徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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アニメ関係の記事は新設した「白鷺館アニメ棟」に移行します。

白鷺館アニメ棟

来日したウィーンフィルは流石に極上のサウンドを聴かせてくれた

まさかの「実施」に急遽大阪に駆けつける

 以前にチケットを入手はしていたものの、このご時世下では絶対中止だと確信していたウィーンフィルのコンサートが実施されるとの情報が飛びこんできたのは一週間前。さすがにこれは私も驚いた。一体どういうマジックを駆使したのか。円の力か、主催者が菅政権周辺と特別なパイプでも持っていたか。理由は不明であるが、これは私も想定外(笑)。大分から帰ってくると直前になって慌ててアキッパで駐車場を手配するドタバタに。

 金曜日は早めに仕事を終えるとフェスティバルホールへと車で向かう。現在の大阪はGoToなども祟ってコロナが再爆発の気配が出ている状況。さすがにまだ鉄道を利用する気にはなれない。例によってのお約束の夕方の渋滞に出くわしながらも何とか大阪には予定通りに到着する。アキッパで押さえておいた三井ガーデンホテルの駐車場に車を入れるが、その時に「9時50分には駐車場を閉めるので、それを過ぎたら翌日の8時にならないと車を出せない」と念を押される。まさか9時50分を越えることはないと思うが、結構嫌な時間指定である。

 車を置いたところでまずはフェスティバルホールへ行ってチケットを引き取る。今回のコンサートのチケットはフェスティバルホールの予約で確保していたが、十中八九中止だと思っていたのでチケットは引き取らないでいた(その方が払い戻しの時にチケットを郵送する手間がなくなる)。まさかの開催でチケットは当日引き取りになった次第。

 

夕食にいつものラーメンをかき込むとホールへ

 無事にチケットを引き取ると夕食だが、今回はやや時間に余裕があるので店を探そうと思ったが、どうやらキッチンジローは待ち客がいたし、他にはめぼしい店がないしで、結局は今回も「而今」「特製煮干し醤油ラーメンの大盛り(1100円)」を食べることに。何か最近は新しいチョイスをするのが面倒臭くなって、今までの行動を繰り返すことになりがちである。これが老化というものだろうか。若さというのは新しいことにチャレンジする行動力と意欲も意味している。めっきり自分から若さが消えつつあることを感じる今日この頃。ラーメンは例によってCPは良くないが美味い。

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而今の特製煮干し醤油ラーメン

 夕食を終えると会場入りする。今回のコンサートは、一旦チケットを発売したもののその後のコロナのドタバタで発売中止(私はこの時に購入していたのだが)、最近になって中止の可能性もありの条件付きで再発売になったという経緯を辿っている。このためにチケットの売れ残りがかなり出るのではと思っていたが、いざ会場に到着すると結構な観客が来ており、3階席からザッと見渡した印象では7割以上は入っているというところ。ちなみに私が購入した安席は完売の模様で、3階席の後半分だけは異様に人口密度が高いという構成になっている。外来オケの来日は半年以上ぶりぐらいになるので、飢えていた音楽ファンも多いのだろう。大フィルの定期とも読響の大阪公演とも違うタイプの客層(いわゆるやけにハイソ感のある)の姿も見受けられる。

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ステージ上には14編成の配席がなされている

 開演時刻になるとウィーンフィルメンバーが続々と入場。このご時世下なので人数を最少に絞ったウィーン室内フィルハーモニーで来るのではと思っていたのだが、どうやら14編成の人員を連れてきている。ウィーンフィル、結構本気のようだ。

 

第58回大阪国際フェスティバル2020 ワレリー・ゲルギエフ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

指揮/ワレリー・ゲルギエフ
チェロ/堤 剛
ピアノ/デニス・マツ―エフ
管弦楽/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
曲目/チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 作品33(チェロ/堤 剛)
   プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16(ピアノ/デニス・マツーエフ)
   チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」

 一曲目は老巨匠堤剛によるチャイコのロココ風。堤のチェロの音色は深みのようなものはあるのだが、全体的に弱さが感じられ、オケの音色に埋もれてしまうところも多々。またやや安定性にも欠けるように感じられ、残念ながら老巨匠の「巨匠」の部分よりも「老」の部分の方が強く感じられてしまったという印象。

 二曲目はマツーエフのピアノに尽きる。なんて素晴らしい音色を出すんだろうというのには驚いた。マツーエフの縦横無尽でかつ煌びやかな色彩を帯びた音色と、それをバックで支えるウィーンフィルのシットリとした音色の相乗効果によって、プロコのややがさつで私には正直なところ面白いとは感じられないこの曲が「なかなかの名曲」として聞こえてきたのには驚いた。演奏のレベルが曲の評価自体をも左右することはよくあるが、まさに今回がその端的な例である。場内も明らかにマツーエフマジックにうっとりしている空気が感じられ、マツーエフの演奏終了後には溜息のようなものが周辺からも漏れて聞こえてきていた。そのままマツーエフのアンコール(シベリウス:エチュード Op.76-2)が始まったが、そこで繰り広げられたキラキラとして軽やかでかつ美麗な音色にはもう圧倒されるのみ。演奏終了後に会場のどこかから「どうやったらあんな音色が出るんだ」という声が聞こえてきたのだが、これについては私も全く同感。

 20分の休憩後に「悲愴」が始まったのだが、正直なところこれが私には今回の一番の懸案事項だった。というのは、以前にゲルギエフの指揮でかなりヌルい悲愴を聞かされたことが記憶にあるからである。そもそもゲルギエフはあまりオケに統制を欠けずに自由に鳴らさせるところがあるので、ややヌルい演奏になりがちである。悲愴については超テンション型のポリャンスキーの演奏が「至高」として頭に焼き付いている私にとっては、ゲルギエフのヌルい悲愴は違和感が強くて、その時の評価はかなり低かったのである。だから正直なところ今回も曲目が「悲愴」と聞いてチケット購入を一旦は躊躇ったのだが、ゲルギエフとウィーンフィルの相乗効果で何か化学反応が起こるかもと考えて今回購入したのが事実。

 さて今回の演奏であるが、ゲルギエフとウィーンフィルの化学反応に、さらにこの異常な情勢下という環境まで加わったのか、私の予想を覆す演奏が繰り広げられた。

 相変わらずゲルギエフの演奏はいわゆるテンション系ではなくて、オケを鳴らさせてくるタイプの演奏ではあるが、今回はそれがヌルさではなく、とてつもない美しさと不思議な暖かさに満たされていた。第一楽章は迫り来る不安の中に穏やかな心情が吹き飛ばされてしまうような曲調なのだが、それが中盤にはまるで楽園の風景のように感じられる美しい演奏が繰り広げられたので、その後に迫り来る運命の直撃がより鮮烈に迫ってくる。これを決して雑にはならず、激しい中にも美しさを秘めた音楽で展開した。またゲルギエフが随所で細かい演出を加えてきており、それに的確に答えるウィーンフィルの演奏とも相まって、非常に効果を増していた。

 第二楽章はややアップ目のテンポでこれまた非常に美しいワルツを奏でる。このワルツは演奏者によって背後に潜む悲しさが前面に出る場合や、やや皮肉の効いたシニカルな印象になる場合があるのだが、ゲルギエフについては心底美しいワルツである。そして第三楽章の怒濤の盛り上がりもやけになった空騒ぎのようなものではなく、節度の効いた美しさを失わない音楽であった。

 そして最終楽章。圧倒的な憂うつさに押しつぶされて息絶えるような演奏が多いこの楽章だが、ゲルギエフとウィーンフィルが繰り広げた世界は、確かに深い悲しみはあるもののそこにシットリとした美しい風景が流れる音楽。単に憂うつの中で息絶えるのではなく、様々な風雪はありその中で最期を迎えることになったが、それでも今までに成したことはあると人生を振り返るような情緒が漂っていた。つまりは圧倒的な悲しみに押しつぶされるだけでなく、そこから一筋の光明が見えているような美しさである。「我が人生に一片の悔いなし」と言い切る力強さではないが、「まあ、いろいろあったが悪いだけの人生でもなかったよな」というような印象である。その情感が心を揺さぶる。

 何かと「手抜き」がとやかく言われるゲルギエフとウィーンフィルであるが、少なくとも今回繰り広げられたサウンドには「手抜き」は感じられなかった。シットリとしたウィーンフィルサウンドに、これがゲルギエフの真価かと感心させられるスケールの大きな演奏が繰り広げられ、場内もいささか陶然とした雰囲気に包まれたのである。

 この後にアンコールがあった。私の知らない曲だったのだが、曲調からチャイコの「眠れる森の美女」辺りかな推測したんだが、それは正解だったようだ。「眠れる森の美女」からパノラマとのこと。これが悲愴でも見せたあのシットリとした美しさを極限まで展開したもうウットリするしかない極上のサウンドだった。これについては流石の一言しか最早出なかった。

 

極上の演奏の後はなぜか「全力ランニング」

 もう圧倒される内容だったのだが、正直なところこれからが大変だった。と言うのもこの時点で9時30分をとっくに回っていて駐車場の締め切り時刻が迫っていたからである。アンコール終了後に慌てて拍手をする間もなく会場を飛び出す。どうも私と同じ状況の人間が少なくないのか(なぜかフェスティバルホール周辺の駐車場は22時までのところが多い)、走っている者が数人。「エスカレーターは立ち止まって使用してください」の係員の声に誰も応じる余裕もなくドタドタとエスカレーターを駆け下りて会場外へ。

 私は何とか駐車場に間に合ったが、もし遅れたらどこかに急遽宿を探して大阪で一泊する羽目になっていたところだった。なにせ前半終了時で8時10分を回っており、そこから20分の休憩なので、何だかんだで後半開始は8時40分頃。この時点でどんな超特急演奏をしても9時過ぎ程度で終了するわけはないのは確定していたので、悲愴にウットリしながらも私の頭の中では「今から宿泊できるホテルはどこだろうか?」という考えが渦巻いていたのが事実。もう少し音楽だけに集中できる環境が欲しかったところである(笑)。

 ここから夜の阪神高速を突っ走って帰宅。心はかなり満たされていたが身体の方は限界までクタクタで、家に帰り着くとすぐにベッドで意識を失ってしまったのだった。