最終日は京都へ
翌朝は目覚ましで7時に起床。完全寝不足だった昨日と違い十分に睡眠を取ったはずなのであるが、朝から身体が重くて動かない。やはり流石に昨日いろいろと走り回りすぎたようである。どうも年齢のせいか無理が利かなくなってきている。
とりあえず昨日の帰りに買い求めたパンを朝食として腹に入れると、活動開始のための体温上げにシャワーを浴びる。年齢と共に変温動物化してきた昨今は、とりあえずこうやって体温を無理矢理に上げてやらないと朝一からはエンジンがかからない。
さて今日の予定であるが、これから京都に移動、本日14時半から京都コンサートホールで開催される京都市交響楽団の演奏会に出向くのがメインの予定である。もっともわざわざ京都くんだりまで出向くのであるから、当然の如く京都地区の美術館を回りたいという腹づもりもある。もっともこれは時間次第。しかも今の京都はオーバーツーリズム状態で交通はかなり混乱している可能性もある。もう出たとこ勝負である。
まずはホールから一番遠い福田美術館を訪問することにする。大阪-京都間が渋滞する危険も考慮に入れて、通常なら1時間もあれば到着するはずのところを1時間半を見込んで出発する。途中の高速は思いの外順調で、京都縦貫道の大原野ICで降りたときには9時過ぎぐらいだったので「こりゃ現地到着が早くなりすぎるかな」と思ったのだが、大変なのは高速を降りてからだった。嵐山手前から渋滞アフター渋滞のトロトロ運転が続き、駐車場に車を置いた時にはもう美術館開館時刻の既に10時直前になっていた。
なおこの時期の嵐山はまさにオーバーツーリズム状態そのもの。そして周辺の駐車場は軒並み満車で、周辺に商機を見たにわか駐車場が登場すると共に、元々の駐車場も軒並み価格を大幅に上げていて、大体相場は1日2000円という超ボッタクリ価格である。美術館訪問のためにたかだか1時間ちょっと停めるだけの私は、とてもそんなボッタクリ価格を払う気にはなれず、結局は美術館から徒歩10分ほど離れた普通の価格のコインパーキングに車を停めて延々と歩くことになる。おかげで美術館に到着したのは開館時刻を少し過ぎた頃である。
「ゼロからわかる江戸絵画 ーあ!若冲、お!北斎、わぁ!芦雪ー」福田美術館及び嵯峨嵐山文華館で'24.1/8まで
江戸時代に大活躍した伊藤若冲、円山応挙、長沢芦雪らに加え、浮世絵の葛飾北斎など蒼々たる面々の作品を集めて展示する。
福田美術館でまず最初に登場するのは精密写生の鬼こと円山応挙の作品。最後は今人気のモフ図まで含めて展示してある。
次は円山応挙の弟子である長沢芦雪。応挙とは少し異なる個性が光る。そして芦雪風モフ図も登場。
そして江戸時代の奇想の画家と言ったら忘れてはいけない曽我蕭白も登場。独得のシニカルな雰囲気の虎がいかにも彼らしい。
そして最近人気急上昇の奇想の画家・伊藤若冲も登場。達人技の墨の暈かしを生かした鯉図や、青物問屋の主人だった若冲らしい作品に、さらには若冲と言えば忘れてはいけない鶏の絵も登場する。
階を変えて第二展示室は狩野派や琳派による大型の屏風が登場。狩野派から発して、狩野派の最大のライバルとなった長谷川等伯の作品が登場。精神性の強い作品から、装飾性の高い作品まで幅広くこなす等伯の装飾性に富む作品である。
そしてその装飾性を引き継いだ琳派を代表する絵師が尾形光琳。その光琳がその装飾的な画風を確立する前の、若き頃の作品が展示されている。
会場を嵯峨嵐山文華館に移すと、こちらに登場するのは葛飾北斎の肉筆画。まずスパイダーマンを思わせる大天狗に始まり、美人画など。
こちらの会場は浮世絵系の絵師の作品が展示されており、勝川春章の作品なども展示されている。結構個性が強いのが祇園井特の作品。
上階の座敷には広重の東海道五十三次が展示されていたが、これについては今更感もある。
なかなかに堪能出来る展覧会であったが、それだけに見学に結構時間を費やしてしまった。次の予定を実行するかどうかが時間が微妙なところである。次に考えていたのは東山地区の京セラ美術館と国立近代美術館の栖鳳絡みの展覧会。とりあえず東山に向かって走り、現地到着時間や駐車場の空き状況で判断、時間が足りないかもしくは駐車場が空いていなかったら諦めてホールに直行しようという考え。
まあ予想通りであったが、京都の市街は車が混雑していてつかえつかえの走行となりストレスが溜まる。時間がないからもうこの際は昼食を抜いたとして(私の遠征では昼食抜きの局面が意外に多い)、開演が14時半からであることを考えると、東山を遅くとも13時半には出ないとこの車の多い状況下では移動がヤバいと計算する。そして現地に到着したのは12時前。非常に時間的に微妙で判断に悩むところだが、京セラ美術館の駐車場がたまたま空いていたことから、これぞ天佑と考えて訪問を決定する。
どうやら駐車場が空いていたのは本当に偶然のタイミングだったようだ(私が停めた途端に満車)。とにかく時間が惜しいのでまずは小走りで京セラ美術館へ。
「竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー」京セラ美術館で12/3まで
明治以降の京都画壇を代表する巨匠、竹内栖鳳の作品を一堂に集めて展示。まずは初期の伝統的な日本画の流れを汲みつつも、新しい時代の方向を模索する時代の作品から始まる。この時代の作品は卓越した技倆を見せつつも、まだ突き抜けた個性は発現していない。
また海外に取材した作品が登場。非常に珍しい栖鳳の油彩画も展示されている。なお今回展示された「羅馬遺跡図」は新発見のものとか。さらには栖鳳と言ったときにすぐに連想される迫力のある虎の絵なども登場する。これも動物園で実物を見て描いたものだとか。
そして伝統の日本画を破壊して新たな絵画を作るべく奮闘した時期の作品。ここでは重要文化財となっている有名な「絵になる最初」が展示されているが、その下絵も合わせて展示してあるのが特徴。絵心皆無の私には得られる情報は少ないが、そちらの心得のある人物なら多くの情報が得られるのでは。
晩年はなぜか動物の絵が増えていくのだが、ここでも下絵と合わせて展示してあるのが特徴。
かなり物量的にも圧倒的な栖鳳ワールドが繰り広げられた。私は時間の関係で30分もかけずに駆け抜けた感じであったが、それはいささか勿体なく感じられたところ。
栖鳳の見学を終えると向かいの国立近代美術館へ。こちらでは「栖鳳、松園に続く新世代たち」と銘打った展覧会が開催中。
「京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち」京都国立近代美術館で12/10まで
明治以降の京画壇を代表する画家たちの作品を展示している。中心と据えられている画家はまず土田麦僊であり、その独特の空気のある作品が楽しませてくれる。
そして麦僊の絵画を見ていると、次に来る小野竹喬の作品が確かにここまでの正当な流れを汲んでいるよなということが納得出来たりする。なお竹喬だけでなく、榊原紫峰や野長瀬晩花など百花繚乱。その中で一人異彩を放っている秦テルオの尖った表現なんかも目立つ。
そして大正となると甲斐庄楠音や岡本神草などのデロリとしたグロテスクさも秘めたインパクトの強い絵画が登場する。
そのような時代の変遷のある中で、一貫して自らのスタイルを貫いている竹内栖鳳、上村松園、菊池契月、木島櫻谷といった存在も興味深いところ。京画壇の百家争鳴状態が覗えてなかなかに面白かったのである。
とりあえず蒼々たる画家たちの作品が並んでいるので、ザッと眺めていくだけでも相当に楽しめる展覧会であった。こちらも時間の関係でやはり駆け抜けるに近い状態になってしまったのがつくづく勿体ない。
以上、合わせて1時間ちょっとで見学を終えると車を出してホールに向かうことにする。途中の道の混雑を警戒していたのだが、京都の中央部からかなり離れたホール周辺の道の混雑はさほど多くなく、予想よりも遥かに早く確保していた駐車場に到着したので、開演までの時間で慌てて昼食を摂ることにする。一応「東洋亭」を覗いてみるが、案の定話にならず、他の店も結構混雑、仕方ないので気が進まないもののロイヤルホストに入店することにする。
注文したのはハンバーグのビーフシチュー煮込みだが、まあ覚悟はしていたものの、思っていた以上に美味くない。まあマズいとまでは言わないのだが、とにかく美味くないのである。特に全く牛肉感を感じられないハンバーグが美味くない。あまり良くない肉を筋などが残らないようにベタベタになるレベルまで挽いたんだろう。これでまだ価格が安ければ救いがあるが、結局は東洋亭と比較してもそう安いわけではないのであちらが行列が出来るわけである。私も時間の制限がなかったらあちらに並ぶところである。
とりあえず不満いっぱいではあるものの昼食を終えたのでホールに入場する。今日はカンブルランが登場であるが、ホールの観客は私の予想よりは少なめ。7~8割程度というところか。カンブルラン、意外と人気が無いのか?
京都市交響楽団 第684回定期演奏会
シルヴァン・カンブルラン(指揮)
モーツァルト:交響曲 第31番 ニ長調 K.297 「パリ」
ブルックナー:交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンチック」(1888年稿 コーストヴェット版)
一曲目はモーツァルトであるが、やはりカンブルランらしい現代アプローチである。音色に冴えがあって、非常に明快な曲として聞こえてくる。間違いなくモーツァルトが当時に聴いていた音とは全く違う音なのだろうが、逆にそれがモーツァルトの音楽の普遍性を感じさせるところがある。
流石に京都市響のアンサンブル力は高い。こういう曲の時は非常に整然とした演奏をする。それでいて音色に生命感がある。なかなか爽快なモーツァルト。
休憩後の後半はブルックナーの4番。4番を聴くのはかなり久しぶりなのであるが、やはり後期の作品と比べると構成に冗長なところが多いような感じがする。ブルックナーの聴かせどころのアダージョ(私にとっては落ちポイントの魔のアダージョ)なんだが、やはりいささかしんどいのは否定出来ない。
もっともカンブルランの演奏はかなりメリハリを効かせている演奏であり、非常にオケが色彩豊かに良く鳴っている。そのおかげでこの長大な交響曲を退屈からかなり救っているという印象。もっともその分、ブルックナー流の重厚さというのはやや欠けた印象はある。ブルックナーの交響曲はよく重厚なオルガン曲にたとえられるのであるが、カンブルランの演奏はオルガン曲と言うよりは、華やかなブラスバンドのイメージに近いか。その辺りは好みは分かれそうである。
以上、コンサートを終えると新名神を突っ走っての帰宅と相成る。京都市内で渋滞に引っかかって、高速に乗るまでに1時間以上もかかったせいで、新名神を突っ走る時には辺りは真っ暗。真っ暗で車も少ない道路を淡々と走っていたら、気分が鬱に入っていって病みそうな気がする。そこで久しぶりに私のドライブソングの「明日へのbrilliant road」を大音量でガンガン鳴らしながら突っ走ったのである。これと「Shangri-La」「gravitation」が私のメンタル回復ソングである。
この遠征の前日の記事