翌朝は7時頃になると近くの部屋が活動を開始するのと外が明るくなってくるのとで目が覚める。目が覚めるととりあえず、昨日全く書けなかった原稿をまとめるとアップ。
ウダウダと朝の支度をしてからホテルを出たのは10時前。今日は京都での京都市響の定期演奏会に行くのが目的だが、その前に大阪でもう一カ所だけ美術館に立ち寄るつもり。
だがその前にとりあえず朝食だ。ホテルを出ると新世界方面にブラブラ。立ち寄ったのは「喫茶通天閣」。その名の通り通天閣の近くにある喫茶店。モーニングは380円と例によってCPは良い。
場所柄、店内喫煙可であるのが少々ツラいところだが、珈琲の味は私好み。モーニングはトーストとゆで卵かついてくる。とりあえずゆったりとくつろぐことにする。
朝食を終えると恵美須町から北浜まで地下鉄で移動する。目的の美術館はここから橋を渡った先。
「竹工芸名品展:ニューヨークのアビー・コレクション-メトロポリタン美術館所蔵」大阪市立東洋陶磁美術館で4/12まで
メトロポリタン美術館に収蔵されている竹細工品を展示した展覧会。竹細工品まで収蔵しているとは、さすがメトロポリタン美術館だと驚いた次第。
竹という自然素材は、その柔軟性が生み出す優美な曲線などがもっと魅力的なところであると考えられる。さらには観念的に自然との調和を謳うことも出来る。実際に展示作もこの竹特有の曲線を活かした作品がほとんどである。
竹と藤を組み合わせて実用性のあるような籠を組んだ作品から、実用性から離れて完全なアート作品としたものまで展示されていた。作品によって陶器作品と組み合わせて展示されていたが、こうして並べると不思議なほどにコンセプトとしては相性が良いということも感じられた。土から生えた竹による細工品と土そのものからの細工品ということで理念としては近いものがあるのだろうか? 不思議と、造形としても近いものも存在したようである。
一般に工芸というジャンル内でしか見ることのなかった竹細工品に、アートという視点を与えてくれたことは興味深い。実際に本展の展示品は実用品である工芸と実用性を省いたアートがシームレスでつながっていた印象を受けた。
展覧会の見学を終えるとなにわ橋駅から京阪で京都に向かうことにする。この路線は比較的最近に開通したものであるが、どこに通じているというわけでもない路線のせいか客はまばらである。この後、どこかに接続する予定があるのだろうか?
京橋からは特急に乗り換える。しかしこの特急、2列シートが狭すぎて、女性はともかく男性2人は窮屈で無理だろう。京橋を出るとしばし高架の複々線の中央を走るが、線形が悪い(とにかくカーブが多い)せいで、いくら線路にバンクを付けたところでそう速度は出せない。その上、枚方が近づいてくると複線のかなり狭苦しいところを走ることになる。
中書島辺りからは川の右岸左岸とかなり目まぐるしく移動、中書島で宇治方面と別れ、丹波橋は近鉄乗り換え駅、ここを過ぎるといよいよ京都市街の狭いところを走ることになる。そして七条から先は地下鉄となって三条に到着。
私は三条で降りるとここで地下鉄に乗り換えることになるが、その前に途中で昼食を摂ることにする。立ち寄ったのは地下鉄駅の手前の「みや古」。
まあ普通の町のうどん屋といった味付け。特別なところは何もないが、これも選択肢の一つとしてはありだろう。
昼食を終えると地下鉄で北山に移動、京都コンサートホールへ向かう。ホールに到着すると当日券売り場の前にはいつも見ないほどの大行列。今回の公演は急に話題にでもなったのだろうか。
京都市交響楽団 第641回定期演奏会
[指揮]ジョン・アクセルロッド
[フルート]アンドレアス・ブラウ
ベートーヴェン:「アテネの廃墟」op.113から序曲
バーンスタイン:「ハリル」独奏フルートと弦楽オーケストラ、打楽器のためのノクターン
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調「レニングラード」op.60
最初のベートーヴェンは「廃墟」という割には明るくて生命感に満ちた曲。後で解説を見ると新興都市を讃える曲だったようでさもありなん。
二曲目はバーンスタインによる鎮魂曲。ブラウのフルートの音色が非常に深い。正直なところバーンスタインの曲は私の守備範囲外であまり好ましいものではないが、それでも独特の深い音色が心に染み渡る感覚。いわゆる生と死について語っているのだろうという雰囲気だけは分かる。
メインのレニングラードはとにかく京都市響の上手さが光る。バンダも加えての派手な金管の鮮やかさはともかくとして、それを下支えする弦楽陣の密度と美しさがすごい。おかげで金管や打楽器がいくらブンチャカやっても軽薄な音楽にならない。第1楽章の中盤以降などバンダも加わっての乱痴気騒ぎなんだが、これが強烈なサウンドシャワー。なおこの部分はナチスの攻撃で町が破壊される場面という話があるのだが、あまりに力強くて豪快に鳴っているので、私の頭にはナチスの軍勢を正面から撃破するソ連軍というイメージに聞こえた。
次の楽章は一転して静かになるのだが、こういう緩徐楽章で弦楽陣の密度の高さが非常にものをいう。弛緩することなく音楽を歌い上げる。京都市響のアンサンブルが完璧な上に、アクセルロッドの指揮が抜群のコントロールを見せている。
この曲自体は私はよく知らない曲なのだが、聞いているとメロディラインや曲の構成に有名な5番の影がちらつく場面があった。これがいわゆるショスタコ節とでも言うべきものだろうか。
最後は再びバンダも加わっての大盛り上がりで終了。かなりの名演に場内もいつにない盛り上がり。それも当然というものであろう。さすがに京都市響というところだが、アクセルロッドもただ者ではない。
もっともソ連軍がナチス軍を快刀乱麻でやっつける曲に聞こえてしまったように、全体的に派手で美しい演奏であるが、あまりに屈託のないところがある。その辺りがショスタコの解釈としてどうかというところは無きにしも非ず。まあこの長丁場を最後まで退屈することなく聴かせたのはかなりのものであると私は思うが。
これでこの週末の予定は完全終了。帰途につくのである。