徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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アニメ関係の記事は新設した「白鷺館アニメ棟」に移行します。

白鷺館アニメ棟

「鏑木清方展」「山元春挙」などを見学してから、読響大阪公演で曲者・上岡敏之の「悲愴」

二日目は京都方面を回る

 翌朝はいつもよりゆったりと8時前に目覚ましで叩き起こされる(笑)。かなり爆睡したはずだが体にいささか怠さが残っている。昨日に買い求めておいたサンドイッチを朝食として腹に入れると、入浴して体を温める。老化のせいか最近すっかり変温動物に成り下がった私が朝から活動するにはこれは不可欠。

 体が動くようになるとHuaweiのパッドを家のレコーダーとリモート接続して昨晩のアニメ視聴(「パリピ孔明」と「勇者、辞めます」)。どちらもそろそろ大詰めが見えてきたのか、転機となるエピソードである。このソフト、通信環境では接続不可の場合が多いのだが、今朝はスムーズに接続出来る(回線が空いているのか)。

 10時前になるとホテルをチェックアウト。とりあえず今日の目的地である京都を目指すことにする。今日の最終予定は午後7時からの読響のコンサートだが、それまでは京都方面の美術館を回るつもりである。まず最初は観光地嵐山の福田美術館。

 嵐山周辺の駐車場は1日1000円というところが多いが、丸一日観光するわけでないのでそれだと全く合わない。と言うわけでやや離れた場所に1日600円の駐車場を見つけたのでそこに車を置く。

 そこからプラプラと福田美術館を目指す。平日だというのに嵐山は観光客が多い。平日であるためか修学旅行生と思われる団体が多い。

平日の嵐山は団体客が多い

 

 

美術館の前に蕎麦屋で早めの昼食

 歩いてる内に、朝食が軽すぎたせいか空腹が身にしみ始める。どうもこれでは美術館内でガス欠になりそうだ。そこで美術館に入る前に途中のそば屋「嵐山よしむら」に入店。そばと天ぷらがセットになった膳(2200円)を注文する。

嵐山よしむら

天ぷらとそば

それにご飯類が付く

 店内では桂川の風景を眺めながらマッタリ。そばはマズマズ。例によって京都ではCPを言えばツラい店が多いが、単純に味だけを言うと結構美味い店は多い。もっとも嵐山は観光地だけに価格相場がかなり高い(団子1本300円の店が普通にあるのには度肝を抜かれた)。

店内からは渡月橋が見える

 とりあえずの昼食を終えるとプラプラと美術館に向かう。

福田美術館

 

 

「やっぱり、京都が好き ~栖鳳、松園ら京を愛した画家たち」福田美術館で7/1まで


 京都ゆかりの画家の作品を集めた第一部と、京都の観光地案内のような作品を集めた第二部から構成される。

 いきなり登場の金屏風は竹内栖鳳による「雨景・雪景図屏風」。暈かしなども効果的に使用する栖鳳であるが、この作品では墨の濃淡で見事な表現を行っている(金屏風では暈かしは使えないだろう)。

竹内栖鳳「雨景・雪景図屏風」

部分拡大

 そして精密描写写実表現と言えばこの人の円山応挙による「牡丹孔雀図」。何度見ても見事と溜息の出る作品である。

緻密さに溜息の出る円山応挙の「牡丹孔雀図」

 品のある美人画と言えば上村松園の「人形遣之図」。人形浄瑠璃の光景を描いた面白い作品である。

上村松園の一風変わった「人形遣之図」

 どことなく楽しげな冨田渓仙による「竹林七賢図」。典型的な文人画である。

冨田渓仙の文人画「竹林七賢図」

 西村五雲はイタチを描いた「明けやすき頃」。動物画の名手としても知られている五雲らしい作品。

獣の西村五雲による「明けやすき頃」

 

 

 京都観光案内の二部に登場するのは、これも文人画である富岡鉄斎の「嵐山・高雄図」。自由にして奔放な筆致はさすがに鉄斎。

富岡鉄斎の「嵐山図」

そして「高雄図」

 そしてまさに京都名所案内の菊池芳文による「嵐山桜花/下鴨杜鵑」「平等院紅葉/修学院雪朝」。春夏秋冬の京の名所を描いている。いかにも日本画にありがちなシチュエーションではある。

菊池芳文の「嵐山桜花/下鴨杜鵑」

さらに「平等院紅葉/修学院雪朝」

 最後はまるで絵はがきのような下村観山の「鳳凰堂図」。

下村観山の「鳳凰堂図」

 京の大家達の名品を腹一杯堪能である。なお別コーナーには京の老舗のために大家達がデザインしたパッケージが展示されている。これらはまだ使用されているとのことで、この辺りは流石に京都である。

京の老舗菓子屋などのパッケージ

 福田美術館の見学を終えると車を回収して次の目的地に向かう。そもそもは次の目的地が京都までやって来た主眼である。目的は京都国立近代美術館で開催中の鏑木清方展。清澄なる美人画で知られる大家で、私は以前から彼の凜として品のある美人画を好んでいる。今回かなり大規模な回顧展とのことで、これだけは外せなかったところ。とりあえず美術館近くの駐車場に車を置くと美術館へ。

 

 

「没後50年 鏑木清方展」京都国立近代美術館で7/10まで

京都国立近代美術館

 京都画壇の上村松園と並んで、東の美人画と言えばこの人というぐらいに有名な鏑木清方の没後50年に開催された大回顧展。清方の初期の作品から晩年の作品まで一堂に会して展示している。

 清方は日本の変わらない風景というものに執着した画家でもあるようである。そのためか初期には江戸時代の風景を未だに引きずっている東京の風景の中に生きている人々を生き生きと描いた作品が多い。その中には単に人々の姿を映したと言うだけではなく、その人物の内面や背景まですべてを見通すように活写した作品が多い。

 それだけに関東大震災の発生は、清方自身には大きな被害はなかったようであるが、見慣れた風景がことごとく破壊されたことに強い衝撃を受けることになったという。これ以降の清方の作品は、まるで全く別物に生まれ変わってしまう東京を否定するかのように、かつての自身の思い出の中にある東京の風景を甦らせようとするかのような作品が増える。

 そんな中の1つが本展の表題作でもある「築地明石町」である。古き良き明治時代の町を背景に、いかにもその風景にびったりの当世風美人が颯爽として存在するまさに清方らしい美しい作品である。これらは後に描かれた「新富町」「浜町河岸」と三部作とされており、清方芸術の最高峰として高い評価を受けたのだが、永らく行方不明となっており、2018年にようやく再発見されたという。これらの心洗われるような清々しさは確かに清方芸術の真骨頂であると感じられる。

表に看板として出ていたのがその三部作

 なお若き日の清方は挿絵なども手がけており、その頃に樋口一葉の「たけくらべ」に傾倒したとのことである。そのことから一葉の内面まで描こうとしたかのような肖像画や、さらには一葉の墓所を訪ねた時に見たという美登利の亡霊を描いた「一葉女史の墓」など印象深い作品も展示されている。

 東京国立博物館所蔵品や鎌倉の鏑木清方記念美術館所蔵品など、関西の人間には目にしにくい名品が多数展示されているので、関西人にとってはそれだけで訪問するべき価値のある展覧会である。私も清方の名品を多数鑑賞することが出来て非常に満足である。

 

 

灼熱地獄の中、喫茶で一息

 展覧会を堪能したが、正直かなり疲れた。それにしてもやっぱり展覧会鑑賞は思いの外体力を消耗する。またやはり夏(本番はまだまだ先のはずだが)の京都はかなり蒸し暑い。あまりにグッタリきたので、近くの喫茶「茶ろん 瑞庵」で宇治金時ドーピングをすることにする。夏場はやはりこういうかき氷が一番ありがたい。

茶ろん瑞庵

やはり夏はこれに限る

 宇治金時ドーピングでようやく復活したところで、本日の美術館最後の目的地へ。今度は長年の工事を終えて改装なった滋賀県立美術館である。名神高速で瀬田まで突っ走る。京都市内の美術館と違って、こういう地方美術館は駐車場の心配をしなくてよいのが助かるところである。もっともここは文化ゾーンという公園の中なので、美術館まではプラプラと散策気分で結構歩く必要はある。

公園を散策

 

 

「生誕150年 山元春挙」滋賀県立美術館で6/19まで

改装なった滋賀県立美術館

 大津出身で京都画壇を代表する日本画家である山本春挙の作品を集めた大回顧展。日本画の伝統を汲む画風の一方で、取材にカメラを使用するなどの先進性も示したという。京都画壇では竹内栖鳳と並ぶ重鎮であり、帝室技芸員に選定され、東の川合玉堂と共に昭和天皇大嘗祭の屏風の製作を行うなど、巨匠として活躍しており、今後さらにどんな芸術を花開かせるかと期待される中で61歳で急死している。

 本展では初期の独学で絵を学んでいた時代、さらには円山派の流れを汲む野村文挙の元で修行をし、さらには森寛斎に師事した時代の作品などから、晩年の巨匠となった時代の作品までを展示している。

 初期の頃から一貫しているのは写実的表現であり、この辺りは明らかに円山派の流れを汲んでいる。墨絵などの執拗な細かい線描などは見事の一言である。

 その一方で清澄で明快な色表現なども冴える。特に魅力的なのは水の表現である。透き通るような碧色には強く心惹かれるものがある。この色彩表現は特に晩年になって冴えてきたものであり、若き頃は水墨の基本に徹したということだろうか。確かにそのような変化を見ていると、61歳というまだ若すぎる死が惜しまれてならないのである。


 山本春挙の名は今までに何度も聞いていたが(多くの弟子を持ったようなので、○○の師という形でしょっちゅう名前が出ている)、意外と彼の作品を集中して鑑賞する機会というのは今までなかった。それだけに今回の展覧会のように彼の作品及び人となりを理解できる機会は非常に貴重であったと感じる。

 このようにどのような画家であったかまでが見えてくるという点で回顧展の類いは有用であり、私が好むところである。○○派展とか○○時代展というのはその時代や流れを知るには有用なのだが、各画家の作品はせいぜい数点なのでその背景が見えないことが多く、初心者には良いが、そこから一歩踏み込むとやや食い足りない感が出るというのは常々感じているところ。まあ私も美術館通いを始めてからはや20年以上、最早初心者ではない(自身に絵の心得が全くないという点では永遠の初心者だが)ということだろうが。よくよく考えると私の場合、音楽も全く同じである。

 

 

大阪に戻るが、途中で一休み

 これで本日の美術館予定は終了、コンサートに向けて京滋バイパスから第二京阪道路を経て大阪に戻ってくるが、時間的に駐車場に車を入れるまでは1時間ほどの空き時間が出来そうである。2日続けて駐車場近くの路上でガイア鑑賞というのもツラいので、今日はホールに向かう道すがらにあるネカフェで一休みすることにする。立ち寄ったのは快活CLUB。特にコミックを読むでもなくフラットブースでゴロンと横になる。段々と面倒臭くなってきたので、ついでだからそのまま炒飯を頼む。数分後、いかにもレンチンしましたという炒飯が到着。こんなものでも一応食べられるというのは、まさにこの数十年の冷凍技術の進歩を感じるところである。結局はこれが本日の間に合わせ夕食となる。

レンチン夕食

 今日はとにかく車で走り回った上に美術館回りで体力を極度に消耗している。1時間ほど横になっていくらかでも体力を回復してからホールに向かうことにする。

 昨日に続いてのフェスティバルホールであるが、読響の公演は毎度のことながら黒服がズラリと居並んだ物々しい空気がある。なお読響の大阪での人気は高いようで、昨日のデュトワ・大フィルを凌ぐかというようなほぼ満席の状況である。

昨日に続いてのフェスティバルホールへ

 

 

読売日本交響楽団 第32回大阪定期演奏会

指揮/上岡敏之
ヴァイオリン/レナ・ノイダウアー

曲目/メンデルスゾーン:序曲「ルイ・ブラス」
   メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
   チャイコフスキー:交響曲 第6番「悲愴」

 曲者・上岡敏之を迎えて読響がどのような演奏をするかが興味深いところであるが、もう一曲目のルイ・ブラスから上岡が曲者ぶりを発揮する。最初の第一音から「あれ?この曲ってこんな曲だったっけ?」というような音色を出してくる。しかも実に変化の幅の大きな演奏である。おどろおどろしいまで絞ってくる場面があれば、かなりぶっ放してくる場面まで変化は激しい。まあ休符の引っ張り方に独得の溜がある。場合によるとオケがつんのめるのではないかと思うぐらいに休符を引っ張る場面がある。とりあえず初っ端からぶちかましまくりの演奏である。

 ソリストのノイダウアーを迎えてのメンコンは、ノイダウアーの音色が非常に美麗で繊細な面があるので、ややバックの上岡のアクの強さに負け気味なところがある。上岡はバックを務めてもアクの強さが滲み出るので、それをノイダウアーが薄めているようなバランスになっている。そのためか曲調もあってノイダウアーの演奏は終始オーソドックスな印象を受けた。むしろ彼女の真髄はアンコールで見せた(曲名は私は知らない)ような超テクニシャンである面のように思われるので、それを遺憾なく発揮できるプログラムにした方がバックと渡り合えたのではという気がする。

 休憩後の悲愴は、これは完全に上岡節と呼ぶべきか。とにかく濃厚な演奏である。いきなり死にそうに始まった序盤は、聞いているこっちが思わずのけぞれそうになるぐらい休符で引っ張るものだから、開始1分でいきなり曲が終わったこと思ってしまった(笑)。とにかくその調子でかなりクセの強い演奏で始まる。

 第一楽章前半はかなりテンポも抑えた重苦しい演奏であり、後半も思い切り盛り上げて来る演奏が多い中で、上岡の盛り上げはやや抑え目。むしろ爆発的に盛り上げてくるのは第三楽章で、終盤になるとノリノリのぶちかましなので、もうこのまま満場の拍手と共に曲を終わらせた方が正解ではないかと思わせる内容。

 なお客層によってここで本当に拍手がかなり出る(特に辻井公演なんかだったらかなりの拍手が出る)ところであるが、さすがに読響に来る客層は心得ていて、場内は静まりかえって物音1つ無い。そこから始まる第四楽章だが、一点しての沈痛な響きで来るのかと思えばさにあらず、上岡の演奏は思いの外力強い。途中で盛り上がる場面などは、人生の最期を迎えつつ過去の思いを回想するという趣ではなく、第三楽章で華々しい人生を送った英雄が、我が人生を満足と共に振り返るという趣で、悲痛な中に力尽きるわけではなく、満足の中で「我が人生に一片の悔い無し」と堂々と人生を終えるという印象の音楽になっていた。つまりはチャイコフスキー交響曲第6番「大往生」である。

 とにかく上岡らしくかなり個性の強い演奏であり、これは好みが二分されるところであろう。まあ根っこが下品な人間である私は、こういうゲテモノもありとは感じるところであるが。


 これで今回の遠征は終了。明日からまだ仕事があることもあるので、家に向かって夜の阪神高速を慌てて突っ走るのである。かなり疲れたが、コンサート、美術展共に非常に実りの多いものであり、実に満足している。まさに命の洗濯であった。

 

 

この遠征の前の記事

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