鈍りきった体の建て直しにリハビリ山城攻略を開始
コロナでお籠もりが続くがそろそろ私も限界に近づいてきた。と言うのもとにかく身体を動かしていないことから来る体調不良が洒落にならなくなってきて、先ほど行われた社内健康診断では恐らく数値が滅茶苦茶で後日呼び出し確実であろうと思われたからである。
その上に本来なら今日は大阪での関西フィルのチケットを購入済みだった。1年以上ぶりに満を持してデュメイが来日しており、名演間違いなしということで行きたいという気持ちはかなり強くある。しかし府知事の無策が祟って現在の東京を凌ぐかという状況での感染爆発状態の大阪に出かけていくのはかなり無謀のそしりを免れない。しかも私はワクチン不足の煽りでまだようやく第一回目の接種が終わったところ、もし感染でもしたらほぼ確実に重症化してご臨終の上に、フワフワと浮かれて大阪に出て行って感染したと後ろ指指されることもこの日本では間違いなしである。
そこで、久しぶりの運動と諸々の不満の解消を兼ねて、まず絶対に密になり得ないところに出かけることにした。となれば山城である。それもマイナーなところ。さらに県内なら県境を越えての移動はするなと言う規制にも合致している。と言うわけで、とにかく私のリハビリになりそうな山城を探すことにした。
県内で山城で手頃な所と言えば、やはり遊歩道が整備されているようなところが良い。現在の私は山道をかき分けて進んだり、岩場の崖を直登するような体力はまずなく、あまりに険しい本格コースなら事故るのがオチである。ハイキング気分で行けそうなところと言えば、やはり最近になって整備された山城の多い播磨地域か。と言うわけで手頃な山城を探すことにした。
その結果としてまず浮上したのが相生の乙城、さらに上郡の駒山城である。この山は二つとも遊歩道が完備されている模様。体力がガタガタになっている今の私には最適だろう。これに山上まで車で上がれるので体力の消耗がない相生の大島城を加えて今回のリハビリ山城攻略と相成った。
装備を確認
ハイキングレベルなので特別な装備は必要ないが、一応秋の山は熊の危険が0とは言えないので、熊鈴は用意して腰に装着しておいた。これを腰からぶら下げたので、歩けばチリチリ言う仕掛け。
まあ熊除けスプレーまでは必要なかろうと今回は持参せず。
さらに必需の装備は登山スティック。これがあるのとないのとでは足腰の疲労が変わってくる。なお2本使う人と1本使う人がいるが、私は写真なども撮る関係もあって1本使い。安めのスティックを購入して、ガタが来たら買い換えるということを繰り返している。
そして一番重要な装備が、ライフラインこと「ミネラル麦茶」(「伊右衛門」も可(笑))。実際に登山途中で水が切れるのが一番危ない。歩くと意外に汗をかいて喉が渇くので、十分な用意が必要。私は昔、鳥取城で水が切れてひどい目にあったことがある。
以上の装備を確認してから目的地へと向かう。
乙城攻略に取りかかる
まずは乙城へ。乙城は山陽自動車道の脇の山上にあり、姫路バイパスから龍野太子バイパスに乗り継ぎ、そのまま国道2号線に合流すると西進、揖保川を渡って少し行ったところを右に折れるとひたすら北進、しばらくは住宅地の中を走り、周辺が田んぼばかりになってきたところで前方に見えるのが乙城のある山である。
乙城は1334~1338年に高瀬小四郎景忠が赤松円心の命で築いた山城だという。嘉吉の変による赤松氏の断絶で廃城となるが、応仁の乱以降に赤松氏が再興すると共に復興したという。龍野赤松氏の麾下であったが、対立する浦上政宗が攻略してここを居城とし、父の村宗と共に赤松氏と争い続けたが、赤松政秀が室山城を急襲して政宗父子を殺害したと言う。1578年に政秀の子の赤松広秀が羽柴秀吉に追われて龍野城からここに移り、龍野城主の蜂須賀正勝の麾下に入るが、1588年に竹田城に移封されたことで廃城となったという。
登山口は揖保川町養久集落内にある。近くに車を置くとここから背後の山に登る。住宅地裏の畑のようなところを登っていくと、直に道は登りの山道となる。情けないことに登りになった途端に足が悲鳴を上げるのが分かる。とにかく足が前に出ない。以前なら一息に登れたはずの登り坂を2回ほど途中で一息つかないと登れない状態。自分で想像していた以上に足腰のジジイ化が進行していたようだ。
山道は整備されており、要所要所には案内表示があるので迷う心配は全くない。ただところどころむき出しの岩の上にコケが生えているところがあるので、不用意に歩くと足を滑らせて転倒する危険はある。そのようなハプニングで体制を崩した時のリカバリー能力も鍛えておく必要があるところだ。
しばし登ると登山道脇に32号墓との表示があるので見学していく。どこだかと思ったら、ちょっとした休憩所に見える小高い丘が墳丘だった。どうやらここから壺棺墓などが出てきたらしい。地図によると今回の行程中にはこの手の墳丘は多数あるようだ。
道を塞ぐ倒木などを乗り越えつつ、息を切らせながら登っていくと遊歩道の本コースに合流したようである。表示にしたがってここを東に向かう。
墳丘墓群を抜けてようやく乙城へ
ここから先は尾根筋をダラダラと下りながら進むことにとなる。こうなってくると登山杖の役目は主に蜘蛛の巣払いになる。これを注意してないと、もろに蜘蛛の巣に突っ込むことになりかねない。蜘蛛は数時間で巣を張ってしまうので、朝に誰かが通っていても昼頃になったらもう巣が張られている。今回の私も不覚にも2回ほど蜘蛛の巣に顔を突っ込む羽目になってしまった。
その途中には例によって墳丘がいくつも続き、遊歩道はそれを乗り越えていくコースになる。言われなければただの尾根筋の瘤にしか見えないし、場合によって城を築いた際の尾根筋を断ち切る堀切かと思ってしまう。
ある程度進むと道は再び登りに転じる。こうなるとまた息は上がるし、足は前に出ない。そこに見えているところに思うように進めないイライラが募る。ここまで体力が落ちていたか。そうしている内にようやく前方に、これは間違いなく城の遺構だと感じられる丘が見えてくる。
思った通り、それが乙城の主郭だった。手間に案内看板が建っているが、それによると南北に細長い主郭の南に曲輪があり、主郭北部にも数段の曲輪があるようだ。
斜面を直登してみると、土塁を越えて小曲輪がある。その先が主郭である。主郭は鬱蒼として木が多く、身体の体積が大きい私は先に進むのが四苦八苦。主郭の先には確かに数段の腰曲輪的なものがありそうだが、足の状態を考えるとそこに降りるのはやめておく。
主郭から降りてきて、遊歩道をさらに20メートルほど下った先に東屋があって展望所となっている。そこから一面田んぼの光景が見渡せる。「よし、この豊かな田んぼがすべて俺の領地だ」と妄想したところで、ここに城を築いた城主の気持ちが分かるような気がする。
これで攻略完了、後は足下に注意して降りてくるだけである。下りは身体は楽だが、実際はむしろ登りよりも危ない。大体重大な事故が起きるのは下りの時である。特に足がかなりがたついているのでスベらないように細心の注意で降りてくる。
リハビリ登山にはまずまずの山城であった。そう凝った城ではないが、明らかに主郭の構造が分かったし、主郭からの眺望はなかったが、近くの展望所から大体周囲の状況は分かった。とりあえずは上々である。次は上郡に向かうことにする。
上郡で昼食を取る
上郡に到着すると昼頃、登山の前にまずは昼食である。今回立ち寄ったのは「久」という和食の店。りゅうきゅうやとり天、チキン南蛮など九州料理が食べられる店である。私は「りゅうきゅう丼(1100円)」を注文する。
りゅうきゅうとは大分の郷土料理で、鰺や鯖などの新鮮な魚をゴマとショウガを効かせたタレで漬け込んだもの。この店ではハマチなどを使用しているという。これに団子汁が付いている。
魚が新鮮でなかなか美味い。タレの塩梅も非常に良い。サッパリしているところが良い。さらに驚いたのが団子汁。団子云々よりも野菜が入った味噌汁の味が抜群に美味い。なかなかの昼食を堪能したのである。
駒山に登ろうとするが・・・
昼食を堪能した後は駒山に向かう。前方に見えてきた三角形をした山が駒山で、登山道はその尾根筋沿いを登るルート、入口にはすぐにたどり着く。
登山道を上り始めると私が想像していたよりもかなり険しい。この険しさは先ほどの乙城と比較にならない。しかも参ったのは、私の足が全く上がらないこと。どうやら先ほどの乙城で完全に足が終わってしまったようだ。前方に岩場が見えてきたところで、この山の登山道の長さを考えると、これ以上進むのは無理と判断。とりあえず今回はまだリハビリ段階だと言うことで安全策をとって撤退することにする。後日捲土重来しよう。
それにしても情けないのは想像以上の足腰の劣化。以前の1日に山城4つぐらい攻略していた頃に体力を戻すのにはどのぐらいかかるか(そもそも戻すことが可能なのか?)。これは血道なトレーニングが必要な模様。
白旗城の登り口だけを確認
ここまで来たついでに、最近整備されたと言う白旗城の登り口を確認しておく。上郡と言えばお城マニアには駒山城なんかでなく、こっちの白旗城がメインである。しかしこの城は往復で2時間はかかり、途中では谷筋のハードな登りなどもあるので、軽登山装備が不可欠だと言うし、何よりも体力が必要。その内に行きたいと思いつつも、今まで尻込みしてなかなか行けなかったのである。とりあえずまだ挑戦できるようなレベルではないが、いつか攻略を目指して入口だけを確認しておく。
千種川沿いを登っていくと、やがて右側に巨大な看板が見えてくる。どうやらあそこらしい。さらに進んでいくと小さな川の手前に登山者用の駐車場もあり、前方に動物除けゲート(の割にはかなりゴテゴテと飾り立てている)があるので、そこから進めるようだ。ただ「ヤマビルに注意」という嫌な表示もある。湿気の多い時期は避けた方が無難か。
大島城に向かう前に喫茶で高CPパフェを堪能
駒山城を断念したことで腰砕けのようになってしまったが、最後に大島城を目指すことにする。ただその前にお茶をしたくなった。途中で上郡駅前の喫茶「ヨット」に立ち寄る。ここはチキンカレーが売りのようだが、昼食はもう既に終えた後である。今回はデザートのプリンパフェ(770円)を注文することにする。
フルーツてんこ盛りのパフェを食べていくと、その下からプリンが出てくる。これが若干苦味のあるカルメラに懐かしい味のプリンで実に美味。しかし一番感動したのは最後。大抵のパフェは食べ進んでいくと最後はかさ増しのコーンフレークにあたり、湿ったコーンフレークをモグモグと口に運ぶという不毛な掃討戦を余儀なくされるのだが、ここのパフェはそこにアイスクリームが入っていた。プリンを食べていった後の冷たいアイスクリームが実に美味、まさに感動。思わず「ごめんよ。まだ僕には食べられるものがあったんだ。こんなにうれしいことはない。」と涙しながらニュータイプに覚醒しそうになってしまった(笑)。
なかなかにCPの素晴らしいパフェを堪能してから相生に向かうことにする。うーん、上郡は今まで全くノーマークだったのだが、意外と良い店があるようだ。どうせまた駒山城のリターンマッチも近日中に必要だし、いずれは白旗城攻略に挑むつもりだからまた何度か来るだろう。今日行った店はまた再訪しよう。
大島城の見学
相生までしばしのドライブの後、国道2号線を東進してから相生で南下、芋谷川の河口にある小山が大島城のあるところ。
現在は大島山本覚院善光寺となっており、境内のある山頂まで車で登れる。なお前の道が一方通行なので入口に注意。どうやらやはりここはかつては島であったようである。
コンクリ舗装の狭くて急な道を上まで登るとかなり広いスペースに出る。ここが本郭だとしたらかなりの面積だが、後に加工が入っている可能性が高い。
大島城は1104年に海老名家季がここに城郭を築いたのが始まり。1336年には七代景知が赤松円心に属して白旗城に籠もって新田義貞軍と戦って功績を上げたが、その時に留守にしていた大島城は新田の手のものによって焼き落とされたという。どうやらその後にここは万福寺とされ、万福寺が赤穂に移ってからは船主達の信仰の地として住吉神社・稲荷社・金比羅宮・地蔵堂などが立ち並び、善光寺が建てられたのは昭和初期とのこと。
中世山城であるから、ここは山上の館だったんだと考えたら、だだっ広い単郭構造というのもあり得る話だ。もっとも西の斜面には帯曲輪のようなものがあり、そこには「いぼとり井戸」と呼ばれる井戸が残っている。ここが大島の唯一の水源で、水道が出来るまでは生活用水として使用されていたという。
中央公園の歴史民俗資料館に立ち寄る
なお現地看板にはここはかつて対岸の白鷲城と佳境で結ばれていたとの表記があったのだが、その白鷲城に関する情報は皆無。現地の地形から近くの中央公園がある小山が城郭を築くとしたら可能性が高いと睨んで現地視察したが、城を覗わせるものはなし。そもそも公園化で手が加わりすぎているので元の地形が不明。
ちなみにここにある歴史民俗資料館の展示は、一般的な考古学的資料に加えて、地元のペーロンに関するものが中心。なお感状山城に関する展示はあったが・・・。
これで今回の遠征は終了。思いの他のヘタレぶりに山城1つで撤退という情けない結果だが、まあリハビリならこんなもんだろう。