竹田に向けてインプレッサで突っ走る
昨晩は目覚ましもろくに合わさず、まさかチェックアウトの10時まで寝続けることはなかろうとひたすら眠気に任せたところ、朝6時まで爆睡したところで目が覚めた。身体にだるさはあるが体調は悪くない。
とりあえず昨日書きかけていた原稿をざっとまとめてネットにアップすると、朝風呂を浴びに行くことにする。旅行での一番の贅沢と言えばやっぱり朝風呂である。しっかりと体を温めると朝食に繰り出す。本来はビュッフェのはずなのだが、ご時世柄和定食に代わっている。まあ特にどうというわけでもないが、結構おいしかった。白飯とサケの切り身が無性に美味い。
朝食を終えると原稿の続き。つくづく私の遠征は常にワーケーションである。だから遠征の時は何はともあれPCとポメラは欠かせない。この日はあまり多くの予定は入れていないので、チェックアウト時刻の10時近くまで部屋でつぶす。
さて今日の予定だが阿蘇に向かうつもり。今まで阿蘇は数回訪れているが、そのたびにお山と縁がなかったようで火口見学ができていないので、今回こそはその長年の宿題を果たすつもり。ネットで調べたところ今は見学に規制がかかっていない模様。ただ阿蘇だけだと時間がかなり余るので、通りすがりに竹田によるつもり。岡城はかなり以前に訪問しているが、とにかくもう詳細は忘れてしまっているので、再訪したいと考えている。
竹田に向かっては山道を突っ走ることになる。道路が整備されて道幅が広いところではインプレッサは快調に走行する。とにかくエンジンのパワーが違うので、ノートだったらエンジンがヒーヒー言うような速度が軽く出る。ただ突然の山道狭隘区間に突入。こうなると3ナンバーのインプレッサは横幅の広さが気になるところ。まあ数台が連なっての走行の一番最後についていく状態になったので、対向車が来た時も既にあちら側が避けていたが。車幅がノートと違うので、運転していたらどうしても左側が不安だ。
大分疲れたころに竹田に到着。岡城を目指すが、かつての城下町の名残で道幅の狭い竹田市街の走行が実は一番の問題だったりする。普段コンパクトカーに乗り慣れている私としては、とにかく車幅が気になるのと、小回りが利かないのがこういう時にはつらい。やっぱりインプレッサは道路をブイブイすっ飛ばしてこその車のようだ。
岡城を見学する
路地やトンネルを抜けると岡城駐車場に到着する。岡城は見学が有料なのでここで料金を支払う(300円)。そのついでに杖用の竹竿を借りていく。以前の訪問時はここで城の案内の巻物をもらったのだが、今は経費節減でリストラされてしまったようだ。
ここからまずは大手門のところまで回り込むが、見あげるようなすごい自然崖。そこに無理矢理に登り道をつけている感じ。恐らくこれがないとこちら側からの攻略はほぼ無理だろう。もっともこんなところをズラズラ登っていたら、上から狙い撃ちされるのは間違いない。
厳重な作りの大手門を抜けると、左手は屋敷などがあった西の丸の方向になるが、そちらの見学は後にしてまずは直進して本丸の方向に向かう。
三の丸の入口のところが太鼓櫓門であり、極めて厳重で大規模な虎口となっている。ここを突破するのはかなり困難であることが構造から推測される。
二の丸と本丸を回る
三の丸を奥に進むと二の丸でここに滝廉太郎の銅像がある。彼は「荒城の月」を作曲する時にこの城をイメージしたとされている。なお作詞の土井晩翠がイメージしたとされているのは仙台の青葉城だとか会津若松の鶴ヶ城だとか言われており、鶴ヶ城には土井晩翠の歌碑が建っている。
その二の丸からさらに一段上がった最高所にあるのが本丸。かなり広さがあるが今は神社が建てられている。また手前の隅に御三階櫓が建てられていたと言われており、これが天守であったと言える。一番奥には金倉櫓があり、その先はかなり切り立った高い石垣となっている。東の部分を見下ろす構造になっており、裏口である東門(元々はこっちが大手だったという)方面に対して鉄壁の守備を誇っている。
東側の見学をする
東側にも行ってみるが、こちらは廟所を中心とした大きな曲輪が連なっており、かなり多くの兵力を置くことが出来る。その先にある東門も相当に厳重なものであり、こちらがかつての大手であったということは納得できる。この城の防御の弱点ともなりかねない箇所なので防備は厳重である。
西の丸は実に広大
東側の見学を終えると次は西の丸方面の見学に向かう。岡城は元々は東の部分だけであり、後にこの西の丸方面が屋敷として作られると共に大手もこちらに移したとのことだが、とにかく規模が大きい。西の丸などは屋敷を建てるに十分どころか、ちょっとしたグラウンド並みの広さがある。こちらには巨大な曲輪が数段に渡って広がっており、屋敷が建ち並んでいたんだろうと言うことが想像できる。
西の丸方面を見学すると、これまた厳重な近戸門を通って七曲がりを下りて駐車場に戻ってくる。この七曲がりの道もかなり険しく、元々の道はもっと狭い山道だっただろうと思われることから、近戸門の厳重さを考えてもこちらから攻めるのもなかなか困難だろうと思われる。
岡城は島津の軍勢を退けた不落の堅城と言われているが、確かにそもそも堅固極まりない天険の地形を活かして「こんな城、どうやって落とせばいいねん」と言いたくなるようなこれでもかとばかりの堅城である。しかも近世になってから拡張の上に総石垣の見事な城に改築されており、見るだけで圧倒される雰囲気がある。私も久しぶりに石垣を腹一杯に堪能した。
竹田市歴史文化館と竹田荘を見学する
石垣で満腹して下りてくると、竹田の市街を見学することにする。竹田市歴史文化館に車を置くとまずは歴史文化館の見学。内部は岡城に関する展示と田能村竹田に関する特別展、さらには地元の美術同好会のギャラリー展示といった内容で、歴史博物館+民俗資料館に美術館まで同居というような施設。映像で岡城の歴史を紹介してあったのと、なぜか中川氏が所蔵していたというキリシタン遺産のサンチャゴの鐘が展示されている。
さらにはこの裏手の高台には田能村竹田の邸宅だったという竹田荘がある。いかにも落ち着いた日本的建築である。田能村竹田はここで頼山陽など多くの学者と親交を深め、さらには門下生なども抱えていたという。なお田能村竹田の作品自体は歴史文化館に展示してあるのと、大分市立美術館などにも所蔵品がある。
武家屋敷通りを散策
竹田荘の見学後は下に降りて来て、竹田の武家屋敷通りを散策。竹田の街並みには明らかに旧城下町の雰囲気や風情は残っているのだが、建物自体は意外に建て替わっていて、往時を偲ばせる建造物はこの一角に一部残るのみのようである。
武家屋敷通りの散策後は但馬屋老舗本店に立ち寄り、夜食用の和菓子を購入する。なかなか落ちいたよい雰囲気の店で、喫茶営業もあるようなので時間があればそっちにも立ち寄りたかったのだが、これから阿蘇に移動して火口を見学することを考えるともう時間の余裕がないので先を急ぐことにする。
岡城が余りに立派すぎて予想の倍以上の時間を竹田で費やしてしまった。石垣でお腹いっぱいだが、実のところはそろそろ空腹である。ただ私が歩き回った範囲には昼食を摂るに適当な店も見当たらなかったことから、竹田を後にすると阿蘇を目指すことにする。