徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

「青天を衝け」総括と「鎌倉殿の13人」

 新大河が始まりましたが、それについてのコメントを書く前に、まずは昨年の「青天を衝け」の総括から。

 

 

主人公アゲが無理矢理過ぎて見ていてしんどくなった

 「青天を衝け」については年末になってから完全にここで触れなくなりましたが、それは見るのをやめたのでなく、単にコメント書くのが面倒臭くなったからです。というのも、自分的に作品に興味が失せてきたのと、色々な面(主に本業の件だが)が年末進行で多忙になってきたところで、この作品見るのも録画したのを後でというパターンになってきて、二週間遅れとかの寝ぼけた時期にコメント出してもな・・・なんて思っている内に面倒臭くなってきました(まあ、私の大河に対するコメントを期待して待ってる人なんていないだろうし)。

 もっとも見てはいたものの、ドラマ自体からかなり心が離れたのも事実です。そもそも大河に付き物の強引な主人公アゲに辟易してましたが、決定的にドン引きしたのは千代の死に纏わる感動的な悲劇。もう見ていて「ああ、これって何も知らずにドラマを純粋に見ている人は「栄一さん可哀想」って涙流して感動してるだろうな」と思った途端に気持ちがスーッと引きました。実際はというと渋沢栄一はあちこちで女を作って隠し子の数は把握できないほどという外道です。ドラマでは、妻を亡くして落ち込んでいる栄一を心配した回りが後妻を斡旋したというような描き方をしてましたが、実際は妻が亡くなると妻妾同居で愛人がいたにも関わらず後妻をさっさと迎えたという男です。また途中で愛人のおくにについて「新しい人生を歩むために渋沢家を出ることになった」なんて誤魔化してましたが、実際は知人に押し付けたというのが事実。多分妻がお千代の時は、お千代が心が広い(というよりも気が弱かったのだろう)ために妻妾同居をしてましたが、後妻の兼子は没落したとはいえ大商人の娘でプライドが高かった(そのことはドラマでもチラッと描いてますが)ために、流石に妻妾同居という外道な状態は継続できなくなったのだろうということが想像できる。

 

 

 息子が家を出た経緯にしても、ドラマでは「偉大な父親の後を継ぐというプレッシャーに耐えかねた」というような描き方でしたが、実際のところは、まず彼が父親の遊び人的部分を濃厚に引いていたということもありますが、口では立派なことを常に唱えているが実生活がそれとズレまくっていた父親に対する反発というのがあったのは間違いないです。なんかその辺りを綺麗に丸めてホームドラマにしてしまっていた辺りは「嘘くさ」と感じてしまった次第。

 また渋沢栄一を正義の人として描くために、岩崎弥太郎が悪の権化のような扱いになってしまったが、実際は両人は「全く同類」で、この二人が対立したのは同族嫌悪のようなところがある。岩崎弥太郎が大隈重信と癒着した悪徳商人のようにされていたが、実際ところは渋沢栄一も政府と結びついた政商であって立場は変わらない。

 なお渋沢栄一が貧民救済に政府の支援を求めた時に「貧困は自己責任だ」「貧民救済などしたら怠惰になって働かなくなる」なんて意見を出して反対していた連中がいたが、「こいつら日本維新の会か?」ってツッコミ入れながら見ていたら、確かによくよく考えたらこいつらはそもそも維新政府だったというのは自分で笑ってしまったが。これが制作者からの暗喩だったら立派なものだが、まあそこまでは考えてはいないとは思う。もっとも渋沢栄一が晩年にアメリカを訪問する下りで、列車の中で給仕の金髪のお姉ちゃんに対して、なぜか栄一が一瞬「獲物を狩る獣の目」になっていたのだが、なんとくなく制作スタッフの中にも思うところがある者がいるのではという気はした。

 というわけで、とにかく渋沢栄一を無理矢理に立派な人と描くための無茶ぶりが目につきだして、見ていてしんどくなったというのが本音です。

 

 

三谷幸喜の限界がいきなり濃厚に現れた新大河

 さて話変わって新大河の「鎌倉殿の13人」ですが・・・三谷幸喜と聞いたときに感じていた嫌な予感がことごとく的中したというのが本音です。

 まず基本的に時代劇になっていないのは言うまでもないこと。「そっちか!」なんてツッコミなんて時代劇ではあり得ないが、まあこれは三谷幸喜の作風から予測は付いたことなので驚きはしない。元々NHKも三谷幸喜を起用した時点でまともな時代劇を作るつもりなんてないのは分かる(その割には重厚なOPが浮きまくってるんだが)。

 しかし基本的に「変わった連中のドタバタドラマしか描けない」という三谷幸喜の限界がもろにドラマ全体に現れた結果、馬鹿にしか見えない北条時政、主体性もなくオロオロしているだけの北条義時、真面目に物事を考えているとは思えない源頼朝、いきなり頼朝を誘惑しようと露骨に接近を図る現代娘の北条政子と、時代劇以前に登場人物が歴史を無視しての現代コメディの配置になってしまっており、いわゆる「カツラを被った吉本新喜劇」と言った趣。こういうのが好きな者もいるだろうが、本来の大河ドラマファンからは間違いなく顰蹙ものだろう。

 そしてなぜ起用したか分からない長澤まさみの極めて聞き取りにくいナレーションに、話題作りで起用したと思われるガッキーの棒演技。長澤まさみについては「作りすぎた」結果としてボソボソ喋りになってしまって滑舌の悪さが際立ってしまっているし、ガッキーの方は時代劇を半端に意識したのか、棒っぷりに拍車がかかってしまっている印象。

 元々三谷幸喜は大河ドラマ向きではないのだが、それをわざわざ起用したというのは「真田丸」はNHK的には成功作と考えているんだろうなということ。私にしたら、真田幸村というネタだけで視聴率を確実に取れる切り札を持ってきてあの程度のものしか作れなかった(私は内容のあまりにひどさに10話になる前に落ちた)のは大失敗と見ているのだが、その辺りの認識のズレがあるようだ。

 というわけで私の評価は「かなりひどいものを予想はしていたが、その予想さえをも下回ってきた」というもの。「麒麟がくる」で久しぶりに大河ドラマに戻ってきたのだが、この内容だと最短で次回には落ちそう。