されたという「古い城郭」のはずなのだが、この辺りの設計が妙に近代的に感じられるのである。黒田氏が豊前に入る頃には合戦においても銃撃戦が普通になっていたので、その頃に大幅に手直しされたのだろうか? 私の目には妙に構造が先進的すぎるようにさえ見える。
西之台から水場を経由して降りてくると、陣屋方向との分岐にたどり着くので今度は陣屋の見学に行く。陣屋は広い斜面を石垣で囲っている区画で、石垣で表を固めてその奥はさらに登り斜面となっている。斜面が結構キツいのであまり大きな建物などを築けたとは思えない。
陣屋の右手の崖の上には砲座と呼ばれる石組みがある。また背後の崖の先にも銃座など諸々があると聞いているが、その辺りは狭い崖の上を10メートルのはしごで登ってから命がけで進んでいかないといけないと聞いているので、もう既に足が終わっている上に強度の高所恐怖症である私はパスすることにして馬場方面の見学に向かう。
馬場は大分進んだ先の尾根筋上にある。何段かの平地になっているが、馬を乗り回すに十分と言える広さではない。ここまで来るとこの山のかなり端の方になっており、一番突端には電波アンテナが立てられている。ここから直接下に降りられると楽なのだが、どこにも下に通じるルートはなさそうなので、再び延々と戻ってから下山することになる。
かなり大規模で堅固な要塞であった。大兵力を伏せる城郭ではなくて、小兵力で半ばゲリラ戦で徹底抗戦するための城郭と言う印象。攻める側としては、こんなところに立て籠もられたら嫌だなと思うような城郭であった。結局黒田はここを力攻めで落としているのだが、被害は馬鹿にならなかったろうと思われる。
渓石園を見学
長岩城の見学を終えると耶馬溪方向に戻る。途中で渓石園なる庭園があったので立ち寄る。紅葉がかなり映えて綺麗。
耶馬溪の一目八景を観光
一目八景を中心とした深耶馬渓周辺はかなり車がひしめいている。ここの公共駐車場に車を置くとプラプラと散策。オンシーズンと言うことで観光客目当ての出店なども多数。とりあえず地鶏の串焼きを頂く。堅めの肉が味わい深い。
一目八景は観光客がひしめいて押すな押すなの状態。辺りの道路にまで観光客が溢れていて、おかげで周辺道路はバスなどがつかえて渋滞の状態。大変なことになっている。
とりあえず私も展望台で写真撮影をすると、隣の「八景店」のそばまんじゅう(80円)などを頂きながらマッタリ。またこのそばまんじゅうがうまい。
昼食を摂っていなかったので近くの土産物屋「ほどひら」で「そば定食(1200円)」を頂く。そばはしっかりしてうまい。付け合わせは山菜を中心とした料理。味は悪くないが好き嫌いのある内容ではある。なお付け合わせの自家栽培という椎茸の辛子漬けが思い切り鼻に抜けるような強烈な逸品。何かクセになる味だったので土産に一つ買い求める。
耶馬溪は一大観光地であった。辺りの山は断崖絶壁で実に日本離れした水墨画の世界のような風景である。日本もいろいろなところがあるものだと感心。
由布院へとひた走るが・・・
耶馬溪を一回りした頃には三時過ぎ。耶馬溪を後にするとそろそろ今日の宿泊地である湯布院まで移動することにする。玖珠ICから再び大分自動車道に乗ると高速を突っ走って引き返す。行きは西鉄バスが爆走していたが、今度は亀の井バスが爆走している。追い越し車線から他の車を牛蒡抜きである。バスがここまで高速で疾走するのは九州以外では見たことがない。
私も湯布院に向かって快調に走行していたのだが、途中で思いがけないアクシデントに遭遇することになる。トンネルを走行中に突然ガチンとものすごい音が車から出て、もしかして車のどこか壊れたのかと思ったら、フロントガラスにヒビが入っていた。どうも飛び石にやられたようだ。仕方ないので湯布院ICで高速を降りると、タイムズに電話で連絡を取る。代車を用意してくれるとのこと。今晩、宿泊旅館の方まで持ってきてくれるらしい。助かった。
何だかんだで時間を取ったが、それでも湯布院に到着した時には旅館のチェックイン時間の4時までまだ余裕があったので旅館に入る前に金鱗湖を訪れることにした・・・のだがこれは大失敗だった。周辺の道幅が狭い上に観光客がやたらに多いせいで周辺は大渋滞。前で激烈に運転が下手なベンツが進退窮まって立ち往生している。どうして車幅感覚もないような下手くそに限ってでかい車に乗りたがるのやら・・・。とにかく車のすれ違いがギリギリな狭い道路に観光客がひしめいてにっちもさっちもいかない。とりあえず観光はそっちのけにしてまずは脱出を最優先に出口を求めてウロウロすることに。すると驚いたことにこんなところにまで観光バスが入ってきている。そこでそのバスについて行ってようやく難所を脱出。
ようやく旅館に到着する
金鱗湖で散々な目にあっているうちに旅館のチェックイン時刻になったのでとりあえず旅館に向かうことにする。今日の宿泊旅館は蓮輪旅館。しかし電話番号をカーナビに入れて到着した先は全く見当違いのとんでもない場所。改めて地図を確認してようやく旅館の近くまでやってきたものの、最後の最後で場所がよく分からなくて(入口にたどり着けない)ウロウロする羽目に。結局は旅館に電話して誘導してもらう。
旅館は路地の奥のかなり分かりにくい場所にあった。部屋が5つほどの小さな宿である。すぐ裏手をJRの線路が通っているので、たまにそこを特急ゆふが走り抜けたりしている。表に露天風呂が2つあり、これを貸切で自由に使えるようだ。すぐに風呂に入りたいところだが、その前に日没までに金鱗湖にリターンマッチしておきたい。旅館で自転車を借りるとこれで金鱗湖まで出向く。
金鱗湖リターンマッチ
金鱗湖までは遊歩道を通って10分もかからない。湯布院は平地が多いので、どうやら自転車で移動するのが最強のようである。最初からこうするべきだった。つまり由布院観光は駅からレンタサイクルで回るのが正解ということか。確かレトロバスも走っていたはずだが、観光地周辺は道路が大渋滞しているから今日なんかはまともに動くか怪しいものである。
金鱗湖周辺は観光客目当ての店などが林立した一大観光地。また観光客相手の美術館などもあるようだが、この手のリゾート型美術館で入場料に見合った中身のあるところは少ないし、もう時間もあまりないしと言うことで今回はパスする。
金鱗湖はそう大きな湖でもないが風光明媚で、周辺にはホテルなども多い。なおここの湖水は湖底から湯が湧いているとのことで冬でも凍結せず、冬になるとよく朝霧なども立ち上るらしい。冬の由布院はとにかく霧が出やすい地域で、昨日高速でここを通過した時にも由布院の盆地が丸ごとに霧に埋まっていた。その霧の発生地がこの金鱗湖だとか。
入浴してからの夕食はすっぽん料理
金鱗湖の見学を終えると日没までに旅館に戻って露天風呂に入浴する。ここの露天風呂は華の湯と愛の湯の2つがあるが、最初は大きな岩風呂の華の湯から。泉質はアルカリ泉とのことでかなりヌルヌル感が強い湯。この湯がダバダバとかけ流しされている。湯が非常に肌にしっくりと馴染んで快適である。思わず「最高」という言葉が口から出る。
入浴を済ませてサッパリすると部屋でしばしぼんやりと過ごす。夕食は6時から。ここの売りはスッポンを自家養殖しているので安価に食べることができるということ。スッポン料理は食べに行っても高いだけでなく、お二人様から縛りが多いので、私のような一人客には非常にあり難い。
メニューはスッポン鍋にその他。スッポンは特にクセがなく普通にうまい。殊更に意識しないとゲテモノ感は皆無。何しろすべて切り身になっているので元の状態は分からない。味としては鳥系かなという印象。卵などの内臓の料理が意外にうまかった。なお生き血は焼酎割りにしてあったが、私は生き血には抵抗がないのだが焼酎の方が駄目なのでパス。なお甲羅の縁などにいわゆるコラーゲンが大量にあるので、これは美肌の湯と合わせてかなり強烈な美肌効果がありそう。このプヨプヨのコラーゲン部分が食べた中で一番多かった印象。なおスッポンの甲羅の骨は開運アイテムとしてお持ち帰りである。これが「命を頂く」ということか。
食後に再び入浴して就寝
夕食を終えると部屋でマッタリしているうちにタイムズから代車を持ってきたという連絡が入る。代車は黒いフィット。急遽調達したのか、小さな傷が目立ってシートにくたりもみられるやや年季の入った車である。なおここまで使用したガソリンは距離計算で返却時に精算になるとのこと(満タン返しより割高になる)。これはやむを得ないところ。
車の件が片づいたところで再び入浴。今度は愛の湯の方へ。こちらは小さい桧風呂。先ほどと湯は同じはずだが、こちらの方が風呂桶が小さいので湯の入れ替わりが早いのか、湯の鮮度が華の湯よりも良いという印象。
風呂から上がると疲れがどっと押し寄せてくる。しばしテレビをぼんやりと見ていたら激しい眠気が押し寄せてきたので早めに就寝する。
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