徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

仙台周辺の伊達家ゆかりの城郭を回る

 翌朝は6時前に起床、荷物をまとめると直ちにチェックアウトする。上野駅の駅ナカで朝食を摂ると新青森行きのはやぶさに飛び乗る。昨日は風邪をひいたのではないかと気になっていたが、今朝はそんな気配はない。足がやや痛いのと全身がややだるいことを除くと体調は概ね問題ない。

 昨日はかなり雨が降ったということだが、今日の仙台は晴れ上がっている。仙台駅で新幹線を降りると駅レンタへ。今日はレンタカーで宮城南部の城郭を回る予定。仙台駅でノートを借りることになっているが、やはりこれも新型ノートで私の旧型とは全く別の車。

 

亘理城 伊達成実の城郭

 仙台から南下して最初に目指すは亘理城。亘理城はこの地を治めていた亘理氏の居城で、亘理氏が1591年に涌谷に移った後は片倉小十郎が入っていた。1602年に片倉氏は白石城に移り、その後は伊達成実が引き継いで改修したとのこと。

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亘理城

 亘理城の本丸は神社になっており、伊達成実が祀られている。完全に普通の神社になってしまっているので、城跡だと言われないとピンとこないところがある。しかし城跡として見ると明らかにそうであることは分かる。そもそも周囲より小高い丘の構造がまさに城郭向きである。

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本丸は現在は神社と公園

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城跡碑が建っている

 本来の本丸は現在の町道の向こうにあるショッピングセンター横の丘にまでつながっていたという。後で町道が出来て分断されたのだとか。

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亘理城案内図

 

 神社の奥には土塁と思われる構造もある。この奥にかつては馬場があったというが、今はそこは学校になっている。

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神社の奥に進むと

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忠魂碑の背後に土塁の跡が

 本丸の南には堀跡が残っており、これがほぼ唯一の遺構だとか。下から見上げると斜面も急だし、確かにそれなりの防御力を有している。戦国期を生き抜く堅固な城郭ではないが、江戸期の城館としては必要十二分だろう。伊達家に万一のことがあった場合には片倉氏の白石城と共に伊達領の南部を守ることになっていたのだろうと想像される。

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南側の急斜面を降りると

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堀の跡も残る

 

丸山城 家中の紛争で隠居した伊達稙宗が押し込められた城

 亘理城を後にすると次に目指すは丸山城。伊達稙宗が晩年を送った城郭だという。南下して国道113号を進めば、川の向こうにいかにも城郭向きの格好の山があるがそれが丸山城。案内看板に従って進むと東側から回り込む車道が通っており、城の手前には駐車場もある(ただし未舗装)。

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ここから上がっていくと

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車を置くスペースもある

 駐車場から歩くとすぐに曲輪が連なっており、手前から二の丸、さらに堀切を隔てて本丸がつながっている。

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すぐそこに二の丸

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二の丸背後の堀切

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その先に進むと

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本丸

 

 その本丸からさらに深い堀切と狭い土橋を隔てて小さな祠がある出丸があり、そこに伊達稙宗の墓碑と城の紹介の看板がある。それによると伊達稙宗は息子の晴宗(政宗の祖父)と対立し、天文の乱と呼ばれる争乱になるがこれに敗北、隠居してこの城に押し込められ形になったようだ。なお稙宗の死後に、隠居料として支給されていた丸森他5村を稙宗の世話をしていた長女の嫁ぎ先の相馬氏がそのまま所領にしたことで、後の伊達氏と相馬氏の争いの原因となったとのこと。つくづくトラブルメーカーだったようだ。それにしても伊達氏は親子の対立のパターンが多い。

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本丸背後の深い堀切

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伊達稙宗の墓碑

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祠が建っている

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その裏手から参道もある模様

 丸山城はそう大規模な城郭ではないが、地方を押さえる城としては十分な防御力を有しているようだ。それだけに伊達氏と相馬氏での争奪戦になったのだろう。

 

金山城 伊達氏と相馬氏で争奪戦をした城

 丸山城の次は金山城を目指す。丸山の城から少し東に走るといかにもの山が見えてくるが案の定、それが金山城。ちゃんと案内看板も立っており、それに従って進むと駐車場まで案内される。

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案内看板が建っている

 駐車場には軽トラが3台。何か作業中かなと思っていたら、上から男性が一人降りてくる。ここ数日下草刈をしていて、その作業がようやく終わったところだとか。これはタイミングが良かった。ツイてる。

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駐車場に車を置いて徒歩で登る

 金山城は伊達氏と相馬氏の争いにおいて争点となった城の一つであり、輝宗の時に伊達氏に帰属することになったが、その後に大規模に改築を行ったとのことである。相馬氏との最前線の城として輝宗が重視したということだろう。

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城の案内図

 駐車場から登っていくと最初に出くわすのが米蔵と表記された曲輪だが、これが既にかなり大きい。

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最初に出くわす米蔵

 その先を登ると三の丸大手埋門後を抜けることになる。三の丸の奥には煙硝蔵と不動堂がある。

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三の丸大手埋め門跡を過ぎ

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奥に深い三の丸

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焔硝蔵

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不動堂

 そこからさらに登ると出丸があり、そこには陸橋跡との表記もある。どうやらこの出丸から陸橋で上の二の丸につながっていたようである。城の中心部分にはかなり複雑で堅固な構えがあったようだ。

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この上が二の丸と本丸になる

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右手の小高い部分が出丸

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陸橋跡の表記がある

 

 二の丸は本丸を取り巻く形になっており、本丸の東側にはかなり立派な高石垣が残っている。この城はここ以外には石垣らしきものは一切見られなかったのだが、ここだけ石垣を積んだのだろうか。なお二の丸の南側にさらに曲輪らしき構造があったが、その先は鬱蒼として進めなかった。

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本丸を取り巻く二の丸を裏手に回る

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立派な石垣が存在する

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裏手の馬場跡

 この上が本丸でそれなりの広さがある上に、広く辺りを見渡すことが出来、この地を押さえるにこの城は不可欠であることがよく分かる。

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大手門跡を登って

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本丸は意外に広い

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眺望抜群

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先ほどの出丸を上から見る

 かなり整備された大規模な城郭だった。ただ藪に埋もれている状況だと見学しても構造がよく分からなかった可能性があっただろう。そういう点では今回はラッキーであった。やはりこういうように適度に整備の手を加えてくれている城郭が一番ありがたい。

 

柴小屋城は登り口を見つけるのに苦労する

 金山城の見学を終えると次は柴小屋城。しかしこの城の登り口が分からない。先人の話によると小学校の北東の山が柴小屋城で、山上の八重垣神社に登るための道があるというのだが・・・。結局ウロウロするものの道は見つけられず、辺りに車を置く場所もないということでここはやむなく撤退することに。どうにもしまらない展開だなと思いつつ、車を進めてふと山上を見ると墓地の奥に展望台のような物が立っている。「あれは何だ?」と疑問を感じたので辺りを調べるとやはり展望台らしい。「もしかしたらあれに登ったら柴小屋城が見えるかも?」と思ったので、とにかく一度登ってみることにする。

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何やら上の方に展望台らしきものが見える

 その展望台は遊仙寺の墓地のさらに上にある。遊泉寺の駐車場に車を置いて墓地を登ってみると展望台まで登れるようになっている。いざ現地に到着してみると、展望台の裏手には明らかな車道があり、その奥には車を止められるだけのスペースもある。しかも柴小屋城の方向を示す案内看板まで。もうこうなったら進むしかない。柴小屋城まで600メートルというのが少々気になるが、ここまで登ってきたら後はほぼ水平移動だろう。

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登ってみると車道が通じていた

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そして背後に登城口が

 案内看板の最初のところは草が茂っていて先行きが思いやられるが、そこを抜けると普通に整備された山道に出る。そこからはいくらかの上下はあるが、思った通りほぼ水平移動になる。その内に空堀跡に出くわすので、そこから登っていった先が西館城跡になる。ここは元々は中世からある城で、この地の小斎氏が居城にしていたが、後に相馬氏に滅ぼされて相馬領になったのだという。

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鬱蒼とした先は山道

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途中にある窯跡

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大きな堀を超えて登った先が

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西館

 ここの東には堀切を隔てて土塁に囲まれた小さな曲輪がある。この曲輪の先が非常に深くて大規模な堀切で断ち切られていて、その先がいわゆる柴小屋城のようだ。なおこの辺りに関しては先人の記録では道なき道を危険を冒して降りていったらしいが、私の訪問時には草も刈られて足下にも階段が整備されているので、特に問題なく進むことが出来た。もし未整備だったら、私はとても進む気になれないほどの深さと急さである。

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西館の先を降りる

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その先に小高い曲輪が

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土塁に囲まれた小曲輪

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その先にももう一つ小高い曲輪が

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ここも土塁で囲われている

 

 大堀切を降りて登った先には搦手門跡の看板がある。ここからの東西に長い広い曲輪が二の丸とのことである。かなり広い曲輪であるので多くの建物が建てられたであろう。実際にはここが柴小屋城の中心の曲輪だろう。

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その先の大堀切

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大堀切から上がると

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搦め手門跡が

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そして奥に深い二の丸

 二の丸の東端に陸橋跡との表記があり、その先に堀切を隔てて本丸がある。かなり鋭くて深い堀切なので、往時にはこの上に取り外し可能な橋が架けられて接続していたのだろう。

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二の丸東端に陸橋跡があり、その先が本丸

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二の丸と本丸の間の堀切

 本丸は二の丸よりはやや小ぶりの曲輪で、今は八重垣神社になっている。周囲は切り立って険しく、かなり堅固に守られている。なお現地の看板では大堀切の西側が西館城、東側が柴小屋城で、両方を併せて小斎城というような表記があったのであるが、とりあえずここでは全体を柴小屋城と呼んでおくことにする。

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本丸跡

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本丸にある八重垣神社

 柴小屋城は比較的小振りな城郭だったが、堀切の見事さが印象に残った。堀切と土塁を組み合わせた結構複雑な構造を持っており、見所は多々であった。なお先人の話では「藪が多くて進むのに苦労した」との話があったのだが、今回訪問した様子では明らかに最近に整備された跡があった。丸山城といい、金山城といい、柴小屋城といい、近年に急に整備されたような印象がある。お城ブームに乗っかって観光を仕掛けようと考えた者がいるのだろうか? まあ何にしろ私はありがたいことであった。

 

船岡城 伊達騒動の原田氏の居城

 これで城郭4つであるが、さらにもう一カ所船岡城を目指す。船岡城自体は古い城郭らしいがその由来は定かではない。江戸時代には伊達家の家老の原田氏の居城だったらしいが、この原田氏が有名な伊達騒動で断絶、その後は柴田氏が領主となって明治維新を迎えたとのこと。なおこの伊達騒動を題材にした作品が有名な山本周五郎の「樅ノ木は残った」である。

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城址公園案内図

 船岡城は街を見下ろす小山の上にある。現地は城址公園として観光整備されているようで、あちこちに「樅ノ木は残った」の関連の看板などが建っている。どうやら件の小説がNHKでドラマ化された頃に、地元が気合いを入れて観光整備した模様。ただそれが徒になって城址としての面影がほとんどない。

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完全に公園化している船岡城

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山頂には平和大観音像が立つ

 山上の駐車場から少し降りたところに三の丸広場があるが、ここも今では単にだだっ広いイベント広場。また山上には平和観音像なる巨大な観音像が建てられており、そこまではスロープカーも通っているとか。

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三の丸広場

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ただの広大なイベント広場である

 駅に近い側には「樅ノ木は残った」の樅ノ木が立つ展望台などもあるようだが、もう時間もないしあまりの状況にゲッソリしたのでさっさと次の目的地に移動することにする。観光整備に悪い意味で気合いを入れすぎた典型的な例で、これでは「樅ノ木は残った」ではなくて「樅ノ木だけが残った」である。観光整備がされすぎていて既に何が何やら分からない状態。適度に手が入るのは見学しやすいので大歓迎だが、ここまで手が入りすぎると最早城跡には見えない。かなり残念。

 

 山城関係はこれで予定通り大体回ったが、最後にまだ一カ所と街並み見学が残っているのでそちらに向かうことにする。