徒然草枕

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白鷺館アニメ棟

ゴジラ-1.0

絶望的状況で始まるゴジラの襲来

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 第二次大戦で焦土と化した日本。まだ復興も始まりだした程度だったその日本に、ゴジラが襲来する。敗戦で零になっていた日本が、さらなるゴジラの襲来で負に転じるというかなりハードなストーリーである。

 とにかく設定が絶望的な状況である。この時代の日本は国力はガタガタ、政府はGHQの支配下にある状態で事実上まともに機能していない。さらに軍はアメリカによって武装解除されていて無防備に近い。こうなると現実にはアメリカにおんぶにだっこにならざるを得ないところであるのだが、そのアメリカはゴジラによって被害を受けたことから、ソ連を刺激したくないので軍事力行使は控えるという口実の元に、すべてを投げ出して日本に押し付けてしまうのである。

 そのような状況であるので、いわゆる最新兵器を駆使してゴジラと対峙し、最後には国力総動員での超兵器(といっても良いと思う)でゴジラを封じるという展開を踏む「シン・ゴジラ」などとは根本的に異なる作品であるというのは間違いない。実際にゴジラ退治の切り札として廃棄寸前でGHQから返還された戦艦高雄が登場するが、当時の日本軍の最大戦力と言えるその高雄は、主砲の0メートル射撃でさえゴジラの強固な装甲の前に歯が立たず、あえなく撃沈されてしまうというさらに絶望感を募らせる展開を作品は積み重ねていく。

 絶望的な状況下からいかにゴジラという大災厄に対応するかというドラマが展開するのがこの作品である。超兵器とは言い難いあり合わせから作り出した野田の作戦などは伝統的な怪獣パニック作品っぽいテイストはあるが、結局はそれでは解決せずにそこに主人公の行動が絡んでくるということになる。ただその主人公の活躍を単に英雄扱いで描いていないところもこの作品の最大のポイントである。

 

 

怪獣映画ではなく人間ドラマ作品

 ハッキリ言うとこの作品は怪獣映画ではない。間違いなく怪獣という災厄に対抗する人間のドラマとして描いている。ゴジラとは無関係に戦争映画の如く始まる冒頭からして象徴的である。主人公の敷島は特攻隊の一員でありながら、機体の不調を理由にして生き残った当時の価値観から言えば卑怯者であった。しかもその上に彼は不時着先の五島に現れたゴジラに対して、ゼロ戦の20ミリ機関砲で射撃することを依頼されながらも、いざとなった時に恐怖でそれが出来ず(現実にはゴジラが20ミリ機関砲で撃退出来るかは微妙であり、もしそれに失敗したときには敷島がゴジラのターゲットになってしまうのは確実だった)、結果として島を守備していた整備兵達は橘を除いて全滅してしまうということになる。

 しかも自身に対する強烈な後ろめたい感情と、橘からの強い恨みを買いながらもなんとか帰ってきた敷島が目にしたのは、空襲で炎上して破壊された自宅であり、両親もその時に亡くなっていることを隣人の澄子から告げられる。またその澄子も子供たちを失って荒みきっていた。敷島は両親からの「生きて帰って来て欲しい」という願いに応えるためにもたとえ卑怯者と誹られようとも生きて帰ってきたのだが、この時点でその意味を見失ってしまうことになる。

 半ば自失の中から戦争を引きずりながら生きていた敷島は、戦災孤児を抱えた典子と知り合い、彼女や子供との奇妙な同棲生活を送ることになるのであるが、その中からようやく少しずつ自分が生きていく意義を取り戻しかけていく。しかしそこに現れるのが五島の時よりも大幅にパワーアップ(ビキニ環礁での水爆実験が影響したらしき描写がある)したゴジラである。ゴジラの登場は敷島の五島での悪夢を蘇らせると共に、そのゴジラの襲来によって典子を失った敷島は、今度こそ完全に打ちのめされて生きることを諦めてしまう状況にまで追い込まれる。

 その敷島がいかに「生きる」ということの意義を見出していくかというのが、この作品のメインテーマになっていくことになる。敷島は自分の戦争に終結をもたらすべく、過去の因縁があり、確実に自身の死を願っているであろう橘に、自らの特攻機の整備を依頼することですべての決着をつけることを決意する。悲愴で悲しすぎる人間ドラマである。

 

 

濃厚なドラマの表現が成功につながっている

 ただそのまま進めたら単なる敷島の英雄譚になりかねないところを、そこから「生きろ」というテーマを引き出しているのがこの作品の巧みなところである。作戦を立案した野田は「犠牲者を一人も出さないことをこの作戦の成功とする」と発言し、また民間人の立場で立ち上がった元軍人達は、先の大戦で全く意義のない中から理不尽に死を強制された状況でなく、今度こそは真に日本を守るために戦うという決意の元に立ち上がる。そこには彼らにもやはり多かれ少なかれ敷島と同様に戦争を引きずっており、その中から今後生きていくことの意義を見出そうという意識が垣間見えている。

 そして死を決意していた敷島は、最後は自身の死を一番望んでいたはずの橘による「生きろ」のメッセージによって生きていくことを決意するのである。ラジオにかじりつきながら敷島の動向に息を呑みつつ、最後に敷島が脱出に成功したことを知って快哉を叫ぶ橘の姿が実に象徴的であり感動的でもある。

 本作では単にゴジラを倒す話でなく、これらの濃厚な人間ドラマがメインストーリーとして個性豊かな登場人物達によって描き出されていた。主人公の敷島を演じた神木隆之介、また典子を演じた浜辺美波の演技力には感心したし、まさに恩讐の彼方を地で演じた橘の青木崇高、自身もどん底の荒みきった中から立ち上がっていく澄子の安藤サクラ、戦争に従軍していなかったが故に少々甘いところのある小僧こと水島を演じた山田裕貴など、非常に存在感の強いところ。そして一癖あるが敷島を良い方向に誘導することになる秋津の佐々木蔵之介、やや世間離れした感のあるいかにも学者という雰囲気の野田の吉岡秀隆など役者の使い方の上手さも感じさせたのである。

 なお一番ラストのエピソードについては賛否の分かれるところであると感じる。私は感情としては非常に理解出来るのであるが、やはり作品としてはあれは蛇足であったという感は否めないとしておく。

 

 

元の遠征記はこちら

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