徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

長年の懸案だった関ヶ原見学に出かける

 翌朝は7時に起床するとまずはシャワーで目を覚ます。その後は朝食だが、これがレストランでのバイキング。しかし対策を打っているのは分かるが、やはりどうしてもある程度密になるのは避けられない。明らかに一番危ない瞬間であるのは分かる。救いは宿泊客が日本人だけなので比較的整然とした行動をしていること。ただそれでもマスクをしていない者とか、危険性の認識は個人差がある(概して若者ほど危機感がないというのは一般傾向として明らかにある)。しかしいよいよ滋賀も感染者二桁になった現状を考えるとそろそろ見直しを検討した方がよさそう。

f:id:ksagi:20200729230502j:plain

ルートインバイキング朝食

 テレビをつけるとNHKは安倍総理が「不退転の姿勢でオリンピックを実行」なんてわけの分からんことをいったのを受けて、オリンピックPR一色。しかしどう考えても無理だろう。それこそ今年中に安全で有効性の高いワクチンが量産されるなんていう「神風」でも吹かない限り、1年後に世界中から選手を受け入れてオリンピックなんてまずあり得ない。

 

いざ、関ヶ原を目指す

 チェックアウト時刻の10時前までシャワーを浴びたり、この原稿を入力したりで過ごす。ホテルをチェックアウトすると向かうは関ヶ原。今まで行きたいと思いつつもその機会がなかったのだが、この際にそれを実行しようと考えた次第。まさか関ヶ原で密になることはなかろう。

 高速を突っ走ると関ヶ原まではすぐ。まずは歴史民俗資料館を目指すが・・・秋まで休館中。どうやらコロナの影響らしい。そこで向かいの図書館で観光用のマップを頂いて(非常に助かりました)、そこに記載されている各軍の陣跡を順に回ることにする。とりあえずはこのすぐ近くに家康の最終陣跡があるらしい。

f:id:ksagi:20200729230600j:plain

立派な歴史民俗資料館があるのだが

f:id:ksagi:20200729230621j:plain

残念ながらコロナ休業中

家康最終陣跡

 家康の最終陣跡は公園の一角にある。現地には石碑が立っていると共に、近くには首検分をしたという床几場もある。なお地形的に特に防御機構がある雰囲気でもないので、じれた家康が前線に圧力をかけるためにここまで出張ってきたのだろう。これを見た三成は必勝を確信したに違いない。確かにここで三成の号令通りに南宮山と松尾山の軍が襲来していたら、家康は討ち取られた可能性が高い。しかし事前の工作でそうはならないことを確信していたからこそ家康はここまで出てきたのだろう。三成は頭が切れたようであるが、やはり謀の深さでは古狸にはかなわなかったわけである。

f:id:ksagi:20200729230706j:plain

家康最終陣地

f:id:ksagi:20200729230722j:plain

床几場

東首塚及び松平忠吉・井伊直政陣跡

 その背後には首を埋葬した東首塚があり、その近くに松平忠吉・井伊直政陣跡がある。家康の側近と言える連中であり、戦いでは福島隊を出し抜いて抜け駆けをしている。しかし戦いの終盤で島津義弘隊の突撃を受け、その追跡中に銃撃を受けて負傷をする。結果的にそれが元になって二人とも後に命を落としている。これは家康にとっては痛い人的損失にもなっている。

f:id:ksagi:20200729230748j:plain

東首塚

f:id:ksagi:20200729230800j:plain

この木の辺りに埋葬した模様

f:id:ksagi:20200729230822j:plain

その奥には松平忠吉と井伊直政の陣跡

細川忠興陣跡

 さらに駐車場の北方には細川忠興の陣跡がある。ここは北側を川で守られた地形になっており、最初から笹尾山の三成の陣とにらみ合うための構えが考えられている。

f:id:ksagi:20200729231044j:plain

川沿いの細川忠興陣跡

f:id:ksagi:20200729231104j:plain

笹尾山方向を望む

 

合戦のメインステージへ

 これらの東軍の主要陣跡を見学すると次は西軍側である。それにしても関ヶ原ならそんなに人がいないだろうと考えていたのだが、案に反して多くの観光客がウロウロしている。広い野外なのでさすがに密という状況にはならないが、徒歩で散策する者、自転車で移動するものなど様々。さらにはどこかの高校の歴史部といった雰囲気の団体も。なお彼らとはこの後も各地で遭遇することに。

f:id:ksagi:20200729234637j:plain

民俗資料館向かいの謎のオブジェ

 車を出すと関ヶ原のメインステージとも言える笹尾山の石田三成の陣跡を目指す。その陣の手前が関ヶ原最激戦地とのことだが、確かに見渡す限り広っぱである。ここで多くの兵が命をかけて戦ったと思うと奇妙な気持ちになる。今では「兵どもが夢の跡」である。

f:id:ksagi:20200729231139j:plain

最激戦地

笹尾山の三成の陣跡へ

 笹尾山の手前には駐車場が作られてあり、山の斜面には柵が復元されている。こうしてみてみると陣地なんて簡単なものではなく、野戦築城レベルである。三成は万全の体制で東軍を待ち受けていたんだろう。なおここが戦場のメインステージと言うことで、観光客の車も多数。現地ではマスクをつけた石田三成と恐らく大谷義継が闊歩している。いわゆる「おもてなし武将隊」ってやつか。

f:id:ksagi:20200729231240j:plain

マスク着用の石田三成

f:id:ksagi:20200729231258j:plain

多分大谷義継だろう

 三成の陣はこの山の途中なので階段を登るのだが、情けないことにこの5分程度の登りで息は切れるし足は上がらなくなる。コロナの影響で運動不足になっているのは感じていたが、ここまで体力が落ちていたとは・・・。実は今日は最後は松尾山に登ることを考えていたのだが、天候が怪しい上にこの体力では到底不可能とこの時点で判断する。

f:id:ksagi:20200729231342j:plain

復元された柵

f:id:ksagi:20200729231403j:plain

陣はここを登った先

 山の中腹の陣跡からは関ヶ原の戦場が一望できる。ここで三成が指揮を執っていたのだろう。「ははっ、ついにしびれを切らせて古狸が巣から出てきおったわ。これで我らの勝利は確実だ。すぐに松尾山と南宮山に総攻撃の合図を送れ・・・ん、なぜだ、なぜ奴らは動かんのだ。いまこそ勝機だというのに。おのれ小早川、裏切ったか。」なんていうシーンが頭の中に浮かぶ。三成の無念、いかほどばかりか。

f:id:ksagi:20200729231421j:plain

石田三成陣跡

f:id:ksagi:20200729231437j:plain

関ヶ原が一望

f:id:ksagi:20200729231452j:plain

合戦時の配置図

 

島津義弘陣跡

 ここから車で少し下った神明神社の脇に島津義弘陣跡がある。結局は最後まで合戦には参加せず、最後の段階で敵陣中央突破で逃走した島津隊であるが、陣の辺りはやや小高い森になっており、守りのことを考えられる地形になっていることが分かる。

f:id:ksagi:20200729231600j:plain

神明神社

f:id:ksagi:20200729231616j:plain

その奥が島津義弘陣跡

小西行長陣跡

 ここからさらに降りたところが小西行長陣跡。その手前に開戦地の碑が立っている。北側は川で守られているものの前方には遮るもののない地形である。正面に位置した田中吉政の軍と激戦を繰り広げたらしい。

f:id:ksagi:20200729231712j:plain

小西行長陣跡の手前が合戦の開始場所

f:id:ksagi:20200729231736j:plain

遮るものは何もない

f:id:ksagi:20200729231758j:plain

奥が小西行長陣跡

f:id:ksagi:20200729231849j:plain

笹尾山を望む

宇喜多秀家陣跡

 次は宇喜多秀家の陣跡がこの南方にあるが、地図によると駐車場が存在しないようなので、車を置いたまま徒歩で移動する。しかし現地に到着したら道路に車を置けるぐらいの幅が十分にある。とは言うものの駐車場があるわけでないので記載していなかった模様。この間の距離は結構あったのでこれはやられたと思った次第。

f:id:ksagi:20200729231924j:plain

宇喜多秀家陣跡は天満神社参道の奥

 宇喜多秀家の陣跡は後背に山を控えた地形であり、堅固に守ることが可能となっている。宇喜多勢は西軍で戦いに参加した中では最大兵力であって実質的に西軍の主力である。それだけに福島隊などの猛攻を受けたのであるが、戦意も旺盛でそれをよく支えたという。この宇喜多勢の健闘が実戦力では劣勢にも関わらず西軍が序盤に東軍に対して健闘した理由でもある。若きプリンス秀家は、どこかのボンクラ三代目総理なんかとは違って、非常に出来た人物であったようだ。

f:id:ksagi:20200729232002j:plain

天満神社

f:id:ksagi:20200729232018j:plain

そして宇喜多秀家陣跡

 

大谷義継陣跡

 ここからえっちらおっちらと車まで戻るが、これがなかなか足に堪える。しかし次に見学した大谷義継陣跡がその足にトドメを刺す。ここはちょっとした山城のようなもので、大谷義継が松尾山の小早川秀秋の動向に注意をしつつ、正面の敵に対処するためにかなり堅固な構えを取っていたことが分かる。実際に大谷軍は戦力的に圧倒的な小早川軍を数度にわたり退けている。だがその奮闘も脇坂らの寝返りを受けてついには崩れ、それが西軍の全軍崩壊につながることになる。

f:id:ksagi:20200729232136j:plain

大谷義継陣跡はこの奥の山上

f:id:ksagi:20200729232203j:plain

線路を越えると神社がある

f:id:ksagi:20200729232217j:plain

その横手を登っていく

f:id:ksagi:20200729232239j:plain

見張り台からは松尾山が正面に見える

f:id:ksagi:20200729232307j:plain

山上にあるのが小早川秀秋陣跡

f:id:ksagi:20200729232330j:plain

見張り台の手前が大谷義継陣跡

 さらに大谷義継の墓所はその奥にある。ハンセン病を患っていた義継は、自らの醜い首がさらされることを恐れ、家臣に首を隠すように命じたという。その首を命を懸けて隠し通した家臣の湯浅五助の墓がこの近くにある。なお徳川時代には賊軍の将であった大谷義継であるが、徳川幕府を倒した明治新政府の時代になると、今度は主君への忠義と友への義に殉じたあっぱれな武士の鑑として評価されることになる。そして戦争の色が濃くなってきた1940年に顕彰碑が建てられたようである。死んでも政治的に利用されているのは何となく哀れである。

f:id:ksagi:20200729232511j:plain

大谷義継と湯浅五助の墓

f:id:ksagi:20200729232837j:plain

昭和になって建てられた顕彰碑

 

藤堂高虎・京極高知陣跡

 次は裏切り者・脇坂安治の陣跡に行こうとしたのだが、道が分かりにくくて迷っている内にあらぬところに出てしまい。まず先に藤堂高虎・京極高知陣跡に立ち寄ることにする。ここは今は中学校の一角になっている。やはり地形的に何もない場所。やはり万全の体制で待ち構えていた西軍と違い、東から進軍してきた東軍の陣跡は地形を選んでいる余裕はなかったのだろう。

f:id:ksagi:20200729233014j:plain

中学校の校庭の一角にある藤堂高虎・京極高知陣跡

福島正則陣跡

 この隣にあるのが猛将・福島正則の陣跡である。猛将ではあったが、いささか頭が足りなかったせいで、結局は秀吉に対しての忠義を忘れなかったにも関わらず豊臣家の滅亡を傍観するしかなく、最後は家康に利用されただけで使い捨てられた哀れな人物でもある。実際にこの戦いの時に彼が三成憎さで突っ走らずに、豊臣家を守るという観点で家康の野望に気づいていたらまたその後の展開も違っていただろうが・・・。まあつくづく思うのは、三成ってどこまで人望がないの? ってこと。彼が人たらし秀吉の才能を1/10でも見習っていたら、歴史は変わっただろう。多分自分が賢いから他の連中がすべて馬鹿に見えたというタイプではと推測する。まあ確かに福島正則なんてかなりの馬鹿だが。

f:id:ksagi:20200729233103j:plain

今は神社のある福島正則陣跡

 まさに最前線の何もないところに陣取っており、家康としてはあわよくばそのまま西軍勢と共倒れになってくれたらという意図もあったのではと思われる(正則には「是非とも猛将福島殿には最前線で手柄を立てて欲しい」とでも調子の良いことを言ったのだろうと推測する)。

脇坂安治陣跡

 福島正則陣跡の次には裏切り者・脇坂安治の陣跡を探す。ようやく見つけたが名神高速脇の路地の奥のとんでもない場所にある。駐車場もないので道路脇に車を置くと手早く見学。脇坂安治は小早川の寝返りの際に周囲の三将と共に寝返って、結局はそれが大谷隊の壊滅につながっている。他の三将は合戦後に改易や減封の処分を受けたのに対し、事前に調略を受けていた安治は所領を安堵されている。その後は伊予大洲藩の大名になったのだから、したたかに世渡りした武将と言うところである。正直なところ「汚えぞ、てめえ」と言いたくなるところであるが、これも戦国の時代の武士の生き方である。もっともこんなところに陣を置かれて、山上からの小早川軍を防げと言われても「無理」と言いたくなるのも分からないでもない。

f:id:ksagi:20200729233213j:plain

この奥にある

f:id:ksagi:20200729233230j:plain

脇坂安治陣跡

 

不破関資料館に立ち寄る

 この近くに不破関資料館があったのでそれにも立ち寄る。ここは関ヶ原の合戦絡みではなく、もっと歴史を遡った壬申の乱の関係である。大海人皇子の軍勢がここを破って天智天皇の息子である大友皇子の軍勢に戦いを挑んだとのこと。そして瀬田橋の戦いで大友軍を撃破、大友皇子は自害して大海人皇子の軍勢の勝利となった。資料館中にはそのような古代に纏わる遺物などの展示がある。

f:id:ksagi:20200729233329j:plain

不破関資料館

最後にホンダム基地跡に立ち寄る

 不和関資料館の後はいよいよ最後は徳川軍最強の機動武士ホンダムの陣跡を探す。しかしこれが地図を見ても分からない。結局は近くの空き地に車を置いて徒歩で回ったところ、住宅の奥にようやく石碑を見つける。まさに何もない場所だが、そもそも本多忠勝はこの戦いには軍監として500ほどの手勢を率いていただけとのことだから、本来は前線で戦う予定もなかったのだろう。しかし結果としては南宮山の毛利勢が動かないのを見極めると、徳川本隊の前進の際に自身も前線に出て戦ったという。さすがにホンダムである。

f:id:ksagi:20200729233415j:plain

ゴミ置き場にようやく案内標識発見

f:id:ksagi:20200729233446j:plain

住宅奥のとんでもない場所にあるホンダム秘密基地

 

近くのレストランでようやく遅めの昼食を摂る

 ホンダム基地跡を見学したところで陣地巡りは終わりである。時刻は2時過ぎ。歩き回ったりで結構時間がかかった。ハッキリ言えるのはもう松尾山に挑む体力は全く残っていないことだ。とりあえずはやや遅れ目の昼食を摂って燃料補給が必要である。観光マップと共に飲食店マップももらっていたので、それで目星を付けた店「レストラン伊吹」に入店する。洒落た喫茶店の様な店構えなのだが、メニューは洋食からカツ丼にあんかけ焼きそばといった多彩さで脈絡がない。

f:id:ksagi:20200729233601j:plain

レストラン伊吹

 私はエビフライとヘレカツがセットになったAランチ(1520円)を注文する。

f:id:ksagi:20200729233622j:plain

ボリューム満点のAランチ

 驚くのはそのボリューム。エビフライのエビはかなり太いものを使っているし、さらに驚いたのがヘレカツの厚み。圧倒的ボリュームである。味も良い。一つだけ残念なのはソースがデミ系でなくて味噌系であること。まあこの辺りは赤味噌文化圏だから仕方ないのだろう。実際に添えられていた赤だしも美味かった。

 

 さあ昼食を終えたが、まだ時間があるさらに立ち寄る予定の地がある。