京都遠征に出向く
この週末は京都までコンサートを聴きに出向く。午前中に家を出ると新快速で京都まで。それにしてもまだまだ暑い。乗車時に弱冷車を避けないと熱中症になりかねない。
昼前に京都に到着。今日のコンサートの開演は14時半。例によってそれまでの間に展覧会に一件立ち寄りだが、それよりもその前に昼食を摂る必要がある。考えるのも面倒なので伊勢丹に上がると「美々卯」に入店する。

待ち客がいたら嫌だなと思っていたが、昼の部開始直後だったのか、待つことなく入店できる。注文したのは「鴨うどんの膳」。

厚切りの鴨肉が流石に美味い。ただうどん自体は腰があって良いのだが、なぜか味の方があまり感じない。そういえば付けられていた飯ものも味があまりしなかった。京料理は薄味と言ってもそういう次元ではないような・・・私の体調が悪いのか、それとも味が落ちたのか、あるいはその両方か。
昼食を終えるとバスで目的地に移動する。今日の立ち寄り先は京都国立博物館。ここで開催されている宋元仏画展を鑑賞するのが目的。

「宋元仏画-蒼海を越えたほとけたち」京都国立博物館で京都国立博物館で11/16まで

中国の宋と元の時代に制作された仏教絵画が宋元仏画であり、日本は正式には宋とは国交はなかったが、商人によってそれらの物品は日本に持ち込まれた。
これらの絵画は非常にレベルが高く、後の時代まで絵師たちの手本として日本の絵画に大きな影響を与えてきたという。これらの絵画を紹介するとともに、それに対する日本の反応なども併せて紹介する。
第一部は「唐物」として尊ばれた名品を紹介。重文や国宝クラスの名品が登場。中には徽宗皇帝の手によるとされる山水画があり、これは皇帝陛下の手慰みというレベルではない本格的な作品である。徽宗皇帝はかなり文化的素養が高い人物だったようである。もっともこういうタイプの人物は往々にして統治者としては失敗する例が多く、彼ももろにそれに該当してしまったのであるが。
なおこのコーナーでは絵画だけでなく陶器や工芸品なども登場し、中には曜変天目なども含まれる。個人的には実はこの茶碗類が一番面白かったりする。
第二部には仏ならぬ高僧達の像が描かれている作品が多数。定型化している仏画よりも、モデルがいる人物画であるこれらの作品の方が生き生きとしていて絵画としては面白い。
この後は仏画が中心となるのだが、正直なところを言うと残念ながらこの辺りは私的にはあまり面白くなくなってくる。信仰の対象として寺院内で飾られていたりした作品であるので、どうしても劣化がかなりあって絵自体が不鮮明になっているものが多いのがまずで、さらには描き方が定型化していてパターン通りであるからである。ただかなり精細で技術レベルが高いことはわかる。
また後の日本美術界にも大きな影響を与えた牧谿らの水墨画なども登場。これらは日本で禅宗文化を花咲かせることになる。
面白いのササン朝ペルシア発祥というマニ教の図像なども含まれていること。これらは仏教図像の形を借りていたので、マニ教が布教されていない日本でも仏画と区別されずに伝わったらしい。ただよく見ると図像がどことなくキリスト教的にも見え、さらに人物の顔立ちが微妙にあちら系の濃いものになっていたりするのが面白い。
最後はこれらの作品の研究から生まれた日本の作品などで、曾我蕭白の群仙図屏風などが登場。この作品自体は何度も見ているが、それにしても相変わらずインパクトの強い作品である。しかしこの精細で大胆な表現は確かに唐物の研究の結果であると言われると納得はできる。

展覧会の見学を終えるとバスで京都駅に引き返す。しかしこのバスが異常な混雑で不快そのもの。まさにインバウンド公害の縮図である。この路線は以前から異常に混雑するのが最大の難点。
京都駅に戻ってくると、ここから地下鉄でホールに移動する京響は大人気のようで今回の公演も完売の模様。なお沖澤のプレトークがあったが、それによると京響は来年度に沖澤指揮で3回に分けてプロコフィエフの交響曲全曲演奏会をするらしい。いわゆるベートーベンやブラームスのチクルスはよくあるが、プロコなんて変化球が来るのが沖澤らしいところではある。ベトチクは大フィルが今年やっているし、ブラチクはなかったが以前に4オケで一気演奏というのはあった。大フィルは以前にチャイコとメンデルスゾーンでもやっている。京響がこの手のイベントをするのは初めてである。

京都市交響楽団 第704回定期演奏会

[指揮]沖澤のどか(京都市交響楽団常任指揮者)
L.ファランク:交響曲 第3番 ト短調 op.36
リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 op.35
《[ヴァイオリン]石田泰尚(京響ソロコンサートマスター》
一曲目のルイーズ・ファランクは1804年パリ生まれの女性作曲家だという。一般的知名度の低い女性作曲家の作品を積極的に取り上げている沖澤らしい選択ともいえる。
ファランクは「作曲家は男の仕事」という社会的差別の中でかなり苦労したようであり、正式に作曲を学ぶことが出来ず、アントニーン・レイハの個人レッスンを受けて作曲を学んだとのこと。ただ彼女はその作品がシューマンに絶賛されたことなどから、生涯無名で終わった女性作曲家が大多数の中では比較的成功した例だという。ただピアニストだった愛娘が1959年に早逝し、その失意のせいか晩年はほとんど作曲をしなかったことが没後にその作品が忘れられてしまう原因になったのではとのこと。
彼女が交響曲を作曲したのは1840年代で、今回の3番は1847年に作曲されたという。ちょうどシューマンなどがバリバリ作曲をしていたロマン派全盛期といえる時代になる。ただその割には彼女の作品は保守的というか、やや古典的に聞こえるところがある。この作品についての私の感想は、やや哀愁を帯びた主旋律などメロディ面では独自の優れた魅力を感じるのであるが、残念ながらその後の展開などが定型的でやや退屈という感がある。正直に言うと、曲自体があまり面白くないのである。
そういうことがあるので、12型中規模のアンサンブル重視の京響の演奏自体は見事でもあり、沖澤の解釈なども適切なものであると感じるのであるが、どうしてもその奏でる音楽自体の魅力が薄くなってしまっているのが否定できない。
休憩後の後半は編成を14型に拡大してのシェエラザード。これは見事に色彩的というか、音が粒立って聞こえてくる感じで非常に解像度の高い演奏である。圧倒的な極彩色の音楽絵巻に飲み込まれるという印象。管楽器を中心に京響奏者の名人芸が際立っている。
ヴァイオリンソロは石田組長。流石というか堂々としたインパクトの強い演奏である。また力強くもあるが、時には囁くようにとメリハリが強い表現力豊かな演奏。ヒロインのシェエラザードによる王に対する寝物語という本曲のシチュエーションを思い出させる表現となっている。
魂を揺さぶられるような圧倒的なサウンドに、聞いていて背筋のあたりがゾクゾクとしてきたというのが本音であり、久々に血沸き肉躍るような演奏であった。この曲は実は下手に演奏をすると、ただうるさいだけでむしろ眠気を誘ってしまうこともある難儀な曲であるのだが、一睡の余地さえないというか音楽の奔流の中で心遊ばせているうちに気が付けばラストになっていたというのが今回の私。これは久々にすごい演奏に出くわしたと感じた。
非常に満足度の高い演奏に改めて京響のレベルの高さを感じさせられたし、これが沖澤の音楽かと納得させられたところ。なおアンコールがドビュッシーのベルガマスク組曲から月の光という沖澤らしい美しい曲で、これでやや過熱した場内をしっとりと落ち着かせてコンサートを閉めたのである。
非常に満足度の高い公演であった。これだけの演奏が聴ければわざわざ京都まで出張ってきた価値があったというものである。この後は翌日に備えて大阪にとんぼ返りすることにする。明日はなんばパークスシネマでのMETライブビューイングのアンコール上映を鑑賞する予定。宿泊ホテルは堺に確保してある。今回宿泊するのは堺浜楽天温泉祥福。
堺沖の埋め立て地に立地しているので、車なら阪神高速湾岸線経由でアクセスが楽なのだが、鉄道利用の場合は住之江公園駅からピストン輸送の専用バスを使うしかない。バスの時間を読みつつ地下鉄を利用することになるが、待ち時間の間に「ミンガス」に立ち寄ってカツカレーを夕食として腹に入れる。ただこれも何となくあまり美味しくない。やはり体調が良くないのか、それとも味が落ちたのか。

住之江公園に到着して所定のバス乗り場で待つこと10分ほど、中型バスが到着するのでそれで祥福に直行する。
祥福は日帰り温泉施設に宿泊用のカプセルを付けたという構造。なおカプセルは21時まで入浴客も利用することが出来、21時半以降は布団を敷いて宿泊客専用になるというシステム。それまでは休憩所などで時間をつぶすことになる。
風呂は内風呂に露天風呂で壺湯だの電気風呂だのと多彩。湯はアルカリ単純泉とのこと。強いヌルヌル感はないがさら湯よりは肌当たりは柔らかい。とりあえずはここでしっかりと汗を落とすとともに体をほぐす。
なお私のプランは岩盤浴もついてくるとのことでそちらも覗いてみるが、基本的に蒸し風呂は性に合わないので適当に終えて汗だけを流しておく。
風呂の設備はなかなか良いのであるが、この施設の最大かつ私にとっては致命的と言える問題点は、ワークスペースがないことである。一応はPCも持参していたのだが、結局はキャリーから取り出すことが最後までなかったのである。せいぜいが夜になってカプセルに入ってからポメラを取り出したぐらい。やっぱりあくまでくつろぐのが目的の日帰り温泉施設であり、こんなところで仕事なんてするなということだろうか・・・。
この遠征の翌日の記事