今日は西宮方面へ
昨晩は疲労でかなりいつもより早い時間にダウンしてしまったが、そうなると早朝に中途覚醒してしまうのが睡眠力の低下した老体の悲しさ。4時過ぎぐらいに一旦目が覚めてしまうなどということがあったが、それだと睡眠不足確実なのでなんだかんだで8時ごろまで布団の中でうつらうつらで過ごす。
8時になったところで意を決して起床。まずは朝食のために出かけるとする。今朝立ち寄ったのは「喫茶京」。コーヒーとミックスサンドを頼む。この店はモーニングがないのでやや高くつく(950円)が、その分だけサンドイッチがかなりしっかりしたもので美味いので、これはこれで価値がある。


朝食を終えるとホテルに戻ってシャワーを浴びたり、昨日の原稿を仕上げてアップしたりなどでチェックアウト時刻の11時ギリギリまで滞在。今日の予定は西宮での芦屋交響楽団の公演だが、これが16時開演なのでやや時間に余裕がある。
ホテルをチェックアウトするとまずは三ノ宮まで移動する。ここを拠点に近隣の美術館を回るためにキャリーはコインロッカーにと思っていたんだが、今回持参のキャリーが二泊以上用の一回り大きなタイプなので、機内持ち込みサイズにも関わらず小ロッカーだと入らず、中以上サイズのロッカーは全て塞がっていてロッカー難民に。
仕方ないのでキャリーをゴロゴロ引きながらの移動になる。この時点で機動力が大幅に低下することを考慮して予定を変更、三ノ宮での予定はすっ飛ばして直ちに灘に移動することにする。
灘に到着した時点でとっくに正午を回っている。美術館に行く前に昼食を摂る手もあるが、この辺りと言えば「洋食SAEKI」か。しかし昨日の今日でまた洋食というのも胃がもたれそうだし、店の近くを通りかかった時に遠目から覗いたら、例によっての大行列があるようなのでパスする。
灘と言えば兵庫県立美術館である。しかし駅から美術館までの微妙な距離がキャリーを引きながらだと遠い。さらに美術館に入ってからも、非実用建築設計大家の安藤忠雄設計のせいで無意味に遠回りさせられるのでストレスは高い。

「藤田嗣治×国吉康雄 二人のパラレル・キャリア-百年目の再会」兵庫県立美術館で8/17まで

藤田嗣治と国吉康雄はほぼ同時代にパリとニューヨークで活躍した日本人画家であり、互いに微妙に接点を持ちながらも研鑽を重ねてその芸術を完成させていった。本展ではその二人のキャリアを対比させつつ紹介していくという。
まず第1部は1910年代~20年代初頭の初期の絵画。国吉はアメリカで研鑽を積み、藤田はフランスで名を上げていく過程の作品。まだ二人共にらしさは確立の途中であり、国吉の絵画は交友があったというパスキンに近いような作品が、藤田はまだやや重苦しさのある作品が展示されている。
第2部になると1922年~24年の時期で、二人ともその画風を確立していく。国吉は後の作品につながる強烈な裸婦像などでアメリカでも注目の画家となりつつあったが、知名度では「乳白色の下地」による美麗な裸婦像で時代の寵児となった藤田の方がはるかに上回っていた。
第3部の1925年~28年が藤田のパリにおけるキャリアの絶頂期となる。いかにも藤田らしい裸婦像が多数登場。一方の国吉はここで後の作品につながる鮮やかで肉感的な女性像を確立する。なおこの時期に国吉は腕を磨くべき渡仏しているらしいが、自分よりも遥かに高い世間評価を得ている藤田が眩しかったのか、両者が接触した記録は残っていないという。
第4部は藤田が一次帰国を果たした後に、ニューヨークで個展のために渡米した時期になる。この時に二人は初めて直接接触した模様で、当時の寄せ書きなどの資料も残っているという。
第5部は1930年代の軍国主義が台頭して第二次大戦の予兆が見えてくる時期。藤田はこの時期にパリを離れて、中南米などを経由して帰日する。この頃の藤田はそれまでの乳白色の下地を捨てて、新たな画風を模索している時期で、キャリアの転換点に当たる。一方の国吉はアメリカでキャリアを高め、教職に就きつつ芸術家の権利向上のための社会運動などにも注力するようになる。
第6部は1940年代前半の戦時下。藤田は軍部からの作戦記録画に力を注ぐようになる。そこにはかつてのエコール・ド・パリを代表した美麗な作品の片鱗は全く見えなくなる。一方の国吉はアメリカで適性外国人として監視下に置かれる中で、日本の軍国主義を批判する活動を行い、そのための作品などを制作する。ここでこの両者は完全に袂を分かつことになってしまう。
第7章は戦後。藤田は戦争責任を追及される可能性さえ囁かれる中で、かつてのような裸婦像の制作を再開する。そして居心地の悪い日本を離れてフランスに帰還する道を模索するようになる。一方の国吉はアメリカでさらに名を上げており、その作品も社会性を帯びたものが登場する。
第8章は1949年、藤田がフランスを目指す途中で渡米して10ヶ月滞在した時期になる。この時に藤田は個展を開催したらしいが、国吉と直接に再会してはいない。しかし記録によると国吉が藤田の個展を訪れたことが分かっているとのことで、袂を分かったものの、やはりお互いに気になる存在ではあったことが覗える。
最終章が最晩年の国吉が1953年に亡くなるまでと、藤田がフランス国籍を取得してからカトリックに改宗して、1968年に没するまでの時期。完全にスタイルを確立した国吉らしい作品や、宗教的な題材を精緻な画風で描く藤田の晩年の典型的な作品が展示されている。




以上、海外で活躍した二人の日本人画家を並列させた展覧会。正直なところ「思っていた以上に接点がない」という印象を受けたが、時代の空気の影響を受けながらの二人の芸術の変遷は興味深くはあった。特に藤田については今まで度々彼の展覧会などでその大体のキャリアは把握していたが、国吉についてはこのように流れに沿っての説明を受けたことがなかったので、実に興味深かった。正直なところ二人とも明らかに私の好みの画家ではないのだが、それでいつつも彼らの面白さのようなものを体感出来たのは有意義であった。
兵庫県立美術館の見学を終えると、キャリーをゴロゴロ引いて駅に戻る途中で、もう一軒の美術館に立ち寄ることにする。

「青とモノクローム-フランスと日本の色を読む」BBプラザ美術館で7/21まで

同館のコレクションを青という色彩に注目して紹介する。
最初は青ということでやや強引な感はあるが、青銅のブロンズ像、青磁の作品などが登場。ブールデルやロダンなどの作品が展示されている。


次は青に纏わる絵画。青と言えば水ということで、森の沼を描いたラヴィエイユによる風景画から始まり、青い空の登場するユトリロのパリの絵画なども登場。さらに青空とは言い難い佐伯祐三のパリの絵も。



青をバックにしたルノワールのいかにもの少女像に金山平三が港を描いた作品なども登場、さらにはコレクション展として現代作家による青っぽい作品が3点。三者三様だが、やはり青という色彩の特徴からどことなく静けさを感じさせる。



もろもろ青をテーマにした正直なところ今ひとつ脈絡のない展覧会であったが、作品はまちまちながらそれなりに面白いものが多かった。中でもっとも私の興味を惹いたのはやはりヴラマンクの作品とキスリングの作品か。

美術館の見学を終えると岩屋から阪神で一旦三ノ宮に戻って昼食をとることにする。阪神横の地下飲食店街を物色、「酒房 灘」に立ち寄って「アジフライの定食」を注文する。

ここは本来は飲み屋なのであるが、昔から昼食用の定食も定評がある。肉厚のアジフライがなかなかに美味い。

昼食を終えると15時前。とりあえずホールのある西宮北口に移動する。ただ開演は16時からでまだ時間が若干あるので、駅前ビル内にある「珈琲館」に立ち寄って「抹茶アイスと小倉のホットケーキ」で一服していく。

ここのホットケーキは注文を受けてから焼いているようでなかなかに美味い。ここでマッタリとしばし時間をつぶしてからホールへ向かう。

ホールには既に大勢の観客が押しかけていたが、当日券売り場には行列が出来ていた。時間と共に観客は増えていき、開演前には場内は満員に近い観客でごった返すことに。芦屋交響楽団、人気もかなりのもののようだ。

芦屋交響楽団 第100回定期演奏会

指揮:湯浅卓雄
管弦楽:芦屋交響楽団
黛 敏郎:ルンバ・ラプソディ
芥川也寸志:オーケストラのためのラプソディ
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 op.93
100回記念定期ということで、満を持して今回は芦屋交響楽団の発展に大きな貢献をした芥川也寸志の曲が登場、それにショスタコの10番という難曲の意欲的なカップリングである。
前半の日本人作曲家の曲については、残念ながら私のあまり興味の持てるものではない。さほど奇っ怪な曲ではないので比較的親しみやすくはあるが、特別な面白さを感じるというところまでは残念ながら行かない。
ただ演奏の方については芦屋交響楽団のかなりのレベルの高さを感じさせられた。弦楽アンサンブルの精度の高さは見事であるが、これについては他のアマチュアオケでもそこそこのレベルのところは存在する。感心したの管楽陣の安定性。これは他のアマオケと一線を画している。特に宝塚交響楽団でさえ弱点を露呈させていたホルンが、芦屋交響楽団においては万全。目に余るようなやらかしはなく、なかなかに良い音を出していたのには感心した。管楽陣が安定しているから、演奏全体に締まりがある。
後半はショスタコの難曲。下手に演奏したらバラバラになる危険を秘めた曲であると思うのだが、それを一丸になって驀進。弦楽アンサンブルと管楽陣の演奏が巧みに絡み合って実に聴き応えのある演奏。安定感は抜群であり、いわゆる「アマオケフィルタ」をかけずに聞くことの出来る演奏である。曲中の強弱対比などのダイナミックな表現も非常に適切であり、最後まで心置きなくショスタコの世界に没入出来た。
まさに圧倒された。芦屋交響楽団のレベルの高さは以前から感じていたが、実のところアマオケからここまで演奏が登場することまでは予想していなかった。これには「やられた」の一言である。
この遠征の前日の記事