翌朝は7時に起床。簡素な無料朝食がある。朝食とシャワーを終えるとチェックアウトの11時までに一つ用事を済ませておきたい。9時前に外出する。
「スペイン・ リアリズム絵画の異才 磯江毅 -広島への遺言-展」広島県立美術館で5/24まで
19才でスペインに渡り、現地で徹底的な写実によるリアリズム絵画を極めて注目を浴び、2005年からは広島市立大学芸術学部教授として後進の指導に当たるが、53才という若さで他界した画家の作品展である。
圧倒されるのはその写真と見まごうというよりも、写真よりもさらにリアルで、そこに事物がそのままあるとしか見えない超絶的な
写実の技である。彼は徹底的に写実にこだわり、モデルにしていた果物が腐ってしまった場合などには似たようなものを買ってきて描き続けたという。
彼の作品は単にそこにある事物を写し取るだけでなく、それらの事物を通して「生や死」について問いかけてくるところがある。画に殊更の意味を持たせようとするのではなく、描いている物に語らせるという手法をとったという。作品自体が独特の静謐さを秘めているのが印象的である。
チェックアウト後に美術館を訪問したら車をここの駐車場に入れて駐車場代を取られることになるので、それまでに訪問した次第。
最後に三次に立ち寄ることに
再びホテルに戻ると荷物をまとめてさっさとチェックアウト。今日は遠征最終日、最後の予定が複数残っている。
車で広島市街を駆け抜けると高速で北上する。今日は三次に立ち寄るつもりだが、その前に付近の山城探索が予定されている。中国自動車道を高田ICで降りると、近くの道の駅で昼食にラーメンを摂ってから東に向かって走る。目指すは五龍城。
五龍城を攻略する
五龍城は川の合流地点に三角形に突き出した丘陵の先端にある城郭。南北朝期以降、毛利氏の移封までの250年間、宍戸氏の本拠として用いられた城郭だという。足利尊氏と共に六波羅攻略で功を上げた宍戸朝家が、安岐守として甲立を領した際にここに築城したという。水がなかったので五龍王に祈願したら井戸が湧いたということから山名を五龍山に変更したとか。毛利氏が何度か攻めたものの落城させられなかった堅城で、結局は八代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻で和睦した。その後九代元続の時に毛利氏の防長への移封があり、元続はそれに従ってこの城を出ている。
城は狭いかなり急な丘陵上であり、先端部には登るためのかなり急な石段がある。そこを登ると神社に出るが、それが尾崎丸。城の先端を守るための出城である。
尾崎丸の背後は土橋状になっていて城の本体につながっている。ここはかなり険しい上に幅も狭いので、現在は土砂崩れ防止のためにモルタルで固められている。
城の本体はかなり大きい
ここを抜けるといくつかの段を経由して登っていくことになる。矢倉の段、三の丸、二の丸などがあるが、いずれも結構な面積を有する。また横手に釣井の段があり、ここには井戸が残っている。
正面に向かっていくと、矢倉の段を経て、三の丸、二の丸と続くことになる
本丸に登る
本丸の直前に桜の段があり、その後が本丸。本丸自体はそう広い曲輪ではないが、周辺の曲輪を含めると、山上にかなり広い巣ベースが確保されている。本丸の背後は削り残しのかなり高い土塁になっており、その背後はかなり深い堀切で分かたれている。
なお帰宅後に調べたところによると、その堀切の先にさらに複数の曲輪があったらしいが、その時は疲労もあって本丸に到達したところで引き返してきた。
間口は狭いが、実は奥に深い結構な規模の城郭であり、山容の険しさから考えても毛利氏が攻めあぐねたのも納得がいく。そこで無理押しをせずに婚姻政策で丸め込んだのは、さすがに策士・元就というところか。
知名度は低いが意外にして見所のある城郭であった。整備も良くされているし見学もしやすい。まだまだこの辺りには良い城郭が埋もれているようである。
五龍城の見学を終えると三好まで長駆する。目的地は奥田元宋小由女美術館。しかし美術館の手前で大渋滞。どうやらワイナリーに観光客が押しかけているようである。以前に私がこの美術館を訪問した際にはワイナリーは閑古鳥が鳴いていたというのに。恐るべしGW。
「川合玉堂展」奥田元宋小由女美術館で6/7まで
近代日本画の大家・川合玉堂の作品について展示。玉堂美術館と二階堂美術館の所蔵品が中心である。
若い頃のかなり緻密で精緻な絵画から、晩年のかなり自由な境地で伸び伸びとした描線で描いた作品まで、玉堂の画風の変遷をもうかがうことが出来る。また玉堂が絵画に描いた風景は、まさに失われた日本の日本らしい風景であり、そこには言いようのない郷愁のような情も喚起させる。
出展数も多く、なかなかに見応えのある展覧会であり、久々に玉堂の絵画を堪能することが出来た。
特別展の玉堂展も良かったが、常設展示の奥田元宋の大作も久しぶりに改めて見るとかなり唸らせる絵画であった。「赤の元宋」などとも言われるが、その赤が自然の美を伴ってこちらに迫ってくる感じであった。特に赤と補色の緑を自然に組み合わせる配色が、巧妙でありわざとらしくなく心にすっと入ってきた。これはかなりの収穫。
玉堂展の鑑賞を終えると、向かいの直売施設でジェラートを購入。サッパリとしたジェラートが心地よく体に染みいる。
それにしても周囲は馬鹿混みである。なぜと思ったのだが、GWということだけでなく、尾道からの自動車道が開通したことも大きいようだ。つまりは交通の便が良くなったと言うことらしい。こうなると高速道路の効果は侮れない。
尾関山城を攻略
美術館を後にすると次は市内の城郭見学。最初に向かったのは尾関山城。1570年代に三吉氏の重臣・上里越後守が居城とし、1601年に福島正則の重臣・尾関石見守正勝がここに二万石を領して入城して以来、尾関山と呼ばれるようになったという。1632年に浅野因幡守長治が入封してからは下屋敷が置かれ、頂上には天文台も設けられたという。現在は公園整備されて紅葉の名所として知られているとのこと。
今では尾関山公園となっていて、頂上までの車道も整備されている(一般車は立ち入り禁止)が、そのことが城としての遺構をぶち壊すことになってしまっている。山上には天文台ならぬ展望台があり、三次市街を一望できる。
随所にかつての城郭としての構造を垣間見ることは出来るが、構造がかなり変更されてしまっているので、往時の姿を思い浮かべることは容易ではない。ここは単純に「お城っぽい公園」として楽しむのが正解のよう。
比熊山城に向かうが・・・
尾関山城の見学後は、この裏手の高山上にあった比熊山城を見学しようと考える。ただ下から登って見学するには時間と体力の余裕がない。そこで調べたところ、北側から林道が通じているとの情報があったのでそこを利用してみることにする。
林道は最初は整備されている道路で、道幅も広い上に車が通っている跡があって容易に通行できる。しかし途中まで来たところで、明らかにそれ以上進むのはまずいという雰囲気が漂う。そこで手前で車を置いて徒歩で調査したところ、予想通りというか途中で斜面の崩落があってそれ以上先は車で通行することが出来なくなっている。
ここに来た時点で今回は断念を決断する。ここまでで大して標高が上がっていないことから、ここから道路沿いで歩いてもかなり登る必要に迫られることが予想され、それなら最初から表側を登った方が賢いというものである。しかし現時点ではそれに十分な時間も体力も残っていない。後日機会があれば捲土重来ということにする。
最後は鹿を食う
これで今回の遠征は終了ということにして、中国道経由で帰宅することとした。各地で渋滞が報告されてい山陽道と異なり、中国道は幸いにして渋滞は全くなくスムーズに走行できたのである。途中、山崎ICで降りてしそうよい温泉で汗を流すと共に夕食に「鹿喰丼(1500円)」を頂いてからの帰宅と相成った。
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