徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

シン・仮面ライダー

ディテールにこだわった庵野流ライダー

 一見して最初に出る感想はあくまで庵野による庵野の趣味が露骨に出た作品であるということである。彼の作品の特徴としては以前より、描きたい目標があってそれに合わせてディテールが設定されるのでなく、描きたいディテールがまずあって、それに合わせて作品の目標が設定されるというところである。そのため細かいディテールには非常にこだわった描き込みがあるが、作品自体の到着点は曖昧であったり何を言いたいのか分からないというオチになりがちということが往々にしてある。この作品でもそういう傾向は現れているのではなかろうか。

早くも超高級フィギュアが出ているところがいかにも

 ディテールへのこだわりとしては、改造人間という存在を如何にリアルに表現するかというところに対するこだわりが明確である。オリジナルではお子様向け作品として曖昧にして誤魔化していた部分を、今の時代性も取り込んでよりリアルに設定し直しているというところがある。例えば元々の原作ではライダーのエネルギー源は風力エネルギーとなっており、ベルトの風車から取り込んだ風力エネルギーで活動することとされていた。しかし当時から「果たしてあんな小さな風車で一時的に取り込んだ風力エネルギー程度で、ライダーの超パワーを賄えるのか?」という疑問は子供の間でさえなされていた。本作ではライダー内部にはさらに別種の巨大システムが内包されており、風力エネルギーはそれを引き出すためのキーに過ぎないという設定が垣間見える。

 

 

リアルであるが故にヒーローでなくなったヒーロー

 また本作でいきなり驚かされるのは、冒頭からの血しぶき飛び交う戦闘シーンである。かつて時代劇が「残酷である」という批判から血しぶき表現が一切禁止され、単に刀で敵をなぎ倒していくチャンバラダンスになったという経緯があったが、その流れを汲んでかヒーローものでも戦闘シーンにおいて血しぶきの表現は避けられてきた。しかし本作では真っ正面から血しぶき飛び交う戦闘シーンを持ってきて、明確にライダーが敵の命を奪っているという現実を真っ正面に据えている。そして「いかに自衛と言われても、普通の人間がそう簡単に相手の命を奪うことが出来るのか」というジレンマに対しては、ヘルメットの機能として自衛本能を強化することで、一種の殺戮マシン化するという設定を持ってきている。これを持ってくることで、本来は人の命を奪うことに抵抗の強い主人公が、人を守るために殺戮者にならざるを得ないという葛藤を話の核の一つに据えている。

 結局は主人公はその「殺戮者たる自身に対する嫌悪」を乗り越えて、ショッカーに命がけで立ち向かうことを選ぶわけであるが、その葛藤については作品を見る限りではあまり深くは感じられないのがやや残念なところであり、この辺りは「作品のディテールがメインで、結論はそれのための手段」という庵野流が何となく感じられるところである。総じて作品全体を通じてのメッセージ性は薄い。特に「自らや仲間を守るためには外敵に対して残酷でも力を行使する必要がある」といういわゆる右翼的メッセージも「いくら敵対している相手でも命を奪うという行為は避けるべきである」という左翼的メッセージのどちらも唱えているわけでないのは明確である。結局主人公は人類を救う云々という大義よりも、ルリ子の「道を誤った兄を救いたい」という思いに応えるということの方が主の行動原理となっている。この主人公は「人類を救う」という大義でなく、「身近な人を救いたい」というレベルの目的のために戦っており、非常にリアルではあるがヒーローとしては実に卑小な行動原理となっている。そのために最終的にはショッカーを殲滅したわけでない何とも中途半端な状況で主人公は退場するという、今ひとつスッキリしない結論になってしまっている。

 

 

カタルシスを排除したが故に釈然としない部分も

 メッセージ性の薄さもあって、作品の印象としては淡々とストーリーが進むというところがある。いわゆるヒーローものの熱さとは無縁のかなりクールな進行が本作の特徴でもある。またライダーの存在についても圧倒的な超越者ではなく、あくまで犯罪組織ショッカーと戦う体制の中の一つの存在に過ぎないということもハッキリしている。その最たるものがすべての怪人(作中ではオーグと呼ばれている)を倒すのがライダーでなくて、サソリオーグなどはライダーと手を結んだ国家組織によってライダーの関与なしで抹殺されているというような事実が特徴的である。この辺りはある意味で今日的である。本作の主人公は無敵の超越者としてのヒーローでなく、悩める生体兵器に過ぎず死ぬ時はあっさりと死んでしまうわけでもある。

 ただこのような「リアル」な表現は、結果としてヒーローもののカタルシスを奪ってしまったというのも事実である。ヒーローものは「人類を守る」という崇高な大義を掲げた主人公が、圧倒的な力によって弁解しようもない邪悪である敵を粉砕するという明確な勧善懲悪から来るカタルシスこそが鍵であったのだが、本作では見事なほどにそれがない。主人公は大義を掲げず、また敵たるショッカーについても一応は人類の救済を目的にしており、明らかにその方法が間違っているとは感じられても、果たして本当に邪悪と言い切れる存在なのかというところに疑問を残している。そのせいか、最終的に何か煮え切らない感情を抱かされてしまうのである。シンゴジラでは人類の前に巨大な災厄として現れたゴジラを人類が力の限りを尽くして抑え込むというカタルシス、シン・ウルトラマンでは人類に惹かれた異星人が人類を守るために命がけで戦うというカタルシスを持っていたので、一応はスッキリとした結論がついていたのとは対称的である。

 

 

配役陣も印象深いが、商業作品としてはどうか?

 このようなやや「淡々とした」作品であったためか、主人公を中心とした俳優陣の演技もかなり抑え目で、そのせいかいささか大根にさえ感じられるレベルになっている。その最たるものがヒロイン緑川ルリ子を演じた浜辺美波で、彼女は終始一貫ほとんど表情らしいものを見せずに感情を殺した台詞回しで一貫している。もっとも作品自身は非常に計算されており、だからこそ時折彼女が見せる人間らしい表情に観客がグッと魅せられる仕掛けにもなっており、ある意味では一番成功している彼女のプロモ作品であるかもしれない。またかなり強烈な印象を残すのは、シン・ウルトラマンでヒロインとなっていた長澤まさみがちょい役とも言えるサソリオーグとして登場して、かなりぶっ飛んだハイテンション演技を見せていること。作品の中で違和感を放つほどのハイテンションぶりは圧巻であって極めて印象深い。

 作品としては非常に計算されている。ただエンターテインメントとしてはどうなのかというのにはやや疑問も存在するところもある作品である。この辺りは「クリエイターとして自身を出せば出すほど、観客の求めるところとズレが大きくなる」といういかにも庵野らしい作品でもあったのである。