横須賀城を攻略する
久野城の次はさらに海際まで南下。横須賀城に立ち寄る。横須賀城は徳川家康によって武田氏の高天神城を包囲するべく築かれた付城の中核となる城郭である。初代城主は大須賀康高で、その後目まぐるしく城主を代えながら明治維新まで存続したという。玉石垣を用いているのが特徴であり、かつては三層四階の天守も建っていたという。現在は国の史跡として公園整備されている。
現地に到着すると玉石を用いた特徴的な石垣がまず目に飛び込んでくる。公園整備されているが保存状況は良好である。本来の城域はもっと東西に長く、現在残っているのは本丸と西の丸を中心とした城の中心部に当たるようだ。今では住宅街や畑に埋もれてしまっている東西部分が二の丸と三の丸で、奥の松尾山まで城域に含むかなり広大なものであったらしい。また現在はかなり内陸になっているが、そもそもはこの城のすぐ南まで入江であり、横須賀港があって海上交通の要衝でもあったという。しかし1676年の宝永大地震で地盤隆起が起こって地形が一変、この入江も消失して湊が使えなくなったとのこと。これは横須賀城及び城下町にとっては軍事及び経済の両面での大打撃となり、西にある太田川河口の福田湊まで運河を作って小舟による輸送を行うようにしたという。
本丸上は辺りを見渡せる高地になっており、かつて海がその際まで迫っていたことを考えると、陸海を押さえる要衝であったことが頷ける。だからこそ明治まで存続することになったのであろう。
北の丸方面に回り込む
西の丸から西に降りたその先はかつて二の丸だったらしいが、今では住宅と畑に埋もれて痕跡はない。本丸北側からグルリと回り込んだ本丸の裏手の曲輪は現在はパターゴルフ場になっているようで老人の団体がプレー中であった。その奥にあるのが松尾山で、本来はここを中心とした山城だったらしいが、後に現代の形に拡張されたのだという。松尾山の上に登ってみたが、確かに曲輪と言って良い削平地があったが、現在は下草が鬱蒼としていてそれ以上踏み込める状態ではなかった。
整備状況もまずまずで見学しやすい。またあの玉石垣はなかなかにインパクトがある。そういうわけでここも続100名城Bクラスに挙げても良いだろうと考える。
近くで昼食を摂る
横須賀城の見学を終えると次の目的地は天ヶ谷城。ただしその前にまず昼食である。途中で見かけた「遠州和食処おけ屋」に入店、「カツとじ定食」を注文。さらにデザートに「プリン」を追加。なぜ和食処でデザートがプリンなのかは謎だが、まあ美味かったのでそれは良しとする。
天ヶ谷城を攻略しようとするが
昼食を摂るとさらに東進、天ヶ谷城は御前崎市と菊川市の境の山上にある。手前の神明神社のところに駐車場と案内看板があるので、そこに車を置いて徒歩で西の山を目指す。最初は案内看板にあった直登ルートを目指したのだが、ここはハイキングコースの看板は出ているものの、下草が鬱蒼とした道なき道の上に前方を見ると倒木が道を塞いでいたのでこのルートを進行することは不可能と判断、一旦戻って竜源寺跡方面登り口から進行することにする。
尾根筋ルートに変更する
こちらは途中までは整備された道だったのだが、尾根筋沿いに進むところから鬱蒼とした中を蜘蛛の巣を払いながら進まないといけなくなる。笹のトンネルを抜けたり、雑木林の中の崖を降りたりと、一応ルートの案内はあるがなかなかに難儀なルートである。
本丸にはたどり着いたが二の丸から先は断念
本丸まで到着するのにはそう長時間は要さない。本丸はそれなりの面積を持つものの、構造的にはそう複雑ではない。しかしここに至るまでに何度も蜘蛛の巣に顔を突っ込んだりで戦意喪失甚だしい。この奥に二の郭もあるらしいが、案内を見れば「通行不可」の記載があるし、覗いてみたらまたもや鬱蒼とした笹のトンネルだったので、これ以上進む気が起こらず引き返すことにする。
それなりの遺構は残っているようなのだが、残念ながら整備状況がひどすぎて単独行では深く踏み入ることがためらわれるような状況だ。久野城レベルまでの整備は期待しないまでも、もう少し整備をされていればと残念なところである。山上の城跡には付きものの神社などもなかったようだし、今では山上に踏み入る人もほとんどいないのだろうか? 山上に神社などがあるというのは、少なくともそこまで踏み込む人間が入るということであり、それは同時に最低限の通路の整備は継続されるという意味もある。人が山と共に暮らしていた時代の名残と言えるだろうか。最近はそういう自然との関わりが急速になくなってきた。
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