徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

読響大阪公演で、ヴァイグレの指揮と辻井のピアノを鑑賞する

夏休み明けのライブ第一弾は読響大阪公演

 長い夏休みのコンサート休止シーズンが終わって、そろそろ秋のコンサート目白押しシーズンの到来である。とは言うものの、コロナの状況は相変わらず良くない。私は既に4回目の接種を終えた状態であるが、ワクチンの感染予防効果については気休めだとか、ワクチン接種することで逆に抵抗力が落ちて病気になりやすくなるとか、諸説紛々でその真相のほどは誰も分からない状態。

 しかしいつまでも籠もっていてもきりがないという感も強い。あえて出かけて経済を回せなどという経済至上主義者では私はないが、チケット抱えた状態(春の時点で大半のチケットを既に押さえている)でお籠もりを続けるのは精神の方を病みそうである。そこで今週のコンサートについては、移動を車にして最大限感染予防に配慮した上で実行することにした。今日のコンサートは読響大阪公演の2回目である。ヴァイグレの指揮で「英雄の生涯」ということ。とりあえずヴァイグレがどのような指揮をするかに注目というところか。

 月曜日の仕事を早めに終えると、大阪まで阪神高速を突っ走る。とにかくこの道路は状態がコロコロ変わるので時間を読めないのが困りものだが、今回は思いの外スムーズに走行できたおかげで、駐車場予約時間まで1時間ほど残した状態で到着ということになってしまった。仕方ないので駐車場付近で路駐してタブレットに落としてきた諸番組を倍速再生で目を通しながら時間をつぶす。回りを見渡すとやけに駐車車両が多い。どうも全体的に人出が多い印象。

夜のフェスティバルホール周辺

 

 

いつものラーメンを食ってからホールへ

 ようやく予約時間になると駐車場に車を入れてホールに向かうが、そのまえに腹ごしらえである。あまり時間がないのでいつものようにフェスティバルゲート地下の「而今」でラーメンをかき込んでいくことにする。注文したのは「あさり塩そばの麺大盛り(1100円)」。

いつもの「而今」

 いつもの細めの麺にサッパリとしながらコッテリ感のあるスープが絡む。やや生臭みのあるアサリの出汁は好みの分かれるところか。貝類が好きな私にとっては美味いスープだが、これを美味いと感じるかどうかは貝類との相性で決まるというところ。

あさり塩そば

麺は細めのしっかりしたもの

 夕食を手早くかき込むとホールへ。かなり大勢の観客がゾロゾロと入場中。読響は常に大フィルなんかよりは客が多いが、それにしても多い。妙な感じだなと思っていたら、改めてホールの前でポスターを見て納得した。「そう言えば、今日はソリストは辻井君だったっけ・・・」。いつもオケコンではあまりソリストを意識しない私は、今日の公演はヴァイグレの指揮という認識しかしてなかったが、ソリストが辻井となったらそりゃ大勢来るわけだ。相変わらず辻井の客寄せパンダ効果は衰えるところがないようだ。場内はほぼ満席であり、これはチケットは完売御礼ではと思われる。なおテレビ放送があるらしく、複数のカメラがステージに入っている。

ソリストは辻井伸行

 

 

読売日本交響楽団 第33回大阪定期演奏会

ステージ上にカメラが入っている

指揮/セバスティアン・ヴァイグレ
ピアノ/辻井伸行
曲目/レズニチェク:歌劇「ドンナ・ディアナ」序曲
   ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番
   R. シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

 一曲目のレズニチェクは私にとっては初めての曲。ややゴチャゴチャとした楽しげな曲であるが、ヴァイグレはそれをゴチャゴチャしたままに演奏というところ。しかもややテンポがアップ気味だったので、読響もいささか忙しそう。音が団子のようにこちらに押し寄せてくるという印象の演奏だった。

 二曲目が辻井をソリストに迎えてのベートーベン。以前から私は、指揮者とのコンタクトに難のある辻井の演奏は、協奏曲になるとどうしてもやや窮屈になると感じているが、今回ももろにそれが現れていたように思われる。演奏自体がどうも常に前につんのめる感じで、若干のギクシャクさを感じる。どうもヴァイグレと完全に息が合っているように感じられない。同じギクシャクさはヴァイグレの方にも感じられ、最初の序奏部のオケが自由に鳴らしている部分と、ピアノが入ってからの演奏に若干の変化が感じられる。

 結局は双方が互いに合わせることに最大の力点を置いてしまったためか、特に辻井のピアノ演奏についてタッチの単調な一本調子の演奏という感を抱かされてしまった。やや硬めのタッチで淡々と弾き流してしまったように感じられ、今ひとつこちらに迫ってくるものがないニュアンスのない浅めの演奏に思われた。

 万雷の拍手に応えての辻井のアンコールが素晴らしかったために、余計に協奏曲のぎこちなさを感じることにつながる。アンコール曲は私の知らない曲(辻井の自作かも知れないが、そもそも私はピアノ曲に詳しくないので分からない)だったが、そこで繰り広げられた辻井のタッチの多彩さ、音楽の深さは先ほどの演奏とは全く別次元であった。協奏曲ではソロ演奏と異なって大なり小なり制約はかかるものだが、やはり彼の場合はその身体的ハンデもあって、その差が極端に思われる。これは致し方のないことなので、私は以前から辻井を協奏曲に起用するのには疑問を感じ続けているのである。辻井が伸び伸びと演奏した上でオケと完全にシンクロさせるためには、どうしても相手指揮者と曲に制約があるのではないかというのが私の考え。

 休憩後の後半はヴァイグレによる「英雄の生涯」である。ヴァイグレと読響はR.シュトラウスによる華麗なる音楽絵巻を、まさに鮮やかにメリハリの効いた演奏でダイナミックに繰り広げてくれる。

 そういう点では特に難点もなくさすがに読響サウンドと言える演奏なのであるが、私としては正直なところやや物足りなさを感じてしまうのである。客観的に十分に合格点な演奏なのは間違いないのだが、こちらとしてはやはりそこにプラスアルファを期待したくなるのだが、そういうのが全くないのである。だから「うん、上手いな、綺麗な」と思いつつも、音楽が感情の表層を流れていく印象で、深い部分にグッと絡みつくというか食い込んでくるものがない。むしろもう少しアクのようなものがあった方がこちらに刺さってくるものがあるように思われるのだが、そういうところが全くなくて妙に優等生的なのである。

 と言うわけで「客観的に言えば悪い演奏ではないはずなんだが、何か個人的には食い足りない感が最後まで残った」という非常に歯切れの悪い感想にならざるを得ないのが今回のコンサートであった。これについては明らかに私の趣味の領域に属することなので、別に今回の演奏を「素晴らしかった、最高だった」と感じる人がいてもそれはそれで別におかしくもないし、私も文句をつけるつもりはない。まあ単に私の趣味があまりに下品に過ぎるだけなのかも知れないが。


 なお今回のコンサートで、辻井のアンコールの直後に大声でブラボーを叫ぶ馬鹿がいた。まあブラボーを叫びたくなる演奏であるのは分かるが(ブラボータオルを振り回しても辻井には見えないし)、やはりこのコロナ禍でコンサート主催側も最大限の警戒の元で開催しているのだから、ルールは守るべきである。なぜそこでその気持ちを拍手で示すことができないのか。まあこのような歪んだ自己顕示欲に支配されている者が最近は増えているのに暗澹たる気持ちになるのだが。なお当然のように、後半開始前の場内アナウンスではわざわざ「ブラボーなどの大声はお控えください」という注意が念入りに流されたのである(本来は即刻退場させるべき)。