基肄城に立ち寄るが・・・
そろそろ疲労がたまってきており、この夜は爆睡している。翌朝は6時頃に目が覚めたのでとりあえず朝風呂。これは極楽気分である。朝食はバイキング。これはさすがに高級ホテルバイキングらしくかなり豊富な内容。
さて今日の予定だが、熊本まで移動してその周辺の城郭を攻略するつもりである。それにしても今日も暑い。これは野外を歩き回るのは結構キツそうだ。
まず最初に向かったのは古代城郭である基肄城。白村江の戦いで惨敗した大和朝廷が、唐・新羅連合の襲来に備えて建造した一連の城郭の一つである。
鳥栖ICで高速を降りると、基肄城は近くの山上にある。山上までは一応車で登れるようである。途中から道は段々と狭くなっていくが、今までの一連の山城攻略で通った山道のことを思えば何と言うことはない。まもなく山上の駐車場に到着する。
山上は草スキー場になっているようで結構多くの観光客が来ている。案内看板などで確認すると、どうやらこの山上付近に基肄城の遺構があるようだ。ただそれを一周するには2時間程度かかるらしい。
ただここに来て水の用意を忘れていたことに気づいた。水なしでは2時間もの山歩きは完全に自殺行為だ。しかも案内看板を見てもどうもどっちに進めば良いのかが今ひとつよく分からない。また山を下りて水を確保してきたとして、方向も曖昧なままこの炎天下に山の中を2時間以上もウロウロする気にはどうもなれない。そこでとりあえず今日は基肄城は断念して、次の予定を繰り上げることにする。
今日は熊本県の山鹿市で宿泊する予定にしており、その周辺の城郭をいくつか見学予定に入れている。鳥栖ICから九州自動車道で南下する。
高道城は宅地に埋もれていた
菊水出口で高速を降りると山鹿市とは反対側の玉名市を目指す。最初の見学地はこの地にあった高道城跡。鎌倉時代の初めに大野別符の地頭に任ぜられた紀国隆の一族は、三男秀隆の時に大野氏を名乗ることになり、国隆の次男築地次郎国親の曽孫高路諸太郎幸隆がこの辺りを分領して居館及び戦時の城として高道城を建造したという。大野一族は南朝方として戦ったが、北朝方の今川軍の侵略を受けて落城。さらに戦国末期には肥後に進出した龍造寺氏の麾下の小代氏に敗退して落城し、一族はこの地を退散したとのこと。
今では完全に住宅街の中に埋もれてしまっているが、台地の東北端を区切った形の城郭である。東側は今では平地で田んぼであるが、かつては沼地か湿地であったかも知れない。現在神社がある小高い部分が本丸跡だと言われており、確かにこの辺りはいかにもそれっぽい雰囲気がある。またこの神社の東から北にかけては恐らくかつての堀跡だと思われる水路がある。
西側には住宅地の合間に土塁の一部らしきものが見られる。埋まってしまっているがその手前には堀があったのだろう。
南側は弁財天古墳があって小高くなっているが、ここも往時には城域内に含まれていて、南方の守りを固めるのに使用されていただろうと想像される。なおかつての南大手口の先は民家になっているが表札には「城内」とあり、まさにそのまんまの名前である。多分ここが廃城後にかつての城内に居住した一族が、そのまま城内を名乗ったのではないかと想像する。
小規模で単純な構造であり、いかにも中世城郭らしく城郭と言うよりも防御を固めた館というレベルである。地方領主間の小競り合いならともかく、戦国期の本格的な合戦の中では防御力にやや心許なさを感じるところである。
江田船山古墳に立ち寄る
高道城見学後は菊池市を目指すことになる。ただその途中に江田船山古墳があるのでここに立ち寄る。ついでにこの古墳の隣にあった道の駅で昼食を摂ることにする。しかしGWで大混雑している上に厨房の手際の悪さで客が捌けず、入店までに30分以上、さらに注文してから出てくるまでに30分以上と異常に待たされることになって無駄な時間を浪費することになってしまう。料理自体はまずくはなかったことだけが救い。
江田船山古墳の一帯は遺跡公園になっており、虚空蔵塚古墳など複数の古墳が存在する。江田船山古墳は古墳時代にこの地に勢力を誇った筑紫磐井の一族に連なる者の墓と見られているが、内部からは貴重な副葬品が多数出土しており、これらは国宝として東京国立博物館に収蔵されており、古墳自体も国の史跡に指定されている。
公園内には肥後民家村なる古民家を移築復元した観光目当てのテーマパークもあるが、その一角に歴史資料館があり、内部には出土品のレプリカが展示されているが、ここは閑散としていて人の気配がない。なおここに展示されていた石人などには福岡の岩戸山古墳や石人山古墳などのものとの類似性を感じ、確かに筑後磐井とゆかりのある人物の墓であることは素人でも分かる。
江田船山古墳の見学を終えると菊池まで車を走らせる。菊池自体は温泉地として知られており、以前の九州遠征で一度宿泊している。その際に菊池城の見学はしているが、今回はそれ以外の城郭を訪問する予定。
鞠智城を見学する
まず目指したのは鞠智城。菊池城とは文字違いの同音の城郭だが、こちらは大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えてこの地に建造した古代城郭である。今は歴史公園として一帯が整備されている。
私の訪問時には普段は登れない登楼上に登れるというイベントが開催中で、私もこれに参加する。登楼は三階構成だが、そもそも人が上がることを想定していないようで、一階内部は柱があるだけで登り階段はない。そこで外から二階部分に階段を架け、二階からハシゴで三階に登るようになっている。ただこのハシゴが意外に怖い。
現地はかなり広い遺跡
広いエリア内に複数の復元建築が建てられているが、それがなければただのだだっ広い草原にしか思えない。丘陵の先端部分がやや小高くなっていて、そこは今は一部が墓地となっており、その隣に展望施設がある。ここからは菊池の市街を一望できる。
古代城郭らしくかなり大規模なものであるが、やはり城郭と言うには何もないというのが事実。やはり城郭も古代のものとなると遺跡の性質が強くなるところである。
隈部氏館跡を訪問する
鞠智城の見学を終えた頃にはもう既に日は西に傾いていたが、日没までにもう一カ所だけ立ち寄りたい。目指したのは隈部氏館跡。中世肥後国人であった隈部氏の城館で、1587年の肥後国衆一揆の中心的人物であった隈部親永が隈府城(菊池城)に移るまで本拠としていたところであり、現在は国の史跡に認定されている。
周囲を土塁や堀で囲って防御しているが、所詮は城館であるのでその防御力は限られており、先に訪問した高道城と同レベル程度。ただこちらの方がかなりの山岳地帯にあり、地形による防御効果は期待できる。
内部には建物跡と庭園遺構が残されており、城館の一角は隈部神社となっている。中世の地方豪族の城館のイメージを知るためには格好の遺跡である。
山鹿の温泉付きビジネスホテルで宿泊
これで今日の予定は終了。後は山鹿の宿泊ホテルまで車を飛ばす。今日の宿泊ホテルは湯宿湶。山鹿の市街にある温泉付きビジネスホテルである。山鹿も温泉地帯なので小さな旅館はいくつかあるのだが、なぜかじゃらんや楽天から予約できるところは少なく、ようやく見つけたホテルである。ホテル自体は今時の言い方をすれば、強烈に「昭和臭」を感じさせるホテルである。高校剣道部の合宿らしきバスが乗り付けている。
ホテルに入るとまずは大浴場で入浴するが、36度のアルカリ泉の源泉をそのまま注いだという浴槽は、泉質はともかくとして今の時期でも湯温が低すぎる。小浴槽が電気加熱した浴槽だと言うが、そちらもそう温度は高くない。じっくり長湯するには良いのだが、私のような烏の行水タイプの場合はどうも体が冷える。
入浴して汗を流すと夕食のために市街に繰り出す。この日は結局はうどん屋に入ったのだが、機械打ちよりも腰がない手打ちうどんという非常に珍しいものを体験することになってしまった。
夕食を終えると部屋に帰ってボンヤリ。テレビをつけたもののやはり見るべき番組はほとんどない。結局はネットで調べ物をしたりしてから早めに就寝することに。
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