この週末は特に予定もなくボンヤリと過ごしていたのだが、どうもこのままではボケそうだ。それに体力の低下を感じていたし、久しぶりにリハビリを兼ねて近場の城郭を回ってみることにする。
目をつけたのは岡山南部。この辺りには宇喜多直家ゆかりの城郭がいくつかある。それを中心に回ってみようと考えた次第。昼前に家を出ると山陽自動車道を西進する。
しかしここで計算違いが生じたのは岡山の手前から急に激しい雪が降り出したこと。まさか山陽自動車道が通行止めになるようなことはないだろうと思うが、それでもどうなるやら分からない。既に岡山自動車道は冬用タイヤ規制になったようだし。
茶臼山城 宇喜多直家に奪われた浦上氏の山城
まず最初に立ち寄ったところだが、備前の茶臼山城。なお備前の茶臼山城と言えば、赤磐市周匝にも同名の茶臼山城があり、ここにはなんちゃって天守が建っている(以前に訪問したことがある)のだが、紛らわしいので赤磐市のものを周匝茶臼山城、こちらは富田茶臼山城と区別している例がある。
富田茶臼宇山城は、以前に訪問したことがある富田松山城の出城として築かれた城とのことだ。富田松山城は浦上氏の城であるが、後に台頭してきた宇喜多直家に追われている。当然のように富田茶臼山城も同じ運命をたどっているだろう。
富田茶臼山城へは国道2号から急角度に折れて山道に入ることになる。この道は広くはないが狭くもない道で、険しいが舗装されていてド下手な対向車でも来ない限りは運転に全く不安のない道である。山頂は公園になっていて駐車場も完備されている。
鹿を防ぐためのフェンスが張ってあるのでそれを開けて見学することになる。山上はかなり広いスペースがあるが、これは多分公園化の際に削平したんだろう。元々のスペースがこれだけ広かったとは考えにくい。これだと本城の富田松山城よりも多くの兵を置くことになってしまう。恐らくは城のスペースはもっと狭く、何段構えかの防御の構造もあったはずだが、その辺りはすべて平にならしてしまったんだろう。西側の駐車場の奥も真っ平らな公園になっているようだが、この辺りは本来は堀切で尾根筋をぶった切るなどの防御をしていたはずである。
ちょうど向かいに富田松山城が見え、両城でこの地を押さえるのには最適の構えとなっている。お互いに狼煙や旗などを使って緊密に連絡を取れたはずである。この出城の役割は西からの谷筋を経由しての攻撃や南の海からの攻撃などを牽制する事だったのだろう。
ザクッと見て回ったものの特に見るべきところはなかったという印象。しかもちょうどこの頃から雪が洒落にならないレベルで激しくなってくるので早々に撤退することにする。さすがに少しでも積雪もしくは凍結が起こればあの道を車で降りるのが命取りになりかねない。
日生のカキオコを断念して残念な昼食に・・・
雪はさらに激しくなってきているので、場合によっては撤退も考慮に入れつつ、とりあえず昼食のためにこの近くの日生に立ち寄る。頭にあったのはカキオコなのだが、ちょうど昼食時だったこともあって店には行列、駐車場は満杯という状況。馬鹿らしくなったので諦めることする。ちょうどこの頃になると雪が先ほどよりもマシになってきたので、初志貫徹することにしてブルーハイウェーに乗る。
結局昼食はブルーハイウェーの道の駅で「カツ丼」を食べることに。不味いと言うこともないが決して美味くもない。面白くない昼食になってしまった。
備前乙子城 宇喜多直家の最初の城
不本意な昼食で思い切り盛下がってしまったが、目的地を目指すことにする。次の目的地は備前乙子城。浦上宗景の配下だった宇喜多直家が武功によって最初に与えられた城である。宇喜多直家はこの後にメキメキと力をつけ、ついには主家であった浦上家を追い払って備前一帯を支配することになる。その第一歩の城であり、謂わば出世城とも言える。もっとも宇喜多直家の台頭は、陰謀を巡らして周辺の人物を暗殺しまくりなので、斎藤道三や松永久秀と並ぶ三悪人と言われるなどあまり良いイメージを持たれていないとか。大したヒールぶりである。ただ同じく謀略に長けて表裏比興の者と言われた真田昌幸とどうも評価が違う。やっぱり昌幸は徳川家康という大物にあくまで徹底的に戦ったのに対し、直家は結局は信長に臣従したからだろうか。
乙子城の北西に「宇喜多直家国とりはじまりの地」と刻まれた石碑が建てられており、宇喜多直家に纏わる説明版がはめ込まれている。それによると今では平地の中の独立丘のような乙子城の地形であるが、当時は海岸線がもっと内陸まで入り込んでおり、乙子城は瀬戸内海に注ぐ吉井川河口に位置する城郭だったとのことである。
北西端に神社のようなものがあり、そこから石段で本丸まで一気に登れるようになっている。大して高い山ではないので、本丸までは3分程度・・・なんだが、これだけで息が完全に上がってしまい、本丸到着時にはゲーゲー言ってしまうというのが現在の私の情けなすぎる体力の現状。これには自分でも呆れた。年末に腰を痛めて年末年始は寝続けだったが、まさかここまで体が鈍りまくっていたとは・・・。
本丸は大して広いスペースではない。南西北の三方は切り立った崖で、東に向かっては数段の曲輪を構えていたようであるが、ここは現在は墓地になっていてかなり改変されているので往時の遺構は大して残っていなさそうだ。東端の一段高くなっていて現在は神社になっているところが二の郭、もしくは出丸的なものか。両郭の間の谷間部分には居館でも設けていたかもしれない。
なお話がそれるが、墓地といえば不吉だとか不気味だとかで嫌う者もいるが、私は個人的にはそういう意識は全くない。だから納骨堂が迷惑施設として近隣住民の反対にあったとのニュースを聞くと「?」である。そもそも日本の信仰では亡くなった者は仏様であり、墓に埋葬されている者は明らかに成仏しているはずである。私自身、どこかの誰かに呪われるような心当たりはないし、ご先祖様などはそもそもは守護霊である。大体、人間誰でも最後は行き着く先を不気味と言っていても仕方ない。
この墓地の辺りに屋敷でも置いて、ここを中心にして東西にお籠もりのための曲輪を用意したという構成の城だろうか。規模は小さいが機能的に出来た城である。
新庄城・・・は今回はパス
乙子城を見学した後は西に向かって走る。川筋を登っていくと運動公園のようなものがあり、その背後の山上にあるのが、宇喜多直家が次に与えられた山城である新庄山城。しかしその高さを見たところで、私の現在の体力ではとても登るのは無理だと諦めて今回はパスすることにする。
沼城(亀山城) 宇喜多直家が乙子から移った居城
この新庄山城の北西の新幹線の線路の手前辺りにあるのが沼城である。ここは宇喜多直家が乙子城の次に居城に定めた城郭だという。主郭の部分は神社になっていて石段で直登できる。ここもあまり大きな城ではないが、周りから切り立っていてそれなりの守備力はある。東側が低くなっていて、その向こうに小高い丘があると言うことで、地形的には先ほどの乙子城と非常に類似している。
ただ谷の部分は完全に畑化されているので、往時の地形はよく分からないし、その向こうの丘は完全に藪になっているようなので見学できるような雰囲気ではなかった。なお私は手前に車を置いて石段から本丸に上がったが、裏側の北側から回り込む舗装道路もあるようである。ただ道幅が狭くて急なので、私のノートでもあまり入りたいと思う道ではない(軽トラなら余裕なんだろうが)。山というほどの高さもないので石段から登る方が無難である。
岡山に立ち寄りがてら喫茶で一服
これで今回予定していた城は回り終えたので、用事のために岡山に立ち寄ることにする。それにしても岡山周辺は車で走りにくいし、駐車場は少ない上に高いとなかなか難儀な都市である。
とりあえず見つけた駐車場に車を置いてから用を済ませると、疲れたので一休み。見つけた喫茶「樹林」でアイスコーヒーとケーキのセットを頂く。
ケーキはあまり工夫のあるものではないし、コーヒーは全く本格的でない代物。しかし最近になってコーヒーを飲めるようになった「全く違いの分からない男」である私には、むしろこういうコーヒーの方が飲みやすい。
ちなみに件の「違いの分かる男」シリーズには安藤忠雄も登場していたが、彼はコーヒーの違いは分かっても建築の善し悪しは分からないのか? 渋谷駅を初めてとして、各地に彼が建てた「使い物にならない建物」群は将来は負の遺産にでも認定されるのか。
湯迫温泉健康村で汗を流す
一息ついたところで、最後は汗を流してから帰ることにする。ここの近くに湯迫温泉なる温泉があり、湯迫温泉健康村という日帰り入浴施設があるとのことなので立ち寄ることにする。
湯迫温泉健康村は白雲閣という宿泊施設と隣接している。駐車場は車で一杯で結構人気のようだ。どうやら大衆演劇の上演なんかもしているようなのは、岡山地域の温泉で良くあるパターンか。
内風呂と露天風呂にサウナの構成で、別途岩盤浴などもあるようだ。ただ露天風呂はややぬるく、内風呂は逆に熱いという極端な湯温。さらになぜか内風呂に普通の大浴場がなく、ジャグジーとかばかり。仕方ないので五右衛門風呂で湯を浴びる。後で調べたところによると、どうやら白雲閣の方が大きな岩風呂を持っているようなので、こちらには大浴場を作らなかったのではないかと思われる。
湯に関しては特徴がなく、無味無色でわずかに塩素臭というところで新湯とあまり変わらない印象。で、後で調べてみたらやはりこちらは新湯のようで、温泉は台湾風呂の方に行かないといけないらしい。そちらは弱放射能泉らしい。ただ私の調査では、どうも日帰り入浴できる時間帯は台湾風呂はずっと女湯のような・・・。
とりあえず汗を流したし、帰宅することにする。久しぶりに少しだけ体を動かしたのだが、しかし情けないことにたったこれだけの運動が後で体に疲労として現れてしまうのである・・・。