徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

METの「フィデリオ」を鑑賞してから、「パウル・クレー展」へ。

体調に不安はあるが三ノ宮に繰り出す

 先週末、大阪遠征の際に体調不良に見舞われたんだが、帰宅の翌日の月曜日の午後ぐらいから咳が出始め、その夜には激しい咳に苦しめられて翌朝には微熱が。結局は風邪との診断を受けて火水と寝込むことになってしまった。どうやら私の体調不良の原因は単なる疲労でもPM2.0でもなかったようである。木曜日には仕事の都合でどうしても休むわけにはいかなかったので、若干フラフラしながら出社、そのまま金曜日もヘロヘロの状態での勤務と相成った。

 週末になってようやく体調はほぼ回復かというところなんだが、正直なところまだ体力が完全回復からはほど遠い。この状態で電車で出かけるという気にはならなかったので、今回は車で出かけることにした。目的はMETライブビューイングでベートーベンの「フィデリオ」。まあこれが「フィガロ」辺りならパスする手もあったのだが、ベートーベンの唯一の歌劇作品で私も初めて見るものということで出向くことにした次第。

 阪神高速は例によって渋滞でややイライラさせられるが、どうにか予定より若干遅れぐらいで三ノ宮に到着、akippaで予約した駐車場に車を入れる。ここから徒歩で神戸国際会館へ。ただ朝食を摂る間もなく飛んできたので、途中で「英國屋」でモーニングを腹に入れる。

英國屋に入店

モーニングセットを頂く

 ようやく朝食を終えると国際会館のキノシネマを目指す。何やら券売所に行列が出来ているから驚いたが、まさかMETの客ではあるまい。上映スケジュールの時間から見て、考えられるのはまさにタイムリーな作品となった「教皇選挙」だろうか? もっともかなりテーマ的には地味な作品だと思うが。なおMETの観客は20人程度であった。

劇場前には謎の行列

 

 

METライブビューイング ベートーベン「フィデリオ」

指揮:スザンナ・マルッキ
演出:ユルゲン・フリム
出演:リーゼ・ダーヴィドセン、イン・ファン、デイヴィッド・バット・フィリップ、マグヌス・ディートリヒ、トマシュ・コニエチュニ、ルネ・パーペ、スティーヴン・ミリング

 自分に敵対する者は次から次へと無実の罪で収監していた監獄所長のドン・ピツァロ。彼の暴虐を告発した正義の男・フロスタンも彼の手によって地下牢に幽閉されて命を狙われることになる。彼の妻であるレオノーレは夫を救うために、男装してフィデリオと名乗って監獄に潜入するという物語。

 オペラとしての上演機会は決して多いと言うことはない作品だと思うが、序曲自体は比較的有名でこの曲を聴くとベートーベンの様々な要素がぶち込まれているのが感じられる。「田園」などを連想させるようないかにもベートーベン的な節回しも随所に見られる。また本編の音楽もモーツァルト辺りの古典から近代への橋渡し的な要素が垣間見られる。

 それを演じるのがMETの圧倒的な歌手陣。レオノーレのダーヴィドセンは押しも押されぬ実力の持ち主。その歌唱は圧倒的な説得力がある。第二幕からしか登場しないフロレスタンのフィリップはバリトンから転向したテノールとのことだが、純粋な正義感を好演している。ロッコのパーペは何度もこの役を演じているベテラン。その安定感は抜群である。そして典型的な悪党のドン・ピツァロのコニエチュニも安定感がある。

 演出的に興味深かったのは、マルツェリーナの扱い。彼女を演じるファンが「この作品は彼女にとっては大悲劇」と語っていたのであるが、確かに演出でもそういう扱いをしてある。勇気ある立派な妻として皆がレオノーレを讃える裏で、1人傷ついてたたずむ姿が描写されている。彼女の存在についてはハッピーエンドに水を差す形になるので、あえてコメディリリーフ的に扱う方法もあるのだが(実際に彼女に言い寄る若い男がいて、いずれは彼と引っ付くことも暗示されている)、真っ正面からレオノーレの策にダマされた被害者という扱いにしていたのは今日的か。

 実力者を並べた安定的な演技に、ツボを押さえたマルッキの演奏によるドラマは流石にMETである。こういうのがオペラの醍醐味。

 開演前にMET支配人が、本作は共和制を支持していたベートーベンが自由と公正が暴虐な専制独裁者を駆逐するというメッセージを込めた作品というようなことを解説しており、今の時代にもつながるメッセージになるという類いのことを語っていた。3月15日の公演とのことなので、多分にプーチンを意識しての発言と思うが、それからの1ヶ月、まさにアメリカの愚王が暴政を行ってアメリカの民主主義が風前の灯火になりかけてきた現状を見ると、このメッセージはアメリカにも通じるものでもあると感じずにいられない。なお私の場合は、告発者をえん罪と誹謗中傷で死に追い込み、自らは未だに開き直って地位に連綿とし、取り巻きを批判者に対してけしかける某チンケな独裁者の顔がパッと頭に浮かんだが。

 

 

 ライブビューイングを終えた時には既に14時。次の行動の前に昼食を摂っておく必要がある。立ち寄ったのは近くの「山神山人」とんこつラーメンにチャーシューを追加したものを頂く。

三ノ宮地下の「山神山人」

 とんこつスープがしつこすぎずにそれでいてコクがあってちょうど具合が良い。この濃厚なスープには極細麺が実に良く合う。オーソドックスだがなかなかに考えられたラーメンである。

肉味噌の入ったとんこつラーメン

極細麺使用

 昼食を終えると車を回収するためにプラプラと南下。途中でジョーシンを見かけたので数年ぶりに見学してみる。ここは珍しく未だにまともなオーディオのコーナーがあったのに驚いたが、ラインナップに日本メーカーのものはデノンとマランツぐらいしかないところにオーディオという分野の斜陽感がひしひと迫ってくる。さらにとりあえずまだ何とか残っているのはハイエンドクラスばかりで、いわゆるエントリーモデルがないことにも溜息。今時の若者は音楽は音なんてどうでも良いので、スマホで間に合っちまうんだろう。かく言うかつてのオーディオマニアである私も、今は耳が老化で腐ってしまっているので、今更高級オーディオに投資する気もない(そもそもその財力も無いが)。

 駐車場で車を回収すると、帰宅の前にもう一箇所立ち寄ることにする。わざわざ車で神戸まで出てきたのには元よりここのことも頭にある。目的の兵庫県立美術館までは車で10分ほど。

 

 

「パウル・クレー展 創造をめぐる星座」兵庫県立美術館で5/25まで

パウル・クレー展

 スイス生まれで20世紀美術を代表する画家であるパウル・クレーについて、同時代の作家達との交流や当時の美術の動向にも注目して、その生涯の画業を紹介する大回顧展。

 画家を目指してミュンヘンの美術学校で学んだクレーは、色彩の表現に悩んでまずは「最も単純な表現」として線だけの版画に挑んだ。そしてその作品を1906年のミュンヘン分離派展に出展したののが芸術家としての第一歩だという。

クレーの初期版画作品「老いたる不死鳥」

 その頃、ミュンヘンにやって来ていたカンディンスキーが中心に「ミュンヘン新芸術家協会」が設立されるが、保守派との軋轢でカンディンスキーとマルクが退会して青騎士を結成する。そこにクレーも第2回展から参加していくことになる。

ヴァシリー・カンディンスキー「夕暮れ」

カンディンスキー「ボート漕行《響き》より」

 青騎士展には当時の気鋭の前衛芸術家たちが参加しており、クレーもマッケやモワイエと共にチュニジアを旅行し、その時に以前から抱えていた色彩の問題を克服する。

クレー「チュニスの赤い家と黄色い家」

クレー「ハマメットのモティーフについて」

 

 

 しかしチュニジアからの帰国の3ヶ月後、ヨーロッパは第一次大戦に突入、マッケとマルクは従軍して戦死、カンディンスキーはロシアへの帰国を余儀なくされて青騎士は散り散りとなる。クレーは戦争を主題としながらより抽象的な世界に突入していき、その中には自作の切断と再構成といった過激な手法を駆使する作品も登場したという。

クレー「アフロディテの解剖学」

クレー「紫と黄色の運命の響きと二つの球」

自作を切断して作成したという、クレー「深刻な運命の前兆」

クレー「破壊された村」

 終戦後、青騎士の芸術家の多くを失ったドイツでクレーの評価が高まっていく。そしてクレーはその後に起こったシュルレアリスムの運動の中で、その先駆者として言及されることになるという。

シュルレアリスム的なクレー「小道具の静物」

クレー「闘っているポップとロック」

植物的なクレー「周辺に」

クレー「熱帯の花」

 

 

 そしてクレーはバウハウスにマイスターとして招聘される。バウハウスでクレーは指導を行いながら自身も創作をすることになるが、この経験はクレーにとっては大きな刺激になったという。

クレー「窓のあるコンポジション」

バウハウスで東洋趣味の影響を受けたというクレー「中国風の絵」

リオネル・ファイニンガー「海辺の夕暮れ」

ラースロー・モホイ=ナジ「無題《ケストナー版画集6コンストラクションより》」

ヨハネス・イッテン「チロル風景」

クレー「蛾の踊り」

クレー「赤、黄、青、白、黒の長方形によるハーモニー」

 

 

 しかしその後、ドイツではナチスが台頭しヒトラーが芸術の弾圧を始める(画家として挫折しているヒトラーは、多分に一流芸術家にコンプレックスを持っている)。そしてクレーもドイツ国内での職を失ってベルンに逃亡、その作品も「退廃芸術」と指定されて没収されることになる。このような悲劇的状況の中でもクレーの創作意欲は失われず、新たな表現を求めていく。そして作品の販路をアメリカに拡大させた。

クレー「殉教者の頭部」

クレー「恐怖の発作III」

クレー「花のテラス」

クレー「山への衝動」

 1940年、クレーはスイスで没する。画架には遺作の静物画が残されていたという。

クレーの遺作「無題(最後の静物画)」

 以上、クレーについて。私は正直なところ彼の作品が理解出来るとも好ましく感じるとも言い難いのであるが、このような大規模回顧展に接することで、何となく漠然と彼の目指していたところを感じることは出来たような気はする。