徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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アニメ関係の記事は新設した「白鷺館アニメ棟」に移行します。

白鷺館アニメ棟

彦根城に立ち寄って旅の終わり

 長期にわたったGWの遠征も今日で最終日。後はうちに帰るだけなのであるが、やはりその前に彦根城ぐらいには立ち寄っておきたいと考える。ただどうせ混雑するのが分かっているので早めに行動する必要がある。さっさとホテルで朝食を済ませると9時になる前にホテルをチェックアウトして彦根城に向かう。

天下の名城彦根城は観光客で一杯

 彦根城に到着すると二の丸の駐車場に車を入れる。私の見ているうちにも車がドンドンと増えて、これは数分でこの駐車場も満車になりそうだ。やはりGWの人出は馬鹿に出来ない。

 彦根城の入口から入場すると、最初に到着するのが廊下橋と天秤櫓。ここのところはグルリと回り込む必要があり、その度に十字砲火を浴びるという構造である。天秤櫓の中が公開になっていたので覗いてみたら、まさに入口に向かってくる敵が狙い撃ちである。非常に良く出来た作りだ。

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一番最初に廊下橋の下を潜る

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回り込んで廊下橋を渡る

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天秤櫓内部

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櫓からは門に迫る敵を狙い撃ちできる

 そこから上がると太鼓丸を経て太鼓門及び続櫓。ここもかなり堅固な構造。

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太鼓門及び続き櫓

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ここは裏の構造が面白い

 

 

 ここから上がるとようやく本丸。こじんまりしているが破風の多い凝った作りの天守である。

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本丸に到着

 と、ここまで来たところでおかしなことに気付く。何やら長蛇の列が出来ている。何と天守に入場するのを待つ行列だとか。まだ開場してから1時間も経っていないのに既に30分待ちの行列とのこと。城によっては天守だけ入場料を取るところも多いので、それなら天守をパスする者も増えるが、ここは城に入るだけで入場料を取られる(それは800円と結構高価)ので、どうせならと天守に入場する者が増えるということもあろう。しかしそれにしてもまたもやGWが牙を剥く。

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天守入場待ちの大行列

 結局は私もこの行列に並ぶ羽目に。なお30分後に入場しても、さらに内部で階段を登るのに30分ぐらい待たされ、結局は天守見学だけに1時間以上を要することに。ここの天守の中は特に何かの展示があるわけでもないので、実際には本当に入場する必要があるかどうかは疑問。

 天守から出てきたら表に黒山の人だかり。何だと思えばひこにゃんが闊歩していた。権利関係などでゴタゴタがあったひこにゃんだが、未だに人気は絶大なものがある。ゆるキャラ界ではくまモンと並んで双璧と言える。

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ひこにゃん登場

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大人気だ

 

 

 天守の見学後は裏手の西の丸に降りる。西の丸北端の三重櫓及び続き櫓が公開中なのでこちらも見学。ここが城の本体の北の守りの要というところか。

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西の丸

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西の丸の石垣

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西の丸三重櫓

 ここから出曲輪を経て下まで降りてくると、北端の山崎曲輪を覗いてみる。ここは石垣で囲まれたかなり広い曲輪で、かつての琵琶湖の湖畔はもっと近かったろうことを考えると、琵琶湖に面した曲輪だったのだろうと思われる。手前に門があるが、あれは船の出入りをしていたものと思われる。

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西の丸の先の堀切

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山崎曲輪手前の門

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山崎曲輪も結構広い

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山崎曲輪の石垣上から外を見る

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玄宮園

 

 

 彦根城の見学を終えると庭園の方を見学するが、その時に博物館の手前の土塁で火縄銃の実演が行われてるとの放送が入ったのでそれを見に行く。火縄銃の五斉射はかなりの迫力で轟音が響き渡る。この時にふと思ったのだが、以前に「歴史科学捜査班」で家康の本陣からの銃声は小早川の本陣には到底届かないということを実験していたが、この時の銃はせいぜい2丁ほどで、しかも騒音の激しい名神高速越しでの実験だった。これを名神高速越でなくして、火縄銃を10斉射ぐらいしたら、2キロ程度なら音が届くのではないか? ということである。もっとも音は聞こえても、それが自分の陣に向けられたものかの判断は付かないかもしれないが。

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火縄銃の五斉射

 彦根城の見学を終えると場内で開かれていた物産展に立ち寄って、土産物を購入すると共に彦根サイダーで一服。生き返る。サッパリとした爽やかな味が良い。

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彦根サイダーで一服

 これで今回の遠征の全予定は終了。ヘロヘロになりながら帰途についたのである。高速道路は途中の大津周辺でやや混雑はあったが、概ね渋滞はなく順調に帰り着いた。一番渋滞したのは昼食に立ち寄った新名神宝塚北SAのフードコートだったのである(笑)。

 

 

明知城と日本大正村に豊郷小学校

 7時に目覚ましで起こされる。シャワーを浴びると朝食は一階のレストランで。オーソドックスな和食メニューだが食は進む。ただ関西人の私には納豆は無用。

 ホテルを9時頃にチェックアウトすると、まずは明智を目指す。今日は明知城を訪問するつもり。明知城はかなり昔に訪問したことがあるのだが、その時は下草が鬱蒼としておりヒルまで出てくる状態で、まだ山城初心者だった私は早々に戦意喪失して城郭の全貌を把握できないまま撤退した次第。その後は私も山城経験を増したし、現地もここのところの山城ブームに合わせて整備された由を聞いていたのでいつか捲土重来をしたいと思っていた次第。

 恵那から明智までは40分ぐらいかかる。現地に到着すると明知城の幟が立ち、駐車場まで用意されている。これはかなり整備が進んでいる。最近は山城ファンが増えたおかげでこのように整備される城郭が増えたのはありがたいことだ。これはブームの光の面。

明知城 地形を利用した巧みな防御施設

 明知城は明知遠山氏が支配していた城で、武田氏と織田氏の間で争奪が繰り返された歴史がある。なお地元では明智光秀生誕の地とPRしているが、これについては歴史家からは疑問が呈されている(可児市の明智城の方が本命視されている)。

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明知城登城口

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明知城縄張図

 登城口から登るとすぐに二の丸東砦と搦手砦で厳重に入口を警備しているのが分かる。この奥には溜池のある曲輪がある。

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いかにも回りに取り囲まれている登城路

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搦手砦が搦手口を厳重に守る

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貯水池のある東曲輪

 

 

 そこからさらに進むと本丸方向と出丸方向への分岐。本丸方向に進むと二の丸を経て本丸にたどり着く。本丸はこの山の最高所でそれなりの面積があるので建物などを建てることも可能だろう。

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分岐を本丸方面に向かう

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本丸下の腰曲輪

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本丸手前の二の丸

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本丸虎口を経て

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本丸に到着

 

 

 本丸の奥に降りた先が三の丸(腰曲輪)で、その下にさらに曲輪が見えており、これも砦と言えるだろう。

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本丸下の三の丸から西の砦が見える

 出丸は断崖で守られた位置にあり、かなり重視されていた曲輪だとか。確かに位置的には防御の要であり、面積も広いのでそれなりの兵力を置いたと思われる。

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出丸はかなり広い

 明知城は標高はさほど高くないが、その縄張りはかなり凝ったものであり防御力の高さを感じさせる。何度も争奪戦が繰り広げられた城郭だけに鉄壁の防御が必要とされたのだろう。

 

 

明智町(日本大正村)を散策

 明知城の見学後は明智の町をプラプラと見学。GWに合わせてイベントが開催されているようで大勢の観光客で賑わっている。土産物屋を覗くと明智光秀と大正村でPRしている。その隅っこで「半分青い」がこそっとだけ顔を出しているが、さすがに放送事故レベルとまで言われた史上最低の朝ドラ(何しろヒロインが性格破綻者というとんでもドラマ)は世間にも相手にされていない模様。

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大正村ではイベント開催中

 私はここで光秀プリンで一服。あっさり目の牛乳プリンにきな粉と黒蜜をかけて頂くプリン。結構コクが出て美味い。

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光秀プリンはなかなか美味い

 なおここで土産物を買い求めたが、イケメン光秀の栗どらやきと限定販売という味噌味カステラ「三日天下」。しかしこのネーミングって良いのか?

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イケメン光秀と三日天下

 

 

 後は町の中を散策。大正村役場は大正村二代目村長の司葉子、三代目村長の竹下景子関連の写真が多く、大正ロマン館は初代村長のデコこと高峰三枝子と大相撲の初代春日野理事長に関する展示室がある。

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大正村役場

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大正浪漫館

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大正浪漫館内部

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ちんどん屋の行列が道路を練り歩く

 

 

 大正村資料館はいわゆる民俗博物館のようなもので、中には古い物品が展示されているが、大正と言うよりは昭和初期のイメージ。大正時代館は大正天皇に纏わる展示。

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大正村資料館

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渡り廊下が路地をまたぐ家

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奥が大正時代館

 

 

  町並をプラプラ散策して駐車場に戻ってくると、どこで昼食を摂ることにしたい。昼食は町から少し外れたところにある「すし大翔」「すしランチ」を頂く。こんな山の中で寿司? というのもあるが、まあ普通の寿司。とりあえずこれで880円というのは安くはある。

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すし大翔

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そばと

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寿司のセットランチ

 

 

 昼食を終えると移動することにする。この周辺の他の城の訪問も事前の計画にはあったのだが、明智市街の散歩でそれなりに時間を使ったのと、既に体力的に限界に近づいてきていること、今日の宿泊予定地が彦根でそれなりに距離があることなどから 早めに見切りをつけることにした。

 高速は幸いにして渋滞というほどの混雑はなかったが、それでも車の量は通常よりは多いので何かと気を使う運転となったが、2時間ほどの運転で何とか無事に彦根に到着する。

 彦根に到着したのは3時前。今日の宿泊ホテルはルートイン彦根。ここは妥当な価格の宿泊プランを確保できたことによるチョイス。さすがにルートインで一泊一万円以上は出せない。

 このままホテルに直行してもまだチェックイン時刻前。彦根城にでも立ち寄るかと思ったが、既に手前の道路から混雑していてここから先の様子が想像できるので断念。ではどうするかと考えた時に頭に浮かんだのは往路で立ち寄る暇がなかった豊郷小学校。ヴォーリズ設計による歴史的建造物なのだが、解体業者と癒着していたと推測される町長がなぜか解体に固執して一騒動になった校舎である。

 

 

豊郷小学校はアニメの聖地になってしまっていた・・・

 現地に到着するとイベントが開催中で、駐車場が使えないからと町役場の駐車場まで移動させられる。この時に何となく嫌な予感がしたが、現地に到着するとイベント内容が判明。どうやら同人誌即売会の模様。そう言えばここは何かアニメの聖地だとチラリと小耳に挟んでいたが(どうやら「けいおん」らしい)、もろに聖地巡礼になってしまった・・・。

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豊郷小学校

 ただ普通のオタはまだ見慣れているが中には女装したオッサンまでいて、さすがにこれには吐き気を催される。20年前の私はアニオタでしかもセラムンオタだったので、どちらかと言えばあちらサイドの人間だと思っていた(ただしコスプレはしたことがないし、しようと思ったこともない)ものだが、周りを見渡すと明らかに場違いであるという感覚は拭えず、キモいという気持ちを抑えられなくなる。どうやら私も年月を重ねる間に彼らを蔑み迫害する側のメンタリティに近づいてしまったようで、そのことにショックを受ける。

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廊下

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階段のうさぎと亀

 校舎内ではあちこちで同人誌のブースがありアニオタがウロウロ。その関係で見学できる範囲が限られるし撮影も制限されるということで、有名なうさぎと亀を撮影したぐらいで撤退する羽目に。どうも各地で聖地巡礼に出くわして散々な目にあうことが増えている。

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校庭の噴水

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趣のある校舎

 

 

 この後はホテルにチェックインする。テレビをつけたらWOWOWでトランスフォーマーを放送していたのでその終盤をボンヤリと眺める。こんなつまらないストーリーでも、SFXを駆使してそれなりに見られる映画にしてしまうハリウッドには常々感心する。日本でこれを映画にするとどうしても子供だましの安っぽい映像になってしまうのがオチ。彼我のこの技術力の差は何なのだろうか? 単純にかけている金額だけではない差があるような気がしてならない。

 この後は大浴場で入浴。昨日のホテルは大浴場がなくてシャワーだけだったのでこれでホッと落ち着く。やはり日本人たるものは浴槽に浸からないと始まらない。それにしても想像以上に体のあちこちがガタガタで、もう動き回るのは嫌になっている。

 で、出歩く気さえ起きないし、この周辺は国道沿いのチェーン店(吉野家など)ばかりというので面倒臭くなったので、夕食はホテル内の「花々亭」で済ませるという体たらく。それにしてもこのカレー、もう少しルーが多くても良いような・・・。

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上田カツカレー

 結局この日はグダグダのまま暮れていき、ベッドに転がっている内に意識を失ってしまっていたのである。

 

 

甲斐の山城巡り&「歌川国芳の時代」at 中山道広重美術館

 この日は7時に起床すると早速入浴。夜の間に風呂の男女交換がなされており、こちらの風呂はやや狭いがワイン風呂なんかがある。ただあまり浸かりすぎていると疲れが出てくるので、手早く体を温めるだけにしておく。

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朝食バイキング

 9時頃にはホテルをチェックアウト。今日は最終的には恵那まで長駆移動する必要があるので、行動を全体的に早める必要がある。まず最初に目指すのは須玉ICの近くにある若神子城。

若神子城 甲斐を巡っての徳川と北条の争いの最前線

 若神子城は本能寺の変後、支配者不在となった甲斐を巡って徳川と北条が争った時に、北条方の最前線の拠点となった城である。現在は歴史公園として整備されており、北条式の薬研堀の跡が残っており、さらに狼煙台が復元されている。この時代の高速情報伝達網である狼煙ネットワークの一環をなしていたらしい。

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拍子抜けするぐらい普通の公園になっている

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北条流薬研堀の跡

 狼煙台は老朽化でかなりガタが来ていて立ち入り禁止。現地は単なる普通の展望公園という趣であまり城跡らしさはないところ。

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狼煙台はかなり老朽化している

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遠くに富士山を望む

 

 

獅子吼城・・・は残念ながら断念

 次はこの奥にある獅子吼城を目指したのだが、駐車場のある根小屋神社で何やら神事がなされているようで、その参加者の車で一杯で車を止める場所がない。それにどこからアクセスしたら良いのかも分からないしということで今回は諦めることにする。

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この山上に獅子吼城があるはずだが・・・

 

 

谷戸城 平安時代から続く地形を利用した城郭

 次は谷戸城を目指すことにする。八ヶ岳が見える荒涼とした雰囲気の地域をしばし車で走る。風景の雰囲気は以前に車で走った富良野を思い出す。

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八ヶ岳の風景

 30分ほど走ると歴史館に到着。ここにはこの地域で発掘された土器などが展示されているが、縄文土器の造形がすごい。まさに「縄文は爆発だ!」。

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歴史館

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縄文は爆発だ!

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このいかにもの石碑は子孫繁栄の意味とか

 

 

 歴史館のすぐそばに谷戸城の登り口がある。歴史館の展示から分かるようにかなり古くから多数が居住しているのがこの地域だが、谷戸城は平安時代末期に逸見清光が築城したと考えられているとのこと。彼の子孫から後の武田氏が出ている。徳川と北条による争い(天正壬午の乱)においては北条方がこの城に布陣したらしい。なお近年の発掘調査では陶磁片などの多数の遺物が出土したとのこと。現在は国の史跡として保存整備されている。

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谷戸城登り口

 谷戸城のある小山はそう高いものではないのだが、東西に川があり、南は結構切り立っているので意外に守備力はありそうだ。また中央に近づくにつれて傾斜がきつくなっており、それを土塁と堀で守っている。ここの城が奇妙なのは、堀が土塁の内側にあることでこれは通常の逆。土塁を越えて堀内に落ちた敵を仕留めるのだろうか?

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谷戸城の模型

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縄張図

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二の丸の土塁と堀

 

 

 本丸は最高所にあり、入口は単純な食い違い虎口となっている。高い土塁に囲まれたそれなりの広さのスペースである。難攻不落とまでは感じないが、それなりの兵力を置いて守るには十分な城郭だろう。

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本丸の食い違い虎口

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土塁に囲まれた本丸

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90度に折れ曲がった搦め手虎口

 

 

 これで今回の城郭巡りの予定は大体終了。後は恵那に向けてひたすら走る。まだ摂っていなかった昼食は途中の諏訪湖SAに入って摂るが、さすがにGWでSAは超満員。フードコートは席もない状態だったので、奥のレストランに入ってさくら丼を注文する。

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諏訪湖SAで休憩

赤身の馬刺しが美味い。やはり馬刺しは赤身がサッパリしていて良い。特に期待はしていなかったのだが、予想を上回るメニューで上々。

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赤身がサッパリしたさくら丼

 この後は延々と高速道路を走るのみ。しかし道路は混雑していて走りにくいし(途中で何度か渋滞でスローダウンすることも)、中央道は結構起伏もカーブもあるしで大変。ようやく夕方頃に恵那に着いた時にはヘトヘト。

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これがかつての中山道とか

 恵那で宿泊するのはシティホテルミチ。初めて使用するホテルだが、実は本遠征で一番不安だったのがこのホテル。と言うのは当初は恵那ではルートインを使用するつもりでいたのだが、最近のルートインはドーミーインの悪癖に学んだのか、GW特別価格を設定しておりとても宿泊する気にならない価格になっていたのである。そこでやむなく他のホテルを探さざるを得ない状況になった次第。

 やや昭和臭がするホテルで設備に古さは感じるが、汚いというほどではない。部屋の照明が暗いのが気に入らないが、まあまあといったところでとりあえず安心する。

 ホテルにチェックインすると隣の広重美術館を訪問する。

 

 

「歌川国芳の時代-木曽街道六十九次之内を中心に-」中山道広重美術館で6/9まで

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 国芳の木曽街道六十九次之内は広重の東海道五十三次のような宿場町の風景を描いた作品ではなく、宿場名から連想した説話や歌舞伎の人物などを描写した作品である。だから内容的にはいわゆる武者絵の類い。国芳が最も得意としたジャンルでもあり、外連味タップリの迫力ある画面構成の作品などが並んでいる。

 さらに本展では国芳の美人画なども展示。こちらには結構オーソドックスな表現で、やはり国芳の本領は武者絵の方にあるように思われた。

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当時の絵草紙屋の再現

 

 

 美術館訪問後は夕食を摂る店を探してウロウロ。「あたりや」なる鰻屋を見つけたのでここに入店する。注文したのは「ウナギ丼(2700円)」

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あたりや

 今時この価格でウナギ1匹が入っているのはCPとしては良いか。ウナギは関西風の香ばしい焼き方。ただいささか焼きが入りすぎていて香ばしいというよりは焦げばしい。またやはりこの地域は味付けが関西人の私にはやや塩っぱい。個人的にはもう少し甘みのある方が好き。

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うなぎ丼

 夕食を摂ると近くの菓子屋やスーパーでおやつを買い求めてからホテルに戻る。部屋に入るとしばしダウン。テレビを見ながらベッドに転がっている内に意識を失い、気がついたのは30分後。そこで起き出してシャワーを浴びる。

 やはり体に溜まる疲労が半端ではなくなってきている。この日もやや早めに就寝する。

 

 

日本平に久能山東照宮と身延山久遠寺を経て石和温泉へ

 今朝は6時半に目が覚めたが、昨日に比べると睡眠時間が短いのでやや眠気がある。とりあえずホテルの大浴場に体を温めに行ってから朝食に出向く。朝食は品目的にはあまり多くはないが味は悪くはない。

 今日は比較的普通の「観光」をするつもり。まずは日本平に行ってここからロープウェイで久能山を訪問しようと思っている。ロープウェイが9時から運行なのでそれに間に合うようにチェックアウトする。

大混雑の日本平

 山道を車で走るが、どうも車の台数が多いのが気になる。ロープウェイ駅の駐車場に到着したのはちょうど9時頃だが、「もうすぐ閉鎖しますから急いでください」と言われて驚く。いざ駐車場に到着してみると、もう既にロープウェイの乗車券売り場に長蛇の列が出来ている。GWを侮っていたことにここで気づく。今までGWとは全く無関係な場所ばかりウロウロしていたから、このことを忘れていた。結局はロープウェイ乗車までに30分以上待たされることに。40人乗りのゴンドラを片道5分の行程をピストン輸送しているが、次々とくる客を捌ききれていない状況。

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ロープウェイ乗り場は既にこの状態

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乗車券と久能山東照宮のセット券を入手

 ロープウェイに乗ると驚くのは日本平の山の南側の切り立った断崖。どうやら海底の隆起と浸食によるらしいが、それにしても急峻だ。またこれから向かう久能山もとんでもない地形。周囲は完全に切り立っており完全に要塞。それもそのはずで、ここにはそもそも武田氏の久能山城という山城があったのだという。ここに山城を築けば難攻不落なのは間違いない。アクセスするには下から1000段以上という石段を登ってくるか、このロープウェイを使用するかしかない。と言うわけで足腰にガタの来ている私にはロープウェイ一択というわけである。

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ロープウェイが到着

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日本平の切り立った崖

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久能山東照宮があるのはこの山上

 

 

久能山東照宮 徳川家康を祀る神社

 家康の死後に遺命によってこの地に家康を埋葬すると共に、この山上に東照宮が建設された。後に徳川氏は威信をかけて日光東照宮を建築、家康はそちらに改葬されたとのことだが、実際には家康の遺体は久能山に埋葬されてたままとのことである。

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完全に観光地と化している現地

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海が見える

 ロープウェイの駅から出るといきなり現地は観光地モード。ここに博物館があるので見学する。展示されているのは歴代徳川将軍の甲冑。実用要素が強い家康の甲冑に対し、時代が進むにつれて実用性よりも装飾性の方が正面に出てきているのがよく分かる。またテレビでも放送されていた家康が薬を調合するのに使用した道具やネタ本も展示されている。これで家康は日々精力剤の調合に励んだのである。

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博物館

 

 

 博物館の見学を終えると本殿の方を見学することにするが、ほとんどの石段をロープウェイでショートカットしたとはいうものの、まだここからも石段は続いている。しかも山城時代の階段をそのまま使ったと言われているその石段は、最大で一段30センチ以上のところもあり、とにかく素直には登りにくいという代物。

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本殿の見学に向かう

 石段を登ったところに本殿があるが、これは確かに日光東照宮を連想させるような煌びやかでど派手なもの。朱・碧・緑・金と言ったキンキラキンのいかにも宗教施設らしい外観である(京都などの寺院がわびさびの風情があるのは古いからであって、本来は朱塗りのキンキラキンが寺や神社の基本)。日光東照宮に比べると規模は小さいが贅を尽くしているのは分かる。

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本殿

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唐獅子の彫刻

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これもかなり細かい

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なかなか派手

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絵画もあり

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とにかく随所に贅を尽くしている

 

 

 さらにその奥に家康を祀っている廟がある。かつての天下人も今は静かにここで眠っているわけだ。その脇にはひっそりと愛馬も祀られているようだ。さて彼が今、この迷走している日本の状況を見ればどう思うか。これはもう一度自分が天下を取って一からやり直さないとと考えるかもしれない。

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家康を祀る廟

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その傍らでひっそりと眠る愛馬

 なかなか見応えのある建物であったが、神社内に静岡らしく現代の仏像(ガンプラ)が奉納されていたのはなかなか笑えた。時代は変わるものである。

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静岡を代表する現代の仏像

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個人的にはこれが一番好き

 

 

 久能山の見学を終えるとロープウェイで日本平に戻る。帰りの乗客は行きの半分ぐらい。しかし日本平に到着したらロープウェイ待ちの客の列が数倍に伸びている。あの人数だと、最後尾は1時間待ち以上になるのでは。

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戻ってきた日本平はもっと凄まじいことに

 日本平に戻ってくると近くの展望台に登って風景を眺める。生憎と富士山方面は雲がかかっているようで全く見えないがなかなかの絶景。ただこの手の風景には数秒で飽きてしまうのも私の習性。これでするべきことは大体終えたし、次の目的地へと向かうことにする。

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展望回廊

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眺めは抜群

 

 

三保の松原・・・は断念

 次の目的地である三保の松原を目指して車を走らせるが、駐車場から出たところで駐車場に入るのを待つ車の行列に驚く。数十台単位で車の行列が伸びている。この連中がロープウェイに乗れるのは一体何時間後だろう? GW恐るべし。

 この行列を見たところで不吉な予感が頭を過ぎる。日本平がこのざまだと、比較的近くの三保の松原は・・・。三保の松原に向かう道路に到着したところで予感が的中したことに気づく。道路が延々と渋滞している。恐らくこれが駐車場の入口にまで続くことになるのだろう。この時点で三保の松原に立ち寄ることは断念する。どうせ今日は富士山は見えないようだし、またいつか機会がある時にということにして車をUターンさせる。

 今日の予定だが、後は今日の宿泊地である山梨方面への移動である。ただそろそろ昼時なので昼食を摂る必要がある。結局は考えるのが面倒なので途中で見かけた「はま寿司」に入店して寿司をつまむ。

 

 

身延山久遠寺 山中の大伽藍

 とりあえず昼食が済んだところで山梨方面に向かう。ただこのまま山梨に直行だと面白くないので、途中で身延山に立ち寄ろうと思っている。願うべくは身延山は日本平のようなことがないことを。

 身延山に向かって走ること1時間ほど。ここで私は予測が甘かったことを痛感させられるのである。久遠寺の門前町を走り抜けて、一番奥のロープウェイ駅最寄りの駐車場を目指したのだが、なんと駐車場から100メートル以上手前で大渋滞。どうも駐車場待ちの行列の模様。しかもこの道路がとんでもない登り斜面で、ブレーキを緩めるとオートマ車でも勝手にバックしてしまう状況。ここで前が進む度にチリチリと前進なのでひたすら坂道発進の連続である。私は左足ブレーキをアクセルと併せて車が後退することを防いでいたのだが、前の車は発進の度に豪快に後ろに数十センチ下がってから急発進するので危なっかしくて仕方ない。結局はこの坂道発進の連続を30分以上に渡って繰り返させられることになった。もしマニュアル車が混じっていたらドライバーは完全に左足が死んでいるところだろう。

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延々と続く渋滞の列

 ようやく駐車場に車を置くと、駐車場奥にある斜行エレベータで久遠寺境内に上がる。このままロープウェイに向かっても良いが、どうせならその前に久遠寺の見学をしておくことにする。

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駐車場から斜行エレベータで登る

 それにして大伽藍である。しかも下の山門からの石段がすごい。久能山も1000段を越えるとんでもない石段があるのだが、ここもかなりのものであり傾斜もきつい。高所恐怖症がある私はのぞき込んだら軽く目眩を感じるレベル。

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目眩がする高さ


 建物内を見学できるようなので寺院を一周する。中には就業中の僧侶などもいるようであるが、その一方で妙に観光慣れを感じさせる。この聖俗入り交じった奇妙な感覚は以前に福井の永平寺で感じたものと同じである。良くも悪くもお寺も「今風」になってきているんだろう。

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五重塔

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本堂

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伽藍の数々

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これは一体何なんだろう?

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キティも修行中の模様

 

 

 久遠寺を一回りするとロープウェイで身延山に登ることにする。ロープウェイはそう大きなゴンドラではないが、山上まで上る人間があまりいないのか大して混雑していない。標高が上がるにつれて背後に富士山が見えてくる。

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身延山ロープウェイ

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急角度で上昇する

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この絶景

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山上からは富士山も見える

 山上は展望台に売店などもある観光地。ここでよもぎ団子を頂くが、これがあえて串を切って渡すのがポイント。苦(く)死(し)を切り捨てる縁起物らしい。これで私も俗世の苦しみから解放されるか・・・ってこう書いてしまったら、成仏する意味になってしまうな。それはまだ少々早い。なお団子は香ばしくてなかなか美味かった。

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よもぎ団子

 

 

 ここの奥に久遠寺の奥の院があるのでついでにそれも参拝しておく。なおここの奥には日本アルプスを一望できる絶景の展望台もある。

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奥の院へ

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山門

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社殿

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南アルプスを望む絶景

 山上を一回りしたところで山を下りようと考えるが、売店内にロープウェイを待つ大行列が出来ていた。どうも山上に来ていた観光客がそろそろ帰り始めるピーク時間に当たってしまったらしい。何か今日はロープウェイで並ばされてばかりいる1日である。結局は20分程度ここで待たされて身延山から下りてくる。

 

 

 身延山を後にすると今日の宿泊地である石和温泉を目指すことにする。ただ私のカーナビの地図が古いせいで中部横断自動車道が全く存在しないので、Googleマップで場所を確認してから手入力で下部温泉早川ICを指定する。事前にマップをよく確認しておいたので幸いにして道に迷うことはなかったが、高速に乗った後は私のカーナビはしばし道なき道を走ることになっていた。

 途中で低速車につかえるなんてこともあったが、無事に甲府まで到着、ここからは渋滞気味の一般道を通って石和温泉を目指す。今日の宿泊ホテルは大江戸温泉グループのホテル新光。長期遠征ということで宿泊費に予算のしわ寄せが来ているので、本遠征ではここが一番の高級ホテルになる。現地に到着すると大きな建物が見える。この地域を代表する大型ホテルのようである。現地に到着すると駐車場が満杯で車を止める場所に困るぐらい。

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ホテル新光

 私のシングルルームは所謂旅館ぽくはない部屋だが、まずまず良い部屋。イメージとしては独身者の寮といったところ。もしかして元は従業員寮? 温泉旅館でシングル泊だと、もろに添乗員部屋で煙草の臭いが染みついているなんとこともよくあるので、これなら上々である。

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旅館っぽくはない部屋

 部屋で着替えるとまずは大浴場へ。石和温泉はアルカリ単純泉とのこと。ヌルヌル感はそう強くはないが肌当たりは柔らかい優しい湯。今日もなかなかに疲れたのでこれでたっぷりと疲れを抜く。

 

 

 入浴を終えて部屋でしばしくつろぐと、すぐに夕食の時間となるのでレストランへ。相変わらず大江戸温泉のバイキングは質量共に満足のいくもの。品数も多いし味もまずまず。今時の学校給食以下という伊東園などとは比べるべくもない。「圧倒的じゃないか我が夕食は」とギレン総帥もご満悦だし、「バイキングは品数だよ!」のドズル閣下も満足されている。

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圧倒的じゃないか我が夕食は

 一渡りを頂いてから、やはり山梨といえばほうとう、それにクラムチャウダーを頂いてからデザートで締め。久しぶりに死ぬほど食ったと言えよう。

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山梨と言えばやっぱりほうとう

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パイ入りクラムチャウダー

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デザートの数々

 部屋に戻ってしばしこの原稿の入力を行ってから再び入浴。体がとろけそうという感触。体の表面に疎水性皮膜が出来た感触で、一回目の入浴よりも明らかに体が濡れない。湯が体に絡みつかずにそのまま流れ落ちる感覚。

 かなり体に疲労が出てきたので夜の10時過ぎには就寝する。

 

 

遠江地区山城巡り&「屏風爛漫」at 静岡県立美術館

 起床は7時。今日から令和元年とのことで、テレビは相変わらずどうでも良いよう内容ばかり。とりあえずドタバタと身支度をすると朝食へ。朝食はオーソドックスな和食だが、食欲がイマイチの割には結構しっかりと食える。

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シンプルな和食

 部屋に戻るとシャワーを浴びてからチェックアウト。天気予報によると今日は午前中はどうにか天候が保つが、午後からは雨との予報。これは早い内に行動をしないといけない。

 今回の予定は遠江地域の山城攻略。以前にこの地域を回った時に未訪問になっている宿題の解決である。

 

 

横地城 国指定史跡の断崖上の城郭

 最初に向かったのは横地城。鎌倉時代からこの地を拠点にしていた横地氏が築いた城郭で、国の史跡に指定されているという。以前にこの地域をウロウロした時には、私の事前の調査不足でこの城郭の存在を知らなかった次第。

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横地城案内図

 現地に近づくと大きな看板が出ており、それに従って走ると絶壁の下の駐車場に案内される。横地城はこの絶壁の上とのこと。すぐ近くに登山道があり、そこを登ると10分とかからずに千畳敷の広場に出る。城の中心となる広いスペースである。なおここまで車道が通っており、確かにそう広い道ではないが、私のノートなら問題なく走れそうだ。体力に自信のない者なら車でここまで来たほうが良いだろう。ただヘロヘロの私でさえここまで登れたのだから、特に体に問題のない者ならこの城の堅固さを体感するという意味でも下の駐車場から歩くことを勧める。

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横地城は背後の断崖の上

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千畳敷

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その奥の横地神社

 このすぐ北に横地神社と西の城があるが、これは後回しにしてこの城の本郭である東の城を目指す。途中で中の城の脇を通るが、ここは東の城に向かう敵を食い止めるための関所のような位置づけ。通路が一列縦隊にならざるを得ない幅なので、完全に中の城から狙い撃ちされることになる。

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中の城では上から狙い撃ちされることに

 

 

 中の城の脇を抜けて細い通路を進むと目の前に東の城がそびえ立つ。中の城を何とか突破しても今度は東の城から狙い撃ちされることになっており、とにかく堅固である。東の城に登る通路は回り込んだ上に折れ曲がっており、横っ腹を何度も狙い撃ちされる構造になっている。

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正面の丘の上が本郭

 東の城は本郭とのことだが、見晴らしは良いもののそう大きなスペースではない。この東に牧ノ原台地にまでつながる一騎駆というまさに一騎しか通れない道が続くが、これも東の城から狙い撃ち。構造的には本郭と言うよりは東側の防御の拠点という気がする。

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本郭の面積は決して広くはない

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しかし見晴らしは良い

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狭い一騎駆けは本郭から狙い撃ちされる

 なおこの東の城の奥には井戸のある曲輪もあり、搦め手口のような構造も見える。もしかしていざという時の避難路?

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本郭下の井戸のある曲輪

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その脇には門らしき構造が

 

 

 再び千畳敷のところまで戻ってくると、今度は西の城に登る。ここは複数段の曲輪になっており、最上段の神社が建っているところが西の城。城全体を見渡せる位置にあり、下には大兵力を展開できる千畳敷。どちらかと言えばこちらが本来の戦闘指揮所ではという気がする。

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横地神社を登る

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数段の腰曲輪になっている

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祠のある最高所はそこそこの広さがある

 千畳敷からさらに西に進むと非常に深い谷を回り込むことになる。この谷には金玉落しとの名称があるが、ビビって男の玉を落とすという意味かと思っていたらさにあらず。昔、この城の兵隊に対する訓練として、ここに金の玉を落として直ちにそれを拾ってくるというものがあったそうな。断崖を駆け下りて足腰と度胸を鍛えるという訓練だろう。しかしこれは命がけだ。

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金玉落とし

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ここを駆け下りる気にはなれん・・・

 私はここから丑池の横に出るルートで降りてきた。このルートも見上げるような絶壁ばかりで圧巻である。総じて言えるのは、この城の周囲はとにかく断崖であるし、各曲輪を結ぶルートは細くて曲輪から狙い撃ちされるようになっており、標高の割にはとにかく堅固な構えの城であるということ。

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この手の絶壁が各所に

 とにかく見応えのある城郭であった。私の私撰100名城Aクラスと言ったところだろう。これは令和初っ端からついている。令和は私にとって実り多い時代となりそうである。

 

 

八幡平城 武田式の堀切などが見られる山城

 横地城の見学を終えると次は八幡平城を目指す。こちらは先の遠征の際に登城路を登り始めたものの、道の悪さと険しさと時間と体力に余裕がなかったことから撤退した城郭である。

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八幡平城縄張図

 八幡平城はこの地の領主の新野氏の詰城だったものを、1578年頃に武田軍が高天神城の軍道の押さえとして改修したものだという。想慈院の手前に看板と駐車場があり、そのすぐ近くに大手口の登城路がある。茶畑横のかなり急な道を歩くが、舗装してあるところを見るとここを軽トラが登るのだろう。さすがに軽トラ最強伝説。

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大手側登り口

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警告看板付き

 登城口から5分もかからずに分岐点に到着。ここから西に進むと馬場を過ぎて堀切にまで到達する。こんな高台に馬場?と思うが、当時の日本馬は背丈が低くて斜面に強い馬なので、このぐらいのところは上り下りしたかもしれない。現在のサラブレッドがスピードに特化したフェラーリだとしたら、当時の日本馬は最強の実用車・軽トラのようなものだから。

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この手の山道を登ることに

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馬場

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その奥の二重堀切

 

 

 分岐点に戻ってさらに進むと、横堀に沿って進む形になる。この上が本丸。本丸はかなり広いスペースであり、多くの兵力を置けそうである。直虎記念の植樹の跡などもあり、あの番組がきっかけで整備されたことがよく分かる。

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横堀に沿って進む

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本丸に到達、ここは広い

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大河ドラマ記念植樹

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奥は断崖の上に堀切もあり

 

 

 ここから奥の曲輪を経由して想慈院の墓地に降りてくるルートが帰りルートになるが、こちらは比較的気軽に登れたここまでのルートと違い、深い堀切を降りたり上がったりする登山ルート。本郭の奥からいきなりかなり深い堀切で尾根筋を断ち切ってある。こちらは一応ハイキング装備ぐらいはしていないといけないルート。見応えはあるがなかなか大変である。

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本郭から隣の曲輪に向けて降りる

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その先には二重堀切が

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隣の曲輪は広いが起伏がかなりある

 何度も堀切を降りたり登ったりしてヘトヘトになって何とか無事に想慈院の墓地までたどり着いた。思うに先の訪問の際、大手口ルートから進んでいたら多分途中で断念することはなかったろう。ただ問題は帰路。あの時の大分体にガタが来ている状態であの堀切の上り下りは、どこかで思わぬ不覚を取る可能性がかなり高い。やはりあの時の撤退の判断事態は正しかったか。

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その先もこの手の堀切が連続

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ヘトヘトになって想慈院口に降りてきた

 

 

相良城 田沼意次が築いた広大な城郭

 大きな宿題はこれで解決したので後は掃討戦である。次に立ち寄ったのは相良城。老中まで出世した田沼意次が居城にしていた城郭である。

 ところで私は歴史上でもっと正当な評価をされるべきと以前より唱えている人物が三人いる。一人は石田三成、二人目は明智光秀、そして三人目が田沼意次である。この内、石田三成はここ最近に急激に再評価が進んできたようだし、明智光秀についてもとうとう大河ドラマの主人公に決まったようである。となると後は田沼意次。賄賂政治家の代表のように言われるが、あれほどの濡れ衣はないと考えている。田沼が目指したのは重商主義であり、初期資本主義そのものであった。しかしそれは重農主義にガチガチに染まった保守派には理解できるものでなく、結局は田沼を汚名を着せられた挙げ句に失脚に追い込まれている。私は幕府を立て直せる可能性があるとしたら田沼の路線しかなく、あのまま田沼路線を突き詰めていれば、日本は広く海外に進出して、明治維新を向かえずに近代国家へ歩み出すことになってまた違った歴史が展開していただろうと考えている(海外での覇権を競ってイギリスと争うなんてこともあったかも)。実際に田沼に変わって権力を掌握した松平定信による寛政の改革は、時代とズレがありすぎて完全に失敗している。

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田沼意次

 相良城は老中に出世した田沼意次が築いた城郭で、大規模で天守閣まである立派な城郭だったらしいが、田沼意次の失脚後に徹底して破壊されている(この辺りに田沼に代わって権力を握った松平定信の陰湿さが現れているのだが)。その結果として現在は城の遺構は全く残っておらず、本丸跡に史料館があるのみである。ここの史料館では相良地域の歴史や文化を紹介する資料が多数展示されている。

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史料館

 現在小学校があるのが二の丸跡で、高校があるのが三の丸跡とのこと。辛うじて城の遺構と言えそうなものは、小学校の松林が生えているところが二の丸土塁跡と言われていることと、仙台河岸と言われる船着き場の跡ぐらいである。

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二の丸土塁跡の松

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仙台河岸

 

 

 相良城を後にすると次の目的地へと向かうが、その途中で昼食を摂る店を探す。「そばの岩久」という店を見つけたので入店。「カツ丼」を頼む。

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そばの岩久

 添えられているそばが非常に美味い。これはそばをメインのメニューにするべきだったと後悔。カツ丼については味付けが私の好みからはやや甘すぎるのが残念。結局は食欲が今ひとつなこともあって、丼は全部は食べられず。

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カツ丼はやや甘口、そばは美味い

 

 

田中城 今は完全に市街に埋もれた同心円状の平城

 昼食を終えると近くの田中城を目指す。田中城は今川氏が徳川に対抗するために築いた城郭であるが、徳川の世となってからは代々譜代大名が支配している。なお徳川家康が鯛の天ぷらを食べて体調不調になったというのはこの城郭においてだという。

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田中城縄張復元図

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田中城復元模型

 本丸を中心とした同心円状の構造を持つ珍しい城郭であるが、廃城後に城域は完全に市街に埋もれてしまった。ただ今でも住宅の並びなどにかつての縄張の痕跡はある。なお本丸に建てられていた物見櫓が、公園として整備された下屋敷の中に移築されている。

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田中城下屋敷

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物見櫓

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三の丸の土塁の一部

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馬出曲輪の跡

 

 

持船城(用宗城) 駿府の西を守る拠点の山城

 田中城の次は持船城(用宗城)に立ち寄る。持船城は築城年代は不明だが、戦国の今川時代には既に築城されていたという。今は内陸化しているが当時は海に面した城であり、山上にある水軍城だったらしい。要地であるため、今川・武田・徳川の三者で三度の攻防戦がなされたという。

 山に登る険しくて狭い車道があり、途中の駐車場に車を置いてから歩くことになる。ただ計算違いは思っていたよりもその山道が険しかったこと。またこの頃になるとギリギリ保っていた天候も完全に崩れて雨の中で足下がやや不安。これが完全に私の足腰にとどめになってしまった。

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持船城登り口

 山上は開けた曲輪になっており、静岡方面をはるかに見渡すことが出来る。ここは静岡の西の入口に当たる場所で、ここが落ちれば駿府まで障害物は最早安倍川ぐらいしかない。今川氏としては死守する必要のある城郭だったろうと思われる。

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山上の曲輪

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静岡方面を一望

 堀切を隔てて南側に曲輪らしきものが見えるが、雨がまた強まってきたこの天候の中で安全に登るルートが見つからなかったので、そちらの視察はやめておく。

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奥の堀切に降りてみる

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ここからは海の方向が見える

 静岡市に到着したが、まだ少々時間がある。そこでホテルを通り越してもう一カ所だけ立ち寄ることとする。しかし市内に到着した途端に一般道が大渋滞で、現地に到着した時には閉館時刻まで余裕がない状態。

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静岡県立美術館

 

 

「屏風爛漫」静岡県立美術館で5/6まで

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 屏風は日本独自の建具であり芸術品である。その屏風の立体的大画面を利用した作品を展示。

 展示品としては当館の目玉の一つである伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」。なぜか方眼を用いた独特の作品であり、若冲の奇想の一つの極致でもある。またその煌びやかで目を剥くような色彩も非常にインパクトの強さを持っている。まさに屏風という大画面で映える作品。

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樹花鳥獣図屏風右隻(複製品)

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樹花鳥獣図屏風左隻(複製品)

 またひたすら鶴の群れを描いている石田幽汀の「群鶴図屏風」なども以前に目にした若冲の群鶏図屏風などと比較すれば面白い。また会場内には「武蔵野図屏風」を畳に座って低い視点から眺めることが出来るコーナーなどがあり、これが面白い。この視点から見ると絵がこちらに迫ってくるような迫力がある。

 屏風の特徴としては単に大画面と言うだけでなく、その折れ曲がりを利用して絵に奥行きをつけるという効果もある。巧みに設計された風景画などの中には非常にそれを上手く利用した作品もあり、その辺りも注目に値する。

 

 

 これで今日の予定は終了したのでホテルに向かうことにする。今回宿泊するホテルは静岡ホテル時之栖。静岡の市街のやや東にあるホテルで系列に日帰り入浴施設もあるらしい。ホテル自体はフロント業務をかなり簡略化したビジネスホテルという印象。系列の日帰り入浴施設「天神の湯」で安く入浴できるのが売り。

 例によって全身汗だくのドロドロなのでまずは風呂に行くことにする。天神の湯は徒歩3分ほどのところにある。地元で人気があるのか大勢の客で賑わっている。なおこちらにも宿泊設備があるようなので、最初からこちらに宿を取るという方法もあるようである。浴場は一応温泉とのことだが、ナトリウム-カルシウム-塩化物泉とのことなので湯自体は大した特徴はない。しかし風呂が広くて設備も良いのでなかなかにくつろげる。

 風呂でサッパリした後は、この施設の二階のレストランで夕食を摂ることにする。頼んだのはざるそばとマグロ丼のセット。まあ可もなく不可もなくというところで、この手のスーパー銭湯の施設にしては良いほうでは。ついでに飲み物として日本平ソーダなるものを追加注文。どうやらソーダにミカンが入っているようで、やたらに酸っぱい飲み物である。

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夕食のざるそばとマグロ丼のセット

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日本平ソーダは酸っぱい

 さて他に何かないかとメニューをひっくり返していたら「薬膳餃子」なるものが目に飛び込んでくる。これを見ていると「人参餃子」消化促進、目のかすみ、視力低下、胃がん予防、美肌維持に効果的とのこと。この症状は正に私そのもの。これは注文しない手はなかろう(笑)ということで注文。出てきた餃子は結構オーソドックスで、特に変な味がするというわけではなくにんにくが入っていない分、むしろ私には食べやすいぐらい。さてこれで私も10年ぐらいは長生きできるようになったか(笑)。

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ん? これは

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人参餃子は意外にクセがない

 食事を終えるとマッサージチェアで思い切り体をほぐしてからホテルに戻る。こうなるとここ2日ほど体を酷使したツケで強烈な眠気がこみ上げてくる。この日も部屋に戻るとかなり早めに就寝することとなった。

 

 

浜名湖周辺山城巡り&「チェコデザイン」at 岡崎市美術博物館

 翌朝は7時まで爆睡していた。数日前から風邪をひいたようなのだが、やはり体調の悪さが尾を引いていて体がまだダルい。目を覚まそうとテレビをつけると、今日が平成最後の日とのことでそれ関係の番組ばかり。しかし私は平成だろうが令和だろうが関係ない。予定通りに日々を粛々と送るのみである。

 とりあえずシャワーで体に気合いを入れると、朝食を摂りにレストランへ。オーソドックスな和定食だが、こういう時にはこういうものが実は一番美味い。総合評価で行くとCP的に悪くないホテルだった。なお宿泊客に現場関係者が多いのか、朝の行動開始が早くて私が目覚めて朝食に行った頃にはほとんどの客が出払っていた模様。

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オーソドックスな和定食

 さて今年のGWの予定だが、東海地域を中心に山城ツアーのつもり。久しぶりに本格的な山城遠征である。ところで今日の予定だが、浜松地区の井伊家関連の山城を回るつもり。実はこの計画自体は昨年の7月に静響のコンサートを聴きに来たついでに実行したものだが、この時には7月の予想を超える灼熱地獄のために熱中症で死にかけた上、ミカン畑に迷い込んでレンタカーを傷だらけにしてしまって完全に戦意喪失、予定の半分も消化できずにスゴスゴと撤退という体たらくになってしまっており、今回はリターンマッチ。

 ただ気になるのは天候。関西では昨晩から雨だが、この雨は東海地域にも及んでいる模様。もしかなりの雨が降るようなら足下の怪しい中での単独登山は危険。場合によっては撤退も考慮しないといけない。もうここは出たとこ勝負で運を天に任せるしかない。

 ホテルをチェックアウトするとまずは岡崎を目指して走る。浜松に行く前に行きがけの駄賃で岡崎市美術博物館に立ち寄ろうと考えている。この美術館、岡崎ICの近くだが、市街からは外れた山の中という便利なのか不便なのか分からないところに立地している。途中はGWの渋滞が心配だったが、一宮辺りで若干の混雑に出くわしたが、特に大きな問題もなく予定通りに岡崎に到着する。

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湖岸の斜面に建つ岡崎市美術博物館

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展示室はエスカレーターで降りた下

 

 

「チェコ・デザイン100年の旅」岡崎市美術博物館で5/19まで

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 チェコは元々手工芸の発達していた地域であるが、本格的に芸術運動が花開いたのがアール・ヌーヴォーの頃。言わずと知れたアルフォンス・ミュシャ(チェコではムハ)の影響による。

 しかしその後の変遷が目まぐるしい。ヨーロッパがアール・ヌーヴォーからアール・デコに時代変化するのに呼応するように、チェコではチェコ・キュビズムと呼ばれる幾何学的なモチーフが全盛となり、これが工芸を中心にあらゆる分野に広がっていく。

 その後も結構目まぐるしくデザインの流行が変わるのだが、この時のチェコ・キュビズムの影響はかなり長い間底流として流れ続けているのが感じられる。チェコデザインの特徴としては、デザインのみに走るのではなく実用性を忘れないというところにもあるように思われる。洒落た手工芸品という位置づけを常に感じるのである。

 それが戦争を経て社会主義時代に突入すると急に暗黒時代となる。この頃に優秀なデザイナーの亡命なども相次いだようで、デザインの世界もかなり低迷するのであるが、その社会主義政権が倒れるとまさにビッグバンのように世界が変化し、西側の流行も取り入れつつ一気に前衛的なデザインが溢れるようになってくる。

 それにしても変化が目まぐるしいという印象であった。生物的曲線のアール・ヌーヴォーから直線の多い結晶的なキュビズムに大体10年でドラマチックに流行が変化するのだから驚きである。ミュシャが晩年にスラブ叙事詩を手がけていた頃には、既に彼自身が過去の人と見なされていて世間的にあまり注目されなかったということを聞いていたが、これだけ怒濤のように流行が変化していたらそれもさりなんと思われた。

 

 

 展覧会の見学を終えると浜松に移動することにする。まず最初に立ち寄るのは宇津山城だが、その前に昼食を摂ることにする。宇津山城に向かう途中で見かけた「めん処三河屋」に入店する。

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めん処三河屋

 注文したのは「うな重とざるそばのセット」。めん処を名乗っている店がウナギを出すのもおかしな話だが、まあ場所柄なんだろう。ウナギ自体は江戸前のかなり柔らかいウナギ。正直全く期待していなかったのであるが、存外まともではあった。なお本領であるはずのそばの方だが、これがあまり特徴なし。まあそんなに高い店でもないのでそれで良しなんだろう。

 

 

宇津山城 今川氏による対徳川の要塞

 昼食を終えると宇津山城を目指す。ここは前回の遠征では山の下まで行ったものの時間不足で断念した城郭。浜名湖にせり出した山上にある城郭で、最初は今川氏が三河への侵攻を図るための拠点として築城し、桶狭間の合戦以降は独立を図る徳川氏の侵攻を食い止めるための拠点として整備されたという。徳川氏の手に落ちた後はしばしは戦略的に重視されなかったが、そのうちに武田氏の侵攻に対しての防御線としての価値から再整備され、その際に西部の城郭が整備されたという。

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宇津山城縄張図

 私は途中の駐車場に車を置いて歩いたが、山上の墓地まで車で登ることは可能で駐車場もある。そういう意味では訪問しやすい城郭。ただ問題は見学ルートに入ってから。一応見学路はあるのだが、整備がイマイチで足下が藪っている上にところどころ深い水たまりで寸断されている状態。しかも郭内は草ボウボウで全体の状況が把握しにくいということで、一回りはしたものの城の構造はよく分からなかった。

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この奥が宇津山城になるのだが・・・

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藪が深すぎて何のことやら

 

 

千頭峯城 南北朝騒乱の中での南朝方拠点

 宇津山城の次はここから北上した先にある千頭峯城。南北朝時代に南朝方についた井伊家が後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して北朝方と戦った際、遠江の西を守る拠点として築いた城である。しかし北朝方の高師兼が率いる大軍の前で三ヶ月の激戦の末に落城、さらに本拠の三岳城、最後の拠点の大平城も相次いで落城して、南朝方の遠江での抵抗は終了となったとのこと。

 ただ正直なところ、現地の確認までは行くが登城は見送りかなという気もしていた。と言うのはやはり体調が悪い(少し歩いただけで吐き気はするし、正直心臓が止まるのではと思ったこともある始末)し、天候が悪い(先程からまた雨が強くなりだした)しとコンディションが悪いから。

 トンネルを抜けたすぐのところに千頭峯城の登山口の駐車場がある。向こうに見えている山頂が目的とする千頭峯城の模様。いざ現地に着いたところで進むべきか退くべきか悩む。距離、そんなに遠くない。高さ、まあ登ることは可能な高さ。天候・・・先程までの雨がやんで空が明るくなってきた。それを見た時に「えいっ、これも天啓!」と進むことを決意する。私のように日頃の行いの良い者は、こういう時に天が味方するのだろう(笑)。

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駐車場から望む千頭峯城

 いざ登り始めると足下はかなり整備されていて全く不安はない。これは進んで正解だったなと感じる。ヘロヘロの私でも10分程度で東曲輪に到着。それなりの広さのある曲輪群であり、これだけでこの城郭の規模の大きさを感じさせる。

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東曲輪

 ここから本曲輪へ登るのがなかなかに大変。とは言うものの、私も体調が万全ならそんなに難儀を感じないかもしれない。息を切らせつつ急斜面を登ると二曲輪、そこからさらに登った先がようやく本郭である。最高所の本郭はそれなりの面積もあり、この城の拠点らしき構えとなっている。

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二曲輪を経て

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本丸に到達

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本丸主要部

 この後は西曲輪を見に行ったが、二の曲輪は西曲輪の間の堀切は分かったものの、西曲輪自体は鬱蒼としていてイマイチ構造が不明だった。

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西曲輪の深い堀切

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しかし曲輪内部は何のこっちゃら

 これで前回からの宿題をもう一つ解決。もう時間も限られてきたし、何よりも体力の限界が見えてきた。今日の山城巡りはもう一カ所で終了とすることにする。となるとやはり重要宿題の一つ、三岳城を訪問することにする。

 

 

三岳城 井伊氏最後の籠城専用の堅城

 三岳城は井伊氏のいざという時の戦闘用城郭で、南北朝の争乱の際には本拠として用いた城郭である。その後の時代でも、井伊谷城では堅固さに不安のある際にはこの城郭に籠もっていたようである。

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三岳城縄張図

 千頭峯城から三岳城は車で30分以上の距離がある。三岳城は麓の三岳神社まで車で登ることが出来、そこから少し歩くだけ・・・と聞いていたのだが、これがいざ現地に到着すると本格的なハイキング路だった。これは想定外。もうヘロヘロになっている体にむち打ちながら山道を登るが、途中で右足が攣りそうになったりなどと惨憺たる有様。

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道はなかなかな険しい

 それでも10分以上をかけてようやく東曲輪との分岐点まで登ってくる。ここまで来ると本丸まではもう一登りである。とは言うものの、実はここがかなりの急斜面。気を抜いたらけがをしかねない。足がかなりがたついているだけに濡れ落ち葉で滑った時にふんばりが効かない。

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本丸と東曲輪との分岐点

 ようやく視界が開けるとそこが本丸。山上からは浜名湖まで一望である。かなりの高度があるので、最後のお籠もりに使ったのはよく分かる。

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本丸へ到着

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浜名湖まで見渡せる

 帰りに東曲輪の方にも立ち寄るが、こちらの内部は鬱蒼としていて構造がよく分からない。かなり奥に深そうだったが疲れていることもあって途中で引き返してくる。

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東曲輪の方は鬱蒼としすぎていて

 

 

 これで今日の山城予定は終了。正直なところ思っていた以上に自分の体がガタガタなのに呆れたが、それでも最低限の予定は達成できたということで良しとしよう。後は今日宿泊する予定のホテル玄まで車を走らせる。

 ホテル玄は浜松の市街から離れ、浜松ICの近くにある。二食付きの安価なプランがあったのと、今回は車なので浜松市街地に宿泊する必要はないと判断したことから選んだホテル。いざ現地に到着すると、部屋は広いし、大浴場もあり、ランドリーが無料で使用できるというかなりありがたいホテルである。とりあえずチェックインを済ませるとまずは今日の山城巡りでドロドロになった服をまとめて洗濯することにする。

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一般的なビジネスホテルスタイルの部屋

 洗濯をしている間に風呂。生憎とここは温泉ではないが(金でもあれば舘山寺温泉辺りで豪遊するところだが)、それでも手足を伸ばせる浴場は最高である。天竜川水系掛け流しと名乗っているが、要は井戸水を沸かしたのだということでは・・・。三岳城登城中に攣りかけた右足が、風呂に入った途端にこむら返りを起こしたのでよくほぐしておく。

 入浴してサッパリしたところでレストランへ夕食へ。夕食のメニューは天丼と刺身とのことだが、実際には小鉢も多数付いておりこれがなかなか美味い。また刺身に私の好きなホッキ貝が入っているのが泣ける。

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夕食は結構豪華

 宿泊料金のことを考えるとなかなか良い夕食だった。ホテル玄は東海地域のホテルチェーンらしいが、この地域にはくれたけインのチェーンもあるし、なかなかにホテル激戦地区のようだ。

 後はテレビをつけても平成云々ばかりなのでBDプレイヤーをつないで世界遺産でも見つつ時間をつぶす。そのうちに眠気が押し寄せるので、今日もかなり早めに就寝

 

 

尼崎城&スイス・ロマンド管弦楽団

 翌朝の朝食は「千成屋珈琲」に出向く。9時の開店の5分前に到着するが、既に親子連れが開店待ち。開店と同時に他の客もなだれ込んできてすぐに満席となる。

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ミックスジュース発祥の地

 私が注文したのはミックスジュースとナポリタン。懐かしい関西喫茶店朝食の定番である。このメニューを見ただけで昭和にタイムスリップしてしまう。昔は喫茶店のハイカラメニューと言えば、なぜかナポリタンスパだった。その伝統を受け継ぐ正しいナポリタンである。薄焼き玉子を下に敷いて、フライパンにパスタが焦げ付かないようにしてるのもうれしい。

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定番のミックスジュース

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昭和の喫茶店の定番ナポリタンスパ

 この喫茶店の欠点は禁煙でない(この辺りも昭和である)ということなのだが、今回は客に誰もニコチン中毒患者がいなかったようで快適に過ごせた。

 

 朝食を摂るとホテルに戻ってくる。出かける前にシャワーを浴びておきたい。ここのホテルの難点は男性用シャワー室が1つしかないことで、夜や朝は混雑して使えないことが多い。昨晩入浴を諦めたのもそれが原因。そこで1泊客はチェックアウトするこの時間帯を狙った次第。ただチェックアウト時だけにエレベータが大混雑して乗れず、5階から1階まで階段で降りる羽目に。

 シャワーで汗を流してサッパリすると出かけることにする。今日の予定は14時からザ・シンフォニーホールで開催されるスイス・ロマンド管弦楽団のコンサートだが、その前に寄り道をするつもり。新今宮から西九条まで移動すると、そこから阪神なんば線に乗り換える。目指すは尼崎。この度オープンしたという尼崎城を見学しようという考え。

 

尼崎城

 海と街道に面し、瀬戸内水運と街道輸送の拠点として幕府に重要視されていた尼崎城は、かつては広大な敷地と壮麗な四層天守を誇っていた。しかし明治になると建物は払い下げられて取り壊され、堀は埋め立てられてその遺構は完全に市街地に埋もれてしまい、今では近くの小学校に天守の模型が置かれているだけという情けない状態になっていた。しかしミドリ電化創業者の安保詮氏が「創業の地に恩返ししたい」と私財10億円を投じて天守を再建(残念ながら場所は元の位置と違う)、市に寄贈したらしい。それが完成して、内部を整備した上でつい先週から公開になったとのこと。

 鉄筋コンクリートにアルミサッシのなんちゃって天守ではあるのだが、それでも見た目はなかなか堂々としたもの。遺構が全く何もない状態よりは明らかに見栄えが良いし、市のシンボルとしても格好良いだろう。内部には尼崎城に関する展示がされており、入場料は500円。

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なんちゃって天守だが、なかなか見栄えは良い

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入口は南の方から

 最上階の5階は展望台だが、残念なことに見事に市街しか見えない。そこでバーチャルリアリティで往事の風景を再現して展示してある。

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最上階は展望台

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南側の風景

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CGで再現した往時の風景

 これ以外にも天守を描いた手ぬぐいの展示とか、火縄銃とかを使ったゲーム、侍になれるコスプレコーナーなんて行った定番どころに映像展示なんかもあって、尼崎市もまずまず力を入れている様子。リピーターが着くかは怪しいが、観光客なら一度は入っても損はしないだろうと思われる。

 

 尼崎城の見学を終えると小雨がぱらつく中を隣の大物駅までプラプラと散策する。この大物駅の近くには大物崩れの石碑が建っている。京都での戦いで敗北した管領の細川高国が巻き返しのために、先日訪問した三石城の浦上村宗を味方に付けて三好元長の軍勢とこの地で争う。しかし援軍のはずの赤松政祐が敵に通じたために細川・浦上軍は背後から急襲される形になって総崩れ、浦上村宗はこの戦いで命を落とし、逃亡した高国も捕まって自害させられる。これが大物崩れと呼ばれる戦いの全貌。なおこの戦いの後に播磨の覇者だった浦上氏は内部分裂もあって衰退、その間に宇喜多氏が台頭してくることになるという遠い播磨に影響を与えた戦いの跡である。

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大物崩れの石碑

 大物崩れ石碑からさらに足を伸ばすと、残念さんの墓と呼ばれる墓がある。これは長州藩士・山本文之助の墓だが、彼は蛤御門の変の時に大物で捕らえられ、留置されていたところで自殺したのだとか。その際に「残念で悔しい、もし悔しいことがあれば、自分に参れば1つだけ願いを叶えてやろう」と書き置きを残したそうな。それから彼は残念さんと呼ばれ、その墓を参れば願いが1つ叶うとして有名になったそうな。

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残念さんの墓

 さて私にとって残念で悔しい思いと言えば、やはり大抵は金にまつわる話。由緒正しいプロレタリアート家庭で生まれた私は、子供時代から今日まで金に不足したエピソードが事欠かない状態。さてここに参拝したことで私もブルジョワジーになれるかどうか。もしこれが本当になったらさらに参拝者が殺到しそうだ(笑)。

 

 ここまで見学したところで雨がさらに強くなってきた。大物駅から移動することにする。目的地はザ・シンフォニーホールなので阪神福島駅へ。福島駅と言えば、最近Googleがゼンリンと契約解除したことでGoogleマップの精度が落ちたとして騒ぎになっているが、実は阪神福島駅もマップから突然に消えてしまっている。多分隣にあるJR福島駅と勝手に「統合」されてしまったのだと思われる。以前はキチンと表示されていたのだが・・・。

 ホールへの移動の途中で昼食を摂る店を探すがどこもピンとこない。と言うわけで久しぶりに「上等カレー」で「カツカレー(1000円)」を頂くことに。相変わらず玉子が良く合うカレーである。

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福島の上等カレー

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玉子が良く合うカツカレー

 昼食を終えるとホールへ。入りは8割と言うところか。東京交響楽団のロゴが入ったバッグを持った客がいたが、関東からの遠征だろうか? ノットのファンか?

 

スイス・ロマンド管弦楽団

[指揮]ジョナサン・ノット
[ヴァイオリン]辻 彩奈

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64
マーラー:交響曲 第6番 イ短調 「悲劇的」

 スイス・ロマンド管はかなり元気なオケのようであり、大音量でバリバリと鳴らすところがある。おかげで最初のコンチェルトはソロバイオリンが斉奏に埋もれる局面が何度かあった。辻のバイオリンはかなり技術が前面に出てくるタイプだが、技術だけで押し通すのではなく表現力も過不足がない流麗な演奏。

 メインのマーラーの6番は初っ端からスイス・ロマンドのパワーが炸裂した。冒頭からホールが鳴動するかのような重低音が響き渡る。猛烈なパワーでグイグイと押しまくる演奏で、それをノットも思い切り煽りまくる。大音量になるとホール全体が音で満たされる印象でパワー満々。ただしノットは単にパワーで押しまくるだけでなく、明確に表情を付けて明快な演奏を行う。だからただ単に大音量でがなっているだけの演奏ではなく、マーラーがこの曲に秘めた情感も伝わってくる。時折とてつもない切なさなどもこみ上げてくるシーンもある。そのおかげて実に魅力的なマーラーとなった。

 オケも指揮者もノリノリなのが伝わってきたが、客席の方もかなり盛り上がっていた。拍手が鳴り止まずブラボーも飛び交い、ノットが7,8回ほど出入りしたが収まらない状態。そこでオケが引き上げたがそれでも拍手は収まらずにとうとう一般参賀。このホールでの一般参賀はかなり珍しい。

 熱演と呼ぶのがふさわしい見事な演奏だった。満足してホールを後にする。たまにこういう凄い演奏に出くわすのがライブの醍醐味と言っても良い。こういう時は気分が高揚してスッキリする。


 コンサートを終わるまでに2時間半ぐらいかかっていたので、新今宮に戻った時には夕食時になっていた。夕食は「だるま」で串カツを頂くが、串カツばかりガツガツと食う気力もなかったので、おにぎり茶漬けを頂くことにする。これが意外にいける。

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いつものごとく串カツ「だるま」

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いつものごとく串カツ(最近は野菜系が多い)

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おにぎり茶漬け(おかか)

 夕食を終えるとホテルに戻るが、風呂には行ったらグッタリになってしまった。そこでかなり早いが明日の仕事に備えて就寝するのである。

備前三石城&岡山桃太郎温泉&江戸の奇跡 明治の輝き展(岡山県立美術館)

 今日は久しぶりの山城訪問に美術館を絡めようと計画した。目指す山城は三石城。JR三石駅そばに聳える山上にある山城である。私はここのところコンサート通いばかりが週末行動の中心となり、体が鈍りに鈍っていたのでリハビリ登山の意味もある。

 山陽自動車道をひた走り、備前ICで高速を下りて北上すると三石はすぐである。三石城の登城口周辺には駐車場はないので、少し離れたところにある運動公園の駐車場に車を置く。三石城には裏手から回り込む山道もあり、そちらの方が高低差が少ないので楽という情報もあったが、そちらは道のりが長いので片道1時間ほどかかると聞いているし、そもそも今回はリハビリ登山ということで麓から登ることにしている。

三石城

 三石城は1333年に地頭の伊東大和二郎が築城したことに始まる。その後赤松氏が備前守護となった際に浦上宗隆が守護代として城主となり、以降浦上氏の居城となる。後に浦上村宗の時に赤松氏との対立が決定的となり、三石城は赤松義村の軍勢に囲まれるがこれを退けている。しかし1531年、浦上村宗が天王寺の戦いで敗れて死亡(大物崩れ)したことにより廃城になったとのこと。まさに浦上氏と興亡を共にした城郭である。

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三石城登山口

 駅前の住宅街の中に三石城址登山口の案内看板まで立っており、登城口脇の民家の軒先に登城の栞まで用意されており、地元の方々のこの城址に対する思いが感じられる。登城路も険しい山道であるが概ね整備されていて、山城慣れしている者には全く何の不安もないがさすがにスリッパやハイヒールなどといったあまりに山を馬鹿にした格好だと命に関わりかねない箇所もいくつかある。また枯れ葉が降り積もっていて滑る場所もあるので、特に下山時には要注意である(実は私も下山時に一度滑って転倒している)。

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第二見張所

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まだ高度が不十分


 登り初めて5分も経たないうちに第二見張所と書かれた場所にたどり着くが、ここはまだ高度もそれほどないので単に見張所というよりは、兼登城口の番所といったところか。

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険しい山道をひたすら登る

 ここから本格的に山道を登ることになる。しかし険しい箇所にはロープやチェーンも張られているし不安はない。もっとも足下が崩れることが考えられるので、悪天候下での登山強行は避けるべきだろう。

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第一見張所

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ここは高度が十分

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目指す山頂はそこ

 20分ほどで第1見張所の看板にたどり着く。反対側が本丸への近道とのことだが、とりあえず第1見張所に立ち寄ることにする。少し下るがすぐに見晴らしの良い場所に出る。こちらは先ほどの第二見張所よりも高度があるのでかなり見晴らしは良い。また向こうに山頂も見える(後これだけのぼらないといけないのか・・・)。

 

 先ほどの分岐に戻ってくると、本丸への近道というルートを登りかけてふと考える。近道と言うことはもう一本の看板が出てないルートは遠回りということだが、確かこの城は一番の見所である大手門があるはず。多分そちらの方が大手門に立ち寄るルートだと判断して、そちらの看板のない方の道に進む。するとドンピシャ、数10メートル進んだところで「大手門→」の看板がある。しばしほぼ高低のない道を進むと大手門の立派な石垣が目に飛び込んでくる。

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大手門の立派な石垣

 大手門の裏手には枡形まであるようである。かなり本格的な曲輪。ここからさらに登っていくと、三の丸に出るのだが、三の丸の手前には馬場と表記された帯曲輪まである。とにかくこの三の丸は山頂にも関わらず結構広いので、ここに家臣の屋敷などを配置することは十分可能である。

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三の丸脇の馬場跡は奥に深い

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二の丸跡も結構広い


 ここから奥に進むと二の丸。三の丸よりは狭いがそこそこの面積がある。ここには倉庫などを配するところか。

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本丸は立派な屋敷を構えるに十分

 その奥の一番高いところが本丸であるが、これが想像以上に広い。さぞかし立派な屋敷を構えることが出来たであろう。この地に覇を唱えた浦上氏の本拠に相応しい城郭である。石垣なども使用しているし、往時にはかなりの威容を誇ったのは間違いない。また本丸周囲は結構切り立っており防御も鉄壁。井戸もあちこちにあるので水の確保も万全と言うことで、まさにこの地を治めるのには格好の城郭である。

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三の丸の石垣

 帰りは三の丸の先端まで行って三の丸の石垣を見学。こちらもかなり立派である。ここから下りてくると先ほどの「本丸への近道」の標識の所まで下りてくる。この道は登るのはともかく、下りる方はかなり注意しないと足下の危ない険しい道だったので、つまりは見学時にはこちらを登って、帰りに大手門から下りてくることを想定しているのか。確かにそちらの方が無難ではある。

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千貫井戸は今も水を湛える

 帰路では往路で無視した千貫井戸にも立ち寄ることにする。底無し井戸との表記があるが、本当に底無しなほどに深いのかは定かではないが、今でも水を湛えていた。

 下まで降りてきて車の所に戻った時には昼を過ぎていた。久しぶりの登山なのでかなり体に堪えたが、ゲーゲー言いつつ途中休み休みだが本丸まで40分程度で到着したのでまずまずだろう。それにしても立派な城郭だった。これは続100名城に準ずると言っても良いぐらいの城郭では。それに地元による整備が良好であることも無視できないところ。

 

岡山桃太郎温泉

 もう昼時だし、かなり汗をかいたしということで昼食と風呂にしたいところ。どこに立ち寄るかと考えた時に頭に浮かんだの岡山桃太郎温泉。そこで車をそちらに向けて走らせる。とりあえず昼食は桃太郎温泉館の隣にある「御食事処ひなせ」「みやび弁当」を頂くことに。いかにも仕出し屋弁当的であるが、オーソドックスに美味い。

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御食事処ひなせ

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オーソドックスな和食です

 昼食を終えると隣の桃太郎温泉館で入浴。ここは泉質はアルカリ性単純温泉ということでそう特別な泉質ではないが、湧出量が毎分320リットルもあるということで、その豊富な湯で全浴槽を源泉掛け流しにしているという贅沢さ。また驚きはカランまで温泉水だということ。最近は源泉掛け流し浴槽にする入浴施設は増えてきたが、カランまで温泉が出るという所はあまり聞いたことがない。こんなことが出来るのも十二分な湧出量があるから。また湧出温度が41度なので全く加温加水が不要というのも奇跡のような温泉である。

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桃太郎温泉館は大衆演劇鑑賞や宿泊も可

 掛け流しの露天風呂でゆったりと体をほぐす。まさに極楽気分である。もう既にかなり両足がダルくなってきているので、とりあえずそれをほぐしておく。

 

 汗を流してサッパリしたところで岡山まで走ることにする。そもそも今日の目的は山城だけでなく、美術館との二枚看板である。

 

「江戸の奇跡 明治の輝き-日本絵画の200年」岡山県立美術館で4/21まで

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 最近評判の江戸絵画から幕末の動乱を経ての明治の絵画まで日本の絵画を概観しようという企画。伊藤若冲、曽我蕭白辺りから始まって、竹内栖鳳、横山大観などに至る蒼々たる面々の作品を展示している。

 最初は江戸絵画から、ここでは伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、鈴木其一といった奇想系に加えて、円山応挙や酒井抱一などの王道の正統派も加えている。先の奇想系画家については現在東京で大規模展覧会開催中なので作品があるのだろうかと心配していたのだが、寺社所有や個人蔵の名品を集めており、伊藤若冲などなかなかの秀品多数。個人的には一番面白かったのは芦雪の「蹲る虎図」。虎というか猫が丸まっているような妙に愛嬌のある作品でまさに芦雪の面目躍如。また応挙の精密な孔雀、酒井抱一の鮮やかな屏風などは非常に目を惹く。

 さらには与謝蕪村、池大雅といった文人画に洋画の要素を大胆に取り入れた司馬江漢の作品、そして奇想の系譜展では無視されていた葛飾北斎の作品も展示されている。

 明治になると横山大観、菱田春草といった面々の朦朧体に、何やらいつも楽しげな富岡鉄斎、さらには京都画壇の竹内栖鳳、上村松園と行ったところの名品が多数。

 予想していた以上に作品のバリエーションがあり、さらにはそのレベルも高いものであった。地方美術館の企画といささかなめてかかっていたのを反省。

 実に見応えのある内容であった。これを東京で奇想の系譜展を開催中にぶつけてくるのがすごい。確かにあちらはインパクトのある作品が多かったが、網羅性ではこちらの方が勝っている。

 

 美術展を楽しんだ後はここの喫茶で展覧会と連携した特別セットを頂いてホッとする。ここの珈琲は本格的とはほど遠いものだが(インスタントではないかと思っている)、珈琲を飲み始めて日が浅い「違いの全く分からない男」の私には本格的な珈琲よりもむしろ口に合う。

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喫茶でマッタリ

 展覧会を楽しみ、お茶も楽しみ、久々に体を動かして清々しい気分で帰途についたのである。多分、私の足腰に地獄が訪れるのは明日の午後ぐらいだろう・・・。

茨城地域城跡巡り(小田城、関城、大宝寺城、多賀谷城、逆井城、畑田城、徳宿城)&小美玉温泉

 

 翌朝は7時頃に起床すると早めにホテルをチェックアウトする。最終日の今日はもう東京での予定はなく、茨城方面に移動して茨城地域の城郭巡りをする予定。

 つくばエキスプレスでつくばまで移動、ここでレンタカーを借りる。貸し出されたのはカローラアクシオ。私はヴィッツのつもりでいたのだが、車のサイズがやや大きくなったのが気がかりである。

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カローラアクシオ

 まず最初に立ち寄ったのは小田城。国の史跡に指定されており、最近になって発掘と復元がなされたという城郭である。

 カーナビの案内に従って小田城を目指すが、ここで早速懸念していたことに直面する。小田城近くになってからかなり狭い路地に誘導されてしまって進退に苦しむことに。カローラアクシオの小回りがヴィッツよりもやや劣ることが災いして、角を曲がる時に道幅ギリギリ。ボディをこすらないかといきなりヒヤヒヤする羽目に。こういう時はヴィッツの前モデルは良かった(新モデルは図体がでかくなった上にパワーが落ちていて好きでない)。

 どうにかこうにか路地を抜けると小田城の隣の案内所の駐車場に車を置く。案内所にはパンフレットなどがあると共に、小田城を紹介するビデオなども上映されており予習に最適。さすがによく整備されている。

 

小田城 鎌倉時代の小田氏の居館

 「小田城」は鎌倉時代からの小田氏の居城であり、小田氏の祖である八田知家が1185年に常陸守護としてこの地に居館を置いたことから始まるという。その後、南北朝の騒乱などもあるが、戦国時代になると北条氏や上杉氏の進出に翻弄されることになる。この地域の小領主の悲しさで、北条が進出するとその支配下に、上杉が進出してくると今度はそちらの支配下になどと変転することになるが、1569年の小田氏治の時にとうとう小田城は佐竹氏に奪われることになり、1583年には小田氏自身が完全に佐竹氏に臣従することになってしまった。結局小田氏はそのまま小田城を奪還することは叶わず、小田城自体も佐竹氏の秋田移封に伴って廃城となったとのこと。何やら北関東地域の小領主の悲哀を感じずにはいられない話である。

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小田城復元模型

 このような経緯から、小田城は何回かに渡って整備されており、発掘調査の結果では初期の居館時代から戦国期に渡って徐々に城域が拡張されたことが確認されており、この時代の城郭建築を知る格好の遺跡だとか。

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現地配付資料より

 湿地の多かったこの地域の城らしく、小田城は広い外堀と土塁でしっかりと守られている。基本的には単郭構造だが、馬出などもあるようである。また土塁の数カ所は広く高くなっており、櫓でも構えていたのではないかと思われる。

 

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幅広い堀と北口側の土橋
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正面の曳き橋と東曲輪

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北東の土塁上からの風景

 土塁の中には屋敷などの建物跡も残っている。また庭園などもあり、2カ所の池が発掘されている。小領主の館といっても、内部は結構広いのが感じられる。小領主の城としてはかなり本格的に防御を固めた堅い城であるが、それ故に逆にこの地域の争奪戦の要として巻き込まれることになったのだろう。この地域を睨む一軍を配置するには十分だが、北条や上杉の数千の軍勢に囲まれるとひとたまりもないという規模の城郭である。この地域の小競り合いで済んだうちはどうにかなるが、戦国末期の大大名の下に収斂していった時期では小田氏の生き残りは容易ではなかったろう。

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建物跡と庭園跡
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南虎口の石積みとその先の馬出

 小田城見学後は北西の下妻市を目指して車を走らせる。今の下妻市から筑西市の関東鉄道が走っている辺りは、かつては沼地の中に張りだした台地で、この台地上にはいくつかの城が構えられていたという。まず一番北の関城跡を訪れる。

 

関城 南朝方拠点の城

 「関城」は南北朝時代に小田城と共に南朝方の拠点となっていた城郭である。東西南を沼に囲まれ、北に堀を掘った堅固な城だったという。

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奥に見える小高いところが関城

 現地は今では田んぼの中の小高い丘という地形である。私が訪問した時には城跡の神社で何か神事が行われた直後のようで多くの車が群がっていた。大規模な城だったようだが現在は宅地化しており、土塁の残骸と見られるものが所々に残っているだけである。現在神社があった辺りが本郭の跡のようである。周辺は民家になっているが、今でも南側は相当切り立っていることは確認できる。

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本丸跡の神社とかつての土塁跡

 

大宝寺城 同じく南朝方の拠点

 関城の次はこの南の「大宝城跡」を訪れる。ここは現在は大宝八幡宮があるところで、南の鳥居の辺りにかなり高い土塁が残っている。土塁の手前の道路の所はかつては堀でもあったのではないかと思われる。ここもかつては西北東を沼地に囲まれた地形であり、平安から南北朝時代にかけて城郭が築かれていたという。今は八幡宮を中心とした住宅地となっているが、この一帯が周辺の田んぼよりは一段高くなっており、かつての地形が覗える。大宝城は1341年に春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城からここに移って南朝方の拠点となったが、北朝型の猛攻で苦戦し、食糧不足と城内不和のために1343年11月12日に落城、城主下間政泰は討ち死にしたとのこと。

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南の鳥居の辺りに土塁があり、手前の道路はかつての堀跡か
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本丸の大宝寺八幡宮辺りは周囲よりも高い

 

多賀谷城 多賀谷氏が北条を退けた堅城

 その南にあるのが「多賀谷城」。今では完全に下妻の市街地に埋もれ、かつての本丸の一部が城址公園として残るのみだが、ここの一帯はかつては沼地に迫り出した半島だったようである。多賀谷氏はここを拠点にこの地を支配し、北条氏政の軍勢を撃退するなど147年に渡って下妻領主として繁栄したという。しかし関ヶ原の合戦では佐竹氏と共に西軍についたために家康に憎まれて追放されてしまい、この時に多賀谷城も廃城となったとか。城主追放の際には奥方はじめ奥女中達が行く末を案じて、沼に身を投げるなどして自害したという哀れな話も残っている。

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かつての縄張り図
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今となっては至って普通の平和な公園である

 

逆井城 北条氏の拠点

 下妻地域を一回りした後は南西方向に長駆する。目的地は坂東市の「逆井城跡」。戦国末期1577年に北条氏が北関東進出拠点として築城した城郭で、豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となった。現在まで外堀や土塁が残っていたことから、櫓等を復元して城址公園として整備したという。

 現地はかなり整備されている。駐車場に車を置くと正面には立派な櫓や大規模な堀が見える。堀を超える形で橋が架かっており、その橋の向こうは門になっている。

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かなり立派な逆井城

 門の脇が二層櫓になっておりここには入ることが出来る。入口を守る櫓といったところ。登ってみようかと思ったのだが、どうしたわけかこの建物には久々に高所恐怖症が発症して登ることが出来なかった。

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橋を渡って二重櫓に行くと、内部は登ることも可

 塀に沿って進むと井楼櫓が建っている。かなり高い物見櫓だが、これは最初から立ち入り禁止になっている。

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二重櫓奥の井楼櫓はかなり高い

 この近くには主殿が復元されており、関宿城の城門だった薬医門が移築されている。主殿はシンプルな建物だが、内部も一応作ってあってふすま絵などが描かれている。

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城門に主殿
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襖絵も復元

 この奥がこの城の一番の見所の一つでかなり立派な堀が残っている。この奥には土塁に囲われた曲輪があり、そこには東の橋を渡って櫓門を抜けると入ることが出来る。この城の北はかつては飯沼という大きな沼だったことから、ここはこの城の一番奥にあたり、ここがかつての本丸だったらしい。さすがに非常に堅固な守りとなっている。

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かなり明瞭に堀跡が残る
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橋と櫓門を通って本丸へ

 本丸の東側が二の丸だが、この辺りは詳細な構造はなくてひたすら広い広場となっている。ただその東には土塁と堀の跡がしっかりと残っている。どうやらこの東にはかつてはさらに三の丸もあったらしい。

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三の丸との間の堀はほとんど埋まっているが広い

 とにかくかなり大規模な城であり、北条氏が北を睨んで気合いを入れて整備した城であるということがよく分かる。面積も大きくてかなりの大兵力を入れることが可能であることから、ここに北関東制圧のための大軍を詰めて、隊を整えてから一気に出陣ということだったのだろう。復元建造物なども良く出来ているので当時の城の様子をイメージしやすくお勧めできる城跡と言える。

 

 ここまで見学を終えたところで既に昼をかなり回っている。昼食を摂りたいが付近には店らしきものはない。調べたところ、ここから北上したところに八千代グリーンビレッジなるキャンプ場などの複合施設があり、そこに温泉やらレストランがあるようだということなのでそちらを目指す。

 八千代グリーンビレッジは山の中のキャンプ場といったイメージ。バンガローなどが複数建った複合施設になっている。その一角に温泉やらレストランのある建物がある。しかし私がレストランを覗いたところ、ちょうど老人の団体が券売機の前で行列を作っている。店内のテーブルもほとんど塞がっているようだし、厨房にもあまり人数がいるようではないしということで、これはいつまで待たされるやら分かったものじゃない。私は老人会の団体と違って暇ではないのでここは諦めて他の場所を探すことにする。

 

道の駅しもつまで昼食のそばを食べる

 しかし移動は良いがあてがない。その時に頭にふと浮かんだのは<関城めがけて走っていた時に「道の駅しもつま」という看板を見かけたこと。道の駅なら飲食店ぐらいあるだろう。とにかく何もあてがないのでそこを目指すことにする。

 道の駅に到着したが現地はかなりの大混雑。車を停める場所にも困る状態で、何とか空きを見つけて車を停める。何やら新そば祭なる幟が多数立っている。そこで蕎麦でも食べることにしようと、ここにあるそば屋「そば打ちめいじん亭」に入店することにする。

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そば打ちめいじん亭

 この店も混雑しておりしばし待たされることになる。ようやく入店すると「鴨のつけそば」を大盛りで注文、さらにこれにトロロ飯をつける。

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鴨のつけそば

 そばの風味はなかなか良い。ただ付け出汁についてはどうにかならないかという気もする。基本的に北関東系のダダ辛い味付けは私に合わないが、アクセントに加えている柑橘の味も今ひとつしっくりこない。やはり北関東から東北にかけての料理は私の舌には合わないなということを感じずにはいられない。残念ながらこのエリアの料理で美味いと思ったことはほとんどない。そばは良いだけに実に残念。

 とりあえず昼食を済ませたが思ったよりも時間を費やしてしまった。今の時期は日没が早いことを考えるとタイムリミットは4時過ぎぐらいだと思った方が良い。今日は茨城空港から飛行機で帰るつもりなので、茨城空港方面に移動してから次の目的地に向かいたい。

 

三階城・・・は断念

 次の目的地に考えたのは鉾田の三階城。北上して北関東自動車道に乗ると、東関東自動車道に乗り継いで鉾田を目指す。鉾田出口を出ると三階城はそう遠くない。しかし三階城に向かう道路の入口のところで行き詰まる。元々の道路が農道で幅が狭いらしく、入口が極端に狭い上に急角度。どうもアコードアクシオの旋回能力では入れそうにない。無理してこすったりでもしたら大変だ。結局は三階城は諦めることにする。

畑田城 

 ではということで次の目的地を調べたところ、ここの南に「畑田城跡」があるらしいのでそこを目指すことにする。地図では分からなかったのだが、現地に行くと小学校や西光院がかなり小高い丘の上に乗っている。この丘の上が畑田城だったらしい。かなりの急坂を登って西光院の前までたどり着くが、どうも城の遺構のようなものは見当たらない。どこかに案内看板ぐらいはあるらしいのだが、結局見つけることも出来ず日も西に傾いてきているので見学もそこそこに引き上げることにする。

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この高台上の小学校の辺りが畑田城

 日は大分西に低く傾いており、時間的に次が最終となるだろう。ここから近いところということで、三階城の北にある「徳宿城」に向かうことにする。

 

徳宿城 平安期の徳宿氏の城

 現地に行くと住宅地の間の狭い道に案内看板と入口がある。向かいに空き地があるのだが今はロープが張ってあって入れない。そこでギリギリに左に寄せて道路に車が通れるスペースを空けた上で停車する。

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徳宿城登り口

 徳宿城は平安末期に徳宿親幹によって築かれた。徳宿氏の父は平国香の七代目で鹿島郡を治めており、その北部に徳宿氏を創立したのだという。徳宿氏の二代目秀幹の長男俊幹は三階城を拠点として安房氏の祖となり、次男朝秀が畑田城を拠点として畑田氏の祖となったとのこと。1486年九代目道幹の時に水戸城の江戸氏の攻撃を受け、江戸氏二千余名に対して徳宿氏総勢三百余名という圧倒的に不利の中で、道幹は覚悟を決めて敵陣に切り込んで討ち死にしたとのこと。

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本丸周辺の腰曲輪と祠のある本丸

 看板の横の道から登るとすぐに本丸脇の腰曲輪らしき部分に出る。そこからさらに一段登ると本丸になっている。本丸は現在神社になっており、その背後の南側はかなり切り立った崖になっている。恐らくその下はこの地域の常としてかつては沼だったと思われる。東側は鬱蒼としていて立ち入り不可、北側に向かうとかなりハッキリとした堀切があって、そのまま道は北部の住宅地に続いている。沼地の台地の北側を堀切で断ち切って城郭にしたという様子である。構造的には関城や大宝城と類似した構造。南と西を見る限りではかなり切り立っているので、それなりの防御力を持った城郭であったことは覗えるが規模はそう大きくはない(東側にもっと大きかった可能性はある)。

 

 徳宿城の見学を終えた頃には日は西に完全に傾いて、やや薄暗くなり始めた。もうタイムアップである。後は帰宅を考えるべきだが、帰りのスカイマーク便は茨城空港を19時35分に出発。まだかなり時間がある。ここはどこか温泉にでも立ち寄って、ついでに夕食を摂りたいところである。調べたところ近くにほっとパーク鉾田なる日帰り温泉施設がある模様。そこで車を走らせる。

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ああ、無情!

 ほっとパーク鉾田まではそう時間を要せずに到着する。しかし現地に到着すると何となく雰囲気がおかしい。駐車場に車がほとんどいない。「?」と思いつつ建物に近づくと「施設総点検のため11月7日~11月14日臨時休館」の立て看板が。選りに選ってピンポイントである。思わず天を仰いで「オーマイガッ!」もしくは「ジーザス!」。それとも私は一応は仏教徒なので「オーマイブッダ!」に「シッダールタ!」か。

 仕方ないので場所を変えることにする。次にヒットしたのは小美玉温泉ことぶき。茨城空港からも近いようだしちょうど良さそうだ。

 ことぶきに到着した時にはもう日はとっぷりと暮れている。ことぶきは典型的な地方の日帰り入浴施設で、地元のお土産などを売っている売店もある。食堂も一応あるが小規模。夕食は空港に行ってからの方が良さそうだ。とりあえず入浴することにする。

 

小美玉温泉ことぶき

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 小美玉温泉はやや黒っぽい湯。泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物冷鉱泉とのこと。若干ネットリとした感触があるが弱アルカリ性らしい。東京の蒲田辺りの黒湯と同じような感触がある。なかなか上質な湯。地元民らしき連中が大勢押しかけていて人気のようである。

 露天はやや寒いので内湯でタップリ温まるとロビーでしばし休憩。テレビでは稀勢の里がいきなり負けている。彼はもう駄目かもしれないな・・・。

 

茨城空港周辺にはガソリンスタンドがない・・・ 

 体を温めてしばしゆったりすると空港に向けて移動することにするが、空港到着前にガソリンを入れておく必要がある。しかしここで驚いたのが空港周辺のガソリンスタンドがことごとく日曜日には休みであること。これだから田舎は・・・。今になってつくばで車を借りた時に、トヨタレンタカーの店員が「もしガソリンを入れられなかったら、向こうで精算も出来ますから」ということをわざわざ説明してくれた意味が理解できた。あの時は「なぜそんなことをわざわざ念押しするんだろう?」と疑問に感じていたのだが、こういうことだったのか。茨城空港恐るべし。結局は30分ほど走り回ってガソリンスタンドが全滅だったので、ガソリンは走行距離で精算することに。後で聞いたところによると、この周辺で日曜日に営業しているガソリンスタンドはたった一軒とのこと。

 かなり久しぶりの茨城空港である。数年前に来た時は神戸からここに飛んで、すぐにレンタカーを借りて大洗に移動したので空港内を見学していない。元々自衛隊の基地だったところを民間との併用にしたので空港設備は最小限。売店とレストランがあるぐらいである。なおあの東日本大震災ではいきなり天井パネルが落下するという事故があったのだが、どうやら天井パネルはそれではずしてしまった模様。

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天井パネルははずしてしまっている
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空港内の謎のキャラクター達

 売店で土産物を購入すると、レストラン「すぎのや本陣」で夕食を摂ることにする。レストランは既に満席に近かったが、どうやらこれが全部私と同じ便に搭乗する予定の客の模様。何とか席を確保すると夕食を摂ることにする。茨城の郷土料理はけんちんそばとのことだが、そばは昼に食べたのでけんちんうどんを注文する。

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けんちんうどん

 関東のうどんということでやや不安はあったのだが、やはり味は濃いめだが具だくさんうどんという風でなかなかに美味い。空港内レストランでこれが920円だと良い方だろう。

 

 夕食を終えるとすぐに荷物検査を受けて搭乗ゲートに。茨城空港の狭い待合室は搭乗客でごった返している。すぐに搭乗手続きが始まって、搭乗口を抜けるとこの空港にはボーディングブリッジなんて設備がないので、滑走路を歩かされる。そしてなぜかガルパン模様の搭乗タラップで乗り込むことに。そう言えばこの空港の別名がガルパン空港だったっけ。こんな最後の最後に聖地巡礼かよ・・・。

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ガルパン空港搭乗タラップ

 茨城空港から神戸空港に飛び、この日に無事に家に帰ってきたのであった。久しぶりに一日を城郭巡りに費やしたが、そもそもそれ以前の東京展覧会ツアーで相当に消耗していた挙げ句だったので、帰ってきた時にはかなりヘロヘロになってしまっていたのである。思いの外体力が落ちているようである。私もそろそろ年齢のことを考えて無理はやめておかないと・・・。

 ちなみに今回の遠征では美術館は予定していたところをすべて回ったが、城に関しては私の想像よりも茨城が広かったこと、私が思っていたよりもこの時期の関東の日没時刻が早かったこと、私の想定よりも体力を消耗してしまっていたことなどから、当初の予定よりもかなり立ち寄り先を減らすことになってしまった。これはいずれはこの地域へのリターンマッチが必要。また東京訪問のついでに茨城に繰り出すことになるだろう。

 

 

岐阜県内山城巡り(美濃金山城、明知城、久々利城、大森城、今城)

 翌朝は8時手前まで寝ていた。一度6時頃に目が覚めたが二度寝。かなり疲れも残っている。シャッキリしないまま、とりあえず朝食へ。朝食はドーミー名物の地元食も含んだ和洋両対応のなかなかのもの。

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ドーミー朝食は現地食の和洋両対応、みそカツに小倉トーストもあります

 朝食後は入浴して血の巡りをよくする。今日は本格的に山城巡りをする予定なので、とにかく体を動くようにしておかないと。

 

 9時過ぎにホテルをチェックアウトすると東に走る。まず最初の目的地は「美濃金山城(兼山城)」。この度、続100名城に選定された城郭であり、本遠征の城方面での主目的である。そもそも続100名城が選定された時、その時点で私の未訪問城郭は三春城、品川台場、鮫ヶ尾城、美濃金山城、水城の5カ所で、美濃金山城以外の4つは順次視察終了で最後に残ったのがここだった次第。

 美濃金山城に向かう前に、兼山町の戦国山城ミュージアム(旧兼山歴史民俗資料館)に立ち寄る。どうやらここは兼山城の続100名城選定に合わせての観光整備の一環でリニューアルされた模様。内部は兼山町の歴史にまつわる展示もあるが、より戦国関係の展示を増やして、しかもミーハー色を増している。何やら怪しいイケメン明智光秀の幟も。民俗資料館らしいのは一階の方で、かつて木曽川水運で栄えた兼山の歴史、かつてここを走っていた名鉄八百津線の兼山駅に関する資料などもある。なおこのコーナーは悪質な鉄オタ(別名盗鉄)による盗難を警戒してか、防犯カメラ装備になっている。

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民俗資料館

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兼山城模型

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兼山駅関連展示

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謎のイケメン明智光秀

 ここで兼山城に関する資料を集める。なお可児市自体が今回を機に山城観光誘致を目指しているようで、各山城の資料の配付なども積極的に行っている模様。

 

美濃金山城(兼山城) 斉藤氏ゆかりの続日本100名城

 資料が揃ったところで兼山城に向かうが、その前に町から見られるという米蔵跡の石垣を見に行く。ここはそもそもは屋敷跡で、それが江戸時代には年貢を貯蔵する米蔵、さらに明治以降には製氷池として使われていたとか。なかなかに立派な石垣である。なおここから兼山城に登るルートもあるらしいが、そもそも山登りが目的ではない私はもっと楽なルートを取ることにする。

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米蔵跡の石垣

 さて兼山城に出向くことにする。出城まで車で上ることが出来、そこから10分ほどで本丸にたどり着けるとか。かなり便利な山城である。出城までの道は急ではあるが舗装された道路であり、余程変なタイミングで変な対向車(運転が下手なくせに無駄に大きな車を運転している輩とか)に出くわさない限り全く問題のない山道である。

 

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金山城案内資料

 出城には駐車場も設置されている。もうここの時点でかなりの標高。遠く可児市街を見渡せるし、下には蘭丸広場も見える。

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広い出城跡

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見晴らしは抜群

 本丸方面への登り口は出丸の入口の近くにある。案内看板から杖、パンフレットまで装備されていて万全の構え。今回の続100名城選定を機に観光開発につなげようという可児市の意気込みが伝わってくる体制である。

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登城口も万全の体制

 兼山城は1573年に斎藤道三の名で猶子の斉藤正義が築城、しかし正義は久々利城主の土岐三河守に謀殺されてしばし城主不在になる。なお正義の謀殺についてはこの後に土岐三河守が道三から処罰されていないことから、正義の力が強くなったことを警戒する道三による陰謀との説もあるとか。後に美濃を織田信長が支配すると、金山城には家臣の森可成が入り、可成の戦死後は長可が城主となった。1600年に森氏が信州に移封されたことで廃城となったとのこと。なお森可成の三男・成利がジャニーズ系の森蘭丸であり、森蘭丸ゆかりの城ということで蘭丸広場ということらしい。
 登城口から整備された山道を登り始めると10分もかからずに三の丸に到着。ここには大規模な虎口があり、先ほどの米蔵からつながる道がここに通じていて、これが本来の登城ルートであるようだ。

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三の丸

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破城の跡が残る石垣

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虎口跡

 ここから一段上がると二の丸。ここには物見櫓なども建っていたらしいが、現在は木が茂っていて視界がない。

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二の丸

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二の丸物見櫓跡

 二の丸からはかなり大規模な大手枡形を経て南腰曲輪。ここから天守台の西南を回り込んでいよいよ本丸に到着する。

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非常に大規模な大手枡形虎口

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天守台西南隅石

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本丸に到着

 本丸はなかなかに広大なスペースがあり、発掘調査の結果の礎石跡も残っている。見晴らし抜群で、兼山の町や木曽川を見下ろすことが出来る。この地を支配する拠点としては格好の立地であることがよく分かる。 

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城跡碑

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抜群の眺望

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本丸裏手虎口

 本丸から裏手に降りたところにあるのが東腰曲輪。ここには立派な石垣があるが、自然岩盤と石垣を利用した集水枡跡がある。城郭において重要な水の確保は当然ながら万全を期している。

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本丸下集水枡跡

 ここからさらに降りたところに東部曲輪があり、また左近屋敷に通じる道もあったようだが、この辺りは斜面崩落などもあって左近屋敷には現在は行けなくなっているようだ。自己責任で強引に進んでみようかとも思ったが、途中がグチャグチャで進むのは不可能と判断。

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この下が東部曲輪

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左近屋敷方面は大崩落で進行不可

 一回りして見たが、さすがに続100名城に選ばれるだけあって立派な城郭である。なお非常に保存状態が良いのは、明治時代に皇室の御料林になっていて民間に払い下げされていなかったかららしい。これが結果として遺構の保存につながったとか。とかく古代史解明などに際して妨害することが多い宮内庁だが、たまには逆に貢献することもあるらしい。

 これで続100名城も含めての視察完了。一段落である。今後また大々的に私が動くとしたら続々100名城が選定された時か(笑)。しかしまあ現実にはもう不可能だろう。選定に値する城を全国で100選ぶことが困難だし、特に現在の原則となっている一県最低一件というのは間違いなく不可能。そこで無理すると「?」って城郭ばかりが並ぶ羽目になるし。まあ一県最低一件の原則を崩せば、後50ぐらいだったら選べなくもないが。

 

 美濃金山城の見学の後は、ここから南方にある「明智城」を見学に行く。明智光秀ゆかりの城郭とも言われている。なお恵那にある明知城も明智光秀ゆかりを名乗っているが、歴史的に見て本命は明智城の方だろうと言われている。

 

明知城 明智光秀生誕の地と言われる城郭

 明智城は天龍寺南方の東西に長い山地上にある。大手口から登る方法もあるが、私は住宅地の中にある西出丸曲輪の方から見学することにした。入口前に車を置いて見学するが、西出丸曲輪は曲輪と言うにはあまりに削平されていない。自然地形そのままであって建物などは建てられないだろう。

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現地案内看板より

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西出丸曲輪はほとんど削平されていない

 そこから東に進むと馬場や本丸などの表示があり、模擬馬防柵などが建てられて整備されている箇所があるが、スペースがあまり広くないので、大きな建物は建てられなかったであろう。なお本丸奥の展望デッキは立ち木のために眺望皆無。

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模擬馬防柵と馬場

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二の丸

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さらに本丸

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城跡碑

 さらに東に進むと大手道を守る形で中の丸があるが、スペースが狭いことはともかく、切り岸などの加工がしていないので、大手側からの斜面が緩くて直接に取り付くことが可能なように見えることが気になるところ。どうも城郭全体的に自然地形にあまり手を加えていないように感じられる。

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大手道を守る中の丸

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大手道、左の中の丸との傾斜が緩すぎる

 なお西大手曲輪方面に向かう道は山崩れでもあったのか閉鎖されていた。どうも全体的に曲輪と言われれば曲輪なのかもしれないが、あまり手が入っていない様子であり、ここを城郭として使用していたとすれば、やはり明智氏はかなりの小勢力だったのだろうなという印象を受けた。

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西大手曲輪方面への道は閉鎖中

 

 明智城の次は久々利城を目指すが、その途中で「かつ円」なるとんかつ屋を見つけたのでここで昼食を摂ることにする。牡蠣フライやヘレカツのセットを注文。まあ可もなく不可もなしの普通のとんかつ。

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かつ円

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可もなく不可もなし

 昼食を終えると久々利城最寄りの可児市郷土歴史館へ。こちらでは陶器の展示中。志野や織部などなかなかに面白い茶碗の展示があった。 

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この手の茶碗が多数

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黒茶碗

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これは志野

 

久々利城 土岐氏の堅固な居城

  こちらで久々利城の地図をもらってから「久々利城」の攻略に挑む。登城口から登り始めると、5分もせずに最初の枡形虎口に到着する。久々利城は先ほどの斉藤正義を謀殺した土岐三河守・悪五郎の居城だったが、彼は1565年に信長の侵攻の際に降伏し、森長可の家臣として仕えた。しかし1583年に長可に謀殺され、久々利城も夜襲を受けて落城となったらしい。まさに生き馬の目を抜く戦国時代らしいエピソードである。

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久々利城縄張図

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登城口

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すぐに枡形虎口にたどり着く

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枡形虎口内部、左手が三の丸

 この立派な枡形虎口から一段上が三の丸。広い曲輪であり、ここから虎口に攻めてくる敵を狙い撃ちできるような構造になっている。

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三の丸の背後には二の丸、本丸が続く

 ここからは二の丸、本丸が階段状に続くようになっている。この辺りは尾根筋に設けられた城郭ではお約束の構造。最高所の本丸からはかなり見晴らしが良くなっており、ここは防御の拠点でもある。 

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横手から本丸に回り込む

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本丸

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本丸から二の丸、三の丸を見下ろす

 この城郭の特徴は、ここから土橋を経てさらに奥にも曲輪があることである。先ほどの本丸は戦闘指揮所であり、実際の城主はこちらにいたのではないかと感じられる。側面から本丸に迫ろうとする敵があっても、ここからなら狙い撃ちできるだろう。

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本丸の奥は土橋を経て奥の曲輪につながる

 さらにこの奥にはこの城の最大の見所とも言われている。二重堀切がある。これは背後の尾根筋から攻められることを防ぐためにかなり深く掘削されており、しかもそれを越えてきた敵は上の曲輪から狙い撃ちできるようになっている。尾根筋に設けられた城郭は背後からの攻撃が弱点であるだけに、こちらの防御は万全を期しているようだ。

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背後の尾根を断ち切る二重堀切

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二重堀切を上から

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奥の曲輪

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奥の曲輪から本丸方面

 先ほどの明智城などと比べるとかなり大規模な加工が施してあり、かなりの大勢力による築城であることが覗える。城内にも多数の兵が籠もることが出来、土岐氏(久々利氏)がかなりの力を持っていたことが覗える。だからこそ森長可は正面からの攻略でなくて謀殺という方法を用いたか。

 かなり見応えのある城郭であり、先ほどの兼山城にも準じる。これこそ続々名城に選ばれても良い城郭か(笑)。

 

大森城 土岐氏家老の城

 久々利城の次はここの南西にある「大森城」へ向かう。大森城は先ほどの土岐氏(久々利氏)家老奥村氏の城であり、1583年に森長可に攻められて落城したとある。

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大森城遠景


 城郭は大森神社の背後の山上にある。大森神社の駐車場に車を置いて見学。ここも今までの城郭と同様にパンフレットが完備、可児市の観光に対する意気込みが見える。

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パンフレットより大森城復元図

 城へは大森神社の手水舎の奥に山に分け入るルートがあり、入口は不明瞭だがその奥にはキチンと案内看板もある。そこから竹林の中に入っていくことになる。 

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大森神社

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手水舎脇のここから分け入る

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すぐに案内が見つかる

 案内に従って登っていくと、本丸と南の曲輪の間の堀切に登ることになる。なおここを北に進むとこの城郭全体にわたって築かれている東側の横堀になっている。

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本丸への登り口、右手が横堀

 本丸に登ると整備の後はあるが下草が茂って鬱蒼としている。南には土塁に囲われた曲輪があるが、こちらはさらに鬱蒼としている。また本丸上では何本かの巨木が根こそぎひっくり返ってたまま放置されている。台風か何かでやられたのだろう。背丈の割に細すぎることから、この山もしばらく手が入れられていなかったようであることが覗える。

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鬱蒼とした本丸

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大変なことになっている

 ここの先には虎口のような構造が見られて、その先には北側の曲輪がある。ここは手元の資料によるとかなり複雑な構造になっているようだが、なだらかな地形になってしまっていて私の目では構造の詳細はよく分からない。

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本丸虎口らしき構造

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その先の曲輪は詳細が不明瞭

 ここの先には大規模な枡形虎口が見られる。そこを抜けると例の横堀。それを突っ切って下に向かって降りてきたら、大森神社の北側に出てきた。

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曲輪周辺に土塁らしきものの痕跡は見える

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大規模な枡形虎口

 なかなかに凝った構造の城郭であったが、このような凝った構造は大森城が落城の後に森長可によって美濃金山城防御の支城として改修された時のものと思われるとのこと。なるほどそれなら納得である。規模的には元々家老の城としてはこんなもんだろう。もっとシンプルな構造だったとしたら、土岐三河守を謀殺した森長可の大軍に急襲されたらひとたまりもなかったろうと思われる。

 

今城 地元土豪小池氏の城

 かなり疲れてきたし、時刻もそれなりの時刻になってきた。次の目的地で最後だろう。次は「今城」に向かうことにする。今城は地元の土豪である小池家継が築いた城郭で、小池氏は美濃金山城に森長可が入場した後にはここを退去して農民になったとか。

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今城復元図

 今公民館に車を置けるのでそこに車を置くと、徒歩で今の集落に向かう。老人憩いの家の奥に今城への登城路があり、案内看板等もある。なおここは私有地であるので所有者に迷惑をかけないように注意とのことだが、そんなことは私有地であろうと公共用地であろうと同じことである。

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今公民館

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一見分かりにくいが、ここを入る

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今城入口

 立ち入り可能領域はロープで区切られている。まず最初に屋敷のあった三の丸に出て、ここには今でも水がある井戸が残っている。ここの北側に枡形虎口があることから、現在大手門の表示のあるところは本来の入口でなく、こちらが本来の入口だろうと思われる。この虎口は三の丸と現在五輪塔のある曲輪で守られるようになっている。

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三の丸井戸

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三の丸虎口

 ここから一段登ったところにある小曲輪が二の丸。土橋で本丸とつながっている。

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小さい二の丸

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二の丸と本丸の間の土橋

 最高所に本丸があり、東側と南側はそのまま外と接する形になるので土塁で守られている。戦いの時にはこの上から斜面に取り付く敵兵を狙い撃ちすることになるだろう。

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土塁に囲まれた本丸

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本丸奥の食い違い虎口

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その奥の構造は不明

 背後は南側の山地につながる部分であり、明らかにこの城の防御の弱点。そちらがわには食い違い虎口があり、土塁上には櫓なども建てられていたようである。なおその虎口の先に出丸の表記も案内板の図面にはあったが、それは明確ではない。

 

 これで今日予定していた城郭は大体押さえた。まだ体力的にはもう一つ二つ回ることも不可能ではない余裕はあるが、明日に帰宅する体力のことと、これから宿泊地に移動する時間のことを考えると無理はやめてもう移動することにする。今日宿泊するのは養老温泉ゆせんの里ホテルなでしこ。昔なら今から長駆して帰宅するところだが、さすがに今はその体力は覚束ないので無理はせずに一泊することにした次第。

 

養老温泉ゆせんの里

 中央道から名神道を経由、大垣ICで降りると養老温泉に向かう。養老温泉周辺の道は背後にまるで壁のような鈴鹿山脈を控える大田んぼ地帯。すごい風景に思わず笑ってしまう。ホテルは妙な雰囲気の建物。イメージは南仏のリゾートだろうか。本館が日帰り温泉で、隣接している療養棟に宿泊者専用の浴場と宿泊棟がある。宿泊棟は中庭がある妙な開放感の構成。やはり南仏のリゾートだろうか。部屋の装備は一般的なビジネスホテルと同様。

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南仏のリゾートイメージの建物

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室内はややゴージャスなビジネスホテル

 ホテルにチェックインするとまずは入浴。最初は宿泊者専用の内風呂へ。養老温泉はナトリウム・カルシウム-塩化物泉。源泉温度は40度くらいなので熱湯を加水して温度を上げている模様。薄い白褐色に着色した温泉で金気臭がある。鉄分を含んでいるようである。色が真っ赤でないということは湯の鮮度が良い証拠。実際に肌当たりの良い湯である。

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宿泊者専用浴場

 内風呂の次は本館の大浴場に入浴に行く。こちらは内風呂・露天風呂・サウナと一渡り揃っている。こちらには内風呂に加温していない源泉浴槽があるのが特徴。39度程度のやや温めの湯だが、元々温まるタイプの泉質なのでそうぬるいとは感じない。

 風呂から上がると養老山麓サイダーを頂いて一服。さっぱりしたサイダーである。

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養老山麓サイダー

 風呂から出ても体がポカポカするのがこの泉質の特徴。入浴を終えると部屋に戻って一休みする。

 夕食は館内のレストランで。メニューは予約当初は会席膳の予定だったが、数日前にホテルから電話がかかってきて、今月になってからの新メニューのステーキ膳がお得だからと勧められたのでそちらに変更している。

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サラダ

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ステーキ膳

 前菜のカルパッチョから始まって、メインは飛騨牛のステーキ。このカルパッチョもなかなか味が良かったが、飛騨牛が脂の入り方といい実に良質で柔らかくて美味。これはなかなか。最後のデザートまで含めて非常に堪能した。これは当たり。

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美味そうに焼けてきた

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デザート

 夕食後はしばしテレビなどを見てくつろいでから再び入浴に行く。ここの湯は実に快適。実はこのホテルの湯にはあまり期待していなかったので、それを良い意味で裏切られた。すっかりくつろいでから、本館の食堂に行って醤油ラーメンで小腹を満たす。

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ラーメンで小腹を満たす

 後は本館でしばしくつろぐ。休憩室でチェアに横たわりながら西郷どんなんかを少し見ていたが、やはりこのドラマはどうしようもなくつまらない。

 部屋に戻るとかなり疲れが出てくる。しばしBDを見ていたが、その内に眠気が強烈にこみ上げてきたのでこの日は明日に備えて早めに眠る。

 

名古屋フィル第461回定期演奏会&岐阜観光(川原町観光に鵜飼いを遠望)

 翌朝は7時に目覚ましで叩き起こされるまで爆睡していた。目が覚めるととりあえずシャワーを浴びてから、昨日帰りにイオンで買い求めていたパンとサンドイッチを朝食にする。

 荷物をまとめながらテレビをつけると「まんぷく」を放送中。前の朝ドラは見るに堪えないほどひどい作品だったが(話の辻褄が合わない、登場人物の人間性が全く描けていない、各キャラクターの行動に一貫性と意味がない、などそもそも脚本のレベルが異常に低すぎた)、今度の作品はキチンと人物が描けているようだ(そもそもそれは本来なら当たり前なのだが)。

 ドラマが終わった頃には荷物をまとめてチェックアウト、これから岐阜まで走ることになる。例によって大阪市内は異常に走りにくい。道路の混雑はひどいし、マナーも最悪、そしてドライバーは殺気立っている。つくづく大阪は車で走りたくない。

 吹田JCTから名神に乗ると、後はひたすら走り続けることになる。このまま岐阜まで一気に走っても良いのだが、多賀SAで途中休憩をする。ここで途中休憩したのは予定通り。今日は10時から西宮でのチケットの販売があるのと、このSAには「敏満寺城跡」なる遺跡があるのでそれを見学しとこうという考え。

 多賀SAには予定通りにちょうど10時前に到着、車を置くとスマホをつないで兵庫芸文のサイトにつなぐが、サイトがダウンしていてつながらない。毎度の事ながらここのサーバはチケット発売の度にサイトがダウンする。結局はフラフラと敏満寺城跡を確認しながら何度か接続を試みることに。

 

敏満寺城 中世の要塞寺院

 敏満寺城跡はその名の通り敏満寺という寺院が城塞化したものだとか。敏満寺は中世ではこの辺りを代表する大寺院だったらしい。しかしこの寺社勢力も、浅井長政に攻められて大きな被害を受け、さらに寺の焼き討ちが趣味だった(笑)織田信長に攻められて根こそぎやられてしまって今日の状態と言うことらしい。 

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城跡は現在は公園

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地形的には周囲よりも小高くなっている

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土塁上のこの辺りは櫓跡か

 城跡といっても特別な遺構があると言うほどではない。SAの隣にドッグランがある公園があるが、この辺りが城内らしい。今も土塁と思われる土盛があるのと、地形的に結構切り立っていることなどが城っぽさを感じさせる。

 

 城跡(?)を一回りし、その間に何とか無事にチケットも手配完了、再び岐阜に向かって走ることにする。さて最初の目的地だが、それは岐阜の川原町。長良川河畔の古い町並みが残っている地域であり、長良川の鵜飼い船などもここから出ている。今まで何度か岐阜は訪れているが、この地域のことは知らずにスルーしていた次第。

 

 名神から東海北陸道へ乗り継ぎ一宮木曽川ICまで高速道路は順調だったのだが、一般道に降りた途端に岐阜の手前で大渋滞で想定以上に時間を費やすことに。

 とりあえず昼前に川原町に到着する。長良川沿いの臨時駐車場に車を置いて川原町まで10分ほど歩いたが、到着するとキチンと町並み見学者用の駐車場があることに気付いてずっこける羽目に。

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長良川、このやけに高く土盛した中州の意味は後に判明

 

川原町 長良川沿いの商家町

 川原町は長良川沿いの旧商家町で、今は鵜飼い船なども出ている。道路沿いに奥行きの深い町屋の建物が多数並んでいて、それらの中には現在も観光客相手の商売をしているところも多い。なお前の道路がこの手の商家町にしてはやや広めなのだが、これは元からそうなのか、どこかの段階で区画整理したのかはよく分からない。ただかなり古い建物が多いので、昭和以降に区画整理されたとは思えないが。

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川原町

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町並には趣がある

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旧商家が立ち並ぶ

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商家には倉もある

 町並みを端まで歩いたところで、鮎料理の店「泉屋」を見つけたのでここで昼食を摂ることにする。注文したのは「若鮎天ぷら・稲庭うどん御膳(2700円)」

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泉屋

 コースのようになっていて、まずは前菜から。いずれも鮎がからんだ料理だが、なかなかにうまい。ただ腹は膨れない。

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前菜と鮎の寿司

 次に若鮎の天ぷらが出てきて、少し遅れて稲庭うどんが到着。若鮎の天ぷらは非常に美味。稲庭うどんも腰があってツルツルと非常に美味。

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若鮎の天ぷらと稲庭うどん

 最後はデザートは山椒のアイス。これは山椒の実を使っているとか。ミルクアイスは後口がネットリしがちだが、このアイスは後味がサッパリしていて非常に爽快。これは初体験である。

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後味さっぱりの山椒アイス

 なかなかに美味かった。ただ食事量がかつてより減っている今の私にさえこれはいささかボリューム不足。そういう点ではCPにはしんどいところもある。お洒落に美味しいものを食べたい女性向きか。私のようなガッツリ食べる下品な男向きではない。まあその場合は鮎ラーメンにでもしておけば良かったのか。

 町並みを一番端まで見学して折り返してくると、これまた一番端にある店「緑水庵」みたらし団子を頂くことに。団子は至って普通だが、町屋を活かした風情ある店内がなかなか良い。

 

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緑水庵
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趣ある店内にみたらし団子

 

 川原町の見学を終えたところで一旦ホテルに荷物を置きに行くことにする。今日の宿泊ホテルはドーミーイン岐阜駅前を予約している。ドーミーインの契約駐車場に車を入れるとホテルにキャリーを預けてから岐阜駅まで。ドーミーイン岐阜は「JR岐阜駅から陸橋で直接接続」と記載がある。こう聞くと本当に駅の真ん前のイメージだが、実際は陸橋でつながっているのは事実だが、駅に到着するのには5分程度かかる距離がある。知らない間に岐阜駅前の陸橋エリアがかなり広がっているのである。

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ドーミーイン岐阜

 岐阜から名古屋まではJRで30分かからない。思っている以上に岐阜は名古屋に近い。これだと確かに誰も不便な岐阜羽島駅なんて使わずに名古屋駅を使うよな・・・。

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岐阜駅前の金の信長像は、金のエンジェル1枚、銀のエンジェル5枚でもらえません

 今日の名フィルのコンサートはフォレストホールで開催なので金山まで移動する。金山駅前では閉館になった名古屋ボストン美術館が閉鎖されている。何やらもの悲しい風景。全くこの国は文化面は実に不毛だ。これで名古屋に来る機会も減りそうな気がする。それでなくても今は愛知県美術館も改装で閉館中だし。

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閉鎖されている名古屋ボストン美術館

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悲しすぎる

 フォレストホールに到着したのは開場の20分ぐらい前。既に大勢の客でごった返している。こんなところで待つのもしんどかったので、ホール内の喫茶でアイスココアを頂きながら時間をつぶすことにする。

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フォレストホール

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アイスココアで一息

 喫茶でマッタリと30分ぐらいつぶしてからホールに入場。ロビーでは選抜メンバーによるロビーコンサートが。最近はこの手のイベントをするところが増えている。記憶にあるところで札響、新日フィルがしていた。そう言えばアマの神戸フィルもしてたな。

 チケットは売り切れのようなことを言っていた気がするのだが、ホール内には空席もチラホラとある。年間会員の中で来てない者もいるんだろうか。まあこの曲は賛否両論あって、あまり好きでない者も結構いるから。 

 

名古屋フィルハーモニー交響楽団 第461回定期演奏会

小泉和裕(指揮/名フィル音楽監督)
中部フィルハーモニー交響楽団(共演)
並河寿美(第1ソプラノ)
大隅智佳子(第2ソプラノ)
三宅理恵(第3ソプラノ)
加納悦子(第1アルト)
福原寿美枝(第2アルト)
望月哲也(テノール)
宮本益光(バリトン)
久保和範(バス)
グリーン・エコー,名古屋市民コーラス,名古屋混声合唱団,一宮第九をうたう会,名古屋シティーハーモニー,クール・ジョワイエ(合唱)
名古屋少年少女合唱団(児童合唱)

マーラー: 交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』

 名フィルと中部フィルのジョイントによる20-17-14-12-10という超巨大編成なのが今回のオケ。しかし急遽の編成とは思えないぐらいオケのまとまりは出来ていた。ちなみに今回は合唱も含めると497人の編成で、1000人まではいかないものの「500人の交響曲」というかなりの大規模なものになっていた。とにかく人数が多くて遠いのを意識してか、小泉の指揮も見やすいようにいつも以上に動作を大きくしていたようだ。小泉の指揮は万事諸々に目を配っているのが感じられる。

 ただことごとく邪魔をするのはこのホールの異常な音響の悪さ。大編成の合唱団にも関わらず音が抜けてこないし、その前に配した独唱陣はさらに輪をかけて音が前に出てこず、やけに合唱陣が遠くに感じられる。また超巨大編成のオケもその破壊力を完全に発揮したとは言いにくい部分がある。なおホールの構造的にバンダの金管はステージサイドに配していたが、おかげで残念ながら天上のラッパが地上のラッパになってしまって、あのびわ湖ホールの劇的効果を思い出すといささか寂しい結果になってしまった。
 ホールのせいでかなり効果が減殺されていたが、そもそもかなり華やかな曲なので会場はそれなりに盛り上がっていた。この曲は特に終盤の盛り上がりが気分を高揚させる効果がある。その内に年末の第九に代わって、年末のマラ8の時代が・・・来ないか。

 

 ライブを終えるとホテルに戻る前に夕食を摂ることにする。名鉄で名古屋まで戻って、そのまま名鉄百貨店のレストラン街へ。案の定うなぎ屋は大行列なので、諦めて「文化洋食店」カニコロッケを頂くことにする。

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名鉄百貨店の文化洋食店

 カニコロッケはこの店の名物であるが、切ってみるとまるでミンチカツのように見える濃厚な中身が特徴。カニの風味が非常に強くて実に美味。

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濃厚なカニコロッケ

 夕食を終えると岐阜に戻る。JRの快速に乗るとすぐ。体感的には大阪-神戸よりも近い印象。

 

長良川鵜飼いを遠望

 岐阜に戻ってくると、ホテルに帰る前に少しだけ寄り道をする。ちょうど今は鵜飼いのシーズンとのことなので、鵜飼い船には乗らないまでもせめて雰囲気だけでも体験しておこうかと考える。岐阜の駅前からバスで長良橋まで移動。長良川を眺めると既に多くの乗合船が出ている。それを眺めながらしばしボンヤリ。その内に打ち上げ花火を合図に松明を灯した鵜飼い船が出陣。 

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合図の花火が上がる

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何やら始まったが遠すぎて何のことやら

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望遠レンズを使用しても暗すぎて様子は分からず

 長良川北岸のホテルから多くの人が出てきて川を眺めているが、鵜飼いは南岸側でやっているので遠くに松明がチラホラ見えるだけである。南岸側には目隠しのように背の高い中州を作ってあるので視線が遮られて何も見えない構造になっている。鵜飼いをキチンと見ようと思うと、3000円以上を払って見学船に乗るしかないシステムになっているわけである。まあ彼らの収入源はこの乗船料なんだから、ただ見されたら商売にならないだろうから、その辺りはしっかり考えてある。望遠レンズで覗くと松明の明かりで鵜をつないでいる紐ぐらいは見えるがその程度。まあそれでも鵜飼いの雰囲気は味わったのでバスで引き返すことにする。

 

 ホテルに入るとまずは入浴。ここのホテルは温泉大浴場があるが、源泉は池田さくら温泉(揖斐池田町からの運び湯のようだ)で、ナトリウム炭酸水素塩泉でpH8.6のアルカリ泉とのこと。この湯が内風呂に注がれており、ヌルヌルとした本格的な湯。pHを見ると先日訪問した出石温泉元湯にも匹敵している。なお外気浴もあるが、こちらは新湯のようなので内風呂を中心に入浴。体に本格的にキツいのは明日以降のはずなのに、今日一日でもかなり疲労がたまってしまった。特に腰の状態が怪しい。そこでできる限り疲労を抜いておくことにする。非常に心地よい湯で堪能する。

 風呂上がりには往路に多賀SAで買い求めていた饅頭でマッタリ。地元米を使っていると説明があったが、確かに皮がかなりうまい。帰りにお土産で欲しいところだが、残念ながら上り側でしか売っていないと言ってたな・・・。

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多賀SAで買い求めたくうや観助餅がこの夜のおやつ

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餡入りの半撞く餅のようだ

 風呂から上がってしばしマッタリすると、夜のドーミー名物夜鳴きそばへ。今日は昼・夜共にやや軽めで小腹が空いていたのでこれは非常にありがたい。

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ドーミー名物夜鳴きそばで小腹を満たす

 夜食を摂るとしばしテレビを見ていたが、やはりろくな番組がない。体の方がかなり疲れていることだし早めに寝ることにする。

 

養父市大杉の重伝建地区と此隅山城見学

 この三連休は特に予定もなく家でゴロゴロしていたのだが、やけに天気の良い空を眺めているうち、こんなことをしていると精神にも肉体にもよろしくないという気持ちがこみ上げてきた。そこで月曜日に急遽外出することにした。

 目的地として考えているのは、新たに重伝建に指定された養父市大杉。山間に多い養蚕集落の建物が重伝建指定されたらしい。これに以前から気になっていた出石の此隅山城を絡めて遠征計画のできあがり。ライブ通いを始める前のオーソドックスな遠征パターンである。大雑把に計画を策定してルートを調査すると、午前中のうちに慌てて家を車で飛び出す。

 久しぶりの自家用車による長距離ドライブである。国道2号から播但道に乗り継ぐと北に向けてひた走る。中国道以北の播但道は対面2車線になるので決して走りよい道ではないが、車もそう多くないので順調なドライブで朝来ICに到着、ここから県道70号、県道6号を経由して目的地へ。なお帰宅してからGoogleマップを見れば、明らかに和田山から和田山八鹿道路の養父ICを経由した方が早いはずなのだが、どうも私のカーナビの地図には和田山八鹿道路が入っていなかった模様。

 

養父市大杉の重伝建地区 

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遠くからの町並

 現地は典型的なのどかな山村。重伝建地区内に文化交流施設木彫展示館があるので、そこの駐車場に車を置いてプラプラと見学、案に反して結構な台数の車(7台ほど)が止まっていて驚く。

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木彫り展示館

 木彫り展示館は、かつて診療所として使われていたという建物の中に木彫り作品を展示してある。展示作は実に様々。いわゆるほのぼの系の作品もあれば、かなりシュールな作品まで。中には笑えるものもある。こうして見ると、木彫りというのも芸術としてのかなり表現力を持っているものだと改めて感心する。 

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作品の数々

 木彫展示館を見学した後は集落内を散策。集落を見下ろす丘の上に二ノ宮神社があるのでそこを見学。斜面に祠を連ねた意外に大規模な神社で驚く。なかなかに趣があり、気分が落ち着く。

 

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落ち着いた風情のある二ノ宮神社

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神社から見下ろした町並み

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養蚕住宅の町並

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突き出した三階が特徴

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蚕室の温度管理のためのものとか

 養蚕住宅は突き出た三階があるのが特徴。ただし今となっては養蚕をしている家もなく、その家を宿泊施設にしたりカフェにしたりしている。そんな一軒、「Rico cafe ~分散ギャラリー養蚕農家~」を見学。

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いわゆる古民家カフェ

 内部は3階までが吹き抜けたオープンスペースの建物。広い空間が開放的で、三次元的接続の面白さのようなものがあるが、同時に高所恐怖症にはいささか落ち着かない建物でもある。また風通しが良い設計になっているが、逆に冷暖房をしようとすると大変な構造でもある。このオープンスペースの内部に様々な作品が展示してある。

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 一回り見学を終えるとカフェで軽く昼食を摂ることにする。注文したのは鹿肉カレー。赤米に鹿肉カレーとサラダが添えてある。サラダがなかなか美味いが、肝心の鹿肉カレーについては甘口のカレーが私の好みと違っており残念。また鹿肉は意外に淡泊なので、カレーにするなら何らかの手でもう少しコクを補って欲しいところ。

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いわゆる鹿肉カレー

 養蚕集落の見学を終えると移動。近くのかいこの里交流施設を目指したのだが、何と閉館中。三連休中に閉館とは何とも商売っ気のないことだが、地方はたまにこういう施設があるから恐ろしい。仕方ないので、すぐに本遠征の第二目的地である此隅山城へと向かうことにする。

 

此隅山城 秀吉に落とされた山中氏の城郭

 「此隅山城」は出石の市街の北方にある。そもそもは山名氏ゆかりの城郭で、1372年に山名時義が築城したとされている。しかし1569年に山名祐豊の時に羽柴秀吉に攻められて落城、祐豊はより険しい有子山城に本拠を移して廃城となったという。ただその有子山城も1574年に羽柴秀長に攻められて落城、祐豊は因幡に出奔したとのことで、もう既に没落していた山名氏では、いかに堅固な城塞に頼ろうとも最早勝負にはならなかったということのようである。

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此隅山城遠景

 此隅山城のある山の北西に古代学習館があるのでそこに車を置くと共に、此隅山城のマップを入手する。登山道はここのちょうど裏から出ているらしい。

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此隅山城登山口

 動物除け用のゲートを抜けるといよいよ山城攻め。初っ端から険しい尾根筋の直登ルートになる。しかし下草は刈ってあるし、ルートもしっかりと定められているので不安はほとんどない。一番の問題は鈍りきっている私の体。数分と歩かないうちに心拍が上がって息が苦しくなってくる。体力がピークだった数年前なら一気に登れてしまいそうな斜面を、今は何回かに分けて登らないと息が続かない。

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登山道は整備されている

 いきなり心臓が止まってしまっては洒落にならないので、様子を見ながら休憩を取りながら慎重に登っていく。尾根筋には所々細かい削平地があるのでしばし休憩を取るのには向いている。

 5分ほど登っていくと主郭まで300メートルの標識が立っているが、ここから先がさらに厳しい登り。ロープを使って急斜面直登の場面がある。

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急坂をロープで登る

 そこを登り切るとようやく曲輪らしきところに出る。そこからさらに数段の曲輪を登っていくと、かなり大きな堀切があって、その先が主郭群。

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この堀切の先が主郭群になる

 目の前に聳える崖を横目に見ながらまずは右手に回り込む。土塁に囲まれた細長い曲輪に出るが、これが主郭群の一番下の曲輪。この西にさらに一段降りたところに西曲輪がある。

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右手のこの曲輪の一段下が西曲輪


 西曲輪に降りてみると、中央部には削平し残したような小山があり、ここが見張り台ではないかと思われる。その下には展望台と称した場所が。ここの曲輪と南の千畳敷とでお屋敷の側面を守備する形になっているという。 

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西曲輪の先端は展望台になっている

 西曲輪の見学後は主郭目指して数段の曲輪を登っていくことになる。この辺りも尾根筋に小曲輪が連なり、その間をかなり険しい尾根道が結んでいる。最後には関所よろしく巨岩まである。

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ロープを使って本丸へ登る

 最後はロープまで使ってようやく主郭に到着。主郭とそれを取り巻く二の郭というべき曲輪で山頂はなっている。なお案内図によると千畳敷には山道が通じていないとのことだが、確かに上から見下ろしてもそちらの方面は鬱蒼としていて進めそうな気配がない。

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急に視界が開ける

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頂上の本丸

 主郭からはかなり眺望が利き、この辺りを支配するには格好の立地と思える。ただこの堅固な城でも落城したとなると、山名氏が有子山城に逃げるのも分からないでもない。

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展望はかなり利く

 帰路は北東の曲輪群に沿うコースを取るが、結果としてはこれは失敗だった。というのはこちらは往路に比べて極端に整備状況が悪く、途中で危うくコースを見失いそうになる。ようやく遊歩道の標識を見つけてホッとしたものの、そこから先も道とは言いにくいような所ばかり通ることになり、急斜面を斜めに下っていた時に足を滑られて1メートルほど滑落して擦り傷を作る羽目に。ボロボロになりながらようやく登山口と書かれたところまで出てきたが、今度はそこが鬱蒼とした竹藪で、どっちに進めば抜けられるかが分からずウロウロ。散々な有様でようやく集落の所まで出てきたのである。途中の見学どころでなかったし、これは大人しく最初の道を戻った方が良かった。

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本丸の裏手に下りたのだが

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だんだんと道が怪しくなり

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そしてとうとう道が消失した

 トボトボと車の所に戻ってきた時には全身ドロドロのボロボロであった。頭から汗だくだし、とにかくどこかで汗を流したい。この近くで温泉と言えば出石温泉乙女の湯があったはずと車を飛ばすが、何と本日は休館とのこと。全くこれだから田舎の施設は・・・。

 

出石温泉湯元館で入浴

 仕方ないので近くをウロウロしていたら、出石温泉湯元館なる施設を見かけたのでそこに入ることにする。ややくたばった印象のある外観の施設で、入浴料は300円。

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外観はややくたばっているが、湯は抜群

 しかし入浴して驚いた。pH8.5というナトリウム-炭酸水素塩泉は浸かるなり肌が強烈にヌルヌルする美肌の湯。擦りむいた右肘がいささかヒリヒリするが、なかなかにして最上の湯。

 浴槽は内風呂と露天風呂があり、内風呂の方がやや温度が高め。露天風呂でくつろいで内風呂で体を温めるというパターン。地元の常連らしき連中を多数見かけたが、この湯なら確かにそうなるだろう。私ももし家の近くにこんなに素晴らしい温泉があれば、毎日仕事の後に通いたい。

 

 しっかり汗を流したところで、やはり出石まで来たならそばは食べて帰りたい。ここの隣にそば屋があるようだが、残念ながらもう営業終了の模様。そこでここに来る途中で見かけたそば屋「善店」に入店することにする。注文したのは「皿そば」

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善店

 とりあえずお約束のようにデフォルトは5皿。トロロで頂くが、ややパサッとした蕎麦はいかにも出石蕎麦。なかなかに美味い。そこでさらに5皿を追加。こちらは玉子を入れて頂く。なかなかに上々の蕎麦であった。ただ蕎麦を食べ始めた途端に、先ほどの入浴の影響が出て全身が汗だくになってしまったのは計算外。

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出石名物皿そば

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さらに追加

 これで全予定終了。まずまず久しぶりに充実した内容であった。後は夕闇迫る但馬を後にして、播但道をひた走って帰宅することになったのである。

 最近はライブ三昧だったが、今回は久しぶりに原点に戻ったような遠征であった。後これで美術館がついていれば完璧という所。やはりこういう遠征も良い。

 

武雄温泉~佐賀地域城郭巡り~脇田温泉

 翌朝は6時半に目覚ましに起こされる。とりあえず朝風呂を浴びることに。やっぱりここの湯は最高。朝から体に染みいる感覚がたまらない。このためにあえてこのホテルを選んだ価値があったという物だ。

 入浴後はバイキング朝食。朝食バイキングに関してはこんなものというところか。豪華でもないが粗末でもない。ビジネスホテルにプラスαぐらいのイメージ。

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朝食はややシンプル

 9時過ぎには支払いを済ませてチェックアウト。今回は貧民プランに会社の福利厚生割引を適用して支払いはビジネスホテルにプラスα程度。温泉の湯のことを考えると十二分な価値のある宿泊であった。

 今日の予定だが、福岡方面に向かいつつ昨日立ち寄らなかった城郭を巡る計画。ただし相変わらず雨は断続的に強くなったり弱くなったりなので、本格的な山城は除外するしかなかろう。とりあえず出たとこ勝負である。

 

臥龍城 鎌倉時代の城郭

 最初に向かったのは肥前鹿島の「臥龍城」。鎌倉時代の中頃に原長門守貞光が砦を築いたのが始まりとのこと。後に松尾氏に攻められて消失してしまったとのことで、現在は臥竜ヶ岡公園の一部となっている。公園は肥前鹿島の市街の独立丘上にあるのだが、臥竜城はその背後の丘との間を堀切で断ち切った手前にある。丘全体を城にしても良いようなものだが、それだと地方領主クラスの手勢では守るに広すぎるのだろう。小さいが回りは切り立っていて結構堅固である。

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手前の山とは堀切で分かたれている

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そこそこの広さの本丸の中央には祠が

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高さもそれなりにあるし周囲は切り立っている

 

武雄温泉で入浴

 臥龍城の見学後は武雄温泉に戻ってくる。実は昨日武雄温泉に寄るつもりだったのだが、時間がなかったので嬉野温泉に直行した次第。やはりここまで来たのだから武雄温泉にも浸かってみたい。

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武雄温泉の楼門

 立ち寄ったのは武雄温泉の楼門のところにある元湯。由緒ある公共浴場である。入浴料が400円にタオルセットを借りると250円。ぬる湯とあつ湯の二つの浴槽があるが、私にはぬる湯でも少々熱いぐらい。泉質は単純アルカリ泉とのことでややヌメリのある湯である。

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武雄温泉元湯

 入浴後は武雄温泉新館の見学。ここはかつて公共浴場として使用されていた建物らしい。大正4年に建造、楼門と共に辰野金吾がデザインを手がけた建築で、共に国重要文化財に指定されているという。

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温泉新館

 一階に浴場が並んで、二階は畳の休憩室になっている構造。どことなく道後温泉本館を思わせる雰囲気もあるが、妙に中国的な外観が特徴をなしている。

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五銭浴室

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天井

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二階から見た浴室の屋根

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二階は畳敷きの休憩室

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中華風の窓から望む楼門

 新館を見学したらご当地コーラのうれしのチャコーラで一服。大昔のコカコーラのような妙な薬臭さを感じる懐かしい味。独特の風味が茶タンニンやカフェインであろうか。

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独特の味のチャコーラで一服

 武雄温泉を後にすると東に向かって走って行くことにする。武雄北方ICから長崎自動車道に乗り、この春に開設されたばかりの小城スマートICで降りる。次の目的地はここのすぐ南。

 

千葉城 鎌倉時代の千葉氏の拠点

 最初に立ち寄ることにしたのは「千葉城」。そもそもは鎌倉末期に関東千葉氏の本家が支配していた城で、戦国期に龍造寺隆信が台頭するまでこの地を支配していたという。

 円明寺の北にある山上にある城郭なので最初は円明寺方面から車でアクセスしようとしたが、墓地から先の道は急斜面の上に舗装のコンクリートはひび割れ、そこに落ち葉や木の枝が散っている状態で、小雨がちらほらなこの天候では非力なマーチではスリップしそうな気がしたので車で進むのは断念して徒歩で登ってみる。するとしばし進んだところで交差点に出くわす。見たところもっとしっかりした道が下まで通じていそうである。そこで地図で確認してその道を進むことにする。

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円明寺からの道はこの悪路

 最初は畑のフェンスの間の農業用の道路であるがこれが途中から山道につながっている。道幅も対向車が来なければ問題ない幅があり、この道路経由で山上まで上ることが出来る。山上にはキチンと駐車場があって「千葉公園」との看板まで出ている。

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出直してようやく千葉公園に到着

 そこを入っていくと展望台のある公園になっており、千葉城に関する説明看板がある。それによると千葉城は大中小の三つの山からなっており、中と小は出城でここは中に当たるらしい。小が東にさらに降りたところにある須賀神社で、大は駐車場の奥の電波塔の建っている山のようだが、鬱蒼として進むのを躊躇う状態だったのでそちらの見学は断念した(後でグーグルで確認したら、山上に続く道もあって車で進めそうな雰囲気だが、どちらにしても大した遺構があるとも思えない)。

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天守閣ならぬ展望台が立っている

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展望は良い

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本郭はこの山上らしいが・・・

 

小城城 鍋島氏の陣屋跡

 千葉城から降りてくると、次はここの少し南にある小城公園に立ち寄る。ここは小城藩主題藩主の鍋島元茂と二代藩主直能によって築かれた庭園である。3代の元武がここに陣屋を設けたことから「小城城」とも呼ばれている。

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陣屋があったのはこの山上らしい

 現地は水の流れる風光明媚な公園であり、春には桜の名所にもなるそうな。背後に小高い丘があってこの上に小城藩の陣屋があったようだが、丘の周辺はなだらかであって戦闘に耐えるようなものではないし、そのための構えも全くない。いかにも平時の陣屋という風情。

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丘の南には岡田神社と庭園がある

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岡田神社

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庭園

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山上には神社がある

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しかし周囲は比較的なだらかで防御力はそう高くない

 公園の見学を終えるともう昼過ぎ、佐賀県道48号線を佐賀方面に東進しながら昼食を摂る店を探す。この沿線には不思議なほどにラーメン屋が多い。そんな中、同じ敷地内にセブンイレブンがあって便利なことから「らーめん竹ちゃん」に入店する。「ラーメンと餃子のセット」を注文。

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らーめん竹ちゃん

 細麺のとんこつラーメン。味は至って普通。餃子も至って普通というわけで、特に印象に残るようなものではないが、失敗というわけではない。価格も妥当だし、まあ普段使いならこんな店かなというところ。

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とんこつラーメン

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細麺である

 

姉川城 竜造寺配下の水城

 昼食後もさらに東進。次の目的地は「姉川城」。神埼市にある平城である。1360年に菊池武安が築城し、後にその子孫の姉川氏が入ったという。戦国時代は当初は少弐氏に属し、後に竜造寺隆信配下となって大友宗麟の侵攻を防いだとか。

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狭い道路の両側が環濠に浮かぶ曲輪

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全体の構造がつかめない

 現地は環濠に囲まれた田んぼであり、水路に囲まれた田んぼのなかに民家が点在しているという状態。これが城といわれればそうだろうが、構造のようなものはよく分からない。

 

直島城 こちらは大友氏配下の水城

 次はここの南東にある「直鳥城」。ここも姉川城と同様の環濠の城郭で、やはり龍造寺氏や大友氏の騒乱に巻き込まれたようだが、こちらは大友陣営だったようだ。湿地で両軍入り乱れての泥沼の戦いになったことが想像される。

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住宅地奥の水路の合間に何やら見えるのだが、構造はよく分からず

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やはり全体がつかみにくい

 こちらも姉川城と同様で民家や田んぼの間を環濠がうねっているという構造で、車で回っても単なる田んぼにしか見えない。

 

 佐賀は元々湿地であるのでこういう形態の城が多いのだろう。佐賀城などもいざとなったら城全体を水没させる防御態勢があったと言うし。この手の水城は山城に比べると一見したところは堅そうには見えないのだが、実際に攻めるとなると水路の入り組んだ地形は難攻不落であったろう。

 都合今日一日で5つの城郭を回ったことにはなるが、正直なところ城を見たという感覚はあまりない。特に最後の2つは田んぼを見たという印象しかない(笑)。姉川城と直鳥城はどこかに車を置いて徒歩で見て回らないと状況がつかめないだろう。ただ現地には車を置ける場所が見当たらなかったので、いずれ下調べをした上で再アタックするしかなかろう。それにしてもどうしても山城を省いてしまうとつらいものがある。

 

脇田温泉で宿泊

 さてもうそろそろ夕方である。回るべきところもないし、そろそろホテルに向かって移動することにする。今日の宿泊ホテルは脇田温泉のルートイングランティア若宮。脇田温泉は博多の東のかなり山の奥にあり、かつて筑豊での炭鉱が華やかかりし頃は歓楽温泉として繁栄した時期もあったらしいが、炭鉱も廃止されて久しい今となっては、数軒の温泉宿が残る鄙びた温泉地という風情になっている。

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山間の脇田温泉はどことなく閑散とした空気が漂う

ルートイングランティア若宮

 ルートイングランティア若宮はこの温泉街から少し外れた山の中にある。スポーツなども出来る保養施設となっている。元々は厚生年金の施設だったのが民間に売却された物らしい。部屋の感じなどは確かにルートインよりは公共保養施設感がタップリ。

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ルートイングランティア若宮

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いかにも公共保養所っぽい

 チェックインを済ませると何はともあれ入浴することにする。大浴場は内風呂と露天風呂があり、露天風呂には洞窟風呂なんてのもあるが(グランティア太宰府にも同様の物があった記憶がある)、湯自体は内風呂の方が良い感じ。泉質はアルカリ単純泉とのことだが、正直なところあまり温泉感は強くない。ヌルヌル感もそう強くなく、印象としては少し軟らかい新湯というところ。

 風呂から上がって一息つくとすぐに夕食。脇田温泉周辺は何もないところなので夕食付きプランを選択していた。夕食はレストランのランチメニューから選択とのことなので、ネギトロ丼を選択、またビール一杯がついているとのことだが私は酒は駄目なのでパインジュースに代えてもらう。

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いかにも日帰り入浴施設のランチっぽい夕食

 味は良くも悪くも普通。まあルートインの花茶屋なんだからそりゃそうだろう。

 夕食を終えるとしばしマッタリしてから再度入浴。今度は内風呂でじっくりと体を温めることにする。やはり湯は内風呂の方が良いようだ。ただインパクトの強さは全くない温泉である。

 風呂から帰ってくると疲れが出てグッタリしてしまう。自分で布団を敷いてその上で横になったら動くのが嫌になってくる。今日は大して運動したつもりはないが、長距離の運転が疲労につながったのだろうか。その内に意識を失ってしまう。

 

元寇防塁~水城~嬉野温泉

 翌朝は6時半にセットしていた目覚ましで起こされた。昨晩は結局は8時過ぎぐらいからウツラウツラと浅めの眠りが続いていたようだ。体全体がずっしりと重い。外を見てみると秋雨前線の影響による雨とのことで、どうも今日の活動はかなり制約を受けそう。

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長崎は今日も雨だった

 朝一番から目覚ましのために大浴場に入浴に行く。シットリとした快適な湯が体に染みいる感覚。これだから朝風呂はやめられまへんな・・・。朝寝もしたいところだが。

 入浴後は手早く荷物をまとめておくと朝食。これはオーソドックスな和食。朝からご飯が美味い。とりあえず燃料を体に入れておく。

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朝から和定食が美味い

 

 朝食後にはすぐにチェックアウトする。今日は諫早駅から特急つばめで一気に博多まで移動する予定。ただスケジュールを考えると、当初に乗車を予定していたつばめには間に合わないと予想されたことから、昨夜の内に1本遅らせている。しかし外は雨がひどい上に諫早駅までの道も渋滞が激しい(通勤ラッシュだろうか?)ので、結局は途中でもう1本遅らせることに。これで当初予定よりも1時間遅いスケジュールを余儀なくされることになるが、どっちみちこの雨ではまともにスケジュールを実行することは不可能だろう。今回の遠征では「無理をしない」を第一に置いている。昔なら万事をスケジュール通りに黙々と行動していたが、今はそれだけの気力と体力がない。

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島原鉄道車両

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ハウステンボス号

 レンタカーを返却すると諫早駅でつばめに乗車。雨は常に降っていて、時々かなり激しくなる状況。空はどんよりと曇って禍々しい雰囲気。私の乗車予定のツバメは数分遅れで到着する。

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特急つばめに乗車

 到着した白ツバメは結構混雑している。とりあえず席についてどんよりとした空を見ている内にウトウトしてしまう。次に気がついた時には列車はもう鳥栖を過ぎていた。

 到着した博多は土砂降りの状態。その土砂降りの中を駅前のレンタカー屋へ。貸し出されたのはマーチ。とかく縁があるがとにかく好きではない車だ。

 さて今日の予定だが、回るべきところはいくつか考えているが、今日のこの天気だとかなり制約を受けることになる。この天候では山城の類いはまず不可能だろう。そこで最初の目的地は「元寇防塁」とする。

 

元寇防塁 元軍襲来を妨げた鎌倉の防壁

 元寇防塁は第一回の元寇の後に元の再来に備えて幕府の命で築かれた防壁である。二日目の元寇ではこの万全の準備が功を奏して、元軍は九州に上陸できずに撃退されている。

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元寇防塁の手前にある蒙古塚

 現在防塁が残っているのは今津地区とのことなのでそちらを目指して車を走らせる。しかし現地に到着してから進むに困ることに。カーナビが示す道は道とも言えないような道だし、そもそも現地は路地の迷路。散々苦労して情報を集めた結果、緑町集会所のところに車を数台停められるスペースがあることが分かる。

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松林の中の説明看板

 ようやく車を置くとここから元寇防塁までは歩いて1分ほど。看板の近くに遺跡として残っている防塁があり、その少し西には復元された防塁がある。厚さ、高さ共に結構あり、イメージとしては古代城郭の城壁。この城壁を盾に大軍に立て籠もられれば、当時世界最強だった元軍といえども上陸もままならなかったのは当然であろう。なお以前は第一回の元寇では元軍の団体戦と新兵器によって日本側はケチョンケチョンにやられたというのが通説であったが、最近は実は日本軍も意外と善戦していたという愛国者様達が泣いて喜びそうな話が出てきている。確かに地の利を生かしたゲリラ戦などを行えば日本側にも有利な材料は多々あったと思われる。この後にゲリラ戦の天才である楠木正成などが登場したことを考えれば、日本は意外にゲリラ戦に長けている。

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防塁の遺跡

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こちらは復元防塁

 

水城 大和朝廷が唐の襲来に備えた城壁

 元寇防塁を見学した後は「水城」の見学に向かう。こちらは時代をさかのぼって天智天皇の時代、大和朝廷の百済救援軍が唐・新羅連合軍の前に惨敗した後、唐による侵攻を警戒して太宰府防衛のために築かれた防壁である。版築工法で作られた土塁であり、高さは数メートル。しかも水城の名の通り手前には水が引かれて堀が作られていたという。これをちょうど山から山の間を塞ぐように作ったのだから何とも大規模。

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水城跡

 今はかつての東門の跡に見学者用の施設があり、ここでパンフレットをもらったり解説ビデオを見ることが出来る。

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土塁に埋まるような形になっている案内施設

 ただいざ現地に来てみると、確かにその規模には驚くが、所詮はただの土盛りであまり見るべき点がないのが事実だったりする。城のような分かりやすい施設があるわけでないのは、観光面においてはかなりの欠点。

 

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展望台から見下ろした水城

 

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水城の北側には堀跡の田んぼがある

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南側(内側)から見た水城

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東門の柱跡

 結局今日は塀を二つ見ただけだった(笑)。しかも元寇防塁が思っていた以上の辺鄙にあったことから、水城を見終わると既に15時前。もう時間もないし、雨もひどいしということで今日の宿泊ホテルに移動することにする。今日は嬉野温泉で宿泊するつもり。ホテルは和多屋別荘を予約している。当初は別のホテルにする予定だったのだが、直前になって貧乏人向け夕食なし廉価プランが出てきたのが乗り換えた理由。やはり嬉野温泉でもここの湯は最高であるのが最大の選択理由。

 太宰府ICから九州自動車道と長崎自動車道を乗り継いで嬉野を目指す。ところで私が借りたマーチだが、運転していると基本的に80キロで走りたがるのが分かる。通常のアクセル操作をしているとすぐに80キロぐらいまで速度が落ちてくるのだ。流れに乗るにはかなり意識してアクセルを踏み込む必要がある。やはり諸々で感覚が合わない車だ。気を抜くと観光バスに追い抜かれる羽目になる。

 

嬉野温泉和多屋別荘で宿泊

 嬉野温泉には17時前に到着、かなりの雨が降っている。チェックインすると早速入浴する。嬉野温泉はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物泉のアルカリ泉だが、ここのホテルの大浴場はさらに高温の源泉を加水することなしに冷却して適温にしているというこだわりよう。しかも湯は常に掛け流しでダバダバと浴槽に注がれており、溢れた湯は目の前の川に流れているという贅沢ぶりである。肌にしっとりとまとわりつく最高の湯。これに入るためにわざわざここまで来たわけである。最上の湯をタップリと堪能する。

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和多屋別荘

 川を眺めながら露天風呂でくつろぐが、雨のせいでかなり水が増えて濁流になってゴーゴーと流れている。先の大雨ではこの川が溢れて大浴場も浸水したとかで、サウナは現在故障中。私はサウナは使わないから関係ないが。

 ちなみにここの浴槽は黒川紀章の意匠による物だとのことだが、私の彼に対する評価は「安藤忠雄よりはマシ」という程度の物なので。確かに彼は安藤忠雄のようなガラクタは作っていないが、鉄筋コンクリート建造物の耐久性といった基本的最重要要素を考慮せずに、メタボリズムなんて提唱しちゃう人物なんで・・・。

 

嬉野温泉で散策で思わぬ超高CPディナーにありつく

 入浴を済ませて一息つくと夕食のために外出することにする。幸いにしてこの頃になると雨がやんでいた。温泉街をプラプラしながら夕食を摂る店を探す。結局立ち寄ったのは「和洋創菜えびね」「おまかせ御膳(2080円)」なるメニューがある。サイコロステーキ、ぼたんえびの刺身、ジャンボエビフライなどの記載があるので、これらの中からメインを選ぶのかと思えば、なんとこれが全部ついているという。とりあえずこれを注文する。

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えびね

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このメニュー、マジですか?

 まずオードブルから出てくる。これがなかなか美味い。そしてパイスープ。味付けがやや甘めなのが気になるがなかなか美味い。そしてエビフライに続いてメインが出てくるのだが、これのボリュームに圧倒される。エビフライだけで普通のランチメニューなんかだったらメインのボリュームがある。たっぷり堪能したのだが、この後にコーヒーとデザートが。とにかくかなりのボリューム。とにかくCPの高さに圧倒された。嬉野温泉もまだまだ知らないところがあったようだ。

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まずはオードブル

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そしてパイスープ

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メインの料理の奥にはジャンボ海老フライまで

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そしてコービー&デザート いやはや驚きのボリュームでした

 夕食後は温泉街をしばし散策する。嬉野温泉は温泉街というよりも普通の町に温泉ホテルがチラホラというイメージに近い。川縁に新湯広場なる温泉公園みたいな物が出来ているが、これがまたあまり意味のない施設になっているのがどうにも。何やら温泉街としての統一イメージのようなものはない。

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特に何があるというわけではない川縁の新湯公園

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長崎街道嬉野宿東構口跡

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長崎街道

 ホテルに戻ってくると、テレビを見てしばしマッタリした後、再び入浴のために大浴場へ。やはり湯は最高だが、中国人のオッサンがうるさい。中国人が二人いたら、日本人十人分のうるささである。

 入浴の後はしばしテレビを見ていたが、やはりろくな番組がない。結局は今日もやや早めに就寝することにする。

 

長崎地域山城巡り~小浜温泉

 翌朝は7時半に目覚ましで叩き起こされた。途中で何度か眠りが浅くなっていたが、概ねは爆睡していた模様。

 目が覚めるとレストランで朝食。諸々のメニューがあるが、豚の角煮があったのでこれをメインで頂くことに。朝食後は朝風呂を浴びてからしばしの休息。

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朝から長崎地場飯でガッツリ

 チェックアウトは9時過ぎ。長崎駅から10時の区間快速で諫早まで移動するのが今日の予定。諫早でレンタカーを借りて、大村周辺の城郭でも回るつもり。

 久しぶりに訪れた諫早駅は以前と違って高架駅になっている。西口から出るとオリックスレンタカーへ。貸し出されたのは勝手知ったるヴィッツ。

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諫早駅は高架駅舎になっている

 車に乗り込むと大村方面に向かって移動する。途中で鈴田峠の辺りで「岸高城」があるのでそこに立ち寄ることにする。

 

岸高城 諫早からの侵攻を防ぐ丘城

 岸高城に向かう道は国道34号線で道の駅長崎街道鈴田峠を過ぎた辺りに右に入る道があるのだが、その道が狭すぎるせいで通り過ぎてしまい。何度も前を行ったり来たりする羽目になる。ようやくたどり着いた岸高城は住宅地の中にある独立丘。

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案内看板は立つが、地形は改変されている模様

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登り口のようだ

 多分私有地なんだろう、重機でかなり加工した跡がある。今ついている登り道は本来のものではなく、東側にあるうねった道が本来の登り道か。岸高城自体はその由来はハッキリしないが、戦国期に諫早方面からの敵を防ぐために築かれた砦だと考えられるとのこと。確かに立地が諫早から大村に抜ける鈴田峠の要地にあるので、そう考えるのが自然だろう。

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腰曲輪らしきものはある

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山頂の本丸はかなり殺風景

 頂上まで登ると大村方面への視界は開けているが、諫早方面は木のせいで視界がふさがれている。主郭の回りはかなり切り立っているが、北側にある腰曲輪というのは現在かなり加工されてしまっている平地のことだろうか? なお西にある堀切というのはよく分からなかった。

 

大村市武家屋敷街を散策

 岸高城の見学を終えると大村市街に移動する。今回の予定としては大村の武家屋敷街を見学しようと思っている。大村公園の玖島城は既に見学済みだが、武家屋敷の方はまだ立ち寄ったことがない。 

 武家屋敷街は中央に久原城跡があり、それを中心に武家屋敷が通り沿いに広がっている。最初は車で一回りしようかと思っていたが、思っていたよりも道が狭いので、大村公園の駐車場に車を置いて徒歩で回ることにする。

 駐車場から本小路を歩いて行くと最初に出会うのが五教館御成門。これは大村藩の藩校の門で通称「黒門」だそうな。藩校の跡地は現在は大村小学校になっており、今でも入学式と卒業式の時には生徒がこの門をくぐるそうな。

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立派な黒門である

 

久原城 大村氏発祥の城

 ここから南に向かった住宅地中にあるのが「久原城跡」。藤原純友の孫の直澄が赦されてこの地に入って大村氏を名乗ったと伝えられているとか。

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この石垣は時代が不明(比較的新しそう)

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今は完全に民家となっている

 しかし今となっては民家となっており、いつのものやら定かでない石垣などがあるのみ。

 

 ここの向かいあるのが小姓小路でこれはJRの線路を横切る形になっている。踏切を渡るにはもう一本南の道路に行く必要がある。

 ここの小さい踏切を渡った先にあるのが日向平武家屋敷跡で、大村藩勤王三十七士の中尾元締役旧宅がある。

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実に立派な門構えである


 ここから一本北の通りが先ほどの小姓小路。狭い通りの両側にかつての武家屋敷の石垣が残っている。石垣密度はこの辺りが一番高い。

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小姓小路は線路を越えてつながる

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小姓小路の石垣群

 ここの先に稲田家家老屋敷跡というのもあるが、ここは建物は残っておらず、立派な石垣の構えがあるのみ。

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残念ながら石垣しか残っていない

 

旧楠正隆屋敷

 ここからさらに奥に上っていった先が旧楠本正隆屋敷。ここまでで大分歩いた。ここに駐車場があることを知って、車で来れば良かったと後悔したが今更どうしようもない。

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立派な門構え

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楠本正隆屋敷

 旧楠本正隆屋敷は内部の見学も出来る。楠本正隆は先に出た大村藩勤王三十七士の一人で、明治維新後には長崎府判事、新潟県令、東京府知事などの要職を歴任した人物である。後に国会議員となり、衆議院議長を務めたとのことなのでかなり栄華を極めている。この屋敷自体は明治3年に建造されたものだが、某豪商の屋敷を解体した際の廃材などを用いているらしく、屋久杉などかなり良い材料を使用していることが分かる。

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仏壇と神棚がある

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非常に立派な屋敷だ

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随所の細工も細かい

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実に趣がある

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楠本正隆肖像

 ただ楠本正隆自身は請われて東京に上った後はここには帰ってきておらず、彼の弟がここに住んでいたらしい。昔の武家屋敷の流れを汲むこの建物は、今は大村市の史跡に認定されて管理されているらしい。

 ちなみにここの庭園はよく結婚式の写真撮影などにも用いられるとのこと。なお元々は水の巡る庭園だったのだが、先の地震以来水が涸れてしまったとか。確かに大村市の観光案内HPの写真では水の流れる庭園の様子が掲載されている。

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残念ながら今は枯山水ならぬ枯れ枯れ山水

 

 ここのすぐ近くに旧円融寺庭園跡があり、例の大村藩勤王三十七士の碑も立っている。ところで彼らは結局は時代の中で勝利する側に回ったからこうやって今日も顕彰されているわけだが、その一方で時代の流れの中で敗北する側に回った者もいるのだろうなということに思わず心を馳せてしまう。それぞれが自身の信じるところに従って行動したのだろうが、それが結果として報われる場合とそうでない場合に分かれてしまう。何やら人生の切なさのようなものも感じてしまうのだ。私もこの年になり、人生においても明らかに敗北の側に立つことがほぼ確定したことから、どうも最近は時代の敗者に思いを馳せることが増えてきている。

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旧円融寺庭園跡

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勤王三十七士の石碑

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中央に楠本正隆の名が

 後は上小路武者屋敷通りの浅田家家老屋敷跡(これも壁だけ)に立ち寄ってから駐車場のある大村公園まで戻ってくる。大体2時間近く歩いていた計算になるし、灼熱地獄だし、かなり消耗した。頭から汗だくで持参した麦茶は完全に飲み干している。大村公園に戻ってきたところでジュースを買って一気に飲み干す。

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上小路に塀だけが残る浅田家家老屋敷跡

 ようやく車に戻ってきたところでどこかで昼食を取る必要があることに気づく。しかし暑さに当てられて食欲もイマイチ、店を探すのも面倒になっているので、沿道にあったスシローに立ち寄る。以前から不思議なのだが、大都市にあるスシローはまずいのに、ここのスシローは意外といけるんだよな。仕入れ先が違うんだろうか?

 この時点で3時近くになっている。天候は徐々に怪しさを増しているし、それ以上に私の足下が怪しさを増しているということで、本格的山城を攻略出来る状況ではないと判断、もうここでホテルに向かって移動を開始することにする。

 

小浜温泉に向かう

 今日の宿泊先は小浜温泉。島原方面に行く途中にある温泉地。雲仙温泉に向かう場合の経由地になる。大村からは車で1時間程度かかる。

 途中で軽い渋滞などに出くわしつつも順調に小浜温泉に到着する。小浜温泉は海沿いの温泉地だが、海際まで山が迫っている地形なので温泉近くにはいわゆる海水浴場などはないようだ。

 今日の宿泊ホテルは海辺の宿つたや旅館。やや年季の入った印象の建物で客室は全室海側を向いている。

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つたや旅館

 

小浜歴史資料館

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 部屋に荷物を置くとすぐに外出する。この旅館の裏手の斜面上に小浜歴史資料館なる施設があるのでそれを見学する。

 何とも奇妙な資料館である。門をくぐると最初に目に入るのは温泉の源泉。激しい煙を上げて硫黄の匂いがしている。近くを見ると「温泉熱を活用したバイオディーゼル燃料の製造」なる看板が立っている。温泉熱を使って廃食用油からバイオディーゼル燃料を製造する実証試験を実施しているらしい。うーん、エコ。

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湯煙を上げて湧き出す源泉の脇ではバイオディーゼル実証試験中

 奥には湯大夫展示館と歴史資料展示館があり、湯大夫展示館の方は小浜温泉発展の礎を築いた本多湯大夫の邸宅の跡で築170年だそうな。内部には本多家ゆかりの品を展示とのことだが、着物やら陶器やら書やらと意味不明な展示。

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湯大夫展示館

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展示内容はいささか謎

 歴史資料展示館の方はかつての小浜温泉の様子を再現したものでレトロ風情があってなかなか面白い。

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歴史資料館の展示はレトロ

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昔の小浜を復元している

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こういうポスターが良いです

 特にこれといって見るべき物があるというところではないが、入場料100円ならこんなものだろう。

 

小浜温泉つたや旅館

 ホテルに戻ると入浴することにする。まず最初に屋上の貸し切り露天風呂に。私が入ったのは入徳の湯。見晴らしは良くて気持ちの良い風呂だが、湯自体はなめても味はしないし、肌当たりは新湯。そう言えば廊下に「ラジウム泉」との表記があったが、小浜温泉はそもそもナトリウム塩化物泉のはず。もしかして人工温泉か? とりあえず湯にあまり興味を持てないので一渡り体をほぐすと風呂から出る。

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非常に眺めの良い浴槽

 部屋に戻って一休みしてから次は2階の大浴場へ。こちらの露天風呂に浸かってみると、肌当たりのしっとりした塩っぱい湯。こちらが正しい小浜温泉の湯である。なかなかに快適。ゆったりと体をほぐす。ナトリウム塩化物泉なので、風呂上がりにややネットリした感覚がある。

 しばしマッタリしていると夕食時刻の6時。夕食は部屋食とのことなので部屋に料理が一渡り運ばれてくる。定番どころの刺身から天ぷら、椀物、すき焼きなどとオーソドックスな組み合わせだが、なかなかに美味い。デザートまで含めて夕食を堪能した。

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懐石膳

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腕物

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これはデザート

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ご当地サイダーを頂く

 夕食を終えて布団を敷いてもらうと急激に疲労や眠気が押し寄せてくる。しばし布団の上で横になっていたが、そのうちにそのまま意識を失ってしまう。