徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

茨城地域城跡巡り(小田城、関城、大宝寺城、多賀谷城、逆井城、畑田城、徳宿城)&小美玉温泉

 

 翌朝は7時頃に起床すると早めにホテルをチェックアウトする。最終日の今日はもう東京での予定はなく、茨城方面に移動して茨城地域の城郭巡りをする予定。

 つくばエキスプレスでつくばまで移動、ここでレンタカーを借りる。貸し出されたのはカローラアクシオ。私はヴィッツのつもりでいたのだが、車のサイズがやや大きくなったのが気がかりである。

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カローラアクシオ

 まず最初に立ち寄ったのは小田城。国の史跡に指定されており、最近になって発掘と復元がなされたという城郭である。

 カーナビの案内に従って小田城を目指すが、ここで早速懸念していたことに直面する。小田城近くになってからかなり狭い路地に誘導されてしまって進退に苦しむことに。カローラアクシオの小回りがヴィッツよりもやや劣ることが災いして、角を曲がる時に道幅ギリギリ。ボディをこすらないかといきなりヒヤヒヤする羽目に。こういう時はヴィッツの前モデルは良かった(新モデルは図体がでかくなった上にパワーが落ちていて好きでない)。

 どうにかこうにか路地を抜けると小田城の隣の案内所の駐車場に車を置く。案内所にはパンフレットなどがあると共に、小田城を紹介するビデオなども上映されており予習に最適。さすがによく整備されている。

小田城 鎌倉時代の小田氏の居館

 「小田城」は鎌倉時代からの小田氏の居城であり、小田氏の祖である八田知家が1185年に常陸守護としてこの地に居館を置いたことから始まるという。その後、南北朝の騒乱などもあるが、戦国時代になると北条氏や上杉氏の進出に翻弄されることになる。この地域の小領主の悲しさで、北条が進出するとその支配下に、上杉が進出してくると今度はそちらの支配下になどと変転することになるが、1569年の小田氏治の時にとうとう小田城は佐竹氏に奪われることになり、1583年には小田氏自身が完全に佐竹氏に臣従することになってしまった。結局小田氏はそのまま小田城を奪還することは叶わず、小田城自体も佐竹氏の秋田移封に伴って廃城となったとのこと。何やら北関東地域の小領主の悲哀を感じずにはいられない話である。

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小田城復元模型

 このような経緯から、小田城は何回かに渡って整備されており、発掘調査の結果では初期の居館時代から戦国期に渡って徐々に城域が拡張されたことが確認されており、この時代の城郭建築を知る格好の遺跡だとか。

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現地配付資料より

 湿地の多かったこの地域の城らしく、小田城は広い外堀と土塁でしっかりと守られている。基本的には単郭構造だが、馬出などもあるようである。また土塁の数カ所は広く高くなっており、櫓でも構えていたのではないかと思われる。

 

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幅広い堀と北口側の土橋
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正面の曳き橋と東曲輪

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北東の土塁上からの風景

 土塁の中には屋敷などの建物跡も残っている。また庭園などもあり、2カ所の池が発掘されている。小領主の館といっても、内部は結構広いのが感じられる。小領主の城としてはかなり本格的に防御を固めた堅い城であるが、それ故に逆にこの地域の争奪戦の要として巻き込まれることになったのだろう。この地域を睨む一軍を配置するには十分だが、北条や上杉の数千の軍勢に囲まれるとひとたまりもないという規模の城郭である。この地域の小競り合いで済んだうちはどうにかなるが、戦国末期の大大名の下に収斂していった時期では小田氏の生き残りは容易ではなかったろう。

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建物跡と庭園跡
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南虎口の石積みとその先の馬出

 小田城見学後は北西の下妻市を目指して車を走らせる。今の下妻市から筑西市の関東鉄道が走っている辺りは、かつては沼地の中に張りだした台地で、この台地上にはいくつかの城が構えられていたという。まず一番北の関城跡を訪れる。

関城 南朝方拠点の城

 「関城」は南北朝時代に小田城と共に南朝方の拠点となっていた城郭である。東西南を沼に囲まれ、北に堀を掘った堅固な城だったという。

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奥に見える小高いところが関城

 現地は今では田んぼの中の小高い丘という地形である。私が訪問した時には城跡の神社で何か神事が行われた直後のようで多くの車が群がっていた。大規模な城だったようだが現在は宅地化しており、土塁の残骸と見られるものが所々に残っているだけである。現在神社があった辺りが本郭の跡のようである。周辺は民家になっているが、今でも南側は相当切り立っていることは確認できる。

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本丸跡の神社とかつての土塁跡

大宝寺城 同じく南朝方の拠点

 関城の次はこの南の「大宝城跡」を訪れる。ここは現在は大宝八幡宮があるところで、南の鳥居の辺りにかなり高い土塁が残っている。土塁の手前の道路の所はかつては堀でもあったのではないかと思われる。ここもかつては西北東を沼地に囲まれた地形であり、平安から南北朝時代にかけて城郭が築かれていたという。今は八幡宮を中心とした住宅地となっているが、この一帯が周辺の田んぼよりは一段高くなっており、かつての地形が覗える。大宝城は1341年に春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城からここに移って南朝方の拠点となったが、北朝型の猛攻で苦戦し、食糧不足と城内不和のために1343年11月12日に落城、城主下間政泰は討ち死にしたとのこと。

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南の鳥居の辺りに土塁があり、手前の道路はかつての堀跡か
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本丸の大宝寺八幡宮辺りは周囲よりも高い

多賀谷城 多賀谷氏が北条を退けた堅城

 その南にあるのが「多賀谷城」。今では完全に下妻の市街地に埋もれ、かつての本丸の一部が城址公園として残るのみだが、ここの一帯はかつては沼地に迫り出した半島だったようである。多賀谷氏はここを拠点にこの地を支配し、北条氏政の軍勢を撃退するなど147年に渡って下妻領主として繁栄したという。しかし関ヶ原の合戦では佐竹氏と共に西軍についたために家康に憎まれて追放されてしまい、この時に多賀谷城も廃城となったとか。城主追放の際には奥方はじめ奥女中達が行く末を案じて、沼に身を投げるなどして自害したという哀れな話も残っている。

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かつての縄張り図
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今となっては至って普通の平和な公園である

逆井城 北条氏の拠点

 下妻地域を一回りした後は南西方向に長駆する。目的地は坂東市の「逆井城跡」。戦国末期1577年に北条氏が北関東進出拠点として築城した城郭で、豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。現在まで外堀や土塁が残っていたことから、櫓等を復元して城址公園として整備したという。

 現地はかなり整備されている。駐車場に車を置くと正面には立派な櫓や大規模な堀が見える。堀を超える形で橋が架かっており、その橋の向こうは門になっている。

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かなり立派な逆井城

 門の脇が二層櫓になっておりここには入ることが出来る。入口を守る櫓といったところ。登ってみようかと思ったのだが、どうしたわけかこの建物には久々に高所恐怖症が発症して登ることが出来なかった。

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橋を渡って二重櫓に行くと、内部は登ることも可

 塀に沿って進むと井楼櫓が建っている。かなり高い物見櫓だが、これは最初から立ち入り禁止になっている。

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二重櫓奥の井楼櫓はかなり高い

 この近くには主殿が復元されており、関宿城の城門だった薬医門が移築されている。主殿はシンプルな建物だが、内部も一応作ってあってふすま絵などが描かれている。

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城門に主殿
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襖絵も復元

 この奥がこの城の一番の見所の一つでかなり立派な堀が残っている。この奥には土塁に囲われた曲輪があり、そこには東の橋を渡って櫓門を抜けると入ることが出来る。この城の北はかつては飯沼という大きな沼だったことから、ここはこの城の一番奥にあたり、ここがかつての本丸だったらしい。さすがに非常に堅固な守りとなっている。

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かなり明瞭に堀跡が残る
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橋と櫓門を通って本丸へ

 本丸の東側が二の丸だが、この辺りは詳細な構造はなくてひたすら広い広場となっている。ただその東には土塁と堀の跡がしっかりと残っている。どうやらこの東にはかつてはさらに三の丸もあったらしい。

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三の丸との間の堀はほとんど埋まっているが広い

 とにかくかなり大規模な城であり、北条氏が北を睨んで気合いを入れて整備した城であるということがよく分かる。面積も大きくてかなりの大兵力を入れることが可能であることから、ここに北関東制圧のための大軍を詰めて、隊を整えてから一気に出陣ということだったのだろう。復元建造物なども良く出来ているので当時の城の様子をイメージしやすくお勧めできる城跡と言える。

 

 ここまで見学を終えたところで既に昼をかなり回っている。昼食を摂りたいが付近には店らしきものはない。調べたところ、ここから北上したところに八千代グリーンビレッジなるキャンプ場などの複合施設があり、そこに温泉やらレストランがあるようだということなのでそちらを目指す。

 八千代グリーンビレッジは山の中のキャンプ場といったイメージ。バンガローなどが複数建った複合施設になっている。その一角に温泉やらレストランのある建物がある。しかし私がレストランを覗いたところ、ちょうど老人の団体が券売機の前で行列を作っている。店内のテーブルもほとんど塞がっているようだし、厨房にもあまり人数がいるようではないしということで、これはいつまで待たされるやら分かったものじゃない。私は老人会の団体と違って暇ではないのでここは諦めて他の場所を探すことにする。

 しかし移動は良いがあてがない。その時に頭にふと浮かんだのは、関城めがけて走っていた時に「道の駅しもつま」という看板を見かけたこと。道の駅なら飲食店ぐらいあるだろう。とにかく何もあてがないのでそこを目指すことにする。

 道の駅に到着したが現地はかなりの大混雑。車を停める場所にも困る状態で、何とか空きを見つけて車を停める。何やら新そば祭なる幟が多数立っている。そこで蕎麦でも食べることにしようと、ここにあるそば屋「そば打ちめいじん亭」に入店することにする。

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そば打ちめいじん亭

 この店も混雑しておりしばし待たされることになる。ようやく入店すると「鴨のつけそば」を大盛りで注文、さらにこれにトロロ飯をつける。

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鴨のつけそば

 そばの風味はなかなか良い。ただ付け出汁についてはどうにかならないかという気もする。基本的に北関東系のダダ辛い味付けは私に合わないが、アクセントに加えている柑橘の味も今ひとつしっくりこない。やはり北関東から東北にかけての料理は私の舌には合わないなということを感じずにはいられない。残念ながらこのエリアの料理で美味いと思ったことはほとんどない。そばは良いだけに実に残念。

 とりあえず昼食を済ませたが思ったよりも時間を費やしてしまった。今の時期は日没が早いことを考えるとタイムリミットは4時過ぎぐらいだと思った方が良い。今日は茨城空港から飛行機で帰るつもりなので、茨城空港方面に移動してから次の目的地に向かいたい。

三階城・・・は断念

 次の目的地に考えたのは鉾田の三階城。北上して北関東自動車道に乗ると、東関東自動車道に乗り継いで鉾田を目指す。鉾田出口を出ると三階城はそう遠くない。しかし三階城に向かう道路の入口のところで行き詰まる。元々の道路が農道で幅が狭いらしく、入口が極端に狭い上に急角度。どうもアコードアクシオの旋回能力では入れそうにない。無理してこすったりでもしたら大変だ。結局は三階城は諦めることにする。

畑田城 

 ではということで次の目的地を調べたところ、ここの南に「畑田城跡」があるらしいのでそこを目指すことにする。地図では分からなかったのだが、現地に行くと小学校や西光院がかなり小高い丘の上に乗っている。この丘の上が畑田城だったらしい。かなりの急坂を登って西光院の前までたどり着くが、どうも城の遺構のようなものは見当たらない。どこかに案内看板ぐらいはあるらしいのだが、結局見つけることも出来ず日も西に傾いてきているので見学もそこそこに引き上げることにする。

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この高台上の小学校の辺りが畑田城

 日は大分西に低く傾いており、時間的に次が最終となるだろう。ここから近いところということで、三階城の北にある「徳宿城」に向かうことにする。

徳宿城 平安期の徳宿氏の城

 現地に行くと住宅地の間の狭い道に案内看板と入口がある。向かいに空き地があるのだが今はロープが張ってあって入れない。そこでギリギリに左に寄せて道路に車が通れるスペースを空けた上で停車する。

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徳宿城登り口

 徳宿城は平安末期に徳宿親幹によって築かれた。徳宿氏の父は平国香の七代目で鹿島郡を治めており、その北部に徳宿氏を創立したのだという。徳宿氏の二代目秀幹の長男俊幹は三階城を拠点として安房氏の祖となり、次男朝秀が畑田城を拠点として畑田氏の祖となったとのこと。1486年九代目道幹の時に水戸城の江戸氏の攻撃を受け、江戸氏二千余名に対して徳宿氏総勢三百余名という圧倒的に不利の中で、道幹は覚悟を決めて敵陣に切り込んで討ち死にしたとのこと。

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本丸周辺の腰曲輪と祠のある本丸

 看板の横の道から登るとすぐに本丸脇の腰曲輪らしき部分に出る。そこからさらに一段登ると本丸になっている。本丸は現在神社になっており、その背後の南側はかなり切り立った崖になっている。恐らくその下はこの地域の常としてかつては沼だったと思われる。東側は鬱蒼としていて立ち入り不可、北側に向かうとかなりハッキリとした堀切があって、そのまま道は北部の住宅地に続いている。沼地の台地の北側を堀切で断ち切って城郭にしたという様子である。構造的には関城や大宝城と類似した構造。南と西を見る限りではかなり切り立っているので、それなりの防御力を持った城郭であったことは覗えるが規模はそう大きくはない(東側にもっと大きかった可能性はある)。

 

 徳宿城の見学を終えた頃には日は西に完全に傾いて、やや薄暗くなり始めた。もうタイムアップである。後は帰宅を考えるべきだが、帰りのスカイマーク便は茨城空港を19時35分に出発。まだかなり時間がある。ここはどこか温泉にでも立ち寄って、ついでに夕食を摂りたいところである。調べたところ近くにほっとパーク鉾田なる日帰り温泉施設がある模様。そこで車を走らせる。

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ああ、無情!

 ほっとパーク鉾田まではそう時間を要せずに到着する。しかし現地に到着すると何となく雰囲気がおかしい。駐車場に車がほとんどいない。「?」と思いつつ建物に近づくと「施設総点検のため11月7日~11月14日臨時休館」の立て看板が。選りに選ってピンポイントである。思わず天を仰いで「オーマイガッ!」もしくは「ジーザス!」。それとも私は一応は仏教徒なので「オーマイブッダ!」に「シッダールタ!」か。

 仕方ないので場所を変えることにする。次にヒットしたのは小美玉温泉ことぶき。茨城空港からも近いようだしちょうど良さそうだ。

 ことぶきに到着した時にはもう日はとっぷりと暮れている。ことぶきは典型的な地方の日帰り入浴施設で、地元のお土産などを売っている売店もある。食堂も一応あるが小規模。夕食は空港に行ってからの方が良さそうだ。とりあえず入浴することにする。

小美玉温泉ことぶき

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 小美玉温泉はやや黒っぽい湯。泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物冷鉱泉とのこと。若干ネットリとした感触があるが弱アルカリ性らしい。東京の蒲田辺りの黒湯と同じような感触がある。なかなか上質な湯。地元民らしき連中が大勢押しかけていて人気のようである。

 露天はやや寒いので内湯でタップリ温まるとロビーでしばし休憩。テレビでは稀勢の里がいきなり負けている。彼はもう駄目かもしれないな・・・。

茨城空港周辺にはガソリンスタンドがない・・・ 

 体を温めてしばしゆったりすると空港に向けて移動することにするが、空港到着前にガソリンを入れておく必要がある。しかしここで驚いたのが空港周辺のガソリンスタンドがことごとく日曜日には休みであること。これだから田舎は・・・。今になってつくばで車を借りた時に、トヨタレンタカーの店員が「もしガソリンを入れられなかったら、向こうで精算も出来ますから」ということをわざわざ説明してくれた意味が理解できた。あの時は「なぜそんなことをわざわざ念押しするんだろう?」と疑問に感じていたのだが、こういうことだったのか。茨城空港恐るべし。結局は30分ほど走り回ってガソリンスタンドが全滅だったので、ガソリンは走行距離で精算することに。後で聞いたところによると、この周辺で日曜日に営業しているガソリンスタンドはたった一軒とのこと。

 かなり久しぶりの茨城空港である。数年前に来た時は神戸からここに飛んで、すぐにレンタカーを借りて大洗に移動したので空港内を見学していない。元々自衛隊の基地だったところを民間との併用にしたので空港設備は最小限。売店とレストランがあるぐらいである。なおあの東日本大震災ではいきなり天井パネルが落下するという事故があったのだが、どうやら天井パネルはそれではずしてしまった模様。

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天井パネルははずしてしまっている
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空港内にいる謎のキャラクター達

 売店で土産物を購入すると、レストラン「すぎのや本陣」で夕食を摂ることにする。レストランは既に満席に近かったが、どうやらこれが全部私と同じ便に搭乗する予定の客の模様。何とか席を確保すると夕食を摂ることにする。茨城の郷土料理はけんちんそばとのことだが、そばは昼に食べたのでけんちんうどんを注文する。

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けんちんうどん

 関東のうどんということでやや不安はあったのだが、やはり味は濃いめだが具だくさんうどんという風でなかなかに美味い。空港内レストランでこれが920円だと良い方だろう。

 

 夕食を終えるとすぐに荷物検査を受けて搭乗ゲートに。茨城空港の狭い待合室は搭乗客でごった返している。すぐに搭乗手続きが始まって、搭乗口を抜けるとこの空港にはボーディングブリッジなんて設備がないので、滑走路を歩かされる。そしてなぜかガルパン模様の搭乗タラップで乗り込むことに。そう言えばこの空港の別名がガルパン空港だったっけ。こんな最後の最後に聖地巡礼かよ・・・。

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ガルパン空港搭乗タラップ

 茨城空港から神戸空港に飛び、この日に無事に家に帰ってきたのであった。久しぶりに一日を城郭巡りに費やしたが、そもそもそれ以前の東京展覧会ツアーで相当に消耗していた挙げ句だったので、帰ってきた時にはかなりヘロヘロになってしまっていたのである。思いの外体力が落ちているようである。私もそろそろ年齢のことを考えて無理はやめておかないと・・・。

 ちなみに今回の遠征では美術館は予定していたところをすべて回ったが、城に関しては私の想像よりも茨城が広かったこと、私が思っていたよりもこの時期の関東の日没時刻が早かったこと、私の想定よりも体力を消耗してしまっていたことなどから、当初の予定よりもかなり立ち寄り先を減らすことになってしまった。これはいずれはこの地域へのリターンマッチが必要。また東京訪問のついでに茨城に繰り出すことになるだろう。