翌日はレンタカーで山城巡り
翌朝は6時半に目覚ましをセットしていたのだが、それよりも早く目が覚めてしまう。仕方ないので熱いシャワーで目を覚ますと身支度をすることに。
朝食はバイキングだが、法華クラブのバイキングは地元食も取り入れられた豊富なもの。これがこのホテルチェーンの良いところである。昨晩はやや体調不調で食欲も不振で、昨晩などは横になっていると胸がムカムカしていたのだが、一晩で回復したようでモリモリ食える。朝から和食でしっかりと頂く。
朝食を済ませると8時までにホテルをチェックアウトする。今日は指宿温泉に移動する予定だが、その前に山城など数か所経由してから新重伝建の加世田に立ち寄る予定となっているので、早朝から行動開始するに越したことはなかろうと、レンタカーの予約を8時からにしている。九州地区でのお約束としてレンタカーはたびらいを通して確保している。たびらいは元々九州レンタカーだっただけに、今でも九州地区のレンタカーなら、ここを通すのが大抵一番安い。
路面で鹿児島中央まで移動するとタイムズレンタカーへ。やはり観光地では朝一から行動を開始する者が多いのか大勢の客でごった返している。私に貸し出されたのはやけに箱型な車だなと思えば、スズキのソリオ。全く初めての車である。後ろから見た時は箱バンかと思った。シフトレバーをフロントに持ってきているので運転席回りが広いのは良いが、シフトレバーの位置をすぐに見失う。またシフトをDに入れているつもりでLになっていたりなど、かなり慣れが必要な車である。
市来鶴丸城を訪問
さて最初の目的地であるがそれは市来鶴丸城。日置市立鶴丸小学校を目標に突っ走る。現地には30分ほどで到着。現地には登城路の看板まで出ていて至れり尽くせり。車は小学校隣の図書館の大きな駐車場に置かせてもらう。
登城路の正面には春日神社があり、登城路はそこから向かって右手、小学校裏手の山の方に続いている。そこを進もうとしたらいきなりザビエル像がお出迎え。思わず頭の中が「?」でいっぱいになるが、説明によるとこの城はザビエルと関わりが深いのだという。
市来鶴丸城はそもそもは13世紀初頭に市来家房が最初の城主となったのであるが、その後に島津領となる。そして1550年、ザビエルが鹿児島で布教していた時、この城の家老のミカエル(イエズス会に洗礼名が残るのみで日本名は不明)に招かれてここに滞在したのだとか。なおこの城は複数の曲輪をはね橋でつないだかなり壮大な城だったという記録も残っているという。
さて登城を開始するが、道がよく整備されているので足元に不安は全くない。すぐに到着するのが一番手前の曲輪だが、ここでもうすでに結構高さがある。またシラス台地の特徴で周りの崖がかなり切り立っている。
さらに進んだその上の小曲輪は元々は下の曲輪とつながっていたのではという気がする。もしかしたら、下の曲輪の櫓を登ればこちらの曲輪に移動できるなどという仕掛けもあったかもしれない。
山頂の本丸周辺はかなりの規模
その一段上が本丸手前の曲輪となる。本丸の周囲にはかなり深い横堀が見られるが、それの見学は後にして本丸に登る。
本丸に登って驚いた。こんな山の上とは思えないほどの広さの削平地がある。これなら立派な御殿を建てても十分である。壮大で豪壮な山城にできたと思われる。周りは相当に切り立っており、防御も十分。
本丸下の堀底を回ってみたが、とにかく深いし急である。シラス台地の崖の特徴で垂直どころかむしろ上がせり出している感じがあるので、よじ登るのことはまず不可能(しかも崖にとりつこうにも火山灰土でズルズル)。しかもこの堀自体が足元を気を付けないと、切り立った崖から転落する恐れがある。もし足を滑らせたら余裕で死ねそうだ。
朝一から見事な山城に行き当たった。整備状況も含めて私選100名城Bクラス該当である。これは幸先が良い。
南郷城は藪の中
市来鶴丸城の次はここの南にある南郷城を目指す。海沿いを走行すること30分ほど、永吉小学校の横の道を山に向かって進んだ先が南郷城であり、突き当りに見学者用駐車場まで完備されている。
案内看板によると、この城はそもそも桑波田一族が支配しており、源智を祖に十代つづいたが、そこで島津忠良との戦いとなって敗北、この地は島津領となったということらしい。
縄張り図を見たところ、この辺りのシラス台地に多い複数の曲輪を横に配置した城郭のようである。登城路は地元有志が整備したものと思われ、要所要所に看板が立ててあるので道に迷わなくて済むのだが、肝心の道自体は既にほぼ藪に埋まって消えかかっている上に倒木なども多数。しかも結構急な登りなどもある上に、火山灰土の足元はぬかるんで滑るし、杖を突けばこれもズブズブと沈むという状態。意外に難儀。攻城中に矢玉がとんでこないことだけぐらいが救い。こりゃこの城を攻略する兵は難儀したろう。
やがて根子城方面と本丸方面の分岐に差し掛かるが、ここはまず本丸を目指す。この移動はほぼ水平の移動であるが、足元の道が消えかけているのは相変わらず。
本丸に到達する
次に東の城との分岐の看板があるが、ここは本丸に登る。このところの登りは急だが、足元に階段が設置されているので不安はない(もっとも途中で倒木に進路を妨げられたが)。
到着した本丸は木は切っていないが、下草はある程度は処理した模様・・・とは言っても結構鬱蒼としている。面積は結構広く、館などは余裕で建設できる面積。また周囲の崖はかなり切り立っているというか、明らかにせり出しているところもあり、気を付けないとあまり端に行ったら足元ごとドサッとなりかねない。シラス台地に固有の特徴で、とにかく台地に堀切を入れるだけで堅固な城郭になるのがこの地の特性。
本丸を降りると次は東の城に向かうが、これは道が途中で竹藪の中に消失しており、周囲の状況はさっぱり分からないし、その先に進めないので引き返してくる。
ロープでよじ登って根子城へ
次に根子城の方に向かうが、こちらはいきなりロープを使う必要がある急な登り。蜘蛛の巣に頭を突っ込んだりしつつも、どうにかこうにかこれはクリア。その先は堀底道らしきところを進む。
ここから回り込んで登った先が根子城のようだが、かなり広い削平地であるのは分かるが、とにかく鬱蒼としていて先に進む気が起きないのでこれも引き返してくる。
後はズルズル滑る足元に気を付けながら降りてくる。とりあえず本丸周辺は整備されているのだが、登城路といい全体がこれでは少々厳しいものがある。もう少し整備状況が良ければ私選100名城Bクラスに十分届くだけの城なんだが残念。なおこの後、車に乗ろうとしたらズボンが種まみれでとんでもないことになっており、まずそれを外す必要に迫られたのである。こういう点でもやはり登城路の整備が欲しい。城の状況ではこういうことはよくあるので、次からは攻城装備にガムテープを加えておくことにしよう。
田中城に立ち寄る
二発目の山城もまずまずのものであった。次は田中城。田園地帯の中に孤立する丘の上にあった山城のようだ。ここは加世田に向かう経路の脇にあるから立ち寄り先に入れた程度のもので、全く期待していなかったのだが、いざ現地に行くと市指定文化財とやらのかなり気合の入った解説看板まで立っており、登り階段も整備されている。看板の前に車2台ぐらいは駐車できそうなスペースがあったのでそこに車を置く。
看板によるとこの城は1190年ごろ和田八郎親純の居城であったと伝わっているという。親純はそもそもは藤原遠純(藤原純友の弟)の子孫であり、この地に勢力を誇ったらしいが、この辺りのお約束通りに島津の伸長によって没落してしまったとか。
階段を上りきると細長い曲輪に出るが、その奥をさらに一段登る構造になっている。
登った先は小さな曲輪で、その奥を一段降りると本丸の下に出るという構造。途中の症曲輪が関所が何かのような奇妙な構造になっている。
本丸は周囲にグルリと横堀を巡らせており、この城全体が孤立丘の上にあるので防御はそれなりに堅固である。周りの田園地帯を見下ろしており、この地の支配者としては十分な城郭である。もっとも規模はそれなりなので、九州に覇を唱えるべく動き出した島津の大軍を相手に回すと分が悪いだろう。
昼食後に立ち寄った貝殻崎城は小泉純一郎の石碑だけ
全く何も期待していなかったのだが、予想に反して立派な城郭だった。おかげでテンションは上がるが、予定よりもかなり時間を浪費している。そろそろ昼時になったので昼食も考える必要がある。ここからさらに少し南下すると道の駅金峰木花館があるので、そこの食堂でかけそばの定食を注文する。
やけに太いそばだが、箸でつまむと粘りがないせいかブチブチと切れる。出汁ともなじまずに団子な印象である。正直なところ、うーん、これはないわというのが本音。どうも昨日と言い、今回の遠征はそばに恵まれていない。
とりあえずの昼食を終え、国道270号が2経路に分かれるその一方の脇にあるのが貝殻崎城。しかしここは小泉純一郎による立派な城跡碑が立っているだけで城の遺構らしきものが皆無である。どうも本来の城の遺構が道路で叩き潰されている気がする。
ここまで来ると、とりあえずの目的地である加世田はすぐそこである。加世田を目指すことにする。
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