起床は7時。今日から令和元年とのことで、テレビは相変わらずどうでも良いよう内容ばかり。とりあえずドタバタと身支度をすると朝食へ。朝食はオーソドックスな和食だが、食欲がイマイチの割には結構しっかりと食える。
部屋に戻るとシャワーを浴びてからチェックアウト。天気予報によると今日は午前中はどうにか天候が保つが、午後からは雨との予報。これは早い内に行動をしないといけない。
今回の予定は遠江地域の山城攻略。以前にこの地域を回った時に未訪問になっている宿題の解決である。
横地城 国指定史跡の断崖上の城郭
最初に向かったのは横地城。鎌倉時代からこの地を拠点にしていた横地氏が築いた城郭で、国の史跡に指定されているという。以前にこの地域をウロウロした時には、私の事前の調査不足でこの城郭の存在を知らなかった次第。
現地に近づくと大きな看板が出ており、それに従って走ると絶壁の下の駐車場に案内される。横地城はこの絶壁の上とのこと。すぐ近くに登山道があり、そこを登ると10分とかからずに千畳敷の広場に出る。城の中心となる広いスペースである。なおここまで車道が通っており、確かにそう広い道ではないが、私のノートなら問題なく走れそうだ。体力に自信のない者なら車でここまで来たほうが良いだろう。ただヘロヘロの私でさえここまで登れたのだから、特に体に問題のない者ならこの城の堅固さを体感するという意味でも下の駐車場から歩くことを勧める。
このすぐ北に横地神社と西の城があるが、これは後回しにしてこの城の本郭である東の城を目指す。途中で中の城の脇を通るが、ここは東の城に向かう敵を食い止めるための関所のような位置づけ。通路が一列縦隊にならざるを得ない幅なので、完全に中の城から狙い撃ちされることになる。
中の城の脇を抜けて細い通路を進むと目の前に東の城がそびえ立つ。中の城を何とか突破しても今度は東の城から狙い撃ちされることになっており、とにかく堅固である。東の城に登る通路は回り込んだ上に折れ曲がっており、横っ腹を何度も狙い撃ちされる構造になっている。
東の城は本郭とのことだが、見晴らしは良いもののそう大きなスペースではない。この東に牧ノ原台地にまでつながる一騎駆というまさに一騎しか通れない道が続くが、これも東の城から狙い撃ち。構造的には本郭と言うよりは東側の防御の拠点という気がする。
なおこの東の城の奥には井戸のある曲輪もあり、搦め手口のような構造も見える。もしかしていざという時の避難路?
再び千畳敷のところまで戻ってくると、今度は西の城に登る。ここは複数段の曲輪になっており、最上段の神社が建っているところが西の城。城全体を見渡せる位置にあり、下には大兵力を展開できる千畳敷。どちらかと言えばこちらが本来の戦闘指揮所ではという気がする。
千畳敷からさらに西に進むと非常に深い谷を回り込むことになる。この谷には金玉落しとの名称があるが、ビビって男の玉を落とすという意味かと思っていたらさにあらず。昔、この城の兵隊に対する訓練として、ここに金の玉を落として直ちにそれを拾ってくるというものがあったそうな。断崖を駆け下りて足腰と度胸を鍛えるという訓練だろう。しかしこれは命がけだ。
私はここから丑池の横に出るルートで降りてきた。このルートも見上げるような絶壁ばかりで圧巻である。総じて言えるのは、この城の周囲はとにかく断崖であるし、各曲輪を結ぶルートは細くて曲輪から狙い撃ちされるようになっており、標高の割にはとにかく堅固な構えの城であるということ。
とにかく見応えのある城郭であった。私の私撰100名城Aクラスと言ったところだろう。これは令和初っ端からついている。令和は私にとって実り多い時代となりそうである。
八幡平城 武田式の堀切などが見られる山城
横地城の見学を終えると次は八幡平城を目指す。こちらは先の遠征の際に登城路を登り始めたものの、道の悪さと険しさと時間と体力に余裕がなかったことから撤退した城郭である。
八幡平城はこの地の領主の新野氏の詰城だったものを、1578年頃に武田軍が高天神城の軍道の押さえとして改修したものだという。想慈院の手前に看板と駐車場があり、そのすぐ近くに大手口の登城路がある。茶畑横のかなり急な道を歩くが、舗装してあるところを見るとここを軽トラが登るのだろう。さすがに軽トラ最強伝説。
登城口から5分もかからずに分岐点に到着。ここから西に進むと馬場を過ぎて堀切にまで到達する。こんな高台に馬場?と思うが、当時の日本馬は背丈が低くて斜面に強い馬なので、このぐらいのところは上り下りしたかもしれない。現在のサラブレッドがスピードに特化したフェラーリだとしたら、当時の日本馬は最強の実用車・軽トラのようなものだから。
分岐点に戻ってさらに進むと、横堀に沿って進む形になる。この上が本丸。本丸はかなり広いスペースであり、多くの兵力を置けそうである。直虎記念の植樹の跡などもあり、あの番組がきっかけで整備されたことがよく分かる。
ここから奥の曲輪を経由して想慈院の墓地に降りてくるルートが帰りルートになるが、こちらは比較的気軽に登れたここまでのルートと違い、深い堀切を降りたり上がったりする登山ルート。本郭の奥からいきなりかなり深い堀切で尾根筋を断ち切ってある。こちらは一応ハイキング装備ぐらいはしていないといけないルート。見応えはあるがなかなか大変である。
何度も堀切を降りたり登ったりしてヘトヘトになって何とか無事に想慈院の墓地までたどり着いた。思うに先の訪問の際、大手口ルートから進んでいたら多分途中で断念することはなかったろう。ただ問題は帰路。あの時の大分体にガタが来ている状態であの堀切の上り下りは、どこかで思わぬ不覚を取る可能性がかなり高い。やはりあの時の撤退の判断事態は正しかったか。
相良城 田沼意次が築いた広大な城郭
大きな宿題はこれで解決したので後は掃討戦である。次に立ち寄ったのは相良城。老中まで出世した田沼意次が居城にしていた城郭である。
ところで私は歴史上でもっと正当な評価をされるべきと以前より唱えている人物が三人いる。一人は石田三成、二人目は明智光秀、そして三人目が田沼意次である。この内、石田三成はここ最近に急激に再評価が進んできたようだし、明智光秀についてもとうとう大河ドラマの主人公に決まったようである。となると後は田沼意次。賄賂政治家の代表のように言われるが、あれほどの濡れ衣はないと考えている。田沼が目指したのは重商主義であり、初期資本主義そのものであった。しかしそれは重農主義にガチガチに染まった保守派には理解できるものでなく、結局は田沼を汚名を着せられた挙げ句に失脚に追い込まれている。私は幕府を立て直せる可能性があるとしたら田沼の路線しかなく、あのまま田沼路線を突き詰めていれば、日本は広く海外に進出して、明治維新を向かえずに近代国家へ歩み出すことになってまた違った歴史が展開していただろうと考えている(海外での覇権を競ってイギリスと争うなんてこともあったかも)。実際に田沼に変わって権力を掌握した松平定信による寛政の改革は、時代とズレがありすぎて完全に失敗している。
相良城は老中に出世した田沼意次が築いた城郭で、大規模で天守閣まである立派な城郭だったらしいが、田沼意次の失脚後に徹底して破壊されている(この辺りに田沼に代わって権力を握った松平定信の陰湿さが現れているのだが)。その結果として現在は城の遺構は全く残っておらず、本丸跡に史料館があるのみである。ここの史料館では相良地域の歴史や文化を紹介する資料が多数展示されている。
現在小学校があるのが二の丸跡で、高校があるのが三の丸跡とのこと。辛うじて城の遺構と言えそうなものは、小学校の松林が生えているところが二の丸土塁跡と言われていることと、仙台河岸と言われる船着き場の跡ぐらいである。
相良城を後にすると次の目的地へと向かうが、その途中で昼食を摂る店を探す。「そばの岩久」という店を見つけたので入店。「カツ丼」を頼む。
添えられているそばが非常に美味い。これはそばをメインのメニューにするべきだったと後悔。カツ丼については味付けが私の好みからはやや甘すぎるのが残念。結局は食欲が今ひとつなこともあって、丼は全部は食べられず。
田中城 今は完全に市街に埋もれた同心円状の平城
昼食を終えると近くの田中城を目指す。田中城は今川氏が徳川に対抗するために築いた城郭であるが、徳川の世となってからは代々譜代大名が支配している。なお徳川家康が鯛の天ぷらを食べて体調不調になったというのはこの城郭においてだという。
本丸を中心とした同心円状の構造を持つ珍しい城郭であるが、廃城後に城域は完全に市街に埋もれてしまった。ただ今でも住宅の並びなどにかつての縄張の痕跡はある。なお本丸に建てられていた物見櫓が、公園として整備された下屋敷の中に移築されている。
持船城(用宗城) 駿府の西を守る拠点の山城
田中城の次は持船城(用宗城)に立ち寄る。持船城は築城年代は不明だが、戦国の今川時代には既に築城されていたという。今は内陸化しているが当時は海に面した城であり、山上にある水軍城だったらしい。要地であるため、今川・武田・徳川の三者で三度の攻防戦がなされたという。
山に登る険しくて狭い車道があり、途中の駐車場に車を置いてから歩くことになる。ただ計算違いは思っていたよりもその山道が険しかったこと。またこの頃になるとギリギリ保っていた天候も完全に崩れて雨の中で足下がやや不安。これが完全に私の足腰にとどめになってしまった。
山上は開けた曲輪になっており、静岡方面をはるかに見渡すことが出来る。ここは静岡の西の入口に当たる場所で、ここが落ちれば駿府まで障害物は最早安倍川ぐらいしかない。今川氏としては死守する必要のある城郭だったろうと思われる。
堀切を隔てて南側に曲輪らしきものが見えるが、雨がまた強まってきたこの天候の中で安全に登るルートが見つからなかったので、そちらの視察はやめておく。
静岡市に到着したが、まだ少々時間がある。そこでホテルを通り越してもう一カ所だけ立ち寄ることとする。しかし市内に到着した途端に一般道が大渋滞で、現地に到着した時には閉館時刻まで余裕がない状態。
「屏風爛漫」静岡県立美術館で5/6まで
屏風は日本独自の建具であり芸術品である。その屏風の立体的大画面を利用した作品を展示。
展示品としては当館の目玉の一つである伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」。なぜか方眼を用いた独特の作品であり、若冲の奇想の一つの極致でもある。またその煌びやかで目を剥くような色彩も非常にインパクトの強さを持っている。まさに屏風という大画面で映える作品。
またひたすら鶴の群れを描いている石田幽汀の「群鶴図屏風」なども以前に目にした若冲の群鶏図屏風などと比較すれば面白い。また会場内には「武蔵野図屏風」を畳に座って低い視点から眺めることが出来るコーナーなどがあり、これが面白い。この視点から見ると絵がこちらに迫ってくるような迫力がある。
屏風の特徴としては単に大画面と言うだけでなく、その折れ曲がりを利用して絵に奥行きをつけるという効果もある。巧みに設計された風景画などの中には非常にそれを上手く利用した作品もあり、その辺りも注目に値する。
これで今日の予定は終了したのでホテルに向かうことにする。今回宿泊するホテルは静岡ホテル時之栖。静岡の市街のやや東にあるホテルで系列に日帰り入浴施設もあるらしい。ホテル自体はフロント業務をかなり簡略化したビジネスホテルという印象。系列の日帰り入浴施設「天神の湯」で安く入浴できるのが売り。
例によって全身汗だくのドロドロなのでまずは風呂に行くことにする。天神の湯は徒歩3分ほどのところにある。地元で人気があるのか大勢の客で賑わっている。なおこちらにも宿泊設備があるようなので、最初からこちらに宿を取るという方法もあるようである。浴場は一応温泉とのことだが、ナトリウム-カルシウム-塩化物泉とのことなので湯自体は大した特徴はない。しかし風呂が広くて設備も良いのでなかなかにくつろげる。
風呂でサッパリした後は、この施設の二階のレストランで夕食を摂ることにする。頼んだのはざるそばとマグロ丼のセット。まあ可もなく不可もなくというところで、この手のスーパー銭湯の施設にしては良いほうでは。ついでに飲み物として日本平ソーダなるものを追加注文。どうやらソーダにミカンが入っているようで、やたらに酸っぱい飲み物である。
さて他に何かないかとメニューをひっくり返していたら「薬膳餃子」なるものが目に飛び込んでくる。これを見ていると「人参餃子」消化促進、目のかすみ、視力低下、胃がん予防、美肌維持に効果的とのこと。この症状は正に私そのもの。これは注文しない手はなかろう(笑)ということで注文。出てきた餃子は結構オーソドックスで、特に変な味がするというわけではなくにんにくが入っていない分、むしろ私には食べやすいぐらい。さてこれで私も10年ぐらいは長生きできるようになったか(笑)。
食事を終えるとマッサージチェアで思い切り体をほぐしてからホテルに戻る。こうなるとここ2日ほど体を酷使したツケで強烈な眠気がこみ上げてくる。この日も部屋に戻るとかなり早めに就寝することとなった。