徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

お知らせ

アニメ関係の記事は新設した「白鷺館アニメ棟」に移行します。

白鷺館アニメ棟

涌谷城を見学してから鳴子温泉で湯巡り

 翌朝は目覚ましで7時に起こされる。朝食はタン焼きなどもある仙台バイキング。ドーミーらしくご当地食含みのバイキングである。

f:id:ksagi:20190905225901j:plain

タン焼きもあるドーミーバイキング

 テレビをつけて天候を確認するが、どうも今日は昼頃にかけて天候が怪しくなるようだ。続けて朝ドラの「なつぞら」が始まるが、どうやらストーリーがアニメ製作に復帰するようだ。「ホルス」が出てきた辺りでは盛り上がったが、ホームドラマ化してから急激につまらなくなったと言われていたので、アニメ復帰は必至だろう。私はこのドラマはあまり見てないのだが、主演の広瀬すずの演技の表情の乏しさと、棒読みナレーションが気になるところだ。次の番組の朝イチにまで広瀬すずが登場してNHKは全力の広瀬すずあげ。最近はこの娘をテレビで見かけることが増えてきた。確かに可愛い子だが、いつも感じるのは何か回りが異様に気を使っている雰囲気。もしかして取り扱いの難しい子なんだろうか?

 

 

古川に高速バスで移動

 体を温めるために朝風呂に繰り出すと、一休みしてからチェックアウトすることにする。今日の予定だが、古川に移動してレンタカーで鳴子温泉に移動というもの。鳴子温泉到着前にこの近辺の城郭に立ち寄るつもりでいたが、天候によってはその予定は見直す必要がありそう。さらに難儀なのが古川への移動。新幹線を使えば10分ちょっとなんだが、この時間帯の新幹線は全席指定のはやぶさのみで、一駅だけの乗車に指定券2000円以上が必要というあまりのボッタクリぶり。在来線で行くことも考えたが、1時間以上かかる上にとにかく本数がない。自由席もあるやまびこを待とうにも11時頃までない。仙台市民はこんな理不尽に耐えているのだろうかと疑問を感じて調べたところ、どうやらJR高速バスが出ている模様。1時間近くかかってしまうが、30分に1本の頻度で運行されている。古川までのJR乗車券が無駄になるがこれを使用することにする。

 古川までは1時間ほどで到着する。なお全席指定の新幹線の場合も、自由席券で空いている席に座れるらしいということを私が知ったのは、翌日に古川から移動する時だった。JR東日本のHPをザクッと調べただけでは分からなかったのだが、さては積極的にアピールしてないな(まあJRとしてはことさらにアピールするべき理由はないわな)。時間を無駄にしたが、車窓の風景は意外に興味深かったし、料金はほとんど変わらないので良しとしておくか。

f:id:ksagi:20190905230008j:plain

古川駅に到着

 古川からはレンタカーで移動する予定。駅近くのオリックスレンタカーでホンダのフィットを借りる。この車に乗るのは初めてだが、パワー不足気味なのかどことなく動きに重さを感じる。特に発進時のドッコイショというような感覚はイマイチ。それに車内空間がいかにも狭い。身長168センチと決して長身とは言えない私でも、頭が屋根にスレスレ。大柄の男性なら乗り込むだけでも大変だろう。女性用の買い物車か。

 

 

涌谷城 涌谷伊達氏の居城

 さてこれからどうするかだが、当初考えていたプランは諸々あったのだが、この雨がぱらつく状況下では本格的山城攻略は無理と考えるべき。そこでいくつかの代替プランの中の涌谷訪問プランを実行することにする。古川から30分ほど東に走った先に涌谷城がある。

f:id:ksagi:20190905230408j:plain

川沿いにある涌谷城

 涌谷城は川沿いの高地の上にある。元々の涌谷氏による城郭は駐車場になっている部分が二郭で、現在は神社となっている部分が本郭だったという。しかし伊達氏配下の亘理氏がここに移ってきた時に、手前の部分を削平して大規模な二の郭として造成したという。なお亘理氏は後に伊達姓を名乗ることを許されたことから、涌谷伊達氏の誕生となる。現在、二の郭の手前に天守型の資料館(要するになんちゃって天守である)と隅櫓(江戸時代からあったものらしいが、明治以降に壁等にかなり手が入っている)が建っている。なお手前の石垣が明らかに製造年度が違うものが組み合わさっているが、隅櫓下の石垣は往時のものであり、それに後で新しい石垣を付け足したようだ。

f:id:ksagi:20190905230526j:plain

この駐車場が元々の二の郭

f:id:ksagi:20190905230604j:plain

公園化しているのが後に整備された二の郭

f:id:ksagi:20190905230627j:plain

涌谷城資料館

f:id:ksagi:20190905230704j:plain

隣にある隅櫓

f:id:ksagi:20190905230720j:plain

隅櫓下の石垣は往時のもの

 資料館内には涌谷地域の考古的資料、さらに涌谷伊達氏の歴史にまつわる展示(伊達騒動の件なども含む)が展示されている。地方によくある民俗史料館+自然史博物館+歴史博物館という構成である。これによるとこの地域は奈良時代には金の採掘でかなり栄え、奈良の大仏建立のための金もこの地域から産出したものであるとのこと。

f:id:ksagi:20190905230753j:plain

資料館内の展示

 二の郭は完全に公園整備されてしまっているせいで石垣以外の遺構は皆無である。本郭の方にも登ってみたがこちらも遺構はなし。ただそれなりの規模の城郭であることは分かる。涌谷伊達氏は公称2万石クラス。実質石高は4万石相当だったらしいから、伊達氏配下と言いながら実質的には小大名クラスである。そのために戊辰戦争にも奥羽越列藩同盟の一員としてそれなりの兵力を拠出したらしい。

f:id:ksagi:20190905230815j:plain

本郭にある神社

f:id:ksagi:20190905230830j:plain

伊達の九陽紋

 

 

天平ロマン館と金山神社を見学

 涌谷城の見学を終えると奈良時代の金山絡みの施設である天平ロマン館を見学することにする。ここではかつては砂金が産出し、それらが聖武天皇に献上され、これで大仏建立の見込みが立ったと大いに天皇を喜ばせたという。なおこの時に金の採掘に貢献したのは百済からの渡来人であり、彼らの持つ高い技術が金の採掘を一気に進めることになったとのこと。

f:id:ksagi:20190905230943j:plain

天平ロマン館

f:id:ksagi:20190905230956j:plain

砂金の展示

f:id:ksagi:20190905231032j:plain

百済の金香炉のレプリカ

f:id:ksagi:20190905231106j:plain

隣の売店には天平萌え美人が

f:id:ksagi:20190905231140j:plain

さらにありがたい方がくつろいでいる

f:id:ksagi:20190905231202j:plain

金運だるま

 天平ロマン館見学の後は、この奥にある金山神社を参拝しておく。これはかつてこの地に祭られていた神社を復興したものだとか。金運に関する御利益があるとのこと。これで私も豊かな生活が約束されるか?

f:id:ksagi:20190905231230j:plain

金山神社

f:id:ksagi:20190905231243j:plain

この石が礎石だとか

 涌谷の見学を終えると鳴子温泉に向かうことにする。小牛田や古川を超えて西に向かう。道路は結構混雑しているのでスムーズに走りにくい。

 

 

道の駅で昼食

 岩出山を過ぎてさらに進んだところで道の駅あ・ら・伊達な道の駅に立ち寄って昼食を摂ることにする。道の駅のカフェで山菜ナメコそばを注文。明らかに麺はゆで麺で腰がないが、ナメコが意外に美味かったので良しとするか。さらにここで夜食用のずんだ団子を購入しておく。 

f:id:ksagi:20190905231348j:plain

道の駅あ・ら・伊達な道の駅

f:id:ksagi:20190905231404j:plain

昼食の山菜ナメコそば

f:id:ksagi:20190905231420j:plain

ずんだ団子を購入

 

 

鳴子温泉幸雲閣で宿泊

 鳴子温泉に到着したのは15時過ぎ。とりあえずホテルに一旦入ることにする。今回宿泊先に決めたのは大江戸温泉幸雲閣。私の部屋は洋室のシングルルーム。この手の温泉ホテルでよくある添乗員部屋もしくは従業員部屋というところか。

f:id:ksagi:20190905231549j:plain

大江戸温泉幸雲閣

f:id:ksagi:20190905231606j:plain

シングル洋室

 一休みするとまずは大浴場に入浴に行く。ここは最上階に温泉大浴場がある。やや黒ずんだ着色のある湯でナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩泉とのこと。弱アルカリ泉である。若干のヌルヌル感はあるがそう強くはない。刺激の少ない湯。

f:id:ksagi:20190905231623j:plain

大浴場入口

 大浴場を出ると百畳露天風呂に入りに行く。こちらはナトリウム-炭酸水素塩・硫酸塩・塩化物泉とのことで、中性の湯とのこと。着色もなくおとなしい湯。

f:id:ksagi:20190905231639j:plain

百畳露天風呂

 

 

やっぱり湯巡りをすることに

 鳴子温泉と言えば隣の旅館とでも湯が違うと言われるぐらい、とにかく様々な泉質の湯があることで有名な温泉地。館内の温泉を一渡り回ったがやはり湯巡りをしてみたいところ。どうやらホテルから湯巡りバスが出るとのことなので、それで湯巡りすることにする。やはり湯巡りしてこその鳴子温泉である。

しんとろの湯

 バスに10分ほど乗って最初に向かったのは、鳴子温泉の隣になる中山平温泉のしんとろの湯。ここの湯は含硫黄-ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉とのことだが、かなり強いアルカリ泉で、何とpH9.2。湧出泉温が90度以上とかなり高いので、裏手に木の樋を通して自然冷却したものを掛け流ししている。入浴すると皮膚がヌルヌルというか溶けるんじゃないかという感触。1時間浸かってたら体が溶けてシチューになりそうだ。

f:id:ksagi:20190905231746j:plain

しんとろの湯

f:id:ksagi:20190905231756j:plain

浴場

f:id:ksagi:20190905231806j:plain

裏のこの木の樋で源泉を冷ましている

滝の湯

 次はまたバスで送ってもらって滝の湯に行くことにする。ここは共同浴場という何とも言えない趣がある。こちらは泉質は硫黄泉。青みかがった白濁があり、先程の湯と違ってやや肌に強い当たりの湯である。また北国の共同浴場にありがちだが、とにかく湯が熱い。

f:id:ksagi:20190905231850j:plain

共同浴場滝の湯

ますや

 滝の湯の次はますやに立ち寄る。ここは大江戸温泉の系列なので無料で入浴可能。泉質は先程の滝の湯と同じ硫黄泉。ただこちらの方は湯に濁りもなく、肌当たりも滝の湯ほどの強さはない。入りやすいタイプの湯だが、インパクトには欠ける。

f:id:ksagi:20190905231924j:plain

大江戸温泉系列のますや

 

 

 一渡りの湯を堪能してホテルに戻ってくる。なかなかに面白かったがいささか疲れた。部屋で一休みすると夕食にレストランに出向くことにする。

 夕食は大江戸温泉名物のバイキング。これがまた例によって物量がすごい。そばや寿司まで含めて一渡りを頂くが、まずまずである。デザートまで含めてガッツリと頂く。やはりこれあってこその大江戸温泉。この夕食の充実度が伊東園なんかと違うところ。

f:id:ksagi:20190905232155j:plain

夕食バイキング

f:id:ksagi:20190905232210j:plain

デザート類

 夕食を終えて部屋に戻ってくると、しばし疲れが出てグッタリ。そのうちにロビーでじゃんけん大会やマジックショーがあるというのでロビーに出向くことにする。じゃんけん大会は見事に初戦敗退。昔から私のくじ運・勝負運はこんなものである。マジックショーはなかなか楽しめた。やはりこういう場で披露するマジック芸は、本業の技術もさることながら、客を巻き込む話術が非常に大切であるということがよく分かった・・・などと一応ビジネスマン的なコメントをしておく(笑)。

 部屋に戻るとテレビをボンヤリ見ながら時間つぶしをした後、就寝前にもう一度入浴してからこの日は床につく。

 

名古屋フィル第470回定期演奏会&松坂城&名古屋城(本丸御殿)

 翌朝は7時半に起床。目が覚めたところで朝食へ。朝食は伊勢うどんなどのご当地食も含むドーミーバイキング。今日は朝から食が進む。

f:id:ksagi:20190707214703j:plain

ドーミーバイキング朝食

 さて今日これからどうするかだが、今日の予定は午後4時から愛知県芸術劇場での名古屋フィルのコンサート。それまでがフリーである。松阪辺りに立ち寄ることも考えていたが、気象情報を見ると向こうはかなり雨が降っている模様なのでチェックアウト時刻近くまで部屋でグダグダすることにする。

いざ、松坂へ

 しかしチコちゃんを見ながらウダウダしている内に「こんな無駄なことしてても不毛だよな」という気持ちが沸き上がってくる。そこでもう一度気象庁のHPをチェックしてみると、先程とは状況が変わって松阪周辺は小雨かうまくすると降らないのではという状態に。ここで意を決して松阪に向かうことにしてホテルをチェックアウトする。

 松阪へは急行で20分ちょっと。松阪に来るのはかなり久しぶりなので駅前の様子などは全く覚えていない。とりあえずキャリーを駅のコインロッカーに入れるとGoogle先生にお伺いを立てながら松阪城を目指す。

f:id:ksagi:20190707213909j:plain

松坂駅に降り立つ

 

 

松坂城 蒲生氏郷の手になる100名城

 松阪城周辺は路地が入り組んでいて、歩いている内に方向を見失ってしまうような構造。この辺りはかつての城下町の防御構造だろう。Google先生の案内がなければとてもまともに到着できなかったところだ。路地迷路を抜けると唐突に松阪城の石垣が目に飛び込んでくるが、あまりの立派さに息を呑む。そしてこの時に思いつく「ああ、やっぱりこれのせいで津城の記憶がぶっ飛んじまったんだな」。かなり可愛い子に会っていたにもかかわらず、その直後にトップ女優クラスの美女と出会ってしまったというようなパターンか。いや、これではあまりに私の状況とズレすぎていて例えにならんか。私の回りにはかなり可愛い子どころか、そもそも女性が不在なんだから。独身キャラの春風亭昇太が結婚したと話題になっていたが、やはり名前と金があれば50過ぎの城オタでも結婚できるということだろう。しかし私のような名前も金もない50過ぎの城オタに寄ってくる物好きな女性はいない。

f:id:ksagi:20190707214030j:plain

この手の方向を見失わすトラップのような道路が多い

f:id:ksagi:20190707214101j:plain

突然にこの石垣が目に飛び込んでくる

 松阪城はこの地を見下ろす独立丘上に蒲生氏郷が築いた城で、蒲生氏郷が福島に移った後は城主が転々として、江戸時代初期に紀州藩の藩領となって城代が置かれるようになり、そのまま幕末を迎えたようである。天守は江戸時代に台風で倒壊後に再建されることなく放置されたようだが、残りの建物は明治期に消滅した模様である。今日では石垣のみが当時の偉容を伝えるが、現在100名城に選定されている。

f:id:ksagi:20190707214802j:plain

松坂城構造図

f:id:ksagi:20190707214836j:plain

表門

f:id:ksagi:20190707214854j:plain

正面に見えるのは本丸石垣

 表門のところから見上げるような石垣が正面にあって圧倒される。思わず興奮して先を急ぎそうになるのだが、その前に脇にある歴史民俗資料館を覗くことにする。こちらでは昭和と平成の生活なるものを展示してあるが、昭和の家庭用品が懐かしいと言おうか何と言おうか。私自身がまさに使ったことがあるものから、古すぎて私には分からないものもあったが(笑)。

f:id:ksagi:20190707214918j:plain

歴史民俗資料館

f:id:ksagi:20190707214933j:plain

昭和の高級家電

f:id:ksagi:20190707214945j:plain

今や絶滅寸前の公衆電話

f:id:ksagi:20190707215004j:plain

昭和の食卓

f:id:ksagi:20190707215016j:plain

さすがにここまで来ると私の親の世代

 

 

 民俗資料館を見学した後は本丸に向かう。ここからまっすぐ進んだところが本丸下段。もう既にここでかなりの高度があるが、ここからさらに上に本丸上段がある。

f:id:ksagi:20190707220616j:plain

本丸を目指す

f:id:ksagi:20190707220636j:plain

正面が本丸上段の石垣で、左手が本丸下段

f:id:ksagi:20190707220703j:plain

本丸下段

f:id:ksagi:20190707220726j:plain

隅には櫓台がある

f:id:ksagi:20190707220740j:plain

既にかなり高い

f:id:ksagi:20190707220758j:plain

さらに上段に登る通路が

 ここはこの城の最高所。辺りを見渡せることが出来るし石垣上には櫓台もある。櫓台からは下の正門方向を見下ろすことが出来る。もし正門を突破してくる軍勢がいれば、ここから矢玉の雨を降らせるというわけである。

f:id:ksagi:20190707220826j:plain

本丸上段

f:id:ksagi:20190707220838j:plain

櫓台に上ると二の丸が丸見え

f:id:ksagi:20190707220903j:plain

隅には天守台がある

 この本丸上段には天守台もある。本丸上段の南西部にきたい丸が続いているが、こちらはかなり広い上に周囲を石垣に囲まれておりかなり堅固。また石垣の角ごとに櫓台があり、下を見張っている。松阪城裏手の守りの要とも言えるだろう。とにかく城全体が死角がないように組み立ててあることがよく分かる。

f:id:ksagi:20190707220941j:plain

天守台上からきたい丸を見下ろす

f:id:ksagi:20190707221002j:plain

きたい丸は石垣で囲われている

f:id:ksagi:20190707221029j:plain

石垣の隅には櫓台が

f:id:ksagi:20190707221059j:plain

とにかくかなりの高度がある

 

 

 ここから一段下の隠居丸に本居宣長の生家である鈴屋が移築保存されている。ここから一段降りたところに本居宣長記念館があるが、この間の門は埋門とあることから、有事の際にはここの門は完全に封鎖してしまうのだろう。本居宣長記念館には国学者であった宣長の功績を伝える展示がされているが、文書中心であるので展示としては地味。

f:id:ksagi:20190707221114j:plain

本居宣長の生家である鈴屋

f:id:ksagi:20190707221154j:plain

内部は普通の民家

f:id:ksagi:20190707221210j:plain

本居宣長記念館

 隠居丸の向かいにあるのが二の丸でここはかなり広大。先程の隠居丸と共に、最前線で城を守る防御拠点である。かなりの大兵が詰めることが出来るだけのスペースもある。

f:id:ksagi:20190707221237j:plain

二の丸はかなり広大

 ここから裏門に出ることが出来るが、本丸までの距離は正門よりもむしろこちらの方が近いことからか、巨大な枡形を備えたかなり防御が厳重な門である。とにかく松阪城の鉄壁の守りを実感することが出来た。さすが押しも押されぬ100名城、石垣だけでもお腹一杯というところ。

f:id:ksagi:20190707221259j:plain

裏門の枡形

f:id:ksagi:20190707221311j:plain

裏門

 

 

 この裏門を出たところには御城番屋敷の長屋があり、かつての武家屋敷街の面影が残っている。一部が公開になっているが、ここには今でも住んでいる人もいるようである。

f:id:ksagi:20190707221331j:plain

御城番屋敷の長屋

f:id:ksagi:20190707221354j:plain

一部が公開されている

f:id:ksagi:20190707221410j:plain

内部は意外に質素

 城下町をプラプラと散策しながら松阪駅に向かうが、途中で原田二郎旧宅が公開されていたのでそこを覗く。原田氏は先程の御城番屋敷の住民よりは下級の武士になるらしいが、この屋敷は明治以降に建て増しなどもされており、明らかに先程の御城番屋敷の長屋より立派な屋敷になっている。屋敷の主の原田次郎氏は実業界で成功し、社会福祉のために公益財団法人を設立した篤志家であるとのこと。明治維新のガラガラポンでそれまでの身分制度がひっくり返った典型例とも言えよう。

f:id:ksagi:20190707221446j:plain

原田二郎旧宅

 

昼食は松阪牛弁当を購入

 松阪城と城下町を後にすると松阪駅近くまで戻ってくる。そろそろ昼食のことを考えないといけないが、頭の中には実はプランがある。松阪と言えば以前に訪問した時に食った松阪牛弁当が非常に美味であったことが記憶に残っている。そこで商店街の弁当屋の新竹商店に立ち寄って元祖松阪牛弁当(1500円)を購入することにする。弁当なら駅の売店でも買えるのだが、ここで買うと温かいご飯を詰めてもらうことが出来る。

f:id:ksagi:20190707221543j:plain

弁当屋の新竹商店

 温々の弁当を持ってそのまま名古屋行きの特急に乗車・・・したかったのであるが、私が駅に到着したのはちょうど特急の出た直後だったようなので、津まで急行で移動した後、そこでアーバンライナーに乗り換えることにする。弁当を開いたのはアーバンライナーに乗車してから。記憶にあった通り、冷えても柔らかくて美味い松阪牛が最高。さすがにこの弁当は美味い。

f:id:ksagi:20190707221615j:plain

近鉄アーバンライナー

f:id:ksagi:20190707221632j:plain

元祖松阪牛弁当

f:id:ksagi:20190707221657j:plain

この弁当が美味い

 名古屋には1時間弱で到着する。さてこれからの予定であるが、今日は4時から愛知県芸術劇場コンサートホールで名古屋フィルのコンサート。開演まではザクッと2時間以上の余裕がある。そこでこの間に名古屋城の見学をすることにする。目的は最近になって再建がなった本丸御殿の見学。

 

 

名古屋城 言わずと知れた天下普請の巨大城郭

 名古屋駅地下のコインロッカーにキャリーを置くと市役所前駅に移動。ここから名古屋城の東門はすぐである。

 さすがに天下普請の城だけあって、石垣も堀も松阪城よりもさらにワングレード上。それにしても一体どれだけの人員を動員したら、重機もないあの時代にこれだけの巨大建造物を建築できるんだろう。権力とはすごいものである。それだけに権力とは正しい者が行使する必要があるのだが、現在の日本では私欲のためにしか権力が行使されていない。

f:id:ksagi:20190707222732j:plain

いきなり堀と石垣に圧倒される

 立派な東門枡形を抜けると二の丸。この敷地内に巨大な体育館がある。どうやら大相撲名古屋場所が開催されているらしく多くの幟が立っている。ここを先に進むと入場ゲートがある。入場料は500円。

f:id:ksagi:20190707222803j:plain

東門

f:id:ksagi:20190707222818j:plain

かなり大きな枡形である

f:id:ksagi:20190707222834j:plain

大相撲名古屋場所絶賛開催中

 二の丸を進むと細くなった通路を抜けて本丸表門の前。こういう構造は鵜の首というらしい。こういったところで敵軍の侵攻を妨げるような構造になっているようである。なお西の丸方面は広大な広場になっているが、実はこちらにもこのような構造があったのだが、明治になって名古屋城が天皇の別荘として使用されるに当たって、馬車を通行させるために埋めてしまったと観光ガイドが説明しているのが聞こえてきた。まあ何にせよ、本丸の櫓が正面の一段高い位置から見下ろしているので、この辺りで敵軍が渋滞したら見事に狙い撃ちの的である。

f:id:ksagi:20190707222908j:plain

二の丸内部

f:id:ksagi:20190707222921j:plain

本丸の堀と隅櫓

 本丸表門の枡形もまた巨大であるが、ここの内側にまた巨大で頑丈な門があったようであり、守りは鉄壁。表の高麗門を突破して枡形内に突入しても、前方を巨大な櫓門で阻まれた上に十字砲火を浴びるという構造である。とてもではないが突破は容易ではなかろう。

f:id:ksagi:20190707222950j:plain

本丸表門

f:id:ksagi:20190707223003j:plain

この巨大枡形の奥に櫓門があったらしい

f:id:ksagi:20190707223024j:plain

こんな感じ

 

 

本丸御殿はキンキラキンの世界

 本丸に入るといきなり本丸御殿にご対面。天守と違って高さはないのであるが、かなり巨大な建物で圧倒される。御殿に入場するには行列が出来ておりしばし待たされる。内部がごった返さないように入場規制をかけているようである。内部は豪華絢爛のキンキラキンの世界。とにかく襖絵だとか浮き彫りだとか、装飾が極めて豪華。しかも奥に進めば進むほど部屋の格式が上がって装飾も派手になる。これも年月が経てばもっと落ち着いてくるんだろうが、今はとにかく派手なのでいささか成金趣味にも見える。名古屋のハデ婚の精神の大本は実はこの辺りにあるのかもしれないなどと感じる次第。

f:id:ksagi:20190707223042j:plain

本丸御殿

f:id:ksagi:20190707223055j:plain

とにかくデカイ

f:id:ksagi:20190707223249j:plain

入場するには行列

f:id:ksagi:20190707223302j:plain

内部も人だらけ

f:id:ksagi:20190707223318j:plain

御殿内は初っ端から豪華

f:id:ksagi:20190707223337j:plain

見事な襖絵

f:id:ksagi:20190707223400j:plain

しかも先に進むほど

f:id:ksagi:20190707223417j:plain

豪華さは増していく

f:id:ksagi:20190707223434j:plain

そして最終的にはこの絢爛豪華さ

f:id:ksagi:20190707223451j:plain

最早キンキラキン過ぎて目が眩む

 いささか呆気にとられながら本丸御殿から出てくると、外は灼熱地獄である。本丸内には土産物屋もあり、多くの観光客で賑わっている。私は暑さでまいりかけていることもあり、抹茶ソフトを買って一服する。

f:id:ksagi:20190707223526j:plain

抹茶ソフトで一息つく

 

 

 本丸御殿の先に天守があるが、現在天守は耐震性の問題及び復元のための調査で立ち入り禁止。それにしてもあの本丸御殿を見た後に、このエレベータを後から外付けした鉄筋コンクリートの天守を見ると見劣りすること甚だしい。これは河村市長でなくても天守の木造復元ということを思いついても当然のような気もする。もっとも予算の裏付けがあるかが重要なのだが。それにしてもその木造復元天守にエレベータをつけろとゴテている自称障害者団体があるようだが、何の意地なのか利権が目当てなのか目的は不明だが、いかにも無粋な主張だと感じる。歴史的建造物の復元の話とバリアフリーを一緒にするべきではない。そんなことを言うのなら、エベレストの頂上に体力のある登山家しか登れないのは不公平であるから、私でも登れるようにロープウェイをつけて欲しい。

f:id:ksagi:20190707223641j:plain

天守は現在立ち入り禁止

 この後は本丸の不明門から出て立派な本丸石垣を堪能しつつ、グルリと回ってまた表門に戻ってくる。すると西南隅櫓が公開中との情報を得たので、再び本丸へ入場、西南隅櫓の見学をしていくことにする。

f:id:ksagi:20190707223720j:plain

裏手の不明門

f:id:ksagi:20190707223732j:plain

天守台を外から

f:id:ksagi:20190707223745j:plain

このような隘路が鵜の首

 この西南隅櫓は一度倒壊したものを古材を中心に再び復元したらしい。当時のままの階段なので非常に登りが急。で、ここにもエレベータを付けるのか? 3階建ての最上階には消防法の関係で一度に登れるのは10人に限定されているとのことで、入場券を受け取って登る形式。ここからは西門までを見晴らすことが出来、本丸前の隘路で渋滞している敵を狙い撃ちすることになる。

f:id:ksagi:20190707223845j:plain

西南隅櫓

f:id:ksagi:20190707223910j:plain

最上階内部

f:id:ksagi:20190707223926j:plain

外を狙い撃ち

f:id:ksagi:20190707223941j:plain

宮内庁が復元に関与しているから菊のご紋の瓦とか

 隣では湯殿書院の公開もしているようだが、こちらは10人ずつしか入れないとかでかなり待つ必要があるようなので、そろそろタイムアップ時刻が近づいていることもあり断念。

 久しぶりに名古屋城を堪能したがさすがに天下普請の城だった。ハッキリ言って、戦国時代の武器では正面から軍勢で攻め落とすことは不可能であると感じた。大軍で包囲したところで完全に睨み合いになってしまうだろう。こんな城を落とそうと思うと計略しかない。幕末になって大砲などが進化した時代になるとまた話は変わってくるが。

 名古屋城の見学を終えるとホールに向かうために栄まで移動する。毎度のことながら栄は賑やかなところである。今日も広場で何かイベントでも開催されているのか大騒ぎになっていた。コンサートホールはここの横のビルの4階にある。

f:id:ksagi:20190707224033j:plain

コンサートホールは人で一杯

 コンサートホールへは大勢の観客が来場していた。なおこのホールは最近まで改装工事を実施していたが、どの辺りが改装されたのかはあまりこのホールに詳しくはない私にはよく分からない。ただ少なくとも以前よりも洋式トイレの比率が増えたことは分かった。

 

 

名古屋フィル 第470回定期演奏会

f:id:ksagi:20190707224058j:plain

マーティン・ブラビンズ(指揮)
ジャン・チャクムル(ピアノ)

藤倉大: オーケストラのための『グローリアス・クラウズ』
メンデルスゾーン: ピアノ協奏曲第2番ニ短調 作品40
エルガー: 交響曲第1番変イ長調 作品55

 最初の藤倉の曲は、何やらキラキラとした煌めきを感じる曲であるが、正直なところ今ひとつ私にはよく分からない。プレトークで作曲者自身が「微生物のネットワークをイメージした」との類いのことを話していたが、そのようなイメージがあると言われればあるような気もしないではない。ただし実際はどうにでも解釈できる曲。ただそれでもブラビンズの演奏は非常に冴えのあるものであることは分かる。

 二曲目はメンデルスゾーンの珍しい曲である。若気の至りが随所に見られたような1番と異なり、晩年の曲であるために完成度は高い。特にやや哀愁を帯びた旋律で始まる第1楽章は魅力的。そのためもっと演奏機会があっても良いように思われるのであるが、そうならない理由は曲を聴けば明らかでもある。とにかくピアノセクションが極めて高難度であるから実際に演奏するのは大変である。さてチャクムルの演奏であるが、その高難度のピアノセクションを何事でもないように易々と弾きこなしてしまうテクニックには唖然とせざるを得ない。それでいて単にガンガンと弾くだけでなく、硬軟自在で謳わせるべきところは謳わせてくるので表現も実に濃厚。この耳慣れない曲を非常に魅力的に弾ききった。

 爆発的な場内の盛り上がりに対してのチャクムルのアンコールは、以前に演奏を聴いたことのあるファジル・サイ。ビアノの弦を手で押さえて民族楽器か何かのような奇妙な音を出すところに特徴のある曲。初めて聴いた時にはわけの分からない曲のように思ったが、今回聴いてみると意外に面白い。

 休憩後のラストはエルガーであるが、これは非常にメリハリの強い情熱的な演奏。名古屋フィルも所々アンサンブルに雑さが垣間見える部分がありはするものの、爆音気味の元気の良い演奏。なかなかに高密度な表現は下手をすれば冗長になりがちなこの曲を、緊張感を持って最後まで聴かせることに成功している。

 なかなかの演奏。さすがにブラビンズというところか。名古屋まで出てきた価値を感じさせるものであった。

 

 

夕食に名古屋名物味噌煮込みうどんを頂く

 コンサートを終えると一旦名古屋駅まで戻ることにする。キャリーを回収すると夕食をどこにするかだが、毎度のことで全く工夫がないながら、名鉄百貨店のレストランフロアの「山本屋総本家」に入店して「親子煮込みうどん」を注文する。

f:id:ksagi:20190707224200j:plain

山本屋総本家

 初めてここに来た時には固いうどんと異常に濃厚な赤味噌に戸惑ったものだが、どうも最近はこれがクセになってしまったのか、時々異様にこの味が懐かしくなる。最近は名古屋に来ることがあったら必ず立ち寄っている感じ。私もかなり赤味噌帝国の侵略を受けてしまったようだ。このやや渋みさえある赤味噌の旨味の強さがクセになる。もっとも一度食べると、しばらくは赤味噌を見る気もしなくなるのだが(笑)。

f:id:ksagi:20190707224219j:plain

親子煮込み

 夕食を終えると地下でおやつを購入してからバスでホテルに送ってもらう。今回宿泊するのは私の名古屋での定宿・名古屋ビーズホテル。名古屋駅近くの大浴場完備のホテルだが、ここが面白いのはフィットネスルームまであること。もっとも今回はそんなことをしている体力的余裕がないが(カメラにpomeraまで入った重たいリュックを背負って1万7千歩も歩いたせいで、体中ガタガタ)。

 ホテルにチェックインすると、何はともあれまず入浴。湯の温かさが体に染みいる感じ。ああ、これがあってこその日本人・・・って確か昨日も同じことを言ったような。風呂からあがるとこれもまたこのホテルの特徴である無料のマッサージチェアでガタガタになっている体をほぐす。この辺りの設備の良さが私がこのホテルを定宿にしている最大の理由。

f:id:ksagi:20190707224250j:plain

この晩のおやつは大福

 風呂から上がるとさっき購入したおやつを食べながらテレビを見ていたのだが、そのうちにかなり疲れが押し寄せてくるのでベッドに横になっていると、知らないうちにそのまま寝てしまう。

インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス&津城

 この週末は名古屋方面へ遠征することとした。と言ってもそもそもの目的地は実は名古屋ではなくて津。と言うのはここでベルリンコンツェルトハウスのコンサートがあるから。この度、インバルがベルリンコンツェルトハウスを引き連れて来日、全国でツアーがあると聞いたので私も是非とも行きたいと思っていた。しかし発表されたスケジュールを見ると見事に関西だけがスルー。思わず「?」という状態になってしまったが、仕方ないので関西から一番近い場所を調べたら津だったという次第(名古屋公演もあるのだが、京都市響とスケジュールが衝突している)。で、津まで行くなら名古屋に足を伸ばしても同じ。調べてみるとこの時期にちょうど名古屋で名フィルの定期公演があるとのことなので、ついでにこれも聞いてやろうと言うところでの計画立案である。

 津までは近鉄を使うことにする。名古屋だと新幹線なんだが、津になると名古屋経由でのアクセスだと所要時間はさして変わらず料金だけが跳ね上がるということになってしまうので近鉄を使用。津だけならいっそのこと車で行くという手もあるのだが、今回は帰りに名古屋や大阪に立ち寄るのでやはり鉄道。

 金曜日の仕事を午前中で終えると津に向けて出発する。この働き方改革の時代に一人でスーパープレミアムフライデーをしている私。つくづく私は愛国者だ(笑)。それにしても政府主唱のプレミアムフライデーって全く実施されることもないまま廃れたな。まあ予想通り。

近鉄特急で津に向かう

 鶴橋から近鉄の賢島行き特急に乗り込む。座席はビスタカーの2階だが、驚いたことに完全貸し切り状態。そう言えば乗り込む客もほとんど見かけなかったような。

f:id:ksagi:20190707210257j:plain

賢島行きの特急

f:id:ksagi:20190707210333j:plain

ビスタカーだ

f:id:ksagi:20190707210351j:plain

二階建て車両の階段

f:id:ksagi:20190707210405j:plain

なんと一部屋貸切(笑)

 ビスタカーは車高が高いせいかよく揺れる。それにやはり近鉄特急は遅い。新幹線との比較はそもそも無理があるが、新快速と比較しても遅い。列車はいかにも奈良という山の中を最初は走るが、それでも駅周辺などを中心に所々いかにも新興住宅地な集落はある。

 沿線でも一番大きい集落は大和高田から大和八木にかけての辺りか。この辺りは大都会というか大住宅地。乗り換え拠点でもある大和八木で初めて乗客が乗り込んでくる。この後はまた再び山間で榛原では乗降なし、次の都会は名張。遠くにイオンがあるのを見ると、なぜかホッとする。ここでも乗降は数人というところ。そこからとんでもない山の中を抜けた先が伊賀神戸。ここは伊賀鉄道との乗り換え駅。伊賀鉄道の松本零士がペイントを手がけたくノ一列車が見える。

f:id:ksagi:20190707210511j:plain

伊賀は忍者の里

f:id:ksagi:20190707210527j:plain

松本零士デザインのくノ一列車

 青山の辺りになるとトンネルの連続。ここら辺りから外の雨がかなり激しくなってくる。山を抜けてしばし進むと乗り換え駅の伊勢中川。ここで名古屋方面行きの特急に乗り換えると次の駅が津である。

 

 

津に到着

f:id:ksagi:20190707210555j:plain

津駅に到着

 津駅で降りるとホテルにチェックインする。今日の宿泊ホテルはドーミーイン津。津駅前にある天然温泉付きホテルである。今回はシャワーなしのエコノミールームのプランだったのだが、シャワー付きの部屋に振り替えてくれたようだ。部屋は洗面台がトイレと別になったドーミーインの最近のタイプ。

f:id:ksagi:20190707210658j:plain

ドーミーイン津

 とりあえず部屋に荷物を置くとすぐに外出する。幸いにして今は雨はほとんど降っていない。とりあえず駅前からバスで三重会館まで移動。コンサートの開演までにこの近辺にある津城を見学がてら夕食を摂りたいと考えている。

 夕食はやはり津と言えばうなぎということで近くの鰻屋に立ち寄ったのだが、なんとまだ準備中。今の時間は4時半、多分5時から夜の部なんだろう。こんなところで30分も無駄な時間を費やすわけにもいかないので津城の見学に行くことにする。

 

 

津城 藤堂高虎の手になる続100名城

 津城は織田信包が築いて、後に築城の名手としても知られる藤堂高虎が輪郭状の近代城郭として再整備した城郭である。今では城域の大半は市街に埋もれてしまって、本丸が公園化して残るのみと聞く。なおこの度続100名城に選定されたとのことである。

 私は津城訪問は実は初めてではない。かなり昔に訪問したことがあるが、その時には「特に何もないところ」という印象だけが残っている。だから続100名城に選定されたと聞いた時、「なんで?」と疑問を感じていた。そこで今回改めて見学してみようという考え。

 津城は建築物の類いは全く残っていないが、現在石垣上にかつての隅櫓を復元してある。ただこの復元櫓、なぜか本来隅櫓が乗るべき石垣隅の櫓台でなく、入口の脇に立っている。確かに見栄えはするのだがいささか疑問もある。ただこの辺りの石垣はかなり立派である。かつては東之丸を経てここから本丸に入るようになっていたようだ。

f:id:ksagi:20190707210740j:plain

復元櫓

f:id:ksagi:20190707210756j:plain

本来は一番奥の櫓台の上に乗るべきなんだが・・・

 ここをくぐって進むと中は完全に公園化しており、ここに城主である藤堂高虎の騎馬像がある。周囲は石垣で囲まれており、南側に入口があるがこれは後付けの模様。

f:id:ksagi:20190707210841j:plain

本丸内部は公園化している

f:id:ksagi:20190707210901j:plain

藤堂高虎の像

 西側の庭園になっている西の丸跡の先に枡形のある門らしき構造がある。なおここに立派な赤門が設置してあるが、これはかつての藩校の門を移築したものであるという。

f:id:ksagi:20190707210925j:plain

西の丸横の堀

f:id:ksagi:20190707211014j:plain

元々は藩校の門だった入徳門

f:id:ksagi:20190707211046j:plain

西の丸先端の枡形

 

 

 この枡形を抜けると城の外に出るが、外から見るとグルリをかなり立派な石垣が取り囲んでいるのが分かる。正直なところ今回訪問してこれには驚いた。これだけ立派な堀と石垣が残っているところはそう多くはない。となると確かに続100名城は妥当であろう。前回の訪問時のことはよく覚えていないが、東側から城の中に入って、内部をグルリと見ただけで「何もない」と判断していたのだろうかと考えて当時の記録を読み返してみたら、一応は内堀の石垣なども見ているようだ。どうも当時の状況がよく分からないのだが、その直後に松阪城を訪問してその石垣に感動していることから、そっちの印象に紛れて津城の石垣があまり記憶に残らなかったと思われる。

f:id:ksagi:20190707211106j:plain

西の丸の枡形を外から

f:id:ksagi:20190707211128j:plain

周囲はかなり立派な堀と石垣

f:id:ksagi:20190707213622j:plain

ほれぼれするような石垣と堀

f:id:ksagi:20190707211145j:plain

かなりの規模である

 というわけで浅はかの限りというか、自身の愚かさを痛感すると共に津城には実に失礼なことをしていたと思う。津城は文句なしに押しも押されぬ続100名城であるとここに断言しておこう。

 

 

津でうなぎを頂く

 かなり駆け足ではあったが津城の価値を再認識したところで再び目的のうなぎ屋に戻ってくる。立ち寄ったのは「つたや」。到着した時にはまだ5時前であったが、覗いてみるともう入店可とのことなので入店することにする。私が夜の部の最初の客である。注文したのは「ひつまぶし(2400円)」

f:id:ksagi:20190707211243j:plain

つたやは二階にある

 うなぎ屋に入店したものの実は不安なことが一つある。と言うのはうなぎ屋はやはり少々時間がかかること。今日はこの後、三重県文化会館で6時半開演のコンサートに駆けつけないといけない。ホール行きの臨時バスが津駅西口から出るのが開演の35分前。となるとそれまでには津駅に戻らないといけないのだから、5時半には三重会館からのバスに乗りたい。となるとトータルで30分程度しか時間的余裕がないのである。もしうなぎが出てくるのに30分かかってしまったら、ホールに直接タクシーで乗り付けることなども考える必要がある。

 何てことをウダウダ考えながら待っていたら、案に反して10分ちょっとでうなぎが出てきた。順番が最初だったことも幸いしたか。ひつまぶしは薬味は別で出てくる場合が多いのだが、ここのは最初から薬味が乗せてある。そこで半分に分けて、半分はそのままで残りの半分をうな茶で頂くことにする。

f:id:ksagi:20190707211319j:plain

ひつまぶし

 うなぎがパリッとして実に美味い。こういう香ばしいうなぎは関東などでは味わうことが出来ない。後でご主人に聞いたところによると、この辺りのうなぎはそのままタレをつけて焼くだけなので香ばしさが強くて皮もパリッとしているとのこと。関西のうなぎも焼いてから蒸すところが結構あるとのことなので、うなぎの香ばしさに関してはこの辺りが一番とのことである。蒸し行程がないことが予想外の調理の早さにもつながっているのかもしれない。美味い、早いは飲食店にとっては重要な要素。

f:id:ksagi:20190707211341j:plain

まずは薬味付きを頂き

f:id:ksagi:20190707211407j:plain

さらにうな茶で頂く

 うなぎの香ばしさが実に美味で食が進む。薬味付きはその鮮烈さ、そしてうな茶はあっさしてそれでいてコクのある味わいと2タイプが楽しめて実に美味。

 夕食をすっかり堪能した時には5時半前になっていた。三重会館からバスに飛び乗ると津駅でホール行き臨時バスに乗り継いでホールに向かうことになる。

 三重県文化会館は美術館からさらに先に進んだいささか市街からはずれた高台にある。ホールは少し昔の地方の典型的な文化会館といったところだが、かなり大きなものである。しかしそのホールに大体8割方は客が入っている。高校生の団体らしい姿も見かけたが、音楽関係の部活か? それとも動員でもかかったか?

 

 

ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

f:id:ksagi:20190707211503j:plain

エリアフ・インバル[指揮]
アリス=紗良・オット[ピアノ]

モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番
マーラー:交響曲第5番

 アリス=紗良・オットは難病を患ったと聞いているが、目下のところはまだ演奏には支障はないようで何よりである。ただどうも今回は弾き急いでいるような印象を受けた。序盤は音が飛びにくいホールの音響特性もあって、やや籠もった感じの演奏である上にオケとも微妙なズレが感じられたが、それは次第に修正された。ただ彼女の演奏は元々軽妙でエレガントでそう深い情感を込めるタイプではないが、モーツァルトの曲想とも相まってより一層あっさりした印象の演奏になっていた。そのために深い感銘を受けるというタイプの演奏ではない。どちらかと言うと、アンコールのショパンの方が彼女の良さが現れていたか。

 アリス=紗良・オットの相変わらずのチャーミングな印象もそのまま。拍手に促されて舞台袖から小走りで飛び出してくるところなどが実に可愛い。熱烈なオッサンファンらしき者が花束を渡していたがあれはありなのか? ホールによっては完全禁止のはずだが。

 休憩を挟んで後半のマーラーの5番は一転して圧倒されるような演奏だった。序盤から緊張感ありありの金管がすごかったが、ここに美しい弦も乗っての切々とした情緒溢れる第一楽章には思わず涙が出そうになった。そしてまるで息絶えるように第一楽章が終わると、続いて激しい第二楽章が始まる。しかしインバルは決して急ぐことなく、抑えめのテンポでじっくりと音楽を描いていく。それに応えてのオケの表現も実に緻密である。そして第三楽章から曲に明るさが見えてきて、続いて弦を中心としたうっとりするような美しい第四楽章。これはまさに極上のアンサンブルだった。そして夢見心地のまま怒濤の最終楽章でフィナーレ。インバルの演奏は実に情感に溢れ、非常に表現の深さを感じた。ゆっくり目のテンポでとことん音楽を美しく描く。そして決して雑になることもなくそのインバルの目指す表現を最上の演奏で実現したオケの技倆。実に感服した次第。

 かなりの名演に場内は結構な盛り上がりとなった。終わらない拍手にインバルが引っ込めなくて、最後には客席に向かってバイバイする姿も。下手すると冗長になりかねない曲なのだが、今回は非常に印象深い名演であったと感じる。実際に私は非常に疲れ切った状態でホールまでやって来たにもかかわらず、最後まで一瞬も睡魔が襲うことがなく音楽に浸りきったのである。わざわざ津くんだりまで出てきた価値は十二分にあったというものだ。

 

 

 

 コンサートを終えた時には外はかなりの雨になっていた。津駅まで臨時バスで戻ると飲み物を買い込んでホテルに飛び帰る。

 ホテルに戻った時には9時過ぎになっていた。少々小腹が空いているが、こういう時にありがたいのがドーミー名物夜鳴きそば。何てことない醤油ラーメンなんだが、こういうのが夜には美味い。

f:id:ksagi:20190707211524j:plain

ドーミー名物夜鳴きそば

 小腹を満たすと大浴場で入浴。ここの浴場はアルカリ系の単純泉とのこと。泉源は「トマト温泉」との記述があり、運び湯のようである。浴感としては若干のネットリした印象がある。塩分が入っているのだろうか。とにかくこういう時の風呂は快適、特急とコンサートで座りっぱなしだったので背中が少々おかしくなりかけているから、それをゆったりと風呂でほぐす。ああ、やっぱりこれがあっての日本人よ。

 風呂からあがると部屋でこの原稿の入力。眠気が押し寄せてきたところで明日に備えて就寝する。

 

 

古市古墳群ツアー&大阪交響楽団名曲コンサート

 昨晩はやけに喧しい奴(夜中にワケの分からんことを喚いて廊下に飛び出した奴がいた)が同じフロアにいたために夜中に起こされる羽目になった。そこでグダグダと9時前まで布団の中でつぶす。

 起き出すと朝食は外に食べに行くことに。喫茶店「寿」「モーニングセット(500円)」を注文。何やらテレビが大音量でかかっていて店内の落ち着きはないが、卵焼きのサンドイッチはなかなかに美味い。

f:id:ksagi:20190520172805j:plain

喫茶店「寿」

f:id:ksagi:20190520172824j:plain

モーニングBセット(500円)

 さて今日の予定だが、メインはザ・シンフォニーホールで17時開演の大阪交響楽団のコンサート。ただそれまではかなり時間がある。とは言うものの現在は大阪地区ではこれという展覧会もなし。かといって安ホテルの部屋に籠もっていてもすることはない。と言うわけで思いついたのは「世界遺産記念 古市古墳群散策ツアー」。今回の世界遺産対象地域は仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥地域と応神天皇陵を中心とする古市地域の2カ所に分かれており、百舌鳥地域の方は行ったことがあるが、古市地域の方は行ったことがないのでこの際訪問してやろうという考え。

 古市までは近鉄で移動するとして、現地の移動をどうするかだが、どうやら観光用レンタサイクルがある模様なのでそれを利用することにする。当初は歩いて回ることも考えていたが、それだと健脚Google先生でも2時間以上はかかるという仰せ。それだととても私の体力は持ちそうにない。

 天王寺に移動するとここから阿部野橋に移動して近鉄に乗車する。近鉄のホームを見ると吉野行きの観光特急らしき車両が停車している。いずれはこれも乗ってみたい気がするが、それはまた後日の機会に。私は吉野行き急行に乗車する。

f:id:ksagi:20190520172932j:plain

観光特急車両

 

古市古墳群散策ツアー

 急行だとダイレクトで古市である。意外に近いという印象。古市の駅前に降り立つと観光用のレンタサイクルを借りることにする。レンタル料金は普通の自転車が250円、電動アシスト付きが500円である。体力の衰えを考えて無理せずに電動アシスト付きの方を借りる。電動アシスト自転車を運転するのは初めてだが、こぎ出しが非常に軽いのが驚いた。やはりこぎ出しは通常の自転車だと一番力が必要で大変なところだが、そこが軽いというのはかなり運転が楽になる。

 ただ私が自転車を運転するのは10年以上ぶり。そのせいか昔のイメージのようには運転できないことに気がついた。明らかに昔よりもバランス感覚などの運動能力が低下している。そのせいと、いわゆるママチャリ型という自転車の構造のせいで車体を傾け鋭くカーブを曲がるということが出来ず(私が昔乗っていたのはMTB)、どうしてもフラフラとした大回りになってしまう。しかもこうして走ってみると、日本の町というのはとかく自転車には走りにくいことが分かる。自転車は車道を走るのが原則であるが、実際には車がビュンビュン走る車道の端を走行するのは危険な上に邪魔になることが多い。かといって歩道を走れば段差の多さで戸惑う。結局はよくあるフラフラした危なっかしいジジイのチャリンコ運転になっているのを感じずにはいられない。今、車目線から見ればかなりウザい運転をしているだろうなと感じながらも、そういう運転しか出来ないという情けなさ。脚力の衰えはモーターアシストで補えても、平衡感覚の衰えは機械では補えない。特に低速走行時にどうしてもフラフラしてしまい、昔のように運転しながら首を回して後ろを確認するということがスムーズに出来ない(首を回すとどうしてもふらついてしまう)。自転車にバックミラーが欲しいとつくづく感じた。

 観光案内所でもらった案内地図を見ながら古墳巡りをすることにするが、どうしても地図だけだと方向や現在地が分かりにくいので、結局はスマホのGoogleMapも併用することに。ただGoogle先生は時々とんでもない道を指定してくる。住宅の裏手の幅1メートルもない路地とさえ言い難いような道を指定してきたり、ひどい時には企業の駐車場を突っ切るルートを提案してきたり(なぜかGoogleMapではそこが道になってしまっている)。とにかくこの辺りの地域はやたらに路地が多い上に、大抵の古墳は路地の奥(住宅の裏だったり)にあるので、今回は路地をひたすらウネウネと走り回ることになる。

 最初に立ち寄ったのは一番近くにある古墳

安閑天皇陵古墳

 全長122mの前方後円墳で、高さは13mあるという。天皇陵と言うことで現在は宮内庁によって完全に封鎖されてしまっているが、宮内庁など存在しない戦国時代においては、堀に囲まれた小山を有効利用しないで放置する手はないわけで、高屋城という城郭が置かれていたという。その際に墳丘や濠の形が一部変更されたとのことだが、入って確認できないので状況は不明。実際に現地に行くと柵の向こうに小山が見えるのみ。せめて木を払ってくれたらもっと見やすいのに・・・。

f:id:ksagi:20190520173006j:plain

安閑天皇陵古墳

 次はこの近くの古墳

白鳥陵古墳

 墳丘長190mの前方後円墳で「日本武尊」の陵墓とされているとのことだが、例によって宮内庁に封印されているので詳細は不明。現地は柵の向こうに濠越しに見えるただの小山。分かるのは先ほどの安閑天皇陵古墳よりは大きいということ。

f:id:ksagi:20190520173051j:plain

白鳥陵古墳

 次の目的地は古墳公園になっている。

 

峯ヶ塚古墳

 全長96mの前方後円墳。二重の濠に囲まれているとのこと。なお天皇陵ではないので入ることが出来たらしいのだが、私が訪問した時には柵で完全に覆われていて近づけなかった。

f:id:ksagi:20190520173131j:plain

峯ヶ塚古墳

 その隣にある小山が小口山古墳らしいのだが、こちらは天皇とは全く関係ないのか遊歩道まで出来ていて登り放題である。この上から峯ヶ塚古墳を見ることも出来る。なおここも明らかに後世に加工された跡があるが、城にでもされていたのか、最近の公園整備のせいなのかは私には不明。何となく城郭らしさを感じるのだが・・・。

f:id:ksagi:20190520173212j:plain

小口山古墳は遊歩道付き

 ここの南にあるのもまた天皇陵

清寧天皇陵

 もろに住宅地の裏にあるのでなかなか構造が見えにくい。GoogleMapによるとここも前方後円墳のようで大きさも結構大きい。なおここはかつて西之浦城という城郭を置かれていたらしい。

f:id:ksagi:20190520173404j:plain

清寧天皇陵

 逆に北側にもよく似た古墳がある

 

仁賢天皇埴生坂本陵

 濠に囲まれた前方後円墳。大きさ的にも先ほどの清寧天皇陵と同程度。こちらも住宅街の奥なので全体が見えにくい。

f:id:ksagi:20190520173444j:plain

仁賢天皇埴生坂本陵

 ここの北にさらに大きな古墳が。

仲哀天皇陵

 全長245mの前方後円墳。

f:id:ksagi:20190520173556j:plain

仲哀天皇陵

 一回りしている内に感じたのは、古墳というのはとにかく写真の被写体としては最悪だということ。でかすぎる古墳は単なる川の向こうの山にしか見えない上に全体像はファインダーに入りきらない。その挙げ句に天皇関係の古墳はことごとく宮内庁によって高い柵で封鎖されているので、まともに写真を撮ることさえ出来ない。これは今後観光資源として活用するためには問題点は多々である。とにかく「インスタ映え」は全くしない。

 それと宮内庁というのは全力で考古学の妨げをしようとしているなということを感じずにはいられない。。宮内庁とはそもそも天皇を守るためにある省庁のはずだが、実際には自分たちの権益を守るために天皇を利用しているのが真実。もし考古学の進展で天皇の権威を揺るがすような事実でも判明しては問題だから考古学を全力で阻止したいのだろう。天皇が自ら人間宣言までした時代には極めてナンセンスである。正直なところ、現在天皇陵とされている古墳も実際には誰が埋葬されているかは極めて怪しいものなんだが(ぶっちゃけ記録が残っている方が希なので、大きい古墳に天皇の名前を適当に割り振ったといっても良い場合が多い)、事実の判明は宮内庁がまさに全力で阻止している。

 次の古墳は古市古墳郡内で最大にして全国でNo2の古墳となる

 

応神天皇陵

 墳丘の長さ425mにしてその高さは36m。仁徳天皇陵に次いで第2位の規模であり、盛土の量で行くと全国No1らしい。とにかく規模が大きすぎて、現地に行ってみると川の向こうの自然の山のようにしか見えない。正直なところ観光を考えるのなら木を伐採した上で手前に五稜郭タワーのようなタワーでも建てるしかないが、そんなことは先の宮内庁が全力で反対するのは言うまでもない。

f:id:ksagi:20190520174052j:plain

応神天皇陵・・・デカすぎてわけが分からん

 この近くには登ることが可能な大鳥塚古墳小室山古墳などもあり、小室山古墳には実際に登ってみた。正直なところ古墳なんて登ってなんぼの気がする。頂上から辺りを眺めて見るとなかなか気持ちよい。

f:id:ksagi:20190520174140j:plain

大鳥塚古墳

f:id:ksagi:20190520174200j:plain

小室山古墳の円部に登る

f:id:ksagi:20190520174223j:plain

この先が方部

 小室山古墳から降りてくると、その先にまた結構大きな古墳がある。

仲津山古墳

 これは全長290mの古墳。かなり大きいが、立地的には完全に住宅街の裏山といった趣。とは言うものの、例によってここも封印されているので全体像は不明。

f:id:ksagi:20190520174250j:plain

仲津山古墳は住宅地の裏山


 この近くには鍋塚古墳という小規模の方墳がある。元々は現在よりも一回り大きかったらしいが、とりあえずここは頂上に登ることが出来る。格好の展望台で、先ほどの仲津山古墳も見えるし、反対側には土師ノ里駅越しに允恭天皇陵を見ることが出来る。

f:id:ksagi:20190520174324j:plain

鍋塚古墳は登ることが出来る

 

允恭天皇陵

 全長230mの前方後円墳。だがここも封印されているので例によって全貌は全く分からない。ここは周辺に陪塚が多いのが特徴で、衣縫塚古墳、宮の南塚古墳なんかがあるが、いずれも住宅街の中の公園の裏手の小山。言われなければ「なぜこんなところにこんなものがあるの?」というような存在。

f:id:ksagi:20190520174407j:plain

允恭天皇陵

f:id:ksagi:20190520174435j:plain

衣縫塚古墳

f:id:ksagi:20190520174504j:plain

宮の南塚古墳

 気がつけば古市駅からあちこちを回りながら、2駅先の土師ノ里駅までやって来ていた。領域のほぼ一番端まで来たので後は南下しながら残りを掃討。

 はざみ山古墳は103mの前方後円墳、発掘でもしているのかブルーシートが見えた。その南の野中宮山古墳は今は野中神社という神社になっている。その南の住宅街の中に野中古墳という小規模な古墳があり、そのさらに南にまた結構大きな古墳がある。

f:id:ksagi:20190520174854j:plain

はざみ山古墳

f:id:ksagi:20190520174910j:plain

野中宮山古墳上の野中神社

f:id:ksagi:20190520174934j:plain

野中古墳

 

墓山古墳

 全長225mという前方後円墳。応神天皇陵の陪塚という扱いらしいが、実際にはこれよりも小さい天皇陵もあるので、これも天皇陵なのではという気もするのだが、まあそこは宮内庁の恣意的解釈ではそうならないのだろう。

f:id:ksagi:20190520175000j:plain

墓山古墳

 この後はこれの南西にある浄元寺山古墳青山古墳を回って見学終了である。

f:id:ksagi:20190520175029j:plain

浄元寺山古墳

f:id:ksagi:20190520175113j:plain

青山古墳

 かなり疲れたというところ。最後には電動アシスト自転車のバッテリー残量がやや心許なくなってきて焦った。電動アシスト自転車のバッテリーが切れたら、ただの重たい自転車である。

 ようやく古市駅に戻ってきて自転車を返却すると、一旦ホテルに戻ることにする。古市古墳群を一回りした感想としては、サイクリングコースとしては悪くないが、古墳自体はどうしようもないなというところ。そもそもあまりインスタ映えしない対象なので、その手の輩はわざわざ来ないだろうし、来てもほとんどの古墳は封印されていて立ち入りが出来ない。そもそも埋葬者自体も宮内庁が勝手に言っているだけで根拠は薄弱なものなので何を見ているのか分からない。何しろまともに研究させないのだから何も分からない(わざと分からせない)。結局は「宮内庁、ウザっ!」という感想だけが強く残ったのだった。

 

天王寺に戻って遅めの昼食 

 ホテルに戻ってすぐに汗を流したいところだが、その前に天王寺まで帰ってきたところで遅めの昼食にする。立ち寄ったのは「グリルマルヨシ」「ハンバーグとビフカツのセット」があったのでそれを注文する。

f:id:ksagi:20190520175244j:plain

天王寺のグリルマルヨシ

 ハンバーグはかなり柔らかめ。私の好みとしてはもっと硬めの肉々しいタイプが好きなのでやや好みとズレる。ビフカツは以前にも食べたことがあるように美味い。たださすがにこの価格ではボリューム不足か。

f:id:ksagi:20190520175306j:plain

ハンバーグとビフカツのセット

 看板メニューのロールキャベツにしておいた方が良かったかなと後で少々後悔した。それにここで揚げ物を食べてしまったことで夕食が少々悩ましくなった(さすがに夕食に串カツという気にはならない)。

 昼食を終えてホテルに戻ってくるととりあえずコンサートの前に汗を流すことにする。両足に軽い怠さが残っており、これは明日以降にツケが来そうな気配。とりあえず今のところは歩けるが。

 入浴してサッパリしたところでしばし休息を取ってからコンサートに出かけることにする。

大阪交響楽団 第106回名曲コンサート 夏の夜の夢

[指揮]佐藤俊太郎
[ピアノ]ジャン・チャクムル(第10回浜松国際ピアノコンクール優勝者)
[管弦楽]大阪交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
メンデルスゾーン:劇音楽「夏の夜の夢」op.61より
“序曲”、“スケルツォ”、“間奏曲”、“ノクターン”、“結婚行進曲”

 チャクムルのピアノはとにかく軽いという印象。音色に重みがない。また変拍子的なリズムがたまに垣間見え、どうもモーツァルトを弾くのは窮屈そうに聞こえる。彼の本領はもっと当意即妙的にアレンジできるような曲にあるように思える。実際にアンコールで演奏した現代曲(だと思うのだが私の全く知らない曲だった)の演奏の方が明らかに切れと冴えが見られた。またバックの大阪交響楽団もイマイチ。斉奏がダーンとならずに、バシャーンとなってしまう傾向がある。

 後半のメンデルスゾーンはモーツァルトよりはまとまった演奏であった。ただ不満を感じるのは弦に躍動感がないことと、金管が締まりなく鳴らしっぱなしという雰囲気の音色に鳴ってしまうこと。どうもピリッとしたところがないのである。

 やはり大阪交響楽団はまだまだ技倆的には今一歩というのは否定できないようだ。今年は何度か大阪交響楽団のコンサートに出かけてみたが、どうも常に私的には評価が今ひとつになるというのは、私と相性も悪いのかもしれない。

 

新世界でそばを夕食に

 コンサートを終えると新今宮まで戻ってくる。今日の夕食をどうするかだが、先にも言ったように串カツはない。寿司という気分でもないので、うどんでも食べようかとうどん屋を目指したが、残念ながら品切れで閉店とのこと。そこで二日続きで蕎麦になってしまうが「総本家更科」を訪問する。

f:id:ksagi:20190520175402j:plain

総本家更科

 注文したのは「かちんそば」。あっさりした蕎麦が美味い。また焼き餅もなかなかに良い。そして出汁がやけに美味い。

f:id:ksagi:20190520175425j:plain

かちんそば

 というわけで出汁がやけに美味かったので、追加で天ぷら出汁茶漬けを頂くことに。なかなかに美味いのだが、さすがにこれは食い過ぎた。

f:id:ksagi:20190520175452j:plain

天ぷら出汁茶漬け

 ホテルに戻るとグッタリ。やはり疲れが出てきた。今日は早めに就寝することにする。昨日のことがあるのでフロントでもらった耳栓を両耳に装備しておく。

 

彦根城に立ち寄って旅の終わり

 長期にわたったGWの遠征も今日で最終日。後はうちに帰るだけなのであるが、やはりその前に彦根城ぐらいには立ち寄っておきたいと考える。ただどうせ混雑するのが分かっているので早めに行動する必要がある。さっさとホテルで朝食を済ませると9時になる前にホテルをチェックアウトして彦根城に向かう。

天下の名城彦根城は観光客で一杯

 彦根城に到着すると二の丸の駐車場に車を入れる。私の見ているうちにも車がドンドンと増えて、これは数分でこの駐車場も満車になりそうだ。やはりGWの人出は馬鹿に出来ない。

 彦根城の入口から入場すると、最初に到着するのが廊下橋と天秤櫓。ここのところはグルリと回り込む必要があり、その度に十字砲火を浴びるという構造である。天秤櫓の中が公開になっていたので覗いてみたら、まさに入口に向かってくる敵が狙い撃ちである。非常に良く出来た作りだ。

f:id:ksagi:20190506165543j:plain

一番最初に廊下橋の下を潜る

f:id:ksagi:20190506165608j:plain

回り込んで廊下橋を渡る

f:id:ksagi:20190506165633j:plain

天秤櫓内部

f:id:ksagi:20190506165822j:plain

櫓からは門に迫る敵を狙い撃ちできる

 そこから上がると太鼓丸を経て太鼓門及び続櫓。ここもかなり堅固な構造。

f:id:ksagi:20190506165918j:plain

太鼓門及び続き櫓

f:id:ksagi:20190506170002j:plain

ここは裏の構造が面白い

 

 

 ここから上がるとようやく本丸。こじんまりしているが破風の多い凝った作りの天守である。

f:id:ksagi:20190506170117j:plain

本丸に到着

 と、ここまで来たところでおかしなことに気付く。何やら長蛇の列が出来ている。何と天守に入場するのを待つ行列だとか。まだ開場してから1時間も経っていないのに既に30分待ちの行列とのこと。城によっては天守だけ入場料を取るところも多いので、それなら天守をパスする者も増えるが、ここは城に入るだけで入場料を取られる(それは800円と結構高価)ので、どうせならと天守に入場する者が増えるということもあろう。しかしそれにしてもまたもやGWが牙を剥く。

f:id:ksagi:20190506170228j:plain

天守入場待ちの大行列

 結局は私もこの行列に並ぶ羽目に。なお30分後に入場しても、さらに内部で階段を登るのに30分ぐらい待たされ、結局は天守見学だけに1時間以上を要することに。ここの天守の中は特に何かの展示があるわけでもないので、実際には本当に入場する必要があるかどうかは疑問。

 天守から出てきたら表に黒山の人だかり。何だと思えばひこにゃんが闊歩していた。権利関係などでゴタゴタがあったひこにゃんだが、未だに人気は絶大なものがある。ゆるキャラ界ではくまモンと並んで双璧と言える。

f:id:ksagi:20190506170305j:plain

ひこにゃん登場

f:id:ksagi:20190506170329j:plain

大人気だ

 

 

 天守の見学後は裏手の西の丸に降りる。西の丸北端の三重櫓及び続き櫓が公開中なのでこちらも見学。ここが城の本体の北の守りの要というところか。

f:id:ksagi:20190506170358j:plain

西の丸

f:id:ksagi:20190506170416j:plain

西の丸の石垣

f:id:ksagi:20190506170428j:plain

西の丸三重櫓

 ここから出曲輪を経て下まで降りてくると、北端の山崎曲輪を覗いてみる。ここは石垣で囲まれたかなり広い曲輪で、かつての琵琶湖の湖畔はもっと近かったろうことを考えると、琵琶湖に面した曲輪だったのだろうと思われる。手前に門があるが、あれは船の出入りをしていたものと思われる。

f:id:ksagi:20190506170515j:plain

西の丸の先の堀切

f:id:ksagi:20190506170529j:plain

山崎曲輪手前の門

f:id:ksagi:20190506170554j:plain

山崎曲輪も結構広い

f:id:ksagi:20190506170610j:plain

山崎曲輪の石垣上から外を見る

f:id:ksagi:20190506170642j:plain

玄宮園

 

 

 彦根城の見学を終えると庭園の方を見学するが、その時に博物館の手前の土塁で火縄銃の実演が行われてるとの放送が入ったのでそれを見に行く。火縄銃の五斉射はかなりの迫力で轟音が響き渡る。この時にふと思ったのだが、以前に「歴史科学捜査班」で家康の本陣からの銃声は小早川の本陣には到底届かないということを実験していたが、この時の銃はせいぜい2丁ほどで、しかも騒音の激しい名神高速越しでの実験だった。これを名神高速越でなくして、火縄銃を10斉射ぐらいしたら、2キロ程度なら音が届くのではないか? ということである。もっとも音は聞こえても、それが自分の陣に向けられたものかの判断は付かないかもしれないが。

f:id:ksagi:20190506170721j:plain

火縄銃の五斉射

 彦根城の見学を終えると場内で開かれていた物産展に立ち寄って、土産物を購入すると共に彦根サイダーで一服。生き返る。サッパリとした爽やかな味が良い。

f:id:ksagi:20190506170743j:plain

彦根サイダーで一服

 これで今回の遠征の全予定は終了。ヘロヘロになりながら帰途についたのである。高速道路は途中の大津周辺でやや混雑はあったが、概ね渋滞はなく順調に帰り着いた。一番渋滞したのは昼食に立ち寄った新名神宝塚北SAのフードコートだったのである(笑)。

 

 

明知城と日本大正村に豊郷小学校

 7時に目覚ましで起こされる。シャワーを浴びると朝食は一階のレストランで。オーソドックスな和食メニューだが食は進む。ただ関西人の私には納豆は無用。

 ホテルを9時頃にチェックアウトすると、まずは明智を目指す。今日は明知城を訪問するつもり。明知城はかなり昔に訪問したことがあるのだが、その時は下草が鬱蒼としておりヒルまで出てくる状態で、まだ山城初心者だった私は早々に戦意喪失して城郭の全貌を把握できないまま撤退した次第。その後は私も山城経験を増したし、現地もここのところの山城ブームに合わせて整備された由を聞いていたのでいつか捲土重来をしたいと思っていた次第。

 恵那から明智までは40分ぐらいかかる。現地に到着すると明知城の幟が立ち、駐車場まで用意されている。これはかなり整備が進んでいる。最近は山城ファンが増えたおかげでこのように整備される城郭が増えたのはありがたいことだ。これはブームの光の面。

明知城 地形を利用した巧みな防御施設

 明知城は明知遠山氏が支配していた城で、武田氏と織田氏の間で争奪が繰り返された歴史がある。なお地元では明智光秀生誕の地とPRしているが、これについては歴史家からは疑問が呈されている(可児市の明智城の方が本命視されている)。

f:id:ksagi:20190506154734j:plain

明知城登城口

f:id:ksagi:20190506154943j:plain

明知城縄張図

 登城口から登るとすぐに二の丸東砦と搦手砦で厳重に入口を警備しているのが分かる。この奥には溜池のある曲輪がある。

f:id:ksagi:20190506154756j:plain

いかにも回りに取り囲まれている登城路

f:id:ksagi:20190506154818j:plain

搦手砦が搦手口を厳重に守る

f:id:ksagi:20190506154903j:plain

貯水池のある東曲輪

 

 

 そこからさらに進むと本丸方向と出丸方向への分岐。本丸方向に進むと二の丸を経て本丸にたどり着く。本丸はこの山の最高所でそれなりの面積があるので建物などを建てることも可能だろう。

f:id:ksagi:20190506155531j:plain

分岐を本丸方面に向かう

f:id:ksagi:20190506155554j:plain

本丸下の腰曲輪

f:id:ksagi:20190506155619j:plain

本丸手前の二の丸

f:id:ksagi:20190506155655j:plain

本丸虎口を経て

f:id:ksagi:20190506155709j:plain

本丸に到着

 

 

 本丸の奥に降りた先が三の丸(腰曲輪)で、その下にさらに曲輪が見えており、これも砦と言えるだろう。

f:id:ksagi:20190506155753j:plain

本丸下の三の丸から西の砦が見える

 出丸は断崖で守られた位置にあり、かなり重視されていた曲輪だとか。確かに位置的には防御の要であり、面積も広いのでそれなりの兵力を置いたと思われる。

f:id:ksagi:20190506155819j:plain

出丸はかなり広い

 明知城は標高はさほど高くないが、その縄張りはかなり凝ったものであり防御力の高さを感じさせる。何度も争奪戦が繰り広げられた城郭だけに鉄壁の防御が必要とされたのだろう。

 

 

明智町(日本大正村)を散策

 明知城の見学後は明智の町をプラプラと見学。GWに合わせてイベントが開催されているようで大勢の観光客で賑わっている。土産物屋を覗くと明智光秀と大正村でPRしている。その隅っこで「半分青い」がこそっとだけ顔を出しているが、さすがに放送事故レベルとまで言われた史上最低の朝ドラ(何しろヒロインが性格破綻者というとんでもドラマ)は世間にも相手にされていない模様。

f:id:ksagi:20190506155900j:plain

大正村ではイベント開催中

 私はここで光秀プリンで一服。あっさり目の牛乳プリンにきな粉と黒蜜をかけて頂くプリン。結構コクが出て美味い。

f:id:ksagi:20190506155930j:plain

光秀プリンはなかなか美味い

 なおここで土産物を買い求めたが、イケメン光秀の栗どらやきと限定販売という味噌味カステラ「三日天下」。しかしこのネーミングって良いのか?

f:id:ksagi:20190506160003j:plain

イケメン光秀と三日天下

 

 

 後は町の中を散策。大正村役場は大正村二代目村長の司葉子、三代目村長の竹下景子関連の写真が多く、大正ロマン館は初代村長のデコこと高峰三枝子と大相撲の初代春日野理事長に関する展示室がある。

f:id:ksagi:20190506160048j:plain

大正村役場

f:id:ksagi:20190506160103j:plain

大正浪漫館

f:id:ksagi:20190506160119j:plain

大正浪漫館内部

f:id:ksagi:20190506160201j:plain

ちんどん屋の行列が道路を練り歩く

 

 

 大正村資料館はいわゆる民俗博物館のようなもので、中には古い物品が展示されているが、大正と言うよりは昭和初期のイメージ。大正時代館は大正天皇に纏わる展示。

f:id:ksagi:20190506160230j:plain

大正村資料館

f:id:ksagi:20190506160305j:plain

渡り廊下が路地をまたぐ家

f:id:ksagi:20190506160334j:plain

奥が大正時代館

 

 

  町並をプラプラ散策して駐車場に戻ってくると、どこで昼食を摂ることにしたい。昼食は町から少し外れたところにある「すし大翔」「すしランチ」を頂く。こんな山の中で寿司? というのもあるが、まあ普通の寿司。とりあえずこれで880円というのは安くはある。

f:id:ksagi:20190506160432j:plain

すし大翔

f:id:ksagi:20190506160453j:plain

そばと

f:id:ksagi:20190506160512j:plain

寿司のセットランチ

 

 

 昼食を終えると移動することにする。この周辺の他の城の訪問も事前の計画にはあったのだが、明智市街の散歩でそれなりに時間を使ったのと、既に体力的に限界に近づいてきていること、今日の宿泊予定地が彦根でそれなりに距離があることなどから 早めに見切りをつけることにした。

 高速は幸いにして渋滞というほどの混雑はなかったが、それでも車の量は通常よりは多いので何かと気を使う運転となったが、2時間ほどの運転で何とか無事に彦根に到着する。

 彦根に到着したのは3時前。今日の宿泊ホテルはルートイン彦根。ここは妥当な価格の宿泊プランを確保できたことによるチョイス。さすがにルートインで一泊一万円以上は出せない。

 このままホテルに直行してもまだチェックイン時刻前。彦根城にでも立ち寄るかと思ったが、既に手前の道路から混雑していてここから先の様子が想像できるので断念。ではどうするかと考えた時に頭に浮かんだのは往路で立ち寄る暇がなかった豊郷小学校。ヴォーリズ設計による歴史的建造物なのだが、解体業者と癒着していたと推測される町長がなぜか解体に固執して一騒動になった校舎である。

 

 

豊郷小学校はアニメの聖地になってしまっていた・・・

 現地に到着するとイベントが開催中で、駐車場が使えないからと町役場の駐車場まで移動させられる。この時に何となく嫌な予感がしたが、現地に到着するとイベント内容が判明。どうやら同人誌即売会の模様。そう言えばここは何かアニメの聖地だとチラリと小耳に挟んでいたが(どうやら「けいおん」らしい)、もろに聖地巡礼になってしまった・・・。

f:id:ksagi:20190506160608j:plain

豊郷小学校

 ただ普通のオタはまだ見慣れているが中には女装したオッサンまでいて、さすがにこれには吐き気を催される。20年前の私はアニオタでしかもセラムンオタだったので、どちらかと言えばあちらサイドの人間だと思っていた(ただしコスプレはしたことがないし、しようと思ったこともない)ものだが、周りを見渡すと明らかに場違いであるという感覚は拭えず、キモいという気持ちを抑えられなくなる。どうやら私も年月を重ねる間に彼らを蔑み迫害する側のメンタリティに近づいてしまったようで、そのことにショックを受ける。

f:id:ksagi:20190506160638j:plain

廊下

f:id:ksagi:20190506160656j:plain

階段のうさぎと亀

 校舎内ではあちこちで同人誌のブースがありアニオタがウロウロ。その関係で見学できる範囲が限られるし撮影も制限されるということで、有名なうさぎと亀を撮影したぐらいで撤退する羽目に。どうも各地で聖地巡礼に出くわして散々な目にあうことが増えている。

f:id:ksagi:20190506160746j:plain

校庭の噴水

f:id:ksagi:20190506160757j:plain

趣のある校舎

 

 

 この後はホテルにチェックインする。テレビをつけたらWOWOWでトランスフォーマーを放送していたのでその終盤をボンヤリと眺める。こんなつまらないストーリーでも、SFXを駆使してそれなりに見られる映画にしてしまうハリウッドには常々感心する。日本でこれを映画にするとどうしても子供だましの安っぽい映像になってしまうのがオチ。彼我のこの技術力の差は何なのだろうか? 単純にかけている金額だけではない差があるような気がしてならない。

 この後は大浴場で入浴。昨日のホテルは大浴場がなくてシャワーだけだったのでこれでホッと落ち着く。やはり日本人たるものは浴槽に浸からないと始まらない。それにしても想像以上に体のあちこちがガタガタで、もう動き回るのは嫌になっている。

 で、出歩く気さえ起きないし、この周辺は国道沿いのチェーン店(吉野家など)ばかりというので面倒臭くなったので、夕食はホテル内の「花々亭」で済ませるという体たらく。それにしてもこのカレー、もう少しルーが多くても良いような・・・。

f:id:ksagi:20190506161004j:plain

上田カツカレー

 結局この日はグダグダのまま暮れていき、ベッドに転がっている内に意識を失ってしまっていたのである。

 

 

甲斐の山城巡り&「歌川国芳の時代」at 中山道広重美術館

 この日は7時に起床すると早速入浴。夜の間に風呂の男女交換がなされており、こちらの風呂はやや狭いがワイン風呂なんかがある。ただあまり浸かりすぎていると疲れが出てくるので、手早く体を温めるだけにしておく。

f:id:ksagi:20190506143745j:plain

朝食バイキング

 9時頃にはホテルをチェックアウト。今日は最終的には恵那まで長駆移動する必要があるので、行動を全体的に早める必要がある。まず最初に目指すのは須玉ICの近くにある若神子城。

若神子城 甲斐を巡っての徳川と北条の争いの最前線

 若神子城は本能寺の変後、支配者不在となった甲斐を巡って徳川と北条が争った時に、北条方の最前線の拠点となった城である。現在は歴史公園として整備されており、北条式の薬研堀の跡が残っており、さらに狼煙台が復元されている。この時代の高速情報伝達網である狼煙ネットワークの一環をなしていたらしい。

f:id:ksagi:20190506143817j:plain

拍子抜けするぐらい普通の公園になっている

f:id:ksagi:20190506143841j:plain

北条流薬研堀の跡

 狼煙台は老朽化でかなりガタが来ていて立ち入り禁止。現地は単なる普通の展望公園という趣であまり城跡らしさはないところ。

f:id:ksagi:20190506143913j:plain

狼煙台はかなり老朽化している

f:id:ksagi:20190506143934j:plain

遠くに富士山を望む

 

 

獅子吼城・・・は残念ながら断念

 次はこの奥にある獅子吼城を目指したのだが、駐車場のある根小屋神社で何やら神事がなされているようで、その参加者の車で一杯で車を止める場所がない。それにどこからアクセスしたら良いのかも分からないしということで今回は諦めることにする。

f:id:ksagi:20190506144008j:plain

この山上に獅子吼城があるはずだが・・・

 

 

谷戸城 平安時代から続く地形を利用した城郭

 次は谷戸城を目指すことにする。八ヶ岳が見える荒涼とした雰囲気の地域をしばし車で走る。風景の雰囲気は以前に車で走った富良野を思い出す。

f:id:ksagi:20190506144312j:plain

八ヶ岳の風景

 30分ほど走ると歴史館に到着。ここにはこの地域で発掘された土器などが展示されているが、縄文土器の造形がすごい。まさに「縄文は爆発だ!」。

f:id:ksagi:20190506144126j:plain

歴史館

f:id:ksagi:20190506144352j:plain

縄文は爆発だ!

f:id:ksagi:20190506144420j:plain

このいかにもの石碑は子孫繁栄の意味とか

 

 

 歴史館のすぐそばに谷戸城の登り口がある。歴史館の展示から分かるようにかなり古くから多数が居住しているのがこの地域だが、谷戸城は平安時代末期に逸見清光が築城したと考えられているとのこと。彼の子孫から後の武田氏が出ている。徳川と北条による争い(天正壬午の乱)においては北条方がこの城に布陣したらしい。なお近年の発掘調査では陶磁片などの多数の遺物が出土したとのこと。現在は国の史跡として保存整備されている。

f:id:ksagi:20190506144505j:plain

谷戸城登り口

 谷戸城のある小山はそう高いものではないのだが、東西に川があり、南は結構切り立っているので意外に守備力はありそうだ。また中央に近づくにつれて傾斜がきつくなっており、それを土塁と堀で守っている。ここの城が奇妙なのは、堀が土塁の内側にあることでこれは通常の逆。土塁を越えて堀内に落ちた敵を仕留めるのだろうか?

f:id:ksagi:20190506144530j:plain

谷戸城の模型

f:id:ksagi:20190506144545j:plain

縄張図

f:id:ksagi:20190506144609j:plain

二の丸の土塁と堀

 

 

 本丸は最高所にあり、入口は単純な食い違い虎口となっている。高い土塁に囲まれたそれなりの広さのスペースである。難攻不落とまでは感じないが、それなりの兵力を置いて守るには十分な城郭だろう。

f:id:ksagi:20190506144631j:plain

本丸の食い違い虎口

f:id:ksagi:20190506144647j:plain

土塁に囲まれた本丸

f:id:ksagi:20190506144713j:plain

90度に折れ曲がった搦め手虎口

 

 

 これで今回の城郭巡りの予定は大体終了。後は恵那に向けてひたすら走る。まだ摂っていなかった昼食は途中の諏訪湖SAに入って摂るが、さすがにGWでSAは超満員。フードコートは席もない状態だったので、奥のレストランに入ってさくら丼を注文する。

f:id:ksagi:20190506145245j:plain

諏訪湖SAで休憩

赤身の馬刺しが美味い。やはり馬刺しは赤身がサッパリしていて良い。特に期待はしていなかったのだが、予想を上回るメニューで上々。

f:id:ksagi:20190506144802j:plain

赤身がサッパリしたさくら丼

 この後は延々と高速道路を走るのみ。しかし道路は混雑していて走りにくいし(途中で何度か渋滞でスローダウンすることも)、中央道は結構起伏もカーブもあるしで大変。ようやく夕方頃に恵那に着いた時にはヘトヘト。

f:id:ksagi:20190506145154j:plain

これがかつての中山道とか

 恵那で宿泊するのはシティホテルミチ。初めて使用するホテルだが、実は本遠征で一番不安だったのがこのホテル。と言うのは当初は恵那ではルートインを使用するつもりでいたのだが、最近のルートインはドーミーインの悪癖に学んだのか、GW特別価格を設定しておりとても宿泊する気にならない価格になっていたのである。そこでやむなく他のホテルを探さざるを得ない状況になった次第。

 やや昭和臭がするホテルで設備に古さは感じるが、汚いというほどではない。部屋の照明が暗いのが気に入らないが、まあまあといったところでとりあえず安心する。

 ホテルにチェックインすると隣の広重美術館を訪問する。

 

 

「歌川国芳の時代-木曽街道六十九次之内を中心に-」中山道広重美術館で6/9まで

f:id:ksagi:20190506144914j:plain


 国芳の木曽街道六十九次之内は広重の東海道五十三次のような宿場町の風景を描いた作品ではなく、宿場名から連想した説話や歌舞伎の人物などを描写した作品である。だから内容的にはいわゆる武者絵の類い。国芳が最も得意としたジャンルでもあり、外連味タップリの迫力ある画面構成の作品などが並んでいる。

 さらに本展では国芳の美人画なども展示。こちらには結構オーソドックスな表現で、やはり国芳の本領は武者絵の方にあるように思われた。

f:id:ksagi:20190506145006j:plain

当時の絵草紙屋の再現

 

 

 美術館訪問後は夕食を摂る店を探してウロウロ。「あたりや」なる鰻屋を見つけたのでここに入店する。注文したのは「ウナギ丼(2700円)」

f:id:ksagi:20190506145056j:plain

あたりや

 今時この価格でウナギ1匹が入っているのはCPとしては良いか。ウナギは関西風の香ばしい焼き方。ただいささか焼きが入りすぎていて香ばしいというよりは焦げばしい。またやはりこの地域は味付けが関西人の私にはやや塩っぱい。個人的にはもう少し甘みのある方が好き。

f:id:ksagi:20190506145122j:plain

うなぎ丼

 夕食を摂ると近くの菓子屋やスーパーでおやつを買い求めてからホテルに戻る。部屋に入るとしばしダウン。テレビを見ながらベッドに転がっている内に意識を失い、気がついたのは30分後。そこで起き出してシャワーを浴びる。

 やはり体に溜まる疲労が半端ではなくなってきている。この日もやや早めに就寝する。

 

 

日本平に久能山東照宮と身延山久遠寺を経て石和温泉へ

 今朝は6時半に目が覚めたが、昨日に比べると睡眠時間が短いのでやや眠気がある。とりあえずホテルの大浴場に体を温めに行ってから朝食に出向く。朝食は品目的にはあまり多くはないが味は悪くはない。

 今日は比較的普通の「観光」をするつもり。まずは日本平に行ってここからロープウェイで久能山を訪問しようと思っている。ロープウェイが9時から運行なのでそれに間に合うようにチェックアウトする。

大混雑の日本平

 山道を車で走るが、どうも車の台数が多いのが気になる。ロープウェイ駅の駐車場に到着したのはちょうど9時頃だが、「もうすぐ閉鎖しますから急いでください」と言われて驚く。いざ駐車場に到着してみると、もう既にロープウェイの乗車券売り場に長蛇の列が出来ている。GWを侮っていたことにここで気づく。今までGWとは全く無関係な場所ばかりウロウロしていたから、このことを忘れていた。結局はロープウェイ乗車までに30分以上待たされることに。40人乗りのゴンドラを片道5分の行程をピストン輸送しているが、次々とくる客を捌ききれていない状況。

f:id:ksagi:20190506122242j:plain

ロープウェイ乗り場は既にこの状態

f:id:ksagi:20190506122303j:plain

乗車券と久能山東照宮のセット券を入手

 ロープウェイに乗ると驚くのは日本平の山の南側の切り立った断崖。どうやら海底の隆起と浸食によるらしいが、それにしても急峻だ。またこれから向かう久能山もとんでもない地形。周囲は完全に切り立っており完全に要塞。それもそのはずで、ここにはそもそも武田氏の久能山城という山城があったのだという。ここに山城を築けば難攻不落なのは間違いない。アクセスするには下から1000段以上という石段を登ってくるか、このロープウェイを使用するかしかない。と言うわけで足腰にガタの来ている私にはロープウェイ一択というわけである。

f:id:ksagi:20190506122532j:plain

ロープウェイが到着

f:id:ksagi:20190506122355j:plain

日本平の切り立った崖

f:id:ksagi:20190506122410j:plain

久能山東照宮があるのはこの山上

 

 

久能山東照宮 徳川家康を祀る神社

 家康の死後に遺命によってこの地に家康を埋葬すると共に、この山上に東照宮が建設された。後に徳川氏は威信をかけて日光東照宮を建築、家康はそちらに改葬されたとのことだが、実際には家康の遺体は久能山に埋葬されてたままとのことである。

f:id:ksagi:20190506122738j:plain

完全に観光地と化している現地

f:id:ksagi:20190506122817j:plain

海が見える

 ロープウェイの駅から出るといきなり現地は観光地モード。ここに博物館があるので見学する。展示されているのは歴代徳川将軍の甲冑。実用要素が強い家康の甲冑に対し、時代が進むにつれて実用性よりも装飾性の方が正面に出てきているのがよく分かる。またテレビでも放送されていた家康が薬を調合するのに使用した道具やネタ本も展示されている。これで家康は日々精力剤の調合に励んだのである。

f:id:ksagi:20190506122756j:plain

博物館

 

 

 博物館の見学を終えると本殿の方を見学することにするが、ほとんどの石段をロープウェイでショートカットしたとはいうものの、まだここからも石段は続いている。しかも山城時代の階段をそのまま使ったと言われているその石段は、最大で一段30センチ以上のところもあり、とにかく素直には登りにくいという代物。

f:id:ksagi:20190506123002j:plain

本殿の見学に向かう

 石段を登ったところに本殿があるが、これは確かに日光東照宮を連想させるような煌びやかでど派手なもの。朱・碧・緑・金と言ったキンキラキンのいかにも宗教施設らしい外観である(京都などの寺院がわびさびの風情があるのは古いからであって、本来は朱塗りのキンキラキンが寺や神社の基本)。日光東照宮に比べると規模は小さいが贅を尽くしているのは分かる。

f:id:ksagi:20190506123034j:plain

本殿

f:id:ksagi:20190506123056j:plain

唐獅子の彫刻

f:id:ksagi:20190506123119j:plain

これもかなり細かい

f:id:ksagi:20190506123148j:plain

なかなか派手

f:id:ksagi:20190506123200j:plain

絵画もあり

f:id:ksagi:20190506123211j:plain

とにかく随所に贅を尽くしている

 

 

 さらにその奥に家康を祀っている廟がある。かつての天下人も今は静かにここで眠っているわけだ。その脇にはひっそりと愛馬も祀られているようだ。さて彼が今、この迷走している日本の状況を見ればどう思うか。これはもう一度自分が天下を取って一からやり直さないとと考えるかもしれない。

f:id:ksagi:20190506123237j:plain

家康を祀る廟

f:id:ksagi:20190506123251j:plain

その傍らでひっそりと眠る愛馬

 なかなか見応えのある建物であったが、神社内に静岡らしく現代の仏像(ガンプラ)が奉納されていたのはなかなか笑えた。時代は変わるものである。

f:id:ksagi:20190506123318j:plain

静岡を代表する現代の仏像

f:id:ksagi:20190506123339j:plain

個人的にはこれが一番好き

 

 

 久能山の見学を終えるとロープウェイで日本平に戻る。帰りの乗客は行きの半分ぐらい。しかし日本平に到着したらロープウェイ待ちの客の列が数倍に伸びている。あの人数だと、最後尾は1時間待ち以上になるのでは。

f:id:ksagi:20190506123413j:plain

戻ってきた日本平はもっと凄まじいことに

 日本平に戻ってくると近くの展望台に登って風景を眺める。生憎と富士山方面は雲がかかっているようで全く見えないがなかなかの絶景。ただこの手の風景には数秒で飽きてしまうのも私の習性。これでするべきことは大体終えたし、次の目的地へと向かうことにする。

f:id:ksagi:20190506131527j:plain

展望回廊

f:id:ksagi:20190506131546j:plain

眺めは抜群

 

 

三保の松原・・・は断念

 次の目的地である三保の松原を目指して車を走らせるが、駐車場から出たところで駐車場に入るのを待つ車の行列に驚く。数十台単位で車の行列が伸びている。この連中がロープウェイに乗れるのは一体何時間後だろう? GW恐るべし。

 この行列を見たところで不吉な予感が頭を過ぎる。日本平がこのざまだと、比較的近くの三保の松原は・・・。三保の松原に向かう道路に到着したところで予感が的中したことに気づく。道路が延々と渋滞している。恐らくこれが駐車場の入口にまで続くことになるのだろう。この時点で三保の松原に立ち寄ることは断念する。どうせ今日は富士山は見えないようだし、またいつか機会がある時にということにして車をUターンさせる。

 今日の予定だが、後は今日の宿泊地である山梨方面への移動である。ただそろそろ昼時なので昼食を摂る必要がある。結局は考えるのが面倒なので途中で見かけた「はま寿司」に入店して寿司をつまむ。

 

 

身延山久遠寺 山中の大伽藍

 とりあえず昼食が済んだところで山梨方面に向かう。ただこのまま山梨に直行だと面白くないので、途中で身延山に立ち寄ろうと思っている。願うべくは身延山は日本平のようなことがないことを。

 身延山に向かって走ること1時間ほど。ここで私は予測が甘かったことを痛感させられるのである。久遠寺の門前町を走り抜けて、一番奥のロープウェイ駅最寄りの駐車場を目指したのだが、なんと駐車場から100メートル以上手前で大渋滞。どうも駐車場待ちの行列の模様。しかもこの道路がとんでもない登り斜面で、ブレーキを緩めるとオートマ車でも勝手にバックしてしまう状況。ここで前が進む度にチリチリと前進なのでひたすら坂道発進の連続である。私は左足ブレーキをアクセルと併せて車が後退することを防いでいたのだが、前の車は発進の度に豪快に後ろに数十センチ下がってから急発進するので危なっかしくて仕方ない。結局はこの坂道発進の連続を30分以上に渡って繰り返させられることになった。もしマニュアル車が混じっていたらドライバーは完全に左足が死んでいるところだろう。

f:id:ksagi:20190506131721j:plain

延々と続く渋滞の列

 ようやく駐車場に車を置くと、駐車場奥にある斜行エレベータで久遠寺境内に上がる。このままロープウェイに向かっても良いが、どうせならその前に久遠寺の見学をしておくことにする。

f:id:ksagi:20190506131825j:plain

駐車場から斜行エレベータで登る

 それにして大伽藍である。しかも下の山門からの石段がすごい。久能山も1000段を越えるとんでもない石段があるのだが、ここもかなりのものであり傾斜もきつい。高所恐怖症がある私はのぞき込んだら軽く目眩を感じるレベル。

f:id:ksagi:20190506131904j:plain

目眩がする高さ


 建物内を見学できるようなので寺院を一周する。中には就業中の僧侶などもいるようであるが、その一方で妙に観光慣れを感じさせる。この聖俗入り交じった奇妙な感覚は以前に福井の永平寺で感じたものと同じである。良くも悪くもお寺も「今風」になってきているんだろう。

f:id:ksagi:20190506132153j:plain

五重塔

f:id:ksagi:20190506131946j:plain

本堂

f:id:ksagi:20190506131959j:plain

伽藍の数々

f:id:ksagi:20190506132018j:plain

これは一体何なんだろう?

f:id:ksagi:20190506132229j:plain

キティも修行中の模様

 

 

 久遠寺を一回りするとロープウェイで身延山に登ることにする。ロープウェイはそう大きなゴンドラではないが、山上まで上る人間があまりいないのか大して混雑していない。標高が上がるにつれて背後に富士山が見えてくる。

f:id:ksagi:20190506132257j:plain

身延山ロープウェイ

f:id:ksagi:20190506132317j:plain

急角度で上昇する

f:id:ksagi:20190506132340j:plain

この絶景

f:id:ksagi:20190506132402j:plain

山上からは富士山も見える

 山上は展望台に売店などもある観光地。ここでよもぎ団子を頂くが、これがあえて串を切って渡すのがポイント。苦(く)死(し)を切り捨てる縁起物らしい。これで私も俗世の苦しみから解放されるか・・・ってこう書いてしまったら、成仏する意味になってしまうな。それはまだ少々早い。なお団子は香ばしくてなかなか美味かった。

f:id:ksagi:20190506132422j:plain

よもぎ団子

 

 

 ここの奥に久遠寺の奥の院があるのでついでにそれも参拝しておく。なおここの奥には日本アルプスを一望できる絶景の展望台もある。

f:id:ksagi:20190506132446j:plain

奥の院へ

f:id:ksagi:20190506132459j:plain

山門

f:id:ksagi:20190506132511j:plain

社殿

f:id:ksagi:20190506132534j:plain

南アルプスを望む絶景

 山上を一回りしたところで山を下りようと考えるが、売店内にロープウェイを待つ大行列が出来ていた。どうも山上に来ていた観光客がそろそろ帰り始めるピーク時間に当たってしまったらしい。何か今日はロープウェイで並ばされてばかりいる1日である。結局は20分程度ここで待たされて身延山から下りてくる。

 

 

 身延山を後にすると今日の宿泊地である石和温泉を目指すことにする。ただ私のカーナビの地図が古いせいで中部横断自動車道が全く存在しないので、Googleマップで場所を確認してから手入力で下部温泉早川ICを指定する。事前にマップをよく確認しておいたので幸いにして道に迷うことはなかったが、高速に乗った後は私のカーナビはしばし道なき道を走ることになっていた。

 途中で低速車につかえるなんてこともあったが、無事に甲府まで到着、ここからは渋滞気味の一般道を通って石和温泉を目指す。今日の宿泊ホテルは大江戸温泉グループのホテル新光。長期遠征ということで宿泊費に予算のしわ寄せが来ているので、本遠征ではここが一番の高級ホテルになる。現地に到着すると大きな建物が見える。この地域を代表する大型ホテルのようである。現地に到着すると駐車場が満杯で車を止める場所に困るぐらい。

f:id:ksagi:20190506132614j:plain

ホテル新光

 私のシングルルームは所謂旅館ぽくはない部屋だが、まずまず良い部屋。イメージとしては独身者の寮といったところ。もしかして元は従業員寮? 温泉旅館でシングル泊だと、もろに添乗員部屋で煙草の臭いが染みついているなんとこともよくあるので、これなら上々である。

f:id:ksagi:20190506132640j:plain

旅館っぽくはない部屋

 部屋で着替えるとまずは大浴場へ。石和温泉はアルカリ単純泉とのこと。ヌルヌル感はそう強くはないが肌当たりは柔らかい優しい湯。今日もなかなかに疲れたのでこれでたっぷりと疲れを抜く。

 

 

 入浴を終えて部屋でしばしくつろぐと、すぐに夕食の時間となるのでレストランへ。相変わらず大江戸温泉のバイキングは質量共に満足のいくもの。品数も多いし味もまずまず。今時の学校給食以下という伊東園などとは比べるべくもない。「圧倒的じゃないか我が夕食は」とギレン総帥もご満悦だし、「バイキングは品数だよ!」のドズル閣下も満足されている。

f:id:ksagi:20190506132752j:plain

圧倒的じゃないか我が夕食は

 一渡りを頂いてから、やはり山梨といえばほうとう、それにクラムチャウダーを頂いてからデザートで締め。久しぶりに死ぬほど食ったと言えよう。

f:id:ksagi:20190506132824j:plain

山梨と言えばやっぱりほうとう

f:id:ksagi:20190506132848j:plain

パイ入りクラムチャウダー

f:id:ksagi:20190506132902j:plain

デザートの数々

 部屋に戻ってしばしこの原稿の入力を行ってから再び入浴。体がとろけそうという感触。体の表面に疎水性皮膜が出来た感触で、一回目の入浴よりも明らかに体が濡れない。湯が体に絡みつかずにそのまま流れ落ちる感覚。

 かなり体に疲労が出てきたので夜の10時過ぎには就寝する。

 

 

遠江地区山城巡り&「屏風爛漫」at 静岡県立美術館

 起床は7時。今日から令和元年とのことで、テレビは相変わらずどうでも良いよう内容ばかり。とりあえずドタバタと身支度をすると朝食へ。朝食はオーソドックスな和食だが、食欲がイマイチの割には結構しっかりと食える。

f:id:ksagi:20190506100759j:plain

シンプルな和食

 部屋に戻るとシャワーを浴びてからチェックアウト。天気予報によると今日は午前中はどうにか天候が保つが、午後からは雨との予報。これは早い内に行動をしないといけない。

 今回の予定は遠江地域の山城攻略。以前にこの地域を回った時に未訪問になっている宿題の解決である。

 

 

横地城 国指定史跡の断崖上の城郭

 最初に向かったのは横地城。鎌倉時代からこの地を拠点にしていた横地氏が築いた城郭で、国の史跡に指定されているという。以前にこの地域をウロウロした時には、私の事前の調査不足でこの城郭の存在を知らなかった次第。

f:id:ksagi:20190506100844j:plain

横地城案内図

 現地に近づくと大きな看板が出ており、それに従って走ると絶壁の下の駐車場に案内される。横地城はこの絶壁の上とのこと。すぐ近くに登山道があり、そこを登ると10分とかからずに千畳敷の広場に出る。城の中心となる広いスペースである。なおここまで車道が通っており、確かにそう広い道ではないが、私のノートなら問題なく走れそうだ。体力に自信のない者なら車でここまで来たほうが良いだろう。ただヘロヘロの私でさえここまで登れたのだから、特に体に問題のない者ならこの城の堅固さを体感するという意味でも下の駐車場から歩くことを勧める。

f:id:ksagi:20190506100916j:plain

横地城は背後の断崖の上

f:id:ksagi:20190506100956j:plain

千畳敷

f:id:ksagi:20190506101616j:plain

その奥の横地神社

 このすぐ北に横地神社と西の城があるが、これは後回しにしてこの城の本郭である東の城を目指す。途中で中の城の脇を通るが、ここは東の城に向かう敵を食い止めるための関所のような位置づけ。通路が一列縦隊にならざるを得ない幅なので、完全に中の城から狙い撃ちされることになる。

f:id:ksagi:20190506101652j:plain

中の城では上から狙い撃ちされることに

 

 

 中の城の脇を抜けて細い通路を進むと目の前に東の城がそびえ立つ。中の城を何とか突破しても今度は東の城から狙い撃ちされることになっており、とにかく堅固である。東の城に登る通路は回り込んだ上に折れ曲がっており、横っ腹を何度も狙い撃ちされる構造になっている。

f:id:ksagi:20190506101724j:plain

正面の丘の上が本郭

 東の城は本郭とのことだが、見晴らしは良いもののそう大きなスペースではない。この東に牧ノ原台地にまでつながる一騎駆というまさに一騎しか通れない道が続くが、これも東の城から狙い撃ち。構造的には本郭と言うよりは東側の防御の拠点という気がする。

f:id:ksagi:20190506101811j:plain

本郭の面積は決して広くはない

f:id:ksagi:20190506101829j:plain

しかし見晴らしは良い

f:id:ksagi:20190506101856j:plain

狭い一騎駆けは本郭から狙い撃ちされる

 なおこの東の城の奥には井戸のある曲輪もあり、搦め手口のような構造も見える。もしかしていざという時の避難路?

f:id:ksagi:20190506101935j:plain

本郭下の井戸のある曲輪

f:id:ksagi:20190506101953j:plain

その脇には門らしき構造が

 

 

 再び千畳敷のところまで戻ってくると、今度は西の城に登る。ここは複数段の曲輪になっており、最上段の神社が建っているところが西の城。城全体を見渡せる位置にあり、下には大兵力を展開できる千畳敷。どちらかと言えばこちらが本来の戦闘指揮所ではという気がする。

f:id:ksagi:20190506102018j:plain

横地神社を登る

f:id:ksagi:20190506102046j:plain

数段の腰曲輪になっている

f:id:ksagi:20190506102108j:plain

祠のある最高所はそこそこの広さがある

 千畳敷からさらに西に進むと非常に深い谷を回り込むことになる。この谷には金玉落しとの名称があるが、ビビって男の玉を落とすという意味かと思っていたらさにあらず。昔、この城の兵隊に対する訓練として、ここに金の玉を落として直ちにそれを拾ってくるというものがあったそうな。断崖を駆け下りて足腰と度胸を鍛えるという訓練だろう。しかしこれは命がけだ。

f:id:ksagi:20190506102148j:plain

金玉落とし

f:id:ksagi:20190506102209j:plain

ここを駆け下りる気にはなれん・・・

 私はここから丑池の横に出るルートで降りてきた。このルートも見上げるような絶壁ばかりで圧巻である。総じて言えるのは、この城の周囲はとにかく断崖であるし、各曲輪を結ぶルートは細くて曲輪から狙い撃ちされるようになっており、標高の割にはとにかく堅固な構えの城であるということ。

f:id:ksagi:20190506102238j:plain

この手の絶壁が各所に

 とにかく見応えのある城郭であった。私の私撰100名城Aクラスと言ったところだろう。これは令和初っ端からついている。令和は私にとって実り多い時代となりそうである。

 

 

八幡平城 武田式の堀切などが見られる山城

 横地城の見学を終えると次は八幡平城を目指す。こちらは先の遠征の際に登城路を登り始めたものの、道の悪さと険しさと時間と体力に余裕がなかったことから撤退した城郭である。

f:id:ksagi:20190506102929j:plain

八幡平城縄張図

 八幡平城はこの地の領主の新野氏の詰城だったものを、1578年頃に武田軍が高天神城の軍道の押さえとして改修したものだという。想慈院の手前に看板と駐車場があり、そのすぐ近くに大手口の登城路がある。茶畑横のかなり急な道を歩くが、舗装してあるところを見るとここを軽トラが登るのだろう。さすがに軽トラ最強伝説。

f:id:ksagi:20190506103008j:plain

大手側登り口

f:id:ksagi:20190506103022j:plain

警告看板付き

 登城口から5分もかからずに分岐点に到着。ここから西に進むと馬場を過ぎて堀切にまで到達する。こんな高台に馬場?と思うが、当時の日本馬は背丈が低くて斜面に強い馬なので、このぐらいのところは上り下りしたかもしれない。現在のサラブレッドがスピードに特化したフェラーリだとしたら、当時の日本馬は最強の実用車・軽トラのようなものだから。

f:id:ksagi:20190506103051j:plain

この手の山道を登ることに

f:id:ksagi:20190506103112j:plain

馬場

f:id:ksagi:20190506103130j:plain

その奥の二重堀切

 

 

 分岐点に戻ってさらに進むと、横堀に沿って進む形になる。この上が本丸。本丸はかなり広いスペースであり、多くの兵力を置けそうである。直虎記念の植樹の跡などもあり、あの番組がきっかけで整備されたことがよく分かる。

f:id:ksagi:20190506103154j:plain

横堀に沿って進む

f:id:ksagi:20190506103214j:plain

本丸に到達、ここは広い

f:id:ksagi:20190506103231j:plain

大河ドラマ記念植樹

f:id:ksagi:20190506103250j:plain

奥は断崖の上に堀切もあり

 

 

 ここから奥の曲輪を経由して想慈院の墓地に降りてくるルートが帰りルートになるが、こちらは比較的気軽に登れたここまでのルートと違い、深い堀切を降りたり上がったりする登山ルート。本郭の奥からいきなりかなり深い堀切で尾根筋を断ち切ってある。こちらは一応ハイキング装備ぐらいはしていないといけないルート。見応えはあるがなかなか大変である。

f:id:ksagi:20190506103319j:plain

本郭から隣の曲輪に向けて降りる

f:id:ksagi:20190506103419j:plain

その先には二重堀切が

f:id:ksagi:20190506103452j:plain

隣の曲輪は広いが起伏がかなりある

 何度も堀切を降りたり登ったりしてヘトヘトになって何とか無事に想慈院の墓地までたどり着いた。思うに先の訪問の際、大手口ルートから進んでいたら多分途中で断念することはなかったろう。ただ問題は帰路。あの時の大分体にガタが来ている状態であの堀切の上り下りは、どこかで思わぬ不覚を取る可能性がかなり高い。やはりあの時の撤退の判断事態は正しかったか。

f:id:ksagi:20190506103518j:plain

その先もこの手の堀切が連続

f:id:ksagi:20190506103535j:plain

ヘトヘトになって想慈院口に降りてきた

 

 

相良城 田沼意次が築いた広大な城郭

 大きな宿題はこれで解決したので後は掃討戦である。次に立ち寄ったのは相良城。老中まで出世した田沼意次が居城にしていた城郭である。

 ところで私は歴史上でもっと正当な評価をされるべきと以前より唱えている人物が三人いる。一人は石田三成、二人目は明智光秀、そして三人目が田沼意次である。この内、石田三成はここ最近に急激に再評価が進んできたようだし、明智光秀についてもとうとう大河ドラマの主人公に決まったようである。となると後は田沼意次。賄賂政治家の代表のように言われるが、あれほどの濡れ衣はないと考えている。田沼が目指したのは重商主義であり、初期資本主義そのものであった。しかしそれは重農主義にガチガチに染まった保守派には理解できるものでなく、結局は田沼を汚名を着せられた挙げ句に失脚に追い込まれている。私は幕府を立て直せる可能性があるとしたら田沼の路線しかなく、あのまま田沼路線を突き詰めていれば、日本は広く海外に進出して、明治維新を向かえずに近代国家へ歩み出すことになってまた違った歴史が展開していただろうと考えている(海外での覇権を競ってイギリスと争うなんてこともあったかも)。実際に田沼に変わって権力を掌握した松平定信による寛政の改革は、時代とズレがありすぎて完全に失敗している。

f:id:ksagi:20190506104137j:plain

田沼意次

 相良城は老中に出世した田沼意次が築いた城郭で、大規模で天守閣まである立派な城郭だったらしいが、田沼意次の失脚後に徹底して破壊されている(この辺りに田沼に代わって権力を握った松平定信の陰湿さが現れているのだが)。その結果として現在は城の遺構は全く残っておらず、本丸跡に史料館があるのみである。ここの史料館では相良地域の歴史や文化を紹介する資料が多数展示されている。

f:id:ksagi:20190506104104j:plain

史料館

 現在小学校があるのが二の丸跡で、高校があるのが三の丸跡とのこと。辛うじて城の遺構と言えそうなものは、小学校の松林が生えているところが二の丸土塁跡と言われていることと、仙台河岸と言われる船着き場の跡ぐらいである。

f:id:ksagi:20190506104210j:plain

二の丸土塁跡の松

f:id:ksagi:20190506104235j:plain

仙台河岸

 

 

 相良城を後にすると次の目的地へと向かうが、その途中で昼食を摂る店を探す。「そばの岩久」という店を見つけたので入店。「カツ丼」を頼む。

f:id:ksagi:20190506104310j:plain

そばの岩久

 添えられているそばが非常に美味い。これはそばをメインのメニューにするべきだったと後悔。カツ丼については味付けが私の好みからはやや甘すぎるのが残念。結局は食欲が今ひとつなこともあって、丼は全部は食べられず。

f:id:ksagi:20190506104339j:plain

カツ丼はやや甘口、そばは美味い

 

 

田中城 今は完全に市街に埋もれた同心円状の平城

 昼食を終えると近くの田中城を目指す。田中城は今川氏が徳川に対抗するために築いた城郭であるが、徳川の世となってからは代々譜代大名が支配している。なお徳川家康が鯛の天ぷらを食べて体調不調になったというのはこの城郭においてだという。

f:id:ksagi:20190506104520j:plain

田中城縄張復元図

f:id:ksagi:20190506104537j:plain

田中城復元模型

 本丸を中心とした同心円状の構造を持つ珍しい城郭であるが、廃城後に城域は完全に市街に埋もれてしまった。ただ今でも住宅の並びなどにかつての縄張の痕跡はある。なお本丸に建てられていた物見櫓が、公園として整備された下屋敷の中に移築されている。

f:id:ksagi:20190506104439j:plain

田中城下屋敷

f:id:ksagi:20190506104500j:plain

物見櫓

f:id:ksagi:20190506104601j:plain

三の丸の土塁の一部

f:id:ksagi:20190506104650j:plain

馬出曲輪の跡

 

 

持船城(用宗城) 駿府の西を守る拠点の山城

 田中城の次は持船城(用宗城)に立ち寄る。持船城は築城年代は不明だが、戦国の今川時代には既に築城されていたという。今は内陸化しているが当時は海に面した城であり、山上にある水軍城だったらしい。要地であるため、今川・武田・徳川の三者で三度の攻防戦がなされたという。

 山に登る険しくて狭い車道があり、途中の駐車場に車を置いてから歩くことになる。ただ計算違いは思っていたよりもその山道が険しかったこと。またこの頃になるとギリギリ保っていた天候も完全に崩れて雨の中で足下がやや不安。これが完全に私の足腰にとどめになってしまった。

f:id:ksagi:20190506104730j:plain

持船城登り口

 山上は開けた曲輪になっており、静岡方面をはるかに見渡すことが出来る。ここは静岡の西の入口に当たる場所で、ここが落ちれば駿府まで障害物は最早安倍川ぐらいしかない。今川氏としては死守する必要のある城郭だったろうと思われる。

f:id:ksagi:20190506104753j:plain

山上の曲輪

f:id:ksagi:20190506104907j:plain

静岡方面を一望

 堀切を隔てて南側に曲輪らしきものが見えるが、雨がまた強まってきたこの天候の中で安全に登るルートが見つからなかったので、そちらの視察はやめておく。

f:id:ksagi:20190506104933j:plain

奥の堀切に降りてみる

f:id:ksagi:20190506104806j:plain

ここからは海の方向が見える

 静岡市に到着したが、まだ少々時間がある。そこでホテルを通り越してもう一カ所だけ立ち寄ることとする。しかし市内に到着した途端に一般道が大渋滞で、現地に到着した時には閉館時刻まで余裕がない状態。

f:id:ksagi:20190506105130j:plain

静岡県立美術館

 

 

「屏風爛漫」静岡県立美術館で5/6まで

f:id:ksagi:20190506105150j:plain

 屏風は日本独自の建具であり芸術品である。その屏風の立体的大画面を利用した作品を展示。

 展示品としては当館の目玉の一つである伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」。なぜか方眼を用いた独特の作品であり、若冲の奇想の一つの極致でもある。またその煌びやかで目を剥くような色彩も非常にインパクトの強さを持っている。まさに屏風という大画面で映える作品。

f:id:ksagi:20190506105255j:plain

樹花鳥獣図屏風右隻(複製品)

f:id:ksagi:20190506105345j:plain

樹花鳥獣図屏風左隻(複製品)

 またひたすら鶴の群れを描いている石田幽汀の「群鶴図屏風」なども以前に目にした若冲の群鶏図屏風などと比較すれば面白い。また会場内には「武蔵野図屏風」を畳に座って低い視点から眺めることが出来るコーナーなどがあり、これが面白い。この視点から見ると絵がこちらに迫ってくるような迫力がある。

 屏風の特徴としては単に大画面と言うだけでなく、その折れ曲がりを利用して絵に奥行きをつけるという効果もある。巧みに設計された風景画などの中には非常にそれを上手く利用した作品もあり、その辺りも注目に値する。

 

 

 これで今日の予定は終了したのでホテルに向かうことにする。今回宿泊するホテルは静岡ホテル時之栖。静岡の市街のやや東にあるホテルで系列に日帰り入浴施設もあるらしい。ホテル自体はフロント業務をかなり簡略化したビジネスホテルという印象。系列の日帰り入浴施設「天神の湯」で安く入浴できるのが売り。

 例によって全身汗だくのドロドロなのでまずは風呂に行くことにする。天神の湯は徒歩3分ほどのところにある。地元で人気があるのか大勢の客で賑わっている。なおこちらにも宿泊設備があるようなので、最初からこちらに宿を取るという方法もあるようである。浴場は一応温泉とのことだが、ナトリウム-カルシウム-塩化物泉とのことなので湯自体は大した特徴はない。しかし風呂が広くて設備も良いのでなかなかにくつろげる。

 風呂でサッパリした後は、この施設の二階のレストランで夕食を摂ることにする。頼んだのはざるそばとマグロ丼のセット。まあ可もなく不可もなくというところで、この手のスーパー銭湯の施設にしては良いほうでは。ついでに飲み物として日本平ソーダなるものを追加注文。どうやらソーダにミカンが入っているようで、やたらに酸っぱい飲み物である。

f:id:ksagi:20190506105535j:plain

夕食のざるそばとマグロ丼のセット

f:id:ksagi:20190506105556j:plain

日本平ソーダは酸っぱい

 さて他に何かないかとメニューをひっくり返していたら「薬膳餃子」なるものが目に飛び込んでくる。これを見ていると「人参餃子」消化促進、目のかすみ、視力低下、胃がん予防、美肌維持に効果的とのこと。この症状は正に私そのもの。これは注文しない手はなかろう(笑)ということで注文。出てきた餃子は結構オーソドックスで、特に変な味がするというわけではなくにんにくが入っていない分、むしろ私には食べやすいぐらい。さてこれで私も10年ぐらいは長生きできるようになったか(笑)。

f:id:ksagi:20190506105637j:plain

ん? これは

f:id:ksagi:20190506105700j:plain

人参餃子は意外にクセがない

 食事を終えるとマッサージチェアで思い切り体をほぐしてからホテルに戻る。こうなるとここ2日ほど体を酷使したツケで強烈な眠気がこみ上げてくる。この日も部屋に戻るとかなり早めに就寝することとなった。

 

 

浜名湖周辺山城巡り&「チェコデザイン」at 岡崎市美術博物館

 翌朝は7時まで爆睡していた。数日前から風邪をひいたようなのだが、やはり体調の悪さが尾を引いていて体がまだダルい。目を覚まそうとテレビをつけると、今日が平成最後の日とのことでそれ関係の番組ばかり。しかし私は平成だろうが令和だろうが関係ない。予定通りに日々を粛々と送るのみである。

 とりあえずシャワーで体に気合いを入れると、朝食を摂りにレストランへ。オーソドックスな和定食だが、こういう時にはこういうものが実は一番美味い。総合評価で行くとCP的に悪くないホテルだった。なお宿泊客に現場関係者が多いのか、朝の行動開始が早くて私が目覚めて朝食に行った頃にはほとんどの客が出払っていた模様。

f:id:ksagi:20190505210946j:plain

オーソドックスな和定食

 さて今年のGWの予定だが、東海地域を中心に山城ツアーのつもり。久しぶりに本格的な山城遠征である。ところで今日の予定だが、浜松地区の井伊家関連の山城を回るつもり。実はこの計画自体は昨年の7月に静響のコンサートを聴きに来たついでに実行したものだが、この時には7月の予想を超える灼熱地獄のために熱中症で死にかけた上、ミカン畑に迷い込んでレンタカーを傷だらけにしてしまって完全に戦意喪失、予定の半分も消化できずにスゴスゴと撤退という体たらくになってしまっており、今回はリターンマッチ。

 ただ気になるのは天候。関西では昨晩から雨だが、この雨は東海地域にも及んでいる模様。もしかなりの雨が降るようなら足下の怪しい中での単独登山は危険。場合によっては撤退も考慮しないといけない。もうここは出たとこ勝負で運を天に任せるしかない。

 ホテルをチェックアウトするとまずは岡崎を目指して走る。浜松に行く前に行きがけの駄賃で岡崎市美術博物館に立ち寄ろうと考えている。この美術館、岡崎ICの近くだが、市街からは外れた山の中という便利なのか不便なのか分からないところに立地している。途中はGWの渋滞が心配だったが、一宮辺りで若干の混雑に出くわしたが、特に大きな問題もなく予定通りに岡崎に到着する。

f:id:ksagi:20190505211033j:plain

湖岸の斜面に建つ岡崎市美術博物館

f:id:ksagi:20190505211224j:plain

展示室はエスカレーターで降りた下

 

 

「チェコ・デザイン100年の旅」岡崎市美術博物館で5/19まで

f:id:ksagi:20190505211305j:plain

 チェコは元々手工芸の発達していた地域であるが、本格的に芸術運動が花開いたのがアール・ヌーヴォーの頃。言わずと知れたアルフォンス・ミュシャ(チェコではムハ)の影響による。

 しかしその後の変遷が目まぐるしい。ヨーロッパがアール・ヌーヴォーからアール・デコに時代変化するのに呼応するように、チェコではチェコ・キュビズムと呼ばれる幾何学的なモチーフが全盛となり、これが工芸を中心にあらゆる分野に広がっていく。

 その後も結構目まぐるしくデザインの流行が変わるのだが、この時のチェコ・キュビズムの影響はかなり長い間底流として流れ続けているのが感じられる。チェコデザインの特徴としては、デザインのみに走るのではなく実用性を忘れないというところにもあるように思われる。洒落た手工芸品という位置づけを常に感じるのである。

 それが戦争を経て社会主義時代に突入すると急に暗黒時代となる。この頃に優秀なデザイナーの亡命なども相次いだようで、デザインの世界もかなり低迷するのであるが、その社会主義政権が倒れるとまさにビッグバンのように世界が変化し、西側の流行も取り入れつつ一気に前衛的なデザインが溢れるようになってくる。

 それにしても変化が目まぐるしいという印象であった。生物的曲線のアール・ヌーヴォーから直線の多い結晶的なキュビズムに大体10年でドラマチックに流行が変化するのだから驚きである。ミュシャが晩年にスラブ叙事詩を手がけていた頃には、既に彼自身が過去の人と見なされていて世間的にあまり注目されなかったということを聞いていたが、これだけ怒濤のように流行が変化していたらそれもさりなんと思われた。

 

 

 展覧会の見学を終えると浜松に移動することにする。まず最初に立ち寄るのは宇津山城だが、その前に昼食を摂ることにする。宇津山城に向かう途中で見かけた「めん処三河屋」に入店する。

f:id:ksagi:20190505211412j:plain

めん処三河屋

 注文したのは「うな重とざるそばのセット」。めん処を名乗っている店がウナギを出すのもおかしな話だが、まあ場所柄なんだろう。ウナギ自体は江戸前のかなり柔らかいウナギ。正直全く期待していなかったのであるが、存外まともではあった。なお本領であるはずのそばの方だが、これがあまり特徴なし。まあそんなに高い店でもないのでそれで良しなんだろう。

 

 

宇津山城 今川氏による対徳川の要塞

 昼食を終えると宇津山城を目指す。ここは前回の遠征では山の下まで行ったものの時間不足で断念した城郭。浜名湖にせり出した山上にある城郭で、最初は今川氏が三河への侵攻を図るための拠点として築城し、桶狭間の合戦以降は独立を図る徳川氏の侵攻を食い止めるための拠点として整備されたという。徳川氏の手に落ちた後はしばしは戦略的に重視されなかったが、そのうちに武田氏の侵攻に対しての防御線としての価値から再整備され、その際に西部の城郭が整備されたという。

f:id:ksagi:20190505211521j:plain

宇津山城縄張図

 私は途中の駐車場に車を置いて歩いたが、山上の墓地まで車で登ることは可能で駐車場もある。そういう意味では訪問しやすい城郭。ただ問題は見学ルートに入ってから。一応見学路はあるのだが、整備がイマイチで足下が藪っている上にところどころ深い水たまりで寸断されている状態。しかも郭内は草ボウボウで全体の状況が把握しにくいということで、一回りはしたものの城の構造はよく分からなかった。

f:id:ksagi:20190505211555j:plain

この奥が宇津山城になるのだが・・・

f:id:ksagi:20190505211622j:plain

藪が深すぎて何のことやら

 

 

千頭峯城 南北朝騒乱の中での南朝方拠点

 宇津山城の次はここから北上した先にある千頭峯城。南北朝時代に南朝方についた井伊家が後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して北朝方と戦った際、遠江の西を守る拠点として築いた城である。しかし北朝方の高師兼が率いる大軍の前で三ヶ月の激戦の末に落城、さらに本拠の三岳城、最後の拠点の大平城も相次いで落城して、南朝方の遠江での抵抗は終了となったとのこと。

 ただ正直なところ、現地の確認までは行くが登城は見送りかなという気もしていた。と言うのはやはり体調が悪い(少し歩いただけで吐き気はするし、正直心臓が止まるのではと思ったこともある始末)し、天候が悪い(先程からまた雨が強くなりだした)しとコンディションが悪いから。

 トンネルを抜けたすぐのところに千頭峯城の登山口の駐車場がある。向こうに見えている山頂が目的とする千頭峯城の模様。いざ現地に着いたところで進むべきか退くべきか悩む。距離、そんなに遠くない。高さ、まあ登ることは可能な高さ。天候・・・先程までの雨がやんで空が明るくなってきた。それを見た時に「えいっ、これも天啓!」と進むことを決意する。私のように日頃の行いの良い者は、こういう時に天が味方するのだろう(笑)。

f:id:ksagi:20190505211713j:plain

駐車場から望む千頭峯城

 いざ登り始めると足下はかなり整備されていて全く不安はない。これは進んで正解だったなと感じる。ヘロヘロの私でも10分程度で東曲輪に到着。それなりの広さのある曲輪群であり、これだけでこの城郭の規模の大きさを感じさせる。

f:id:ksagi:20190505211807j:plain

東曲輪

 ここから本曲輪へ登るのがなかなかに大変。とは言うものの、私も体調が万全ならそんなに難儀を感じないかもしれない。息を切らせつつ急斜面を登ると二曲輪、そこからさらに登った先がようやく本郭である。最高所の本郭はそれなりの面積もあり、この城の拠点らしき構えとなっている。

f:id:ksagi:20190505211833j:plain

二曲輪を経て

f:id:ksagi:20190505211901j:plain

本丸に到達

f:id:ksagi:20190505211935j:plain

本丸主要部

 この後は西曲輪を見に行ったが、二の曲輪は西曲輪の間の堀切は分かったものの、西曲輪自体は鬱蒼としていてイマイチ構造が不明だった。

f:id:ksagi:20190505212009j:plain

西曲輪の深い堀切

f:id:ksagi:20190505212039j:plain

しかし曲輪内部は何のこっちゃら

 これで前回からの宿題をもう一つ解決。もう時間も限られてきたし、何よりも体力の限界が見えてきた。今日の山城巡りはもう一カ所で終了とすることにする。となるとやはり重要宿題の一つ、三岳城を訪問することにする。

 

 

三岳城 井伊氏最後の籠城専用の堅城

 三岳城は井伊氏のいざという時の戦闘用城郭で、南北朝の争乱の際には本拠として用いた城郭である。その後の時代でも、井伊谷城では堅固さに不安のある際にはこの城郭に籠もっていたようである。

f:id:ksagi:20190505212359j:plain

三岳城縄張図

 千頭峯城から三岳城は車で30分以上の距離がある。三岳城は麓の三岳神社まで車で登ることが出来、そこから少し歩くだけ・・・と聞いていたのだが、これがいざ現地に到着すると本格的なハイキング路だった。これは想定外。もうヘロヘロになっている体にむち打ちながら山道を登るが、途中で右足が攣りそうになったりなどと惨憺たる有様。

f:id:ksagi:20190505212450j:plain

道はなかなかな険しい

 それでも10分以上をかけてようやく東曲輪との分岐点まで登ってくる。ここまで来ると本丸まではもう一登りである。とは言うものの、実はここがかなりの急斜面。気を抜いたらけがをしかねない。足がかなりがたついているだけに濡れ落ち葉で滑った時にふんばりが効かない。

f:id:ksagi:20190505212512j:plain

本丸と東曲輪との分岐点

 ようやく視界が開けるとそこが本丸。山上からは浜名湖まで一望である。かなりの高度があるので、最後のお籠もりに使ったのはよく分かる。

f:id:ksagi:20190505212550j:plain

本丸へ到着

f:id:ksagi:20190505212610j:plain

浜名湖まで見渡せる

 帰りに東曲輪の方にも立ち寄るが、こちらの内部は鬱蒼としていて構造がよく分からない。かなり奥に深そうだったが疲れていることもあって途中で引き返してくる。

f:id:ksagi:20190505212630j:plain

東曲輪の方は鬱蒼としすぎていて

 

 

 これで今日の山城予定は終了。正直なところ思っていた以上に自分の体がガタガタなのに呆れたが、それでも最低限の予定は達成できたということで良しとしよう。後は今日宿泊する予定のホテル玄まで車を走らせる。

 ホテル玄は浜松の市街から離れ、浜松ICの近くにある。二食付きの安価なプランがあったのと、今回は車なので浜松市街地に宿泊する必要はないと判断したことから選んだホテル。いざ現地に到着すると、部屋は広いし、大浴場もあり、ランドリーが無料で使用できるというかなりありがたいホテルである。とりあえずチェックインを済ませるとまずは今日の山城巡りでドロドロになった服をまとめて洗濯することにする。

f:id:ksagi:20190505212722j:plain

一般的なビジネスホテルスタイルの部屋

 洗濯をしている間に風呂。生憎とここは温泉ではないが(金でもあれば舘山寺温泉辺りで豪遊するところだが)、それでも手足を伸ばせる浴場は最高である。天竜川水系掛け流しと名乗っているが、要は井戸水を沸かしたのだということでは・・・。三岳城登城中に攣りかけた右足が、風呂に入った途端にこむら返りを起こしたのでよくほぐしておく。

 入浴してサッパリしたところでレストランへ夕食へ。夕食のメニューは天丼と刺身とのことだが、実際には小鉢も多数付いておりこれがなかなか美味い。また刺身に私の好きなホッキ貝が入っているのが泣ける。

f:id:ksagi:20190505212752j:plain

夕食は結構豪華

 宿泊料金のことを考えるとなかなか良い夕食だった。ホテル玄は東海地域のホテルチェーンらしいが、この地域にはくれたけインのチェーンもあるし、なかなかにホテル激戦地区のようだ。

 後はテレビをつけても平成云々ばかりなのでBDプレイヤーをつないで世界遺産でも見つつ時間をつぶす。そのうちに眠気が押し寄せるので、今日もかなり早めに就寝

 

 

尼崎城&スイス・ロマンド管弦楽団

 翌朝の朝食は「千成屋珈琲」に出向く。9時の開店の5分前に到着するが、既に親子連れが開店待ち。開店と同時に他の客もなだれ込んできてすぐに満席となる。

f:id:ksagi:20190415225420j:plain

ミックスジュース発祥の地

 私が注文したのはミックスジュースとナポリタン。懐かしい関西喫茶店朝食の定番である。このメニューを見ただけで昭和にタイムスリップしてしまう。昔は喫茶店のハイカラメニューと言えば、なぜかナポリタンスパだった。その伝統を受け継ぐ正しいナポリタンである。薄焼き玉子を下に敷いて、フライパンにパスタが焦げ付かないようにしてるのもうれしい。

f:id:ksagi:20190415225446j:plain

定番のミックスジュース

f:id:ksagi:20190415225502j:plain

昭和の喫茶店の定番ナポリタンスパ

 この喫茶店の欠点は禁煙でない(この辺りも昭和である)ということなのだが、今回は客に誰もニコチン中毒患者がいなかったようで快適に過ごせた。

 

 朝食を摂るとホテルに戻ってくる。出かける前にシャワーを浴びておきたい。ここのホテルの難点は男性用シャワー室が1つしかないことで、夜や朝は混雑して使えないことが多い。昨晩入浴を諦めたのもそれが原因。そこで1泊客はチェックアウトするこの時間帯を狙った次第。ただチェックアウト時だけにエレベータが大混雑して乗れず、5階から1階まで階段で降りる羽目に。

 シャワーで汗を流してサッパリすると出かけることにする。今日の予定は14時からザ・シンフォニーホールで開催されるスイス・ロマンド管弦楽団のコンサートだが、その前に寄り道をするつもり。新今宮から西九条まで移動すると、そこから阪神なんば線に乗り換える。目指すは尼崎。この度オープンしたという尼崎城を見学しようという考え。

 

尼崎城

 海と街道に面し、瀬戸内水運と街道輸送の拠点として幕府に重要視されていた尼崎城は、かつては広大な敷地と壮麗な四層天守を誇っていた。しかし明治になると建物は払い下げられて取り壊され、堀は埋め立てられてその遺構は完全に市街地に埋もれてしまい、今では近くの小学校に天守の模型が置かれているだけという情けない状態になっていた。しかしミドリ電化創業者の安保詮氏が「創業の地に恩返ししたい」と私財10億円を投じて天守を再建(残念ながら場所は元の位置と違う)、市に寄贈したらしい。それが完成して、内部を整備した上でつい先週から公開になったとのこと。

 鉄筋コンクリートにアルミサッシのなんちゃって天守ではあるのだが、それでも見た目はなかなか堂々としたもの。遺構が全く何もない状態よりは明らかに見栄えが良いし、市のシンボルとしても格好良いだろう。内部には尼崎城に関する展示がされており、入場料は500円。

f:id:ksagi:20190415225616j:plain

なんちゃって天守だが、なかなか見栄えは良い

f:id:ksagi:20190415225649j:plain

入口は南の方から

 最上階の5階は展望台だが、残念なことに見事に市街しか見えない。そこでバーチャルリアリティで往事の風景を再現して展示してある。

f:id:ksagi:20190415225715j:plain

最上階は展望台

f:id:ksagi:20190415225743j:plain

南側の風景

f:id:ksagi:20190415225756j:plain

CGで再現した往時の風景

 これ以外にも天守を描いた手ぬぐいの展示とか、火縄銃とかを使ったゲーム、侍になれるコスプレコーナーなんて行った定番どころに映像展示なんかもあって、尼崎市もまずまず力を入れている様子。リピーターが着くかは怪しいが、観光客なら一度は入っても損はしないだろうと思われる。

 

 尼崎城の見学を終えると小雨がぱらつく中を隣の大物駅までプラプラと散策する。この大物駅の近くには大物崩れの石碑が建っている。京都での戦いで敗北した管領の細川高国が巻き返しのために、先日訪問した三石城の浦上村宗を味方に付けて三好元長の軍勢とこの地で争う。しかし援軍のはずの赤松政祐が敵に通じたために細川・浦上軍は背後から急襲される形になって総崩れ、浦上村宗はこの戦いで命を落とし、逃亡した高国も捕まって自害させられる。これが大物崩れと呼ばれる戦いの全貌。なおこの戦いの後に播磨の覇者だった浦上氏は内部分裂もあって衰退、その間に宇喜多氏が台頭してくることになるという遠い播磨に影響を与えた戦いの跡である。

f:id:ksagi:20190415225901j:plain

大物崩れの石碑

 大物崩れ石碑からさらに足を伸ばすと、残念さんの墓と呼ばれる墓がある。これは長州藩士・山本文之助の墓だが、彼は蛤御門の変の時に大物で捕らえられ、留置されていたところで自殺したのだとか。その際に「残念で悔しい、もし悔しいことがあれば、自分に参れば1つだけ願いを叶えてやろう」と書き置きを残したそうな。それから彼は残念さんと呼ばれ、その墓を参れば願いが1つ叶うとして有名になったそうな。

f:id:ksagi:20190415230013j:plain

残念さんの墓

 さて私にとって残念で悔しい思いと言えば、やはり大抵は金にまつわる話。由緒正しいプロレタリアート家庭で生まれた私は、子供時代から今日まで金に不足したエピソードが事欠かない状態。さてここに参拝したことで私もブルジョワジーになれるかどうか。もしこれが本当になったらさらに参拝者が殺到しそうだ(笑)。

 

 ここまで見学したところで雨がさらに強くなってきた。大物駅から移動することにする。目的地はザ・シンフォニーホールなので阪神福島駅へ。福島駅と言えば、最近Googleがゼンリンと契約解除したことでGoogleマップの精度が落ちたとして騒ぎになっているが、実は阪神福島駅もマップから突然に消えてしまっている。多分隣にあるJR福島駅と勝手に「統合」されてしまったのだと思われる。以前はキチンと表示されていたのだが・・・。

 ホールへの移動の途中で昼食を摂る店を探すがどこもピンとこない。と言うわけで久しぶりに「上等カレー」で「カツカレー(1000円)」を頂くことに。相変わらず玉子が良く合うカレーである。

f:id:ksagi:20190415230218j:plain

福島の上等カレー

f:id:ksagi:20190415230240j:plain

玉子が良く合うカツカレー

 昼食を終えるとホールへ。入りは8割と言うところか。東京交響楽団のロゴが入ったバッグを持った客がいたが、関東からの遠征だろうか? ノットのファンか?

 

スイス・ロマンド管弦楽団

[指揮]ジョナサン・ノット
[ヴァイオリン]辻 彩奈

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64
マーラー:交響曲 第6番 イ短調 「悲劇的」

 スイス・ロマンド管はかなり元気なオケのようであり、大音量でバリバリと鳴らすところがある。おかげで最初のコンチェルトはソロバイオリンが斉奏に埋もれる局面が何度かあった。辻のバイオリンはかなり技術が前面に出てくるタイプだが、技術だけで押し通すのではなく表現力も過不足がない流麗な演奏。

 メインのマーラーの6番は初っ端からスイス・ロマンドのパワーが炸裂した。冒頭からホールが鳴動するかのような重低音が響き渡る。猛烈なパワーでグイグイと押しまくる演奏で、それをノットも思い切り煽りまくる。大音量になるとホール全体が音で満たされる印象でパワー満々。ただしノットは単にパワーで押しまくるだけでなく、明確に表情を付けて明快な演奏を行う。だからただ単に大音量でがなっているだけの演奏ではなく、マーラーがこの曲に秘めた情感も伝わってくる。時折とてつもない切なさなどもこみ上げてくるシーンもある。そのおかげて実に魅力的なマーラーとなった。

 オケも指揮者もノリノリなのが伝わってきたが、客席の方もかなり盛り上がっていた。拍手が鳴り止まずブラボーも飛び交い、ノットが7,8回ほど出入りしたが収まらない状態。そこでオケが引き上げたがそれでも拍手は収まらずにとうとう一般参賀。このホールでの一般参賀はかなり珍しい。

 熱演と呼ぶのがふさわしい見事な演奏だった。満足してホールを後にする。たまにこういう凄い演奏に出くわすのがライブの醍醐味と言っても良い。こういう時は気分が高揚してスッキリする。


 コンサートを終わるまでに2時間半ぐらいかかっていたので、新今宮に戻った時には夕食時になっていた。夕食は「だるま」で串カツを頂くが、串カツばかりガツガツと食う気力もなかったので、おにぎり茶漬けを頂くことにする。これが意外にいける。

f:id:ksagi:20190415230331j:plain

いつものごとく串カツ「だるま」

f:id:ksagi:20190415230350j:plain

いつものごとく串カツ(最近は野菜系が多い)

f:id:ksagi:20190415230417j:plain

おにぎり茶漬け(おかか)

 夕食を終えるとホテルに戻るが、風呂には行ったらグッタリになってしまった。そこでかなり早いが明日の仕事に備えて就寝するのである。

備前三石城&岡山桃太郎温泉&江戸の奇跡 明治の輝き展(岡山県立美術館)

 今日は久しぶりの山城訪問に美術館を絡めようと計画した。目指す山城は三石城。JR三石駅そばに聳える山上にある山城である。私はここのところコンサート通いばかりが週末行動の中心となり、体が鈍りに鈍っていたのでリハビリ登山の意味もある。

 山陽自動車道をひた走り、備前ICで高速を下りて北上すると三石はすぐである。三石城の登城口周辺には駐車場はないので、少し離れたところにある運動公園の駐車場に車を置く。三石城には裏手から回り込む山道もあり、そちらの方が高低差が少ないので楽という情報もあったが、そちらは道のりが長いので片道1時間ほどかかると聞いているし、そもそも今回はリハビリ登山ということで麓から登ることにしている。

三石城

 三石城は1333年に地頭の伊東大和二郎が築城したことに始まる。その後赤松氏が備前守護となった際に浦上宗隆が守護代として城主となり、以降浦上氏の居城となる。後に浦上村宗の時に赤松氏との対立が決定的となり、三石城は赤松義村の軍勢に囲まれるがこれを退けている。しかし1531年、浦上村宗が天王寺の戦いで敗れて死亡(大物崩れ)したことにより廃城になったとのこと。まさに浦上氏と興亡を共にした城郭である。

f:id:ksagi:20190407213218j:plain

三石城登山口

 駅前の住宅街の中に三石城址登山口の案内看板まで立っており、登城口脇の民家の軒先に登城の栞まで用意されており、地元の方々のこの城址に対する思いが感じられる。登城路も険しい山道であるが概ね整備されていて、山城慣れしている者には全く何の不安もないがさすがにスリッパやハイヒールなどといったあまりに山を馬鹿にした格好だと命に関わりかねない箇所もいくつかある。また枯れ葉が降り積もっていて滑る場所もあるので、特に下山時には要注意である(実は私も下山時に一度滑って転倒している)。

f:id:ksagi:20190407213306j:plain

第二見張所

f:id:ksagi:20190407213329j:plain

まだ高度が不十分


 登り初めて5分も経たないうちに第二見張所と書かれた場所にたどり着くが、ここはまだ高度もそれほどないので単に見張所というよりは、兼登城口の番所といったところか。

f:id:ksagi:20190407213353j:plain

険しい山道をひたすら登る

 ここから本格的に山道を登ることになる。しかし険しい箇所にはロープやチェーンも張られているし不安はない。もっとも足下が崩れることが考えられるので、悪天候下での登山強行は避けるべきだろう。

f:id:ksagi:20190407213421j:plain

第一見張所

f:id:ksagi:20190407213454j:plain

ここは高度が十分

f:id:ksagi:20190407213509j:plain

目指す山頂はそこ

 20分ほどで第1見張所の看板にたどり着く。反対側が本丸への近道とのことだが、とりあえず第1見張所に立ち寄ることにする。少し下るがすぐに見晴らしの良い場所に出る。こちらは先ほどの第二見張所よりも高度があるのでかなり見晴らしは良い。また向こうに山頂も見える(後これだけのぼらないといけないのか・・・)。

 

 先ほどの分岐に戻ってくると、本丸への近道というルートを登りかけてふと考える。近道と言うことはもう一本の看板が出てないルートは遠回りということだが、確かこの城は一番の見所である大手門があるはず。多分そちらの方が大手門に立ち寄るルートだと判断して、そちらの看板のない方の道に進む。するとドンピシャ、数10メートル進んだところで「大手門→」の看板がある。しばしほぼ高低のない道を進むと大手門の立派な石垣が目に飛び込んでくる。

f:id:ksagi:20190407213538j:plain

大手門の立派な石垣

 大手門の裏手には枡形まであるようである。かなり本格的な曲輪。ここからさらに登っていくと、三の丸に出るのだが、三の丸の手前には馬場と表記された帯曲輪まである。とにかくこの三の丸は山頂にも関わらず結構広いので、ここに家臣の屋敷などを配置することは十分可能である。

f:id:ksagi:20190407213626j:plain

三の丸脇の馬場跡は奥に深い

f:id:ksagi:20190407213654j:plain

二の丸跡も結構広い


 ここから奥に進むと二の丸。三の丸よりは狭いがそこそこの面積がある。ここには倉庫などを配するところか。

f:id:ksagi:20190407213715j:plain

本丸は立派な屋敷を構えるに十分

 その奥の一番高いところが本丸であるが、これが想像以上に広い。さぞかし立派な屋敷を構えることが出来たであろう。この地に覇を唱えた浦上氏の本拠に相応しい城郭である。石垣なども使用しているし、往時にはかなりの威容を誇ったのは間違いない。また本丸周囲は結構切り立っており防御も鉄壁。井戸もあちこちにあるので水の確保も万全と言うことで、まさにこの地を治めるのには格好の城郭である。

f:id:ksagi:20190407213748j:plain

三の丸の石垣

 帰りは三の丸の先端まで行って三の丸の石垣を見学。こちらもかなり立派である。ここから下りてくると先ほどの「本丸への近道」の標識の所まで下りてくる。この道は登るのはともかく、下りる方はかなり注意しないと足下の危ない険しい道だったので、つまりは見学時にはこちらを登って、帰りに大手門から下りてくることを想定しているのか。確かにそちらの方が無難ではある。

f:id:ksagi:20190407213820j:plain

千貫井戸は今も水を湛える

 帰路では往路で無視した千貫井戸にも立ち寄ることにする。底無し井戸との表記があるが、本当に底無しなほどに深いのかは定かではないが、今でも水を湛えていた。

 下まで降りてきて車の所に戻った時には昼を過ぎていた。久しぶりの登山なのでかなり体に堪えたが、ゲーゲー言いつつ途中休み休みだが本丸まで40分程度で到着したのでまずまずだろう。それにしても立派な城郭だった。これは続100名城に準ずると言っても良いぐらいの城郭では。それに地元による整備が良好であることも無視できないところ。

 

岡山桃太郎温泉

 もう昼時だし、かなり汗をかいたしということで昼食と風呂にしたいところ。どこに立ち寄るかと考えた時に頭に浮かんだの岡山桃太郎温泉。そこで車をそちらに向けて走らせる。とりあえず昼食は桃太郎温泉館の隣にある「御食事処ひなせ」「みやび弁当」を頂くことに。いかにも仕出し屋弁当的であるが、オーソドックスに美味い。

f:id:ksagi:20190407213925j:plain

御食事処ひなせ

f:id:ksagi:20190407213942j:plain

オーソドックスな和食です

 昼食を終えると隣の桃太郎温泉館で入浴。ここは泉質はアルカリ性単純温泉ということでそう特別な泉質ではないが、湧出量が毎分320リットルもあるということで、その豊富な湯で全浴槽を源泉掛け流しにしているという贅沢さ。また驚きはカランまで温泉水だということ。最近は源泉掛け流し浴槽にする入浴施設は増えてきたが、カランまで温泉が出るという所はあまり聞いたことがない。こんなことが出来るのも十二分な湧出量があるから。また湧出温度が41度なので全く加温加水が不要というのも奇跡のような温泉である。

f:id:ksagi:20190407214008j:plain

桃太郎温泉館は大衆演劇鑑賞や宿泊も可

 掛け流しの露天風呂でゆったりと体をほぐす。まさに極楽気分である。もう既にかなり両足がダルくなってきているので、とりあえずそれをほぐしておく。

 

 汗を流してサッパリしたところで岡山まで走ることにする。そもそも今日の目的は山城だけでなく、美術館との二枚看板である。

 

「江戸の奇跡 明治の輝き-日本絵画の200年」岡山県立美術館で4/21まで

f:id:ksagi:20190407214102j:plain

 最近評判の江戸絵画から幕末の動乱を経ての明治の絵画まで日本の絵画を概観しようという企画。伊藤若冲、曽我蕭白辺りから始まって、竹内栖鳳、横山大観などに至る蒼々たる面々の作品を展示している。

 最初は江戸絵画から、ここでは伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、鈴木其一といった奇想系に加えて、円山応挙や酒井抱一などの王道の正統派も加えている。先の奇想系画家については現在東京で大規模展覧会開催中なので作品があるのだろうかと心配していたのだが、寺社所有や個人蔵の名品を集めており、伊藤若冲などなかなかの秀品多数。個人的には一番面白かったのは芦雪の「蹲る虎図」。虎というか猫が丸まっているような妙に愛嬌のある作品でまさに芦雪の面目躍如。また応挙の精密な孔雀、酒井抱一の鮮やかな屏風などは非常に目を惹く。

 さらには与謝蕪村、池大雅といった文人画に洋画の要素を大胆に取り入れた司馬江漢の作品、そして奇想の系譜展では無視されていた葛飾北斎の作品も展示されている。

 明治になると横山大観、菱田春草といった面々の朦朧体に、何やらいつも楽しげな富岡鉄斎、さらには京都画壇の竹内栖鳳、上村松園と行ったところの名品が多数。

 予想していた以上に作品のバリエーションがあり、さらにはそのレベルも高いものであった。地方美術館の企画といささかなめてかかっていたのを反省。

 実に見応えのある内容であった。これを東京で奇想の系譜展を開催中にぶつけてくるのがすごい。確かにあちらはインパクトのある作品が多かったが、網羅性ではこちらの方が勝っている。

 

 美術展を楽しんだ後はここの喫茶で展覧会と連携した特別セットを頂いてホッとする。ここの珈琲は本格的とはほど遠いものだが(インスタントではないかと思っている)、珈琲を飲み始めて日が浅い「違いの全く分からない男」の私には本格的な珈琲よりもむしろ口に合う。

f:id:ksagi:20190407214149j:plain

喫茶でマッタリ

 展覧会を楽しみ、お茶も楽しみ、久々に体を動かして清々しい気分で帰途についたのである。多分、私の足腰に地獄が訪れるのは明日の午後ぐらいだろう・・・。

茨城地域城跡巡り(小田城、関城、大宝寺城、多賀谷城、逆井城、畑田城、徳宿城)&小美玉温泉

 

 翌朝は7時頃に起床すると早めにホテルをチェックアウトする。最終日の今日はもう東京での予定はなく、茨城方面に移動して茨城地域の城郭巡りをする予定。

 つくばエキスプレスでつくばまで移動、ここでレンタカーを借りる。貸し出されたのはカローラアクシオ。私はヴィッツのつもりでいたのだが、車のサイズがやや大きくなったのが気がかりである。

f:id:ksagi:20190306220914j:plain

カローラアクシオ

 まず最初に立ち寄ったのは小田城。国の史跡に指定されており、最近になって発掘と復元がなされたという城郭である。

 カーナビの案内に従って小田城を目指すが、ここで早速懸念していたことに直面する。小田城近くになってからかなり狭い路地に誘導されてしまって進退に苦しむことに。カローラアクシオの小回りがヴィッツよりもやや劣ることが災いして、角を曲がる時に道幅ギリギリ。ボディをこすらないかといきなりヒヤヒヤする羽目に。こういう時はヴィッツの前モデルは良かった(新モデルは図体がでかくなった上にパワーが落ちていて好きでない)。

 どうにかこうにか路地を抜けると小田城の隣の案内所の駐車場に車を置く。案内所にはパンフレットなどがあると共に、小田城を紹介するビデオなども上映されており予習に最適。さすがによく整備されている。

 

小田城 鎌倉時代の小田氏の居館

 「小田城」は鎌倉時代からの小田氏の居城であり、小田氏の祖である八田知家が1185年に常陸守護としてこの地に居館を置いたことから始まるという。その後、南北朝の騒乱などもあるが、戦国時代になると北条氏や上杉氏の進出に翻弄されることになる。この地域の小領主の悲しさで、北条が進出するとその支配下に、上杉が進出してくると今度はそちらの支配下になどと変転することになるが、1569年の小田氏治の時にとうとう小田城は佐竹氏に奪われることになり、1583年には小田氏自身が完全に佐竹氏に臣従することになってしまった。結局小田氏はそのまま小田城を奪還することは叶わず、小田城自体も佐竹氏の秋田移封に伴って廃城となったとのこと。何やら北関東地域の小領主の悲哀を感じずにはいられない話である。

f:id:ksagi:20190623162231j:plain

小田城復元模型

 このような経緯から、小田城は何回かに渡って整備されており、発掘調査の結果では初期の居館時代から戦国期に渡って徐々に城域が拡張されたことが確認されており、この時代の城郭建築を知る格好の遺跡だとか。

f:id:ksagi:20190306221110j:plain

現地配付資料より

 湿地の多かったこの地域の城らしく、小田城は広い外堀と土塁でしっかりと守られている。基本的には単郭構造だが、馬出などもあるようである。また土塁の数カ所は広く高くなっており、櫓でも構えていたのではないかと思われる。

 

f:id:ksagi:20190306221153j:plain
f:id:ksagi:20190306221204j:plain
幅広い堀と北口側の土橋
f:id:ksagi:20190306221320j:plain
f:id:ksagi:20190306221345j:plain
正面の曳き橋と東曲輪

f:id:ksagi:20190306221437j:plain

北東の土塁上からの風景

 土塁の中には屋敷などの建物跡も残っている。また庭園などもあり、2カ所の池が発掘されている。小領主の館といっても、内部は結構広いのが感じられる。小領主の城としてはかなり本格的に防御を固めた堅い城であるが、それ故に逆にこの地域の争奪戦の要として巻き込まれることになったのだろう。この地域を睨む一軍を配置するには十分だが、北条や上杉の数千の軍勢に囲まれるとひとたまりもないという規模の城郭である。この地域の小競り合いで済んだうちはどうにかなるが、戦国末期の大大名の下に収斂していった時期では小田氏の生き残りは容易ではなかったろう。

f:id:ksagi:20190306221527j:plain
f:id:ksagi:20190306221539j:plain
建物跡と庭園跡
f:id:ksagi:20190306221609j:plain
f:id:ksagi:20190306221618j:plain
南虎口の石積みとその先の馬出

 小田城見学後は北西の下妻市を目指して車を走らせる。今の下妻市から筑西市の関東鉄道が走っている辺りは、かつては沼地の中に張りだした台地で、この台地上にはいくつかの城が構えられていたという。まず一番北の関城跡を訪れる。

 

関城 南朝方拠点の城

 「関城」は南北朝時代に小田城と共に南朝方の拠点となっていた城郭である。東西南を沼に囲まれ、北に堀を掘った堅固な城だったという。

f:id:ksagi:20190623162251j:plain

奥に見える小高いところが関城

 現地は今では田んぼの中の小高い丘という地形である。私が訪問した時には城跡の神社で何か神事が行われた直後のようで多くの車が群がっていた。大規模な城だったようだが現在は宅地化しており、土塁の残骸と見られるものが所々に残っているだけである。現在神社があった辺りが本郭の跡のようである。周辺は民家になっているが、今でも南側は相当切り立っていることは確認できる。

f:id:ksagi:20190306221833j:plain
f:id:ksagi:20190306221843j:plain
本丸跡の神社とかつての土塁跡

 

大宝寺城 同じく南朝方の拠点

 関城の次はこの南の「大宝城跡」を訪れる。ここは現在は大宝八幡宮があるところで、南の鳥居の辺りにかなり高い土塁が残っている。土塁の手前の道路の所はかつては堀でもあったのではないかと思われる。ここもかつては西北東を沼地に囲まれた地形であり、平安から南北朝時代にかけて城郭が築かれていたという。今は八幡宮を中心とした住宅地となっているが、この一帯が周辺の田んぼよりは一段高くなっており、かつての地形が覗える。大宝城は1341年に春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城からここに移って南朝方の拠点となったが、北朝型の猛攻で苦戦し、食糧不足と城内不和のために1343年11月12日に落城、城主下間政泰は討ち死にしたとのこと。

f:id:ksagi:20190306222050j:plain
f:id:ksagi:20190306222104j:plain
南の鳥居の辺りに土塁があり、手前の道路はかつての堀跡か
f:id:ksagi:20190306222156j:plain
f:id:ksagi:20190306222201j:plain
本丸の大宝寺八幡宮辺りは周囲よりも高い

 

多賀谷城 多賀谷氏が北条を退けた堅城

 その南にあるのが「多賀谷城」。今では完全に下妻の市街地に埋もれ、かつての本丸の一部が城址公園として残るのみだが、ここの一帯はかつては沼地に迫り出した半島だったようである。多賀谷氏はここを拠点にこの地を支配し、北条氏政の軍勢を撃退するなど147年に渡って下妻領主として繁栄したという。しかし関ヶ原の合戦では佐竹氏と共に西軍についたために家康に憎まれて追放されてしまい、この時に多賀谷城も廃城となったとか。城主追放の際には奥方はじめ奥女中達が行く末を案じて、沼に身を投げるなどして自害したという哀れな話も残っている。

f:id:ksagi:20190306222323j:plain

かつての縄張り図
f:id:ksagi:20190306222348j:plain
f:id:ksagi:20190306222359j:plain
今となっては至って普通の平和な公園である

 

逆井城 北条氏の拠点

 下妻地域を一回りした後は南西方向に長駆する。目的地は坂東市の「逆井城跡」。戦国末期1577年に北条氏が北関東進出拠点として築城した城郭で、豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。現在まで外堀や土塁が残っていたことから、櫓等を復元して城址公園として整備したという。

 現地はかなり整備されている。駐車場に車を置くと正面には立派な櫓や大規模な堀が見える。堀を超える形で橋が架かっており、その橋の向こうは門になっている。

f:id:ksagi:20190623162049j:plain

かなり立派な逆井城

 門の脇が二層櫓になっておりここには入ることが出来る。入口を守る櫓といったところ。登ってみようかと思ったのだが、どうしたわけかこの建物には久々に高所恐怖症が発症して登ることが出来なかった。

f:id:ksagi:20190306222553j:plain
f:id:ksagi:20190306222559j:plain
橋を渡って二重櫓に行くと、内部は登ることも可

 塀に沿って進むと井楼櫓が建っている。かなり高い物見櫓だが、これは最初から立ち入り禁止になっている。

f:id:ksagi:20190306222654j:plain
f:id:ksagi:20190306222704j:plain
二重櫓奥の井楼櫓はかなり高い

 この近くには主殿が復元されており、関宿城の城門だった薬医門が移築されている。主殿はシンプルな建物だが、内部も一応作ってあってふすま絵などが描かれている。

f:id:ksagi:20190306222846j:plain
f:id:ksagi:20190306222854j:plain
城門に主殿
f:id:ksagi:20190306222930j:plain
f:id:ksagi:20190306222936j:plain
襖絵も復元

 この奥がこの城の一番の見所の一つでかなり立派な堀が残っている。この奥には土塁に囲われた曲輪があり、そこには東の橋を渡って櫓門を抜けると入ることが出来る。この城の北はかつては飯沼という大きな沼だったことから、ここはこの城の一番奥にあたり、ここがかつての本丸だったらしい。さすがに非常に堅固な守りとなっている。

f:id:ksagi:20190306223050j:plain
f:id:ksagi:20190306223055j:plain
かなり明瞭に堀跡が残る
f:id:ksagi:20190306223130j:plain
f:id:ksagi:20190306223145j:plain
橋と櫓門を通って本丸へ

 本丸の東側が二の丸だが、この辺りは詳細な構造はなくてひたすら広い広場となっている。ただその東には土塁と堀の跡がしっかりと残っている。どうやらこの東にはかつてはさらに三の丸もあったらしい。

f:id:ksagi:20190306223256j:plain

三の丸との間の堀はほとんど埋まっているが広い

 とにかくかなり大規模な城であり、北条氏が北を睨んで気合いを入れて整備した城であるということがよく分かる。面積も大きくてかなりの大兵力を入れることが可能であることから、ここに北関東制圧のための大軍を詰めて、隊を整えてから一気に出陣ということだったのだろう。復元建造物なども良く出来ているので当時の城の様子をイメージしやすくお勧めできる城跡と言える。

 

 ここまで見学を終えたところで既に昼をかなり回っている。昼食を摂りたいが付近には店らしきものはない。調べたところ、ここから北上したところに八千代グリーンビレッジなるキャンプ場などの複合施設があり、そこに温泉やらレストランがあるようだということなのでそちらを目指す。

 八千代グリーンビレッジは山の中のキャンプ場といったイメージ。バンガローなどが複数建った複合施設になっている。その一角に温泉やらレストランのある建物がある。しかし私がレストランを覗いたところ、ちょうど老人の団体が券売機の前で行列を作っている。店内のテーブルもほとんど塞がっているようだし、厨房にもあまり人数がいるようではないしということで、これはいつまで待たされるやら分かったものじゃない。私は老人会の団体と違って暇ではないのでここは諦めて他の場所を探すことにする。

 

道の駅しもつまで昼食のそばを食べる

 しかし移動は良いがあてがない。その時に頭にふと浮かんだのは<関城めがけて走っていた時に「道の駅しもつま」という看板を見かけたこと。道の駅なら飲食店ぐらいあるだろう。とにかく何もあてがないのでそこを目指すことにする。

 道の駅に到着したが現地はかなりの大混雑。車を停める場所にも困る状態で、何とか空きを見つけて車を停める。何やら新そば祭なる幟が多数立っている。そこで蕎麦でも食べることにしようと、ここにあるそば屋「そば打ちめいじん亭」に入店することにする。

f:id:ksagi:20190623162352j:plain

そば打ちめいじん亭

 この店も混雑しておりしばし待たされることになる。ようやく入店すると「鴨のつけそば」を大盛りで注文、さらにこれにトロロ飯をつける。

f:id:ksagi:20190623162420j:plain

鴨のつけそば

 そばの風味はなかなか良い。ただ付け出汁についてはどうにかならないかという気もする。基本的に北関東系のダダ辛い味付けは私に合わないが、アクセントに加えている柑橘の味も今ひとつしっくりこない。やはり北関東から東北にかけての料理は私の舌には合わないなということを感じずにはいられない。残念ながらこのエリアの料理で美味いと思ったことはほとんどない。そばは良いだけに実に残念。

 とりあえず昼食を済ませたが思ったよりも時間を費やしてしまった。今の時期は日没が早いことを考えるとタイムリミットは4時過ぎぐらいだと思った方が良い。今日は茨城空港から飛行機で帰るつもりなので、茨城空港方面に移動してから次の目的地に向かいたい。

 

三階城・・・は断念

 次の目的地に考えたのは鉾田の三階城。北上して北関東自動車道に乗ると、東関東自動車道に乗り継いで鉾田を目指す。鉾田出口を出ると三階城はそう遠くない。しかし三階城に向かう道路の入口のところで行き詰まる。元々の道路が農道で幅が狭いらしく、入口が極端に狭い上に急角度。どうもアコードアクシオの旋回能力では入れそうにない。無理してこすったりでもしたら大変だ。結局は三階城は諦めることにする。

畑田城 

 ではということで次の目的地を調べたところ、ここの南に「畑田城跡」があるらしいのでそこを目指すことにする。地図では分からなかったのだが、現地に行くと小学校や西光院がかなり小高い丘の上に乗っている。この丘の上が畑田城だったらしい。かなりの急坂を登って西光院の前までたどり着くが、どうも城の遺構のようなものは見当たらない。どこかに案内看板ぐらいはあるらしいのだが、結局見つけることも出来ず日も西に傾いてきているので見学もそこそこに引き上げることにする。

f:id:ksagi:20190306223655j:plain
f:id:ksagi:20190306223701j:plain
この高台上の小学校の辺りが畑田城

 日は大分西に低く傾いており、時間的に次が最終となるだろう。ここから近いところということで、三階城の北にある「徳宿城」に向かうことにする。

 

徳宿城 平安期の徳宿氏の城

 現地に行くと住宅地の間の狭い道に案内看板と入口がある。向かいに空き地があるのだが今はロープが張ってあって入れない。そこでギリギリに左に寄せて道路に車が通れるスペースを空けた上で停車する。

f:id:ksagi:20190623162000j:plain

徳宿城登り口

 徳宿城は平安末期に徳宿親幹によって築かれた。徳宿氏の父は平国香の七代目で鹿島郡を治めており、その北部に徳宿氏を創立したのだという。徳宿氏の二代目秀幹の長男俊幹は三階城を拠点として安房氏の祖となり、次男朝秀が畑田城を拠点として畑田氏の祖となったとのこと。1486年九代目道幹の時に水戸城の江戸氏の攻撃を受け、江戸氏二千余名に対して徳宿氏総勢三百余名という圧倒的に不利の中で、道幹は覚悟を決めて敵陣に切り込んで討ち死にしたとのこと。

f:id:ksagi:20190306223916j:plain
f:id:ksagi:20190306223921j:plain
本丸周辺の腰曲輪と祠のある本丸

 看板の横の道から登るとすぐに本丸脇の腰曲輪らしき部分に出る。そこからさらに一段登ると本丸になっている。本丸は現在神社になっており、その背後の南側はかなり切り立った崖になっている。恐らくその下はこの地域の常としてかつては沼だったと思われる。東側は鬱蒼としていて立ち入り不可、北側に向かうとかなりハッキリとした堀切があって、そのまま道は北部の住宅地に続いている。沼地の台地の北側を堀切で断ち切って城郭にしたという様子である。構造的には関城や大宝城と類似した構造。南と西を見る限りではかなり切り立っているので、それなりの防御力を持った城郭であったことは覗えるが規模はそう大きくはない(東側にもっと大きかった可能性はある)。

 

 徳宿城の見学を終えた頃には日は西に完全に傾いて、やや薄暗くなり始めた。もうタイムアップである。後は帰宅を考えるべきだが、帰りのスカイマーク便は茨城空港を19時35分に出発。まだかなり時間がある。ここはどこか温泉にでも立ち寄って、ついでに夕食を摂りたいところである。調べたところ近くにほっとパーク鉾田なる日帰り温泉施設がある模様。そこで車を走らせる。

f:id:ksagi:20190306224025j:plain

ああ、無情!

 ほっとパーク鉾田まではそう時間を要せずに到着する。しかし現地に到着すると何となく雰囲気がおかしい。駐車場に車がほとんどいない。「?」と思いつつ建物に近づくと「施設総点検のため11月7日~11月14日臨時休館」の立て看板が。選りに選ってピンポイントである。思わず天を仰いで「オーマイガッ!」もしくは「ジーザス!」。それとも私は一応は仏教徒なので「オーマイブッダ!」に「シッダールタ!」か。

 仕方ないので場所を変えることにする。次にヒットしたのは小美玉温泉ことぶき。茨城空港からも近いようだしちょうど良さそうだ。

 ことぶきに到着した時にはもう日はとっぷりと暮れている。ことぶきは典型的な地方の日帰り入浴施設で、地元のお土産などを売っている売店もある。食堂も一応あるが小規模。夕食は空港に行ってからの方が良さそうだ。とりあえず入浴することにする。

 

小美玉温泉ことぶき

f:id:ksagi:20190623161927j:plain

 小美玉温泉はやや黒っぽい湯。泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物冷鉱泉とのこと。若干ネットリとした感触があるが弱アルカリ性らしい。東京の蒲田辺りの黒湯と同じような感触がある。なかなか上質な湯。地元民らしき連中が大勢押しかけていて人気のようである。

 露天はやや寒いので内湯でタップリ温まるとロビーでしばし休憩。テレビでは稀勢の里がいきなり負けている。彼はもう駄目かもしれないな・・・。

 

茨城空港周辺にはガソリンスタンドがない・・・ 

 体を温めてしばしゆったりすると空港に向けて移動することにするが、空港到着前にガソリンを入れておく必要がある。しかしここで驚いたのが空港周辺のガソリンスタンドがことごとく日曜日には休みであること。これだから田舎は・・・。今になってつくばで車を借りた時に、トヨタレンタカーの店員が「もしガソリンを入れられなかったら、向こうで精算も出来ますから」ということをわざわざ説明してくれた意味が理解できた。あの時は「なぜそんなことをわざわざ念押しするんだろう?」と疑問に感じていたのだが、こういうことだったのか。茨城空港恐るべし。結局は30分ほど走り回ってガソリンスタンドが全滅だったので、ガソリンは走行距離で精算することに。後で聞いたところによると、この周辺で日曜日に営業しているガソリンスタンドはたった一軒とのこと。

 かなり久しぶりの茨城空港である。数年前に来た時は神戸からここに飛んで、すぐにレンタカーを借りて大洗に移動したので空港内を見学していない。元々自衛隊の基地だったところを民間との併用にしたので空港設備は最小限。売店とレストランがあるぐらいである。なおあの東日本大震災ではいきなり天井パネルが落下するという事故があったのだが、どうやら天井パネルはそれではずしてしまった模様。

f:id:ksagi:20190306224316j:plain
f:id:ksagi:20190306224321j:plain
天井パネルははずしてしまっている
f:id:ksagi:20191006180940j:plain
f:id:ksagi:20191006180945j:plain
空港内の謎のキャラクター達

 売店で土産物を購入すると、レストラン「すぎのや本陣」で夕食を摂ることにする。レストランは既に満席に近かったが、どうやらこれが全部私と同じ便に搭乗する予定の客の模様。何とか席を確保すると夕食を摂ることにする。茨城の郷土料理はけんちんそばとのことだが、そばは昼に食べたのでけんちんうどんを注文する。

f:id:ksagi:20191006181006j:plain

けんちんうどん

 関東のうどんということでやや不安はあったのだが、やはり味は濃いめだが具だくさんうどんという風でなかなかに美味い。空港内レストランでこれが920円だと良い方だろう。

 

 夕食を終えるとすぐに荷物検査を受けて搭乗ゲートに。茨城空港の狭い待合室は搭乗客でごった返している。すぐに搭乗手続きが始まって、搭乗口を抜けるとこの空港にはボーディングブリッジなんて設備がないので、滑走路を歩かされる。そしてなぜかガルパン模様の搭乗タラップで乗り込むことに。そう言えばこの空港の別名がガルパン空港だったっけ。こんな最後の最後に聖地巡礼かよ・・・。

f:id:ksagi:20190623161823j:plain

ガルパン空港搭乗タラップ

 茨城空港から神戸空港に飛び、この日に無事に家に帰ってきたのであった。久しぶりに一日を城郭巡りに費やしたが、そもそもそれ以前の東京展覧会ツアーで相当に消耗していた挙げ句だったので、帰ってきた時にはかなりヘロヘロになってしまっていたのである。思いの外体力が落ちているようである。私もそろそろ年齢のことを考えて無理はやめておかないと・・・。

 ちなみに今回の遠征では美術館は予定していたところをすべて回ったが、城に関しては私の想像よりも茨城が広かったこと、私が思っていたよりもこの時期の関東の日没時刻が早かったこと、私の想定よりも体力を消耗してしまっていたことなどから、当初の予定よりもかなり立ち寄り先を減らすことになってしまった。これはいずれはこの地域へのリターンマッチが必要。また東京訪問のついでに茨城に繰り出すことになるだろう。

 

 

岐阜県内山城巡り(美濃金山城、明知城、久々利城、大森城、今城)

 翌朝は8時手前まで寝ていた。一度6時頃に目が覚めたが二度寝。かなり疲れも残っている。シャッキリしないまま、とりあえず朝食へ。朝食はドーミー名物の地元食も含んだ和洋両対応のなかなかのもの。

f:id:ksagi:20190310170459j:plain
f:id:ksagi:20190310170508j:plain
ドーミー朝食は現地食の和洋両対応、みそカツに小倉トーストもあります

 朝食後は入浴して血の巡りをよくする。今日は本格的に山城巡りをする予定なので、とにかく体を動くようにしておかないと。

 

 9時過ぎにホテルをチェックアウトすると東に走る。まず最初の目的地は「美濃金山城(兼山城)」。この度、続100名城に選定された城郭であり、本遠征の城方面での主目的である。そもそも続100名城が選定された時、その時点で私の未訪問城郭は三春城、品川台場、鮫ヶ尾城、美濃金山城、水城の5カ所で、美濃金山城以外の4つは順次視察終了で最後に残ったのがここだった次第。

 美濃金山城に向かう前に、兼山町の戦国山城ミュージアム(旧兼山歴史民俗資料館)に立ち寄る。どうやらここは兼山城の続100名城選定に合わせての観光整備の一環でリニューアルされた模様。内部は兼山町の歴史にまつわる展示もあるが、より戦国関係の展示を増やして、しかもミーハー色を増している。何やら怪しいイケメン明智光秀の幟も。民俗資料館らしいのは一階の方で、かつて木曽川水運で栄えた兼山の歴史、かつてここを走っていた名鉄八百津線の兼山駅に関する資料などもある。なおこのコーナーは悪質な鉄オタ(別名盗鉄)による盗難を警戒してか、防犯カメラ装備になっている。

f:id:ksagi:20190623150411j:plain

民俗資料館

f:id:ksagi:20190623150431j:plain

兼山城模型

f:id:ksagi:20190623150453j:plain

兼山駅関連展示

f:id:ksagi:20190623150528j:plain

謎のイケメン明智光秀

 ここで兼山城に関する資料を集める。なお可児市自体が今回を機に山城観光誘致を目指しているようで、各山城の資料の配付なども積極的に行っている模様。

 

美濃金山城(兼山城) 斉藤氏ゆかりの続日本100名城

 資料が揃ったところで兼山城に向かうが、その前に町から見られるという米蔵跡の石垣を見に行く。ここはそもそもは屋敷跡で、それが江戸時代には年貢を貯蔵する米蔵、さらに明治以降には製氷池として使われていたとか。なかなかに立派な石垣である。なおここから兼山城に登るルートもあるらしいが、そもそも山登りが目的ではない私はもっと楽なルートを取ることにする。

f:id:ksagi:20190623150556j:plain

米蔵跡の石垣

 さて兼山城に出向くことにする。出城まで車で上ることが出来、そこから10分ほどで本丸にたどり着けるとか。かなり便利な山城である。出城までの道は急ではあるが舗装された道路であり、余程変なタイミングで変な対向車(運転が下手なくせに無駄に大きな車を運転している輩とか)に出くわさない限り全く問題のない山道である。

 

f:id:ksagi:20190310171111j:plain

金山城案内資料

 出城には駐車場も設置されている。もうここの時点でかなりの標高。遠く可児市街を見渡せるし、下には蘭丸広場も見える。

f:id:ksagi:20190623150616j:plain

広い出城跡

f:id:ksagi:20190623150641j:plain

見晴らしは抜群

 本丸方面への登り口は出丸の入口の近くにある。案内看板から杖、パンフレットまで装備されていて万全の構え。今回の続100名城選定を機に観光開発につなげようという可児市の意気込みが伝わってくる体制である。

f:id:ksagi:20190623150656j:plain

登城口も万全の体制

 兼山城は1573年に斎藤道三の名で猶子の斉藤正義が築城、しかし正義は久々利城主の土岐三河守に謀殺されてしばし城主不在になる。なお正義の謀殺についてはこの後に土岐三河守が道三から処罰されていないことから、正義の力が強くなったことを警戒する道三による陰謀との説もあるとか。後に美濃を織田信長が支配すると、金山城には家臣の森可成が入り、可成の戦死後は長可が城主となった。1600年に森氏が信州に移封されたことで廃城となったとのこと。なお森可成の三男・成利がジャニーズ系の森蘭丸であり、森蘭丸ゆかりの城ということで蘭丸広場ということらしい。
 登城口から整備された山道を登り始めると10分もかからずに三の丸に到着。ここには大規模な虎口があり、先ほどの米蔵からつながる道がここに通じていて、これが本来の登城ルートであるようだ。

f:id:ksagi:20190623150901j:plain

三の丸

f:id:ksagi:20190623150920j:plain

破城の跡が残る石垣

f:id:ksagi:20190623150935j:plain

虎口跡

 ここから一段上がると二の丸。ここには物見櫓なども建っていたらしいが、現在は木が茂っていて視界がない。

f:id:ksagi:20190623151003j:plain

二の丸

f:id:ksagi:20190623151103j:plain

二の丸物見櫓跡

 二の丸からはかなり大規模な大手枡形を経て南腰曲輪。ここから天守台の西南を回り込んでいよいよ本丸に到着する。

f:id:ksagi:20190623151140j:plain

非常に大規模な大手枡形虎口

f:id:ksagi:20190623151238j:plain

天守台西南隅石

f:id:ksagi:20190623151304j:plain

本丸に到着

 本丸はなかなかに広大なスペースがあり、発掘調査の結果の礎石跡も残っている。見晴らし抜群で、兼山の町や木曽川を見下ろすことが出来る。この地を支配する拠点としては格好の立地であることがよく分かる。 

f:id:ksagi:20190623151427j:plain

城跡碑

f:id:ksagi:20190623151444j:plain

抜群の眺望

f:id:ksagi:20190623151458j:plain

本丸裏手虎口

 本丸から裏手に降りたところにあるのが東腰曲輪。ここには立派な石垣があるが、自然岩盤と石垣を利用した集水枡跡がある。城郭において重要な水の確保は当然ながら万全を期している。

f:id:ksagi:20190623151520j:plain

本丸下集水枡跡

 ここからさらに降りたところに東部曲輪があり、また左近屋敷に通じる道もあったようだが、この辺りは斜面崩落などもあって左近屋敷には現在は行けなくなっているようだ。自己責任で強引に進んでみようかとも思ったが、途中がグチャグチャで進むのは不可能と判断。

f:id:ksagi:20190623151605j:plain

この下が東部曲輪

f:id:ksagi:20190623151623j:plain

左近屋敷方面は大崩落で進行不可

 一回りして見たが、さすがに続100名城に選ばれるだけあって立派な城郭である。なお非常に保存状態が良いのは、明治時代に皇室の御料林になっていて民間に払い下げされていなかったかららしい。これが結果として遺構の保存につながったとか。とかく古代史解明などに際して妨害することが多い宮内庁だが、たまには逆に貢献することもあるらしい。

 これで続100名城も含めての視察完了。一段落である。今後また大々的に私が動くとしたら続々100名城が選定された時か(笑)。しかしまあ現実にはもう不可能だろう。選定に値する城を全国で100選ぶことが困難だし、特に現在の原則となっている一県最低一件というのは間違いなく不可能。そこで無理すると「?」って城郭ばかりが並ぶ羽目になるし。まあ一県最低一件の原則を崩せば、後50ぐらいだったら選べなくもないが。

 

 美濃金山城の見学の後は、ここから南方にある「明智城」を見学に行く。明智光秀ゆかりの城郭とも言われている。なお恵那にある明知城も明智光秀ゆかりを名乗っているが、歴史的に見て本命は明智城の方だろうと言われている。

 

明知城 明智光秀生誕の地と言われる城郭

 明智城は天龍寺南方の東西に長い山地上にある。大手口から登る方法もあるが、私は住宅地の中にある西出丸曲輪の方から見学することにした。入口前に車を置いて見学するが、西出丸曲輪は曲輪と言うにはあまりに削平されていない。自然地形そのままであって建物などは建てられないだろう。

f:id:ksagi:20190310172136j:plain

現地案内看板より

f:id:ksagi:20190623151759j:plain

西出丸曲輪はほとんど削平されていない

 そこから東に進むと馬場や本丸などの表示があり、模擬馬防柵などが建てられて整備されている箇所があるが、スペースがあまり広くないので、大きな建物は建てられなかったであろう。なお本丸奥の展望デッキは立ち木のために眺望皆無。

f:id:ksagi:20190623151838j:plain

模擬馬防柵と馬場

f:id:ksagi:20190623151852j:plain

二の丸

f:id:ksagi:20190623151941j:plain

さらに本丸

f:id:ksagi:20190623152000j:plain

城跡碑

 さらに東に進むと大手道を守る形で中の丸があるが、スペースが狭いことはともかく、切り岸などの加工がしていないので、大手側からの斜面が緩くて直接に取り付くことが可能なように見えることが気になるところ。どうも城郭全体的に自然地形にあまり手を加えていないように感じられる。

f:id:ksagi:20190623152026j:plain

大手道を守る中の丸

f:id:ksagi:20190623152043j:plain

大手道、左の中の丸との傾斜が緩すぎる

 なお西大手曲輪方面に向かう道は山崩れでもあったのか閉鎖されていた。どうも全体的に曲輪と言われれば曲輪なのかもしれないが、あまり手が入っていない様子であり、ここを城郭として使用していたとすれば、やはり明智氏はかなりの小勢力だったのだろうなという印象を受けた。

f:id:ksagi:20190623152129j:plain

西大手曲輪方面への道は閉鎖中

 

 明智城の次は久々利城を目指すが、その途中で「かつ円」なるとんかつ屋を見つけたのでここで昼食を摂ることにする。牡蠣フライやヘレカツのセットを注文。まあ可もなく不可もなしの普通のとんかつ。

f:id:ksagi:20190623152238j:plain

かつ円

f:id:ksagi:20190623152300j:plain

可もなく不可もなし

 昼食を終えると久々利城最寄りの可児市郷土歴史館へ。こちらでは陶器の展示中。志野や織部などなかなかに面白い茶碗の展示があった。 

f:id:ksagi:20190623152319j:plain

この手の茶碗が多数

f:id:ksagi:20190623152333j:plain

黒茶碗

f:id:ksagi:20190623152343j:plain

これは志野

 

久々利城 土岐氏の堅固な居城

  こちらで久々利城の地図をもらってから「久々利城」の攻略に挑む。登城口から登り始めると、5分もせずに最初の枡形虎口に到着する。久々利城は先ほどの斉藤正義を謀殺した土岐三河守・悪五郎の居城だったが、彼は1565年に信長の侵攻の際に降伏し、森長可の家臣として仕えた。しかし1583年に長可に謀殺され、久々利城も夜襲を受けて落城となったらしい。まさに生き馬の目を抜く戦国時代らしいエピソードである。

f:id:ksagi:20190310172843j:plain

久々利城縄張図

f:id:ksagi:20190623152450j:plain

登城口

f:id:ksagi:20190623152513j:plain

すぐに枡形虎口にたどり着く

f:id:ksagi:20190623152532j:plain

枡形虎口内部、左手が三の丸

 この立派な枡形虎口から一段上が三の丸。広い曲輪であり、ここから虎口に攻めてくる敵を狙い撃ちできるような構造になっている。

f:id:ksagi:20190623152619j:plain

三の丸の背後には二の丸、本丸が続く

 ここからは二の丸、本丸が階段状に続くようになっている。この辺りは尾根筋に設けられた城郭ではお約束の構造。最高所の本丸からはかなり見晴らしが良くなっており、ここは防御の拠点でもある。 

f:id:ksagi:20190623152651j:plain

横手から本丸に回り込む

f:id:ksagi:20190623152706j:plain

本丸

f:id:ksagi:20190623152718j:plain

本丸から二の丸、三の丸を見下ろす

 この城郭の特徴は、ここから土橋を経てさらに奥にも曲輪があることである。先ほどの本丸は戦闘指揮所であり、実際の城主はこちらにいたのではないかと感じられる。側面から本丸に迫ろうとする敵があっても、ここからなら狙い撃ちできるだろう。

f:id:ksagi:20190623152740j:plain

本丸の奥は土橋を経て奥の曲輪につながる

 さらにこの奥にはこの城の最大の見所とも言われている。二重堀切がある。これは背後の尾根筋から攻められることを防ぐためにかなり深く掘削されており、しかもそれを越えてきた敵は上の曲輪から狙い撃ちできるようになっている。尾根筋に設けられた城郭は背後からの攻撃が弱点であるだけに、こちらの防御は万全を期しているようだ。

f:id:ksagi:20190623152839j:plain

背後の尾根を断ち切る二重堀切

f:id:ksagi:20190623152853j:plain

二重堀切を上から

f:id:ksagi:20190623152945j:plain

奥の曲輪

f:id:ksagi:20190623152921j:plain

奥の曲輪から本丸方面

 先ほどの明智城などと比べるとかなり大規模な加工が施してあり、かなりの大勢力による築城であることが覗える。城内にも多数の兵が籠もることが出来、土岐氏(久々利氏)がかなりの力を持っていたことが覗える。だからこそ森長可は正面からの攻略でなくて謀殺という方法を用いたか。

 かなり見応えのある城郭であり、先ほどの兼山城にも準じる。これこそ続々名城に選ばれても良い城郭か(笑)。

 

大森城 土岐氏家老の城

 久々利城の次はここの南西にある「大森城」へ向かう。大森城は先ほどの土岐氏(久々利氏)家老奥村氏の城であり、1583年に森長可に攻められて落城したとある。

f:id:ksagi:20190623153042j:plain

大森城遠景


 城郭は大森神社の背後の山上にある。大森神社の駐車場に車を置いて見学。ここも今までの城郭と同様にパンフレットが完備、可児市の観光に対する意気込みが見える。

f:id:ksagi:20190310173655j:plain

パンフレットより大森城復元図

 城へは大森神社の手水舎の奥に山に分け入るルートがあり、入口は不明瞭だがその奥にはキチンと案内看板もある。そこから竹林の中に入っていくことになる。 

f:id:ksagi:20190623153100j:plain

大森神社

f:id:ksagi:20190623153112j:plain

手水舎脇のここから分け入る

f:id:ksagi:20190623153135j:plain

すぐに案内が見つかる

 案内に従って登っていくと、本丸と南の曲輪の間の堀切に登ることになる。なおここを北に進むとこの城郭全体にわたって築かれている東側の横堀になっている。

f:id:ksagi:20190623153157j:plain

本丸への登り口、右手が横堀

 本丸に登ると整備の後はあるが下草が茂って鬱蒼としている。南には土塁に囲われた曲輪があるが、こちらはさらに鬱蒼としている。また本丸上では何本かの巨木が根こそぎひっくり返ってたまま放置されている。台風か何かでやられたのだろう。背丈の割に細すぎることから、この山もしばらく手が入れられていなかったようであることが覗える。

f:id:ksagi:20190623153219j:plain

鬱蒼とした本丸

f:id:ksagi:20190623153232j:plain

大変なことになっている

 ここの先には虎口のような構造が見られて、その先には北側の曲輪がある。ここは手元の資料によるとかなり複雑な構造になっているようだが、なだらかな地形になってしまっていて私の目では構造の詳細はよく分からない。

f:id:ksagi:20190623153301j:plain

本丸虎口らしき構造

f:id:ksagi:20190310174149j:plain

その先の曲輪は詳細が不明瞭

 ここの先には大規模な枡形虎口が見られる。そこを抜けると例の横堀。それを突っ切って下に向かって降りてきたら、大森神社の北側に出てきた。

f:id:ksagi:20190623153323j:plain

曲輪周辺に土塁らしきものの痕跡は見える

f:id:ksagi:20190623153339j:plain

大規模な枡形虎口

 なかなかに凝った構造の城郭であったが、このような凝った構造は大森城が落城の後に森長可によって美濃金山城防御の支城として改修された時のものと思われるとのこと。なるほどそれなら納得である。規模的には元々家老の城としてはこんなもんだろう。もっとシンプルな構造だったとしたら、土岐三河守を謀殺した森長可の大軍に急襲されたらひとたまりもなかったろうと思われる。

 

今城 地元土豪小池氏の城

 かなり疲れてきたし、時刻もそれなりの時刻になってきた。次の目的地で最後だろう。次は「今城」に向かうことにする。今城は地元の土豪である小池家継が築いた城郭で、小池氏は美濃金山城に森長可が入場した後にはここを退去して農民になったとか。

f:id:ksagi:20190310174527j:plain

今城復元図

 今公民館に車を置けるのでそこに車を置くと、徒歩で今の集落に向かう。老人憩いの家の奥に今城への登城路があり、案内看板等もある。なおここは私有地であるので所有者に迷惑をかけないように注意とのことだが、そんなことは私有地であろうと公共用地であろうと同じことである。

f:id:ksagi:20190623153446j:plain

今公民館

f:id:ksagi:20190623153457j:plain

一見分かりにくいが、ここを入る

f:id:ksagi:20190623153521j:plain

今城入口

 立ち入り可能領域はロープで区切られている。まず最初に屋敷のあった三の丸に出て、ここには今でも水がある井戸が残っている。ここの北側に枡形虎口があることから、現在大手門の表示のあるところは本来の入口でなく、こちらが本来の入口だろうと思われる。この虎口は三の丸と現在五輪塔のある曲輪で守られるようになっている。

f:id:ksagi:20190623153546j:plain

三の丸井戸

f:id:ksagi:20190623153603j:plain

三の丸虎口

 ここから一段登ったところにある小曲輪が二の丸。土橋で本丸とつながっている。

f:id:ksagi:20190623153620j:plain

小さい二の丸

f:id:ksagi:20190623153634j:plain

二の丸と本丸の間の土橋

 最高所に本丸があり、東側と南側はそのまま外と接する形になるので土塁で守られている。戦いの時にはこの上から斜面に取り付く敵兵を狙い撃ちすることになるだろう。

f:id:ksagi:20190623153659j:plain

土塁に囲まれた本丸

f:id:ksagi:20190623153717j:plain

本丸奥の食い違い虎口

f:id:ksagi:20190623153730j:plain

その奥の構造は不明

 背後は南側の山地につながる部分であり、明らかにこの城の防御の弱点。そちらがわには食い違い虎口があり、土塁上には櫓なども建てられていたようである。なおその虎口の先に出丸の表記も案内板の図面にはあったが、それは明確ではない。

 

 これで今日予定していた城郭は大体押さえた。まだ体力的にはもう一つ二つ回ることも不可能ではない余裕はあるが、明日に帰宅する体力のことと、これから宿泊地に移動する時間のことを考えると無理はやめてもう移動することにする。今日宿泊するのは養老温泉ゆせんの里ホテルなでしこ。昔なら今から長駆して帰宅するところだが、さすがに今はその体力は覚束ないので無理はせずに一泊することにした次第。

 

養老温泉ゆせんの里

 中央道から名神道を経由、大垣ICで降りると養老温泉に向かう。養老温泉周辺の道は背後にまるで壁のような鈴鹿山脈を控える大田んぼ地帯。すごい風景に思わず笑ってしまう。ホテルは妙な雰囲気の建物。イメージは南仏のリゾートだろうか。本館が日帰り温泉で、隣接している療養棟に宿泊者専用の浴場と宿泊棟がある。宿泊棟は中庭がある妙な開放感の構成。やはり南仏のリゾートだろうか。部屋の装備は一般的なビジネスホテルと同様。

f:id:ksagi:20190623153809j:plain

南仏のリゾートイメージの建物

f:id:ksagi:20190623153821j:plain

室内はややゴージャスなビジネスホテル

 ホテルにチェックインするとまずは入浴。最初は宿泊者専用の内風呂へ。養老温泉はナトリウム・カルシウム-塩化物泉。源泉温度は40度くらいなので熱湯を加水して温度を上げている模様。薄い白褐色に着色した温泉で金気臭がある。鉄分を含んでいるようである。色が真っ赤でないということは湯の鮮度が良い証拠。実際に肌当たりの良い湯である。

f:id:ksagi:20190623153851j:plain

宿泊者専用浴場

 内風呂の次は本館の大浴場に入浴に行く。こちらは内風呂・露天風呂・サウナと一渡り揃っている。こちらには内風呂に加温していない源泉浴槽があるのが特徴。39度程度のやや温めの湯だが、元々温まるタイプの泉質なのでそうぬるいとは感じない。

 風呂から上がると養老山麓サイダーを頂いて一服。さっぱりしたサイダーである。

f:id:ksagi:20190623153922j:plain

養老山麓サイダー

 風呂から出ても体がポカポカするのがこの泉質の特徴。入浴を終えると部屋に戻って一休みする。

 夕食は館内のレストランで。メニューは予約当初は会席膳の予定だったが、数日前にホテルから電話がかかってきて、今月になってからの新メニューのステーキ膳がお得だからと勧められたのでそちらに変更している。

f:id:ksagi:20190623153948j:plain

サラダ

f:id:ksagi:20190623154007j:plain

ステーキ膳

 前菜のカルパッチョから始まって、メインは飛騨牛のステーキ。このカルパッチョもなかなか味が良かったが、飛騨牛が脂の入り方といい実に良質で柔らかくて美味。これはなかなか。最後のデザートまで含めて非常に堪能した。これは当たり。

f:id:ksagi:20190623154047j:plain

美味そうに焼けてきた

f:id:ksagi:20190623154109j:plain

デザート

 夕食後はしばしテレビなどを見てくつろいでから再び入浴に行く。ここの湯は実に快適。実はこのホテルの湯にはあまり期待していなかったので、それを良い意味で裏切られた。すっかりくつろいでから、本館の食堂に行って醤油ラーメンで小腹を満たす。

f:id:ksagi:20190623154129j:plain

ラーメンで小腹を満たす

 後は本館でしばしくつろぐ。休憩室でチェアに横たわりながら西郷どんなんかを少し見ていたが、やはりこのドラマはどうしようもなくつまらない。

 部屋に戻るとかなり疲れが出てくる。しばしBDを見ていたが、その内に眠気が強烈にこみ上げてきたのでこの日は明日に備えて早めに眠る。

 

名古屋フィル第461回定期演奏会&岐阜観光(川原町観光に鵜飼いを遠望)

 翌朝は7時に目覚ましで叩き起こされるまで爆睡していた。目が覚めるととりあえずシャワーを浴びてから、昨日帰りにイオンで買い求めていたパンとサンドイッチを朝食にする。

 荷物をまとめながらテレビをつけると「まんぷく」を放送中。前の朝ドラは見るに堪えないほどひどい作品だったが(話の辻褄が合わない、登場人物の人間性が全く描けていない、各キャラクターの行動に一貫性と意味がない、などそもそも脚本のレベルが異常に低すぎた)、今度の作品はキチンと人物が描けているようだ(そもそもそれは本来なら当たり前なのだが)。

 ドラマが終わった頃には荷物をまとめてチェックアウト、これから岐阜まで走ることになる。例によって大阪市内は異常に走りにくい。道路の混雑はひどいし、マナーも最悪、そしてドライバーは殺気立っている。つくづく大阪は車で走りたくない。

 吹田JCTから名神に乗ると、後はひたすら走り続けることになる。このまま岐阜まで一気に走っても良いのだが、多賀SAで途中休憩をする。ここで途中休憩したのは予定通り。今日は10時から西宮でのチケットの販売があるのと、このSAには「敏満寺城跡」なる遺跡があるのでそれを見学しとこうという考え。

 多賀SAには予定通りにちょうど10時前に到着、車を置くとスマホをつないで兵庫芸文のサイトにつなぐが、サイトがダウンしていてつながらない。毎度の事ながらここのサーバはチケット発売の度にサイトがダウンする。結局はフラフラと敏満寺城跡を確認しながら何度か接続を試みることに。

 

敏満寺城 中世の要塞寺院

 敏満寺城跡はその名の通り敏満寺という寺院が城塞化したものだとか。敏満寺は中世ではこの辺りを代表する大寺院だったらしい。しかしこの寺社勢力も、浅井長政に攻められて大きな被害を受け、さらに寺の焼き討ちが趣味だった(笑)織田信長に攻められて根こそぎやられてしまって今日の状態と言うことらしい。 

f:id:ksagi:20190623142610j:plain

城跡は現在は公園

f:id:ksagi:20190623142642j:plain

地形的には周囲よりも小高くなっている

f:id:ksagi:20190623142727j:plain

土塁上のこの辺りは櫓跡か

 城跡といっても特別な遺構があると言うほどではない。SAの隣にドッグランがある公園があるが、この辺りが城内らしい。今も土塁と思われる土盛があるのと、地形的に結構切り立っていることなどが城っぽさを感じさせる。

 

 城跡(?)を一回りし、その間に何とか無事にチケットも手配完了、再び岐阜に向かって走ることにする。さて最初の目的地だが、それは岐阜の川原町。長良川河畔の古い町並みが残っている地域であり、長良川の鵜飼い船などもここから出ている。今まで何度か岐阜は訪れているが、この地域のことは知らずにスルーしていた次第。

 

 名神から東海北陸道へ乗り継ぎ一宮木曽川ICまで高速道路は順調だったのだが、一般道に降りた途端に岐阜の手前で大渋滞で想定以上に時間を費やすことに。

 とりあえず昼前に川原町に到着する。長良川沿いの臨時駐車場に車を置いて川原町まで10分ほど歩いたが、到着するとキチンと町並み見学者用の駐車場があることに気付いてずっこける羽目に。

f:id:ksagi:20190623142753j:plain

長良川、このやけに高く土盛した中州の意味は後に判明

 

川原町 長良川沿いの商家町

 川原町は長良川沿いの旧商家町で、今は鵜飼い船なども出ている。道路沿いに奥行きの深い町屋の建物が多数並んでいて、それらの中には現在も観光客相手の商売をしているところも多い。なお前の道路がこの手の商家町にしてはやや広めなのだが、これは元からそうなのか、どこかの段階で区画整理したのかはよく分からない。ただかなり古い建物が多いので、昭和以降に区画整理されたとは思えないが。

f:id:ksagi:20190623142832j:plain

川原町

f:id:ksagi:20190623142851j:plain

町並には趣がある

f:id:ksagi:20190623142906j:plain

旧商家が立ち並ぶ

f:id:ksagi:20190623142924j:plain

商家には倉もある

 町並みを端まで歩いたところで、鮎料理の店「泉屋」を見つけたのでここで昼食を摂ることにする。注文したのは「若鮎天ぷら・稲庭うどん御膳(2700円)」

f:id:ksagi:20190623142946j:plain

泉屋

 コースのようになっていて、まずは前菜から。いずれも鮎がからんだ料理だが、なかなかにうまい。ただ腹は膨れない。

f:id:ksagi:20190310164542j:plain
f:id:ksagi:20190310164546j:plain
前菜と鮎の寿司

 次に若鮎の天ぷらが出てきて、少し遅れて稲庭うどんが到着。若鮎の天ぷらは非常に美味。稲庭うどんも腰があってツルツルと非常に美味。

f:id:ksagi:20190310164629j:plain
f:id:ksagi:20190310164634j:plain
若鮎の天ぷらと稲庭うどん

 最後はデザートは山椒のアイス。これは山椒の実を使っているとか。ミルクアイスは後口がネットリしがちだが、このアイスは後味がサッパリしていて非常に爽快。これは初体験である。

f:id:ksagi:20190310164728j:plain

後味さっぱりの山椒アイス

 なかなかに美味かった。ただ食事量がかつてより減っている今の私にさえこれはいささかボリューム不足。そういう点ではCPにはしんどいところもある。お洒落に美味しいものを食べたい女性向きか。私のようなガッツリ食べる下品な男向きではない。まあその場合は鮎ラーメンにでもしておけば良かったのか。

 町並みを一番端まで見学して折り返してくると、これまた一番端にある店「緑水庵」みたらし団子を頂くことに。団子は至って普通だが、町屋を活かした風情ある店内がなかなか良い。

 

f:id:ksagi:20190623143013j:plain

緑水庵
f:id:ksagi:20190310164857j:plain
f:id:ksagi:20190310164901j:plain
趣ある店内にみたらし団子

 

 川原町の見学を終えたところで一旦ホテルに荷物を置きに行くことにする。今日の宿泊ホテルはドーミーイン岐阜駅前を予約している。ドーミーインの契約駐車場に車を入れるとホテルにキャリーを預けてから岐阜駅まで。ドーミーイン岐阜は「JR岐阜駅から陸橋で直接接続」と記載がある。こう聞くと本当に駅の真ん前のイメージだが、実際は陸橋でつながっているのは事実だが、駅に到着するのには5分程度かかる距離がある。知らない間に岐阜駅前の陸橋エリアがかなり広がっているのである。

f:id:ksagi:20190623143106j:plain

ドーミーイン岐阜

 岐阜から名古屋まではJRで30分かからない。思っている以上に岐阜は名古屋に近い。これだと確かに誰も不便な岐阜羽島駅なんて使わずに名古屋駅を使うよな・・・。

f:id:ksagi:20190623143131j:plain

岐阜駅前の金の信長像は、金のエンジェル1枚、銀のエンジェル5枚でもらえません

 今日の名フィルのコンサートはフォレストホールで開催なので金山まで移動する。金山駅前では閉館になった名古屋ボストン美術館が閉鎖されている。何やらもの悲しい風景。全くこの国は文化面は実に不毛だ。これで名古屋に来る機会も減りそうな気がする。それでなくても今は愛知県美術館も改装で閉館中だし。

f:id:ksagi:20190623143051j:plain

閉鎖されている名古屋ボストン美術館

f:id:ksagi:20190623143210j:plain

悲しすぎる

 フォレストホールに到着したのは開場の20分ぐらい前。既に大勢の客でごった返している。こんなところで待つのもしんどかったので、ホール内の喫茶でアイスココアを頂きながら時間をつぶすことにする。

f:id:ksagi:20190623143226j:plain

フォレストホール

f:id:ksagi:20190623143241j:plain

アイスココアで一息

 喫茶でマッタリと30分ぐらいつぶしてからホールに入場。ロビーでは選抜メンバーによるロビーコンサートが。最近はこの手のイベントをするところが増えている。記憶にあるところで札響、新日フィルがしていた。そう言えばアマの神戸フィルもしてたな。

 チケットは売り切れのようなことを言っていた気がするのだが、ホール内には空席もチラホラとある。年間会員の中で来てない者もいるんだろうか。まあこの曲は賛否両論あって、あまり好きでない者も結構いるから。 

 

名古屋フィルハーモニー交響楽団 第461回定期演奏会

小泉和裕(指揮/名フィル音楽監督)
中部フィルハーモニー交響楽団(共演)
並河寿美(第1ソプラノ)
大隅智佳子(第2ソプラノ)
三宅理恵(第3ソプラノ)
加納悦子(第1アルト)
福原寿美枝(第2アルト)
望月哲也(テノール)
宮本益光(バリトン)
久保和範(バス)
グリーン・エコー,名古屋市民コーラス,名古屋混声合唱団,一宮第九をうたう会,名古屋シティーハーモニー,クール・ジョワイエ(合唱)
名古屋少年少女合唱団(児童合唱)

マーラー: 交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』

 名フィルと中部フィルのジョイントによる20-17-14-12-10という超巨大編成なのが今回のオケ。しかし急遽の編成とは思えないぐらいオケのまとまりは出来ていた。ちなみに今回は合唱も含めると497人の編成で、1000人まではいかないものの「500人の交響曲」というかなりの大規模なものになっていた。とにかく人数が多くて遠いのを意識してか、小泉の指揮も見やすいようにいつも以上に動作を大きくしていたようだ。小泉の指揮は万事諸々に目を配っているのが感じられる。

 ただことごとく邪魔をするのはこのホールの異常な音響の悪さ。大編成の合唱団にも関わらず音が抜けてこないし、その前に配した独唱陣はさらに輪をかけて音が前に出てこず、やけに合唱陣が遠くに感じられる。また超巨大編成のオケもその破壊力を完全に発揮したとは言いにくい部分がある。なおホールの構造的にバンダの金管はステージサイドに配していたが、おかげで残念ながら天上のラッパが地上のラッパになってしまって、あのびわ湖ホールの劇的効果を思い出すといささか寂しい結果になってしまった。
 ホールのせいでかなり効果が減殺されていたが、そもそもかなり華やかな曲なので会場はそれなりに盛り上がっていた。この曲は特に終盤の盛り上がりが気分を高揚させる効果がある。その内に年末の第九に代わって、年末のマラ8の時代が・・・来ないか。

 

 ライブを終えるとホテルに戻る前に夕食を摂ることにする。名鉄で名古屋まで戻って、そのまま名鉄百貨店のレストラン街へ。案の定うなぎ屋は大行列なので、諦めて「文化洋食店」カニコロッケを頂くことにする。

f:id:ksagi:20190623143345j:plain

名鉄百貨店の文化洋食店

 カニコロッケはこの店の名物であるが、切ってみるとまるでミンチカツのように見える濃厚な中身が特徴。カニの風味が非常に強くて実に美味。

f:id:ksagi:20190623143404j:plain

濃厚なカニコロッケ

 夕食を終えると岐阜に戻る。JRの快速に乗るとすぐ。体感的には大阪-神戸よりも近い印象。

 

長良川鵜飼いを遠望

 岐阜に戻ってくると、ホテルに帰る前に少しだけ寄り道をする。ちょうど今は鵜飼いのシーズンとのことなので、鵜飼い船には乗らないまでもせめて雰囲気だけでも体験しておこうかと考える。岐阜の駅前からバスで長良橋まで移動。長良川を眺めると既に多くの乗合船が出ている。それを眺めながらしばしボンヤリ。その内に打ち上げ花火を合図に松明を灯した鵜飼い船が出陣。 

f:id:ksagi:20190623143420j:plain

合図の花火が上がる

f:id:ksagi:20190623143436j:plain

何やら始まったが遠すぎて何のことやら

f:id:ksagi:20190623143455j:plain

望遠レンズを使用しても暗すぎて様子は分からず

 長良川北岸のホテルから多くの人が出てきて川を眺めているが、鵜飼いは南岸側でやっているので遠くに松明がチラホラ見えるだけである。南岸側には目隠しのように背の高い中州を作ってあるので視線が遮られて何も見えない構造になっている。鵜飼いをキチンと見ようと思うと、3000円以上を払って見学船に乗るしかないシステムになっているわけである。まあ彼らの収入源はこの乗船料なんだから、ただ見されたら商売にならないだろうから、その辺りはしっかり考えてある。望遠レンズで覗くと松明の明かりで鵜をつないでいる紐ぐらいは見えるがその程度。まあそれでも鵜飼いの雰囲気は味わったのでバスで引き返すことにする。

 

 ホテルに入るとまずは入浴。ここのホテルは温泉大浴場があるが、源泉は池田さくら温泉(揖斐池田町からの運び湯のようだ)で、ナトリウム炭酸水素塩泉でpH8.6のアルカリ泉とのこと。この湯が内風呂に注がれており、ヌルヌルとした本格的な湯。pHを見ると先日訪問した出石温泉元湯にも匹敵している。なお外気浴もあるが、こちらは新湯のようなので内風呂を中心に入浴。体に本格的にキツいのは明日以降のはずなのに、今日一日でもかなり疲労がたまってしまった。特に腰の状態が怪しい。そこでできる限り疲労を抜いておくことにする。非常に心地よい湯で堪能する。

 風呂上がりには往路に多賀SAで買い求めていた饅頭でマッタリ。地元米を使っていると説明があったが、確かに皮がかなりうまい。帰りにお土産で欲しいところだが、残念ながら上り側でしか売っていないと言ってたな・・・。

f:id:ksagi:20190623143629j:plain

多賀SAで買い求めたくうや観助餅がこの夜のおやつ

f:id:ksagi:20190623143652j:plain

餡入りの半撞く餅のようだ

 風呂から上がってしばしマッタリすると、夜のドーミー名物夜鳴きそばへ。今日は昼・夜共にやや軽めで小腹が空いていたのでこれは非常にありがたい。

f:id:ksagi:20190623143724j:plain

ドーミー名物夜鳴きそばで小腹を満たす

 夜食を摂るとしばしテレビを見ていたが、やはりろくな番組がない。体の方がかなり疲れていることだし早めに寝ることにする。