徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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白鷺館アニメ棟

mediti.tvでフルシャによるブルックナー9番

またもコロナの影響がとんでもないところに

 「やられた。」今日twitterをチェックしていた私の口からこの言葉が思わず出てしまった。現在の私の状況はというと、今日開催される関西フィルの定期演奏会は見送りを余儀なくされたところ。問題は来週の大阪フィルの定期演奏会だが、これについてはコロナの再度の急激な悪化がない限りは出来れば行きたいと考えている。

 そして次の週だが、実は週末に京都市交響楽団の定期演奏会がある。今回は今期で勇退が決まった広上淳一のファイナルであり、出来れば行きたいと考えていたのであるが、今までコロナの状況を見定めているところだった。またこの公演は広上ファイナルと言うだけでなく、曲目がマーラーの交響曲第3番と言うことで注目していた。永らく様子を見定めていたのだが、来週の大阪フィルに行くことをほぼ決めた時点でその翌週の京都市響のチケットも昨日に購入したのである。

 そして今日、twitterに飛びこんできたのは「京都市少年合唱団」の出演が困難になったので曲目をマーラーの1番に変更するとの報。正直なところマーラーの1番だったら、広上ファイナルとはいえコロナの中を長駆して京都まで行ったかは微妙なところである。私にとっては3番というのがかなり大きく、それがチケットを購入した決定打であった。

www.kyoto-symphony.jp

 

 

 例によって「プログラム変更による払い戻しはありません」とのことなのだが、正直なところこれは私にとっては「おい!」である。まさかこんな直前になってのどんでん返しは読み切れてなかった。九州交響楽団の公演などはポリャンスキーの来日が不可になる可能性も覚悟してのものだったが、さすがに少年合唱団の出演が不可になって曲目が変わるなんてことは全く考えていなかった。

 それにしても昨年からお布施続きである。昨年は関西フィルと大阪フィルに関しては会員チケットの半分ぐらいが結果としてお布施になっている。実は京都市響にもかなりお布施をしている。今年こそはと思ったが、政府の意図的無策もあって先行きは不透明。なお曲目変更により、今回のチケットもお布施になる確率は3割ぐらいは出てきた。

 そんなこんなでストレスが溜まりまくっている今日この頃だが、今夜は関西フィルの代わりにmedici.tvでコンサートを楽しむことにした。昨年末のフルシャ指揮のバンベルク交響楽団でツィマーマンがソリストというなかなかに豪華な公演である。

 

 

ヤクブ・フルシャ/バンベルク交響楽団(2021.12.13 バンベルクコンサートホール)

指揮:ヤクブ・フルシャ
ヴァイオリン:フランク・ペーター・ツィマーマン
バンベルク交響楽団

シューマン、ヴァイオリン協奏曲ニ短調
J.S.バッハ、無伴奏ヴァイオリン第3番ハ長調ソナタ、BWV 1005 1.アダージョ
ブルックナー、交響曲第9番

 シューマンのヴァイオリン協奏曲は初めて聞くが、なかなかにロマンティックで濃厚な曲である。シューマンの精神がそろそろ危うくなりかけた時期の曲だからあまり演奏されないという話もあるが、こうして聞いた限りではそんな崩壊した曲とは思えない。もっとも楽器が全く出来ない私には理解できないことだが、どうもヴァイオリンで演奏する上で、そのままだと技術上の問題があるとのこと。しかしこれはシューマンの精神が云々というよりも、そもそもシューマンがヴァイオリンは専門ではなかったということではないかと思われる。

 さてツィマーマンの演奏であるが、初っ端からこのロマンティックな曲を徹底してロマンティックに盛り上げてくる。この第一楽章はなかなかに聞かせ所であり「おやっ、結構良い曲じゃないか」と思わせるに十分である。そして美しい第二楽章を経て、ややアクロバチックな最終楽章。まあさすがに名手・ツィマーマンの手にかかればその程度のことは何の問題でもない。ただこの楽章は曲自体がいささか単調な感があり、ツィンマーマンの妙技が圧倒的な感動につながるという雰囲気にはならなかったのが残念。

 バッハの無伴奏はアンコール。これはなかなかに渋い。ツィマーマンが非常に深い演奏を行っている。

 後半はブルックナーであるが、フルシャはバンベルクの分厚い響きから、なかなかに繊細で美しい音楽を引きだしたようである。ブルックナーでバンベルクとなると、それだけで重厚にして壮大な音楽を予想するのであるが、フルシャは単純に重々しい演奏はしない。弱音を中心に非常に響きの美しさを重視している感があり、その音色はこのオケにしては珍しいほどに色気も帯びている。テンポを落としても絶対に重くはならないのである。

 そして「悪魔的」とも評される第二楽章であるが、フルシャの解釈は悪魔ではないのは明らか。美しくもあり、ユーモラスでさえもある。

 第三楽章は冒頭から美しくたっぷりと鳴らす。そしてとことん美しくはあるのだが、やはり溺れはしない。どことなくクールでもある。そしてそのまま美しく静かに曲を終える。

 やはりいささかクールな感はある。そしていて抜群に美しいというのがフルシャ流のようである。バンベルクの金管からこのような輝かしい音を引き出すフルシャの指揮はなかなかに興味深いところである。