この週末は大阪へ
この週末は大阪フィルの定期演奏会に出向くことにした。大阪フィルも新年度突入である。特に体制とかに変化はないようだが、気になるのは現在予定している外国人演奏家が予定通り来日できるかどうか。さしあたっては来月予定されているデュトワは来日できるのかが一番気になるところである。
家を出たのは土曜日の午前。例によっては移動は車。何しろ今頃になってこそっと「コロナは実は空気感染してます」と発表したことによって、いよいよもって最大の感染源は満員電車だったことがほぼ明らかになったところ。事態が根本的に解決しないことには当分列車は乗れそうにない。
ただ車の場合はいつも問題になるのは渋滞。今回も途中で大渋滞につかまって、無駄に時間を浪費することに。それにしてもまともに車が流れないことが多いのにバカ高い高速料金をふんだくる阪神高速は悪徳商売もいいところである。予定より遅れてようやくフェスティバルホール近くに確保していた駐車場に到着する。
昼食は久しぶりにラーメンを
車を置くと美術館に向かうが、その前に昼食である。面倒臭いのでフェスティバルゲート地下の「而今」でラーメンのランチセット(1000円)を摂ることにする。相変わらずここのラーメンはややボリューム不足気味だが、そこはライスを付けることで補えるというシステム。ラーメンは普通に美味い。
昼食を終えると中之島美術館へ。ここに来るのは今回で2回目になるが、黒い箱型の巨大な建物はやや威圧感がある。私が来場した時は、チケット販売機がトラブルでも起こしたのかなぜか調整中になっていて、2つしかない窓口に客が押しかけているので、券売でしばし待たされる羽目になった。
「モディリアーニ-愛と創作に捧げた35年-」大阪中之島美術館で7/18まで
モディリアーニが画家として活躍していた時代のパリの画壇で活躍していた画家たちの作品と共に、モディリアーニを代表する肖像画を多数展示する。
前半はモディリアーニよりも同時代の画家の作品を中心に展示。早逝したモディリアーニの作品だけではこの広い会場を満たすだけ集めることは困難なので、水増しという意味もなくはない。ピカソやローランサン、キスリング、さらには藤田嗣治など多彩な画家の作品が登場して、エコール・ド・パリの時代の画壇の空気を伝える展示となっている。ただし展示作自体は中之島美術館の収蔵品に北海道や名古屋など国内の美術館から集めた作品が中心なので、残念ながら既に見覚えのある作品が大半である。
本展の目玉と言えのはモディリアーニの裸婦像などを含む肖像画を一堂に展示した第三部だろう。中之島美術館の目玉とも言える横たわる裸婦像の隣に、明らかに同一モデルを描いた座る裸婦像の絵画がアントワープ王立美術館からやって来ている。なおこれらの絵画のモデル名は明らかではないようだが、モデルがモディリアーニの内縁の妻だったジャンヌ・エビュテルヌである作品も数点展示されている。このコーナーは内外の美術館から個人所蔵の作品まで展示されており、見たことのない作品も多数含まれている。
その中には往年の名優グレタ・ガルボの所蔵していたモディリアーニの作品も含まれており、本作は本邦初公開とのこと。グレタ・ガルボは美術品に対しての興味が強く、晩年に彼女が過ごした自宅は多くの美術品に彩られていたという。
モディリアーニの肖像と言えば独得の細長い顔が特徴であるが、そうなるに至った過程である装飾柱カリアテッドを描いた作品や、彼が手がけた彫刻作品(作品自体が脆いために長距離輸送ができないので写真展示となっている)、さらには彼がやはり強い影響を受けたというアフリカ彫刻なども先に併せて展示されてるので、それらを思い出すと納得できる。結局彼は制作コストや顧客の問題で彫刻家を目指すのは断念して画家を選んだのだが、彼の描いた人物像は結局は彫刻の延長であったということも納得できるところである。妙に簡潔でありながら、肉体のボリュームの表現にこだわっているように感じられる裸婦像などはまさに彫刻感覚だったのだろう。
中之島美術館の見学を終えた時にはもう既に開場時刻となっていた。しかし開演時刻までの間にもう一軒、ホールの向かいにある美術館に立ち寄る。
「来迎 大切な人との別れのために」中之島香雪美術館で5/22まで
人間は死後どうなるのかというのは根源的疑問であるが、そこから死後には極楽浄土に行くというイメージが誕生することにとよって、死への恐怖を和らげることと信仰心を強めることに貢献した。そのまさに極楽往生のイメージを具現化したのがいわゆる来迎図である。阿弥陀如来がお迎えに来る姿を描いており、このような煌びやかなありがたい未来が待っていると信じることは、人々にとっては大きな救いとなったのは理解できる。
現在は色褪せてしまっているのでどことなくわびさびの情緒になってしまうが、本来は金ピカの絢爛豪華なありがたい姿だったろうことを考えると、この手の絵図が人々を惹きつけるものであったことは容易に推測できる。
その一方で現世において自らを律して正しく生きるための戒めとして、地獄の存在も併せて登場することになる。本展展示作には極楽浄土と併せて地獄の風景も描いた作品も登場し、また阿弥陀仏の元にたどり着く前に欲や憎しみを捨てて渡るべき白道を描いた作品等も登場する。布教マニュアル兼人生の指針でもあったのだろう。
どうも来迎図などには「これとこれは描かないといけない」というテンプレートがあったらしく、どの絵も同じような構図で描かれていることを見ると、かなり量産されていたことが感じられる。もっともそれでも当時のアーティストたちは制約の中で個性を出そうとしたのか、阿弥陀如来が乗った蓮の花にスピード感が表現されていたりなど、細かいところで表現のこだわりなどがあったらしいことが興味深い。
見学終了時には開演30分前ぐらいになっていたのでホールへ急ぐ。
大阪フィルハーモニー交響楽団 第557回定期演奏会
指揮/尾高忠明
ピアノ/藤田真央
曲目/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番
エルガー:交響曲 第2番
ピアニストは外国人入国規制の影響で当初予定が変更となって国内若手有望株の藤田真央に変更となっている。
藤田のピアノは流暢なテクニックに支えられた可憐な印象の演奏。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、第5番「皇帝」に対して「皇后」などと称されることもあるような可憐な曲であるのでその曲調には適合している演奏であるように感じられる。ただ全体的にタッチが軽いような気がするので、これが第5番のような曲になった場合にはどうなるのかは今回の演奏だけからは想像できないところである。なお決して無表情な演奏ではないのだが、全体的にあっさり風味の印象を受けたのは事実。今回だけを聞いた限りではタッチの強弱の幅が比較的少なめに感じた。
なお藤田は可憐な演奏なのだが、バックの尾高は意外とブンチャカやるので、オケがやや出しゃばり気味に聞こえる部分もあり。
後半は尾高得意のエルガーである。エルガーの曲は同じくイギリスのターナーの絵画と同様にどことなく茫洋とした感があるので、正直なところ私はあまり得意ではないところである。
しかし今回の尾高の演奏はかなりバリバリとぶちかますという華やかな演奏。エルガーってこんなにダイナミックレンジが広かったのかというのは新認識。メロディラインが前面に出てこないというのは相変わらずのエルガーなんだが、メリハリが強いので今までとはいささか雰囲気が違って聞こえる。冒頭から尾高の指揮ぶりがいかにもノリノリだったのだが、演奏自体も全体的に元気満々な印象で、「葬送行進曲」と言われている第2楽章なども「いや、確かに厳かではあるが断じて葬送ではないだろう」というところ。躍動的な第3楽章を経て、最後はかなり盛り上げて終了する。
響きは近代的なのだが、曲の構成としては第2楽章が緩徐楽章で、第3楽章にスケルツォを持ち、第4楽章は華々しいフィナーレとなるという伝統的な交響曲構成である。こういう古さと新しさが共存しているようなところがエルガーの真髄なんだろうかなどということが頭をよぎる。
私はエルガーについては詳しくもなければ一家言を有するわけでもないので、この演奏が正しいとか間違っているとかの判断はしかねる。ただ言えるのは私にとって「眠くならないエルガーだった」という事実である。
藤田真央人気なのか、今回の演奏会はほぼ満席に近く館内は賑わっていた。なおそういう客が増えると観客のマナーが悪くなると言うのはお約束で、とにかく演奏中も喧しかったことが印象に残る。ガタゴトといった音はしょっちゅう(足踏でもしているのか、足を引きずっているような音に杖を倒したらしき音も)で、このコロナ禍においてずっと咳き込んでいるという気になる輩もいたし、果てはピアニッシモの最中に意味不明のうめき声を上げた輩(居眠りでもしてたんだろうか)までいて、久しぶりにかなりマナーの悪い演奏会でもあった。
以上でこの週末の遠征は終了。後は阪神高速を突っ走って帰宅と相成った。始終渋滞につかまった往路と異なり、帰路は渋滞未満の混雑は何カ所かあったが概ね順調に流れたのがこれは幸いであった(帰路で渋滞につかまると疲労がツラい)。