ホテルで朝食を摂ってマッタリしてから織部展へ
翌朝は6時半頃に目が覚める。目覚ましは1時間後にセットしてあったのに、悲しいサラリーマンの習性である。
朝風呂で目を覚ますとレストランで和食の朝食。これがまた体に染みる。チェックアウトしたのは10時前。
最初の目的地は琵琶湖大橋を渡ったすぐのところにある美術館。久しぶりの訪問である。とりあえずこれが本遠征の主目的ということになる。
「没後400年 古田織部展」佐川美術館で11/23まで
「へうげもの」の主人公として描かれたことで最近になってにわかに脚光を浴びることとなった安土桃山時代の茶の湯名人・古田織部の展覧会。
織部の最大の特徴は、佗茶を極めた利休の弟子でありながら、利休とは対照的な華やかでアバンギャルドな独自な美を編み出したことである。彼の美意識は時代に大きな影響を与えたが、今日的な視点で見てもかなり斬新で前衛的なものである。その背景には安土桃山時代の自由で闊達な空気が反映しているようである。
しかしその織部も豊臣氏滅亡後に反逆の疑いをかけられて切腹させられる。その背景には茶の湯の世界を通して大名にも大きな影響力を持つことになった織部に対する、家康の警戒心があったという。織部の死と共に、世の中は安定してはいるが息苦しくて野暮ったい江戸時代に突入するのである。
本展では織部ゆかりの作品ばかりでなく、同時代の文物を併せて展示し、この時代の空気を伝えようとしている。そのことによって、織部の美意識というのは確かにかなり特異なものではあるが、背景には派手好みの秀吉や信長の南蛮趣味など、この時代を通した共通の空気というものが流れていることを感じさせるのである。
個人的には織部の独特の色使いの器が目を惹く。織部の独創性は時代を下るにつれて暴走しており、茶入れの形態にしても段々と奇妙なものになってきたり、とにかく規格外のとんでもないものが現れるところが非常に面白い。
「へうげもの」の作者は、当初は千利休を主人公にした作品を描くつもりで資料を集めたが、その内に古田織部という人物に興味を持つようになり、ついにはそちらを主人公にしたと言っていた。確かに知れば知るほど奇妙で大胆な興味深い人物である。こんな昔にこういう桁違いの人物がいたということが非常に面白い。彼の器などは、現代アートの作品だと言って展示しても違和感がないぐらいである。そういう点で時代を超えていた人物と言えるが、だからこそ時代の中で抹殺されることになってしまったのだろう。
水口岡山城に立ち寄る
これで本遠征の最大の目的は終了だが、これ以外にもさらにまだ他の目的もある。美術館の見学を終えると次は水口まで長駆する。目的地は水口岡山城。平城の水口城の方は以前に見学しているが、こちらは山城の方。水口宿を見下ろす山上に築かれた山城である。築城は1585年に羽柴秀吉の家臣・中村一氏により、その後は五奉行の増田長盛、長塚正家などが城主となるが、関ヶ原の合戦後に西軍の正家が自刃し、水口が徳川家康の直轄支配下になったことで廃城となったという。その後、この山は水口藩の御用林として立ち入りが禁止されたため、城跡が良好な状態で保存されることになったらしい。
途中の回転寿司屋で昼食を摂りつつ水口へと走る。やがて前方に小高い山が見えてくるが、それが水口岡山城のようだ。想像していたよりも高い山である。
ようやく現地に到着したものの車を置く場所が見つからなくて山の周りを一周することに。山の北側に「駐車場→」という小さい看板を見つけて狭い山道に入り込んだものの、そこは給水施設のところで行き止まりで、車を置いておくスペースはほとんどない上に既に先客がいる。やむなく必死でUターンしてまたエッチラオッチラと降りてくる羽目に。結局は散々ウロウロした挙げ句にようやく北西部に観光用駐車場を発見して車を置く。
ここからは歩いて登ることになる。明らかに車が入れる道があるのだが、車止めがされてあって立ち入り禁止になっている。恐らく整備用の軽トラなどは入り込むのだろう。この道の上がった先は曲輪跡で今では公園になっている。なお徒歩の場合はショートカットコースがあるので私はそちらを利用。
西の丸に上がると石垣を見学する
ここからさらに先の稲荷神社の辺りまでは軽トラなどが入れるようだが、私はそちらには向かわずに忠魂碑の所から山道を伝って直接に西の丸に登る。
西の丸には10分もかからずに到着する。なかなか見晴らしの良い高台であり、なんちゃって城壁なんかも設置されている。また東の方には堀切を隔ててさらに一段高い位置の山頂に本丸がある。
本丸に上がる前に本丸の北側にある石垣を見に行く。なかなかに立派な石垣が残っている。なお以前はここを通り抜けできたようだが、今は崩落があったのか通行不可になっている。
本丸はかなり広く眺望もよい
石垣を見学すると本丸に登る。本丸は手前に櫓台があり、奥に長いかなり広いスペース。この大規模な城郭にふさわしい広さがある。南側が大手口らしく、そこでは何やら発掘作業中である。また東の端にも櫓台があり、この東西どちらかの櫓台に天守があったと推定されているとか。
二の丸・三の丸はかなり鬱蒼としている
本丸の東側にはかなり広い空堀があり、その先が二の丸である。二の丸は今はあまり訪れる人がいないのかかなり藪化している。二の丸から数メートル幅の堀切を隔てた先が三の丸。どうもかつてはこの間に吊り橋を架けていたようだが、今では柱の痕跡しか残っていない。なお往時にもこの両曲輪は吊り橋でつながっていただろうと推測する。
三の丸は二の丸以上に藪化が進んでおり、永らく人が踏み込んだ気配がない。三の丸の東端からはかなり下の方に大きな曲輪が見える。とにかくこの城は大きな曲輪が多く、総曲輪面積を考えるとかなりの兵力を駐屯させられたと推測できる。
この地は東海道を押さえる要衝であり、また甲賀地域に打ち込んだ楔でもあるだけに秀吉も重視していたのだろう。かなり大規模な城郭であることが覗えた。山上の本丸に石垣を採用していたのは見るものに与える心理効果も計算してのものと考えられる。かなり見応えもあり状態も良い城郭だけに、これは続100名城Aクラスである。
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