徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

読響大阪公演で聴いたコバケンの「わが祖国」は「長良川艶歌」だった

今度は比較的順調に到着し、夕食も無事に摂れたのだが・・・

 先週の金曜日に続いて今日も大阪遠征である。今日は読響の大阪公演。前回の公演はコロナの真っ最中だったため泣きの涙でパスしたのだが今回は是非とも行きたい。

 そういうわけで今日も仕事を終えると慌てて高速まで突っ走ったのだが、やはり神戸に入ったところで渋滞である。前回の悪夢が頭を過ぎるが、目下のところトロトロながらも車は流れており、完全に停止してしまった前回よりは状況はマシなようである。

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夜のフェスティバルホール

 なんだかんだで前回よりは1時間近く早く大阪に到着することが出来た。そこで駐車場に車を放り込むと、前回は食いそびれた夕食を摂る店を探す。しかしフェスティバルゲートの地下にやたらに人が多い。「而今」は満席、「キッチンジロー」も待ち客あり、「インディアンカレー」の前にまで行列、居酒屋は満席、一軒だけ客のいない店があったが夕食メニューがやたらに高価で手が出ない、とウロウロする羽目に。これは参ったと思っていたら、一回りしている内にキッチンジローの客が捌けたので入店する。注文するのは「牡蠣フライの定食(1000円)」

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キッチンジローに入店する

 これが出てきたと言うことはいよいよ冬か。実際に先週は夏だったのが今日は突然に冬である。先週はTシャツでウロウロしていたのに、今日は上着が必要。本当に季節がデジタル化してきているのをひしひしと感じる。

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牡蠣フライの定食

 大阪で食べる牡蠣フライだったらまあこんなものだろう。悪くない。これで1000円だったらまずまずの内容。ちなみにフェスティバルホール会員の私は、この店だと会員特典でドリンクを無料でもらえるのでコーラを1杯頂く。

 

 

ホールで全く予想外のアクシデントに遭遇

 夕食を終えるとホールへ。ホールにはかなりの大勢が集まっているが、何やらホール前に人だかりが。近寄ってみるとなにやら連絡が貼り出されている。曰く「新幹線の人身事故のために開演を30分遅らせる」とのこと。その代わり途中休憩をなくして終演時間はほぼ予定通りにするつもりだとか。まあこれだと事前にキチンとトイレに行っておけばそれで良いだけの話だが、不吉なのは「状況によってはさらに時間が遅れる可能性が」と書いてあることだ。これより遅れることがあったら駐車場の終業時刻に引っかかる危険が生じてくる。

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ホールにはかなり人が多い

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おや?何か書いてあるぞ

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こういうことらしい

 とりあえず公演前にトイレだけはしっかりと済ませて時間待ち。幸いにして予定通り30分遅れで公演は始まった。ホール内は一階席については見渡す限りほぼ席が埋まっている。やはり読響は人気があるのか。これだけの客が集まってきているのが、フェスティバルゲート地下にやたらに人が多かった理由か。なおコバケン曰く、「わが祖国」全曲を休憩なしで一気に振るのは初めてとのこと。

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しばしロビーで時間待ち

 

 

読売日本交響楽団 第30回大阪定期演奏会 

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指揮/小林研一郎
曲目/スメタナ:連作交響詩「わが祖国」(全曲)

 「わが祖国」はコバケンの十八番とのこと。確かに手慣れているというか、堂に入った雰囲気は漂っている。演奏自体は例によってのコバケン演歌。ネットリしっとりと独得のテンポでやけに艶のある演奏である。

 強音時はバリバリとやるのだが、今回の聞き所はそういう爆演要素よりも、その合間の旋律の歌わせ方だろう。やや落とし目のテンポで情緒タップリにしっかりと謳わせてくる。読響の音色も弦を中心にやけに艶っぽい。

 まあこれがスラブ情緒かと言えばそこにはいささか疑問がある。やはりコバケンはコバケン。基本的にネッチョリべったりの日本的情緒であり、「モルダウ」というよりは「長良川艶歌」という趣があるのは事実である。この曲については私は以前にチェコのオケにチェコの指揮者によるバリバリのご当地演奏を聞いたことがあるが、そこに流れる現地の空気とはまた異質のものである。

 ではありながら、意外なほどにこの艶歌が心地よかったりする。コバケンの演奏はベートーヴェンとかだったら時にはこのネッチョリした音色が違和感につながったり、端的には不快な場合まであるのだが、ことこの曲に関して「この曲って本当にこんな曲か?」なんて感じつつも妙にしっくりきて説得力があるのである。やっぱり土地は違えども、土俗に根ざした泥臭い曲であるからだろうか。

 結果としてはまずまずの好演であった。コバケンの指揮もさることながら、コバケンと意志を十分に通わせている読響の技倆もあってのものだろう。やはり金管など全体的に関西のオケは残念ながら、まだこのレベルまで至っていないということは感じずにはいられないのである。