京都の美術館を駆けずり回る
この週末は京都方面に遠征に出ることにした。メインは京都市響の定期演奏会。さらに京都方面の秋の美術展を網羅しようという計画。コンサートは14時半開演だが、回るべき美術館の数が多いので、開館と同時に入館するべく早朝から家を出ることに。
JRで京都まで移動するとそこを通り過ぎて次の山科まで。ここから地下鉄に乗り換えて東山。最初の目的地は京都国立近代美術館。ここで開催中の「堂本印象展」を見学することが目的。今日は早朝出発のせいで朝食を摂っている暇がなかったので、山科で地下鉄に乗る前に朝食としてうどんを腹に入れてから移動する。
美術館に到着したのは開館の5分前ぐらい。計画通りである。この時点でどうやら開館待ちしているらしい観客が10人ほど。私は事前に電子チケットを確保してあるので券売所に並ぶ必要がないのでスムーズに入館できる。

既に開館待ち客が数人
「没後50年 堂本印象 自在なる創造」京都国立近代美術館で11/24まで

堂本印象具象画の頂点と言える「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」
日本画の大家の一人である堂本印象についての大規模回顧展である。
堂本印象であるが、当然私もよく知っている画家の一人だが、そうでありながらいかなる画家であるかというのは私も把握しかねているところがあった。というのも、かなり正統派のカッチリした日本画を描くかと思えば、抽象絵画まで手掛けており幅が広すぎる。その感覚は京都にある堂本印象美術館にもろに反映されているのだが、あれだけ爆発した外観は岡本太郎美術館並みである。というわけで私は今までこの画家に対する統一したイメージを確立することが出来ていなかったのである。

かなりぶっ飛んだ外観の堂本印象美術館
本展では堂本印象の最初期からの画業を振り返っている。堂本印象は1918年に京都市立絵画専門学校に入学し、1920年には西山翠嶂が設立した画塾「青甲社」で研鑽を重ねた。やがて帝展で認められて画家としての名声をなした。この頃の作品が展示されているが基本的な技術の高さだけでなく、当時の社会潮流となっていた大正デカダンスの流れもその色遣いに感じられる。
官展で実績を重ね、昭和の初期の頃には具象画家として頂点を極めた。その頃の代表作が本展の表題作にもなっている「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」となる。華麗にして絢爛豪華な作品で、まさに彼の具象画を代表する作品と言える。一方で寺社の障壁画なども手掛けることが多かったことから、色彩を抑えた水墨画なども多数手がけたという。
その画風が一変するのが戦後である。当時画壇に流行し始めていた抽象画の流れに彼も対応、まずはキュビズム的な作品を描き始める。そして60歳で渡欧したことで完全な抽象画を描き始める。

晩年はこういう調子の絵画になる
その後はそちらの世界を突っ走る。最終的にはアンフォルメルと出会ってそちらの画家と認められるところまでいった。その一方でかつてのような具象画も時々描いていたようだから、果たしてその切り替えはどうなっていたんだろうと私のよう素人などは感心するぐらい。なおこのような絵画を描き始めても、油絵には走らずに基本的に日本画の範疇にとどまっているのが興味深いところ。
しかも彼の創作は画業にとどまらず、若い頃から茶道に造詣が深かったこともあって自ら土をこねて器の創作まで行ったとのこと。そこに施された抽象画的絵付けがまた見事に器と合致しているのには感心した。
一度成功して名を成して巨匠と呼ばれるようになると、そのスタイルの周辺に生涯とどまる画家が多い中で、彼のようにスタイルを激変させるのには驚く。その辺りに執着がなかったか、興味のままに動くタイプだったのかなどと思うところ。なおその都度、大正デカダンスや戦後の抽象画の潮流など、結構流行に流されるタイプだったのかなどとも思わないでもない。
何にせよ、今回この画家の作風を年代を追って体感することで、ようやくこの画家について理解できたような気がする。これは有意義であった。また一度堂本印象美術館を訪問したい気も起ってきたが、とにかくあそこは京都でもかなり外れで交通の便が良くないのが難点。
近代美術館の見学を終えると次の目的地に移動。美術館前のバス停から市バスで東天王町まで移動。ここの近くの美術館に立ち寄る。

泉屋博古館
「生誕151年からの鹿子木孟郎 -不倒の油画道-」泉屋博古館で12/14まで

近代日本洋画壇に写実表現を持ち込んだ鹿子木孟郎の足跡をたどる展覧会。
鹿子木は岡山で生まれ、画塾である不同舎で洋画の基礎を徹底して学んだという。そこでは線画によるデッサンや、西洋的遠近法を徹底的に仕込まれたとのこと。
その後、フランスに留学してアカデミスム派の巨匠であるジャン=ポール・ローランスに師事してフランス古典派絵画の写実を追求したという。
というわけなので鹿子木の作品は後に渡欧して印象派などの影響を受けた画家たちと違って、かなり正統派のガチガチのところがある。また印象派の影響を受けた洋画家たちが黒田清輝などの「影は紫」などとかなり明るめの作品を描いているのに対して、重厚でガッチリとした色遣いの渋い絵画であるというのが最大の特徴。
一言でまとめてしまうと「古臭い絵画」と言えなくもないのだが、そのまま古臭くてつまらないにならないのがこの画家。彼は彼の観点で表現を極めようとしているのはその作品から伝わってくる。
明治画壇の保守本流という感じがして、それはそれで面白いのが彼の作品である。黒田清輝とかの作品(結局最終的に天下を取ったのは彼らの流派の方だが)とかと比較して見るとなかなかに楽しめるところがある。
現在時間は正午ごろ。当初の計画では後は昼食を摂ってからホールに向かうことも考えていたのだが、予定よりもスムーズに進行したため、まだもう一か所回る余裕がある。そこでバスで烏丸丸太町まで移動すると、そこから地下鉄で烏丸御池に移動。そこの最寄りの博物館へ立ち寄ることに。
「世界遺産 縄文」京都文化博物館で11/30まで

2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録されたことにちなんで、これらの地域からの出土品やその複製などから、当時の縄文文化について考察しようという展覧会。
最初は石器などのマニアックでやや地味な展示から始まる。正直なところこの辺りはそこらの石とまぎれて転がっていても、私のような素人では見過ごしてしまいそうなもの。狩猟採取を基本に置いていた縄文集落らしい実用的な石器が並ぶ。

大型板状土偶

石器

土器片

土器

骨製の銛頭
次にはさらに文明が高度化してきた時代の土器などが登場する。漆塗りの土器などなどかなり特徴的なものが登場、さらには縄文の名の由来となった文様入りの土器など。

縄目入りの土器

これはかなり装飾的

奇妙な形態の土器(中国の青銅器に似ている気がする)

漆塗りの土器
そして縄文を代表する土偶が登場、いわゆる「縄文ヴィーナス」から始まって、オカルトマニアだったら「宇宙人を模した」などと言い出す有名な遮光器土偶の一群。なお私は恥ずかしながら、同じスタイルの遮光器土偶がこんなに大量に各地から出土しているとは初めて知った。

遮光器土偶

これも遮光器土偶

微妙にタイプの異なる遮光器土偶

これは有名な縄文ヴィーナス
最後は縄文人の生活や一生を伝える品々。出産を形どった土偶や当時の獲物であった動物をかたどった土偶、さらにはそれらをとらえるための弓矢など、最後は埋葬の様子など興味深い展示があった。

出産をかたどったとされる土偶

合掌土偶

こげのついた縄文土器
なお一番最後に復元した土偶を触れるコーナーがあったのだが、その質感は私がイメージしているものとややことなった。もっと素焼き的なものをイメージしていたのだが、指でかるく叩いてみるとカンカンとかなり甲高い音がして磁器のような感触があり、思っていたよりも強度もありそうに感じた。これが私にとっては一番の驚きの体験。

シルバニア縄文住居?
流石にそろそろ昼食を摂ってからホールへ移動する必要がありそう。しかし昼食を摂る店に心当たりが・・・。とりあえず北山に移動するが、あの界隈もこれという店はない地域。結局は間に合わせでモスバーガーに入店することに・・・どうも最近は体調の悪さから食欲の低下があり、それが意欲の低下にもつながっていて特に朝食と昼食がぞんざいになっている。あまり良い傾向ではない。食事をおろそかにすることは生きる意欲の低下につながる。現に今の私は何が何でも生きてやるという意欲がなく、苦しめずに死ねるのならそれもありかという考えがしょっちゅう頭を過るのが現実。実際、こんな何かの罰ゲームのようなクソ人生はリセットして、もっとマシな境遇に転生でもしたい。
間に合わせの昼食を腹に入れるとホールへ。最近の京響は非常に人気が高く、今回も9割以上の席が埋まっておりほぼ完売に近そう。

京都コンサートホールへ
京都市交響楽団 第705回定期演奏会

いつもこの辺りの席になる
[指揮]ピエール・デュムソー
[サクソフォン]上野耕平★
ピエルネ:「ラムンチョ」序曲
トマジ:バラード -サクソフォンと管弦楽のための★
ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 ホ短調 op.93
一曲目のピエルネと二曲目のトマジは共にフランスの作曲家。年代的にはピエルネの方が40年ほど早いことになる。「ラムンチョ」はピエルネが1908年に作曲した曲でバスクの民謡を使用した曲である。
曲調は明るい舞踏的な音楽のように感じられるが、時折暗い影が差すのは元々の劇の内容から考えると当然ではあるか(あらすじを聞く限りでは悲劇である)。デュムソーの演奏はその辺りの明暗のメリハリをしっかりと付けた煌びやかな印象の演奏である。
二曲目はトマジが1938年にサクソフォン奏者のマルセル・ミュールのために作曲したものだという。サクソフォンが縦横に活躍する曲である。
ソリストの上野の演奏を聴いた感想としては、「なんて綺麗な音を出すんだ」というもの。サクソフォンは私にはあまり馴染みのある楽器ではないのだが、サクソフォンがこのような鳴り方をするとは知らなかったというところである。
休憩後の後半はショスタコーヴィチの10番。以前より「どういう意図のある曲か」というのが議論となっており、様々な深読みなんかもされている曲である。時期的にはスターリンの死亡後であり、それまで質の悪い独裁者あれやこれやと干渉や弾圧を受けていたショスタコとしては、解放感が滲んでいるのではとも言われている。
デュムソーの演奏であるが、体全体を使った大きい指揮動作が印象に残る。その指揮ぶりは極めて躍動的であり、音楽もまさにその通りのもの。その音色は生き生きとして、ショスタコの曲の中では明るめであるこの曲を、さらに明るい表現をしている。
短く激しい第二楽章はスターリンのことを表現しているのではという分析もあるようだが、確かにやたらにやかましい乱痴気騒ぎは、自分の個人的趣味に意味不明の屁理屈を付けてはショスタコの作品に鑑賞してきた迷惑な独裁者の支離滅裂ぶりを示しているのかもしれない。
生き生きとした明るさは一貫して曲の終わりまで続く。デュムソーは京響の奏者たちの技量の高さを十分に使い切って、実に色彩的で鮮やかな演奏を繰り広げた。なかなかの快演。
ショスタコがこの曲に込めた意図などという高尚なものは私の理解の及ばないところであるが、今回の演奏を聴いた限りでは「鬱陶しい独裁者が亡くなったことを単純に喜んでいるんでは」という気もした。本音としてはファンファーレでも書きたかったところだが、さすがに社会主義体制自体は温存されている状況下ではそれはまずいので、交響曲内に祝祭的雰囲気を潜めたのではなんて邪推する。
コンサートを終えるとホテルに向かう前にもう一か所立ち寄る場所がある。地下鉄で京都まで移動。目指すはあの不快な駅ビル内の美術館。
「生誕100年 昭和を生きた画家 牧野邦夫 -その魂の召喚-」美術館「えき」KYOTOで11/16まで

牧野邦夫は昭和の改元直前の大正14年(1925年)に生まれ、昭和61年(1986年)に没した、まさに昭和を生きた画家である。
牧野は1943年に東京美術学校油絵科に入学、安井曾太郎らの指導を受ける。1945年に召集されるが、実際には戦場には行っていないという。卒業後は個展で作品を発表し続けて画壇の権威とは無縁の活動を続けてきた。そのために彼の作品は美術館などにはほとんど所蔵されておらず、熱心な個人ファンが個人的コレクションとして秘蔵してきた作品が残っている状態とのこと。
その画風は写実的であり、絵画技法的には古典的であるとも言える。レンブラントを敬愛していたとのことで、自画像の多さもその影響もあるのかもしれない。しかしその写実能力を生かして描くその画面は極めて幻想的というか猟奇的と言うか、自画像を主なモチーフとして使用しての超現実的な絵画(自身を悪魔に見立てた作品が多い)であり、一瞥しただけでも非常にインパクトが強い。それ故に熱心なファンも一部付くことも何となく納得できる。
牧野はレンブラントよりも自分は30年遅れているから、63才で亡くなったレンブラントに追いつくのは自身が90才を過ぎた時だと考え、50才の時から5層の塔の絵を描き始め、10年ごとに1層ずつ足していくことにしたららしい。しかし残念ながら2層の制作途上の61歳でこの世を去ることになる。本人にとっては不完全燃焼だったことだろう。

未完に終わった塔
技術的には優れたものがあり、感性にも独特のものを感じるのであるが、執拗に自身をモチーフにした超現実的な作品を多作しているあたりに、どことなく歪な自己顕示欲や厨二臭のようなものも感じられるのが事実。なんかこういうタイプに以前に当たった記憶が・・・と思い返したら、まさにこの美術館でつい数か月前に鑑賞した鴨居玲であった。
なんとも独特だなという印象を受けた展覧会。もっともこういうタイプの作品は実は私は嫌いではない。やはり私も多分に厨二要素が強いんだろう。
美術展の見学を終えると夕食を摂る必要がある。最初は駅ビル内のレストラン街をウロウロしたのだが、物価高騰とインバウンドの影響で飲食店の価格が異常。ここの店はいずこもおひとり様3000円からというのが相場で私の予算と全く合致しない。
結局は諦めて駅地下の方に移動するが、こちらの飲食店はどこも待ち客で長蛇の列。あほくさくなってもう地下鉄で移動しようかと駅に向かったら、どうやら東側にも飲食店はある模様。ざっと見渡すとちょうど「一風堂」に空きがありそうだったから入店する。

京都駅地下の一風堂
注文したのはオーソドックスに白丸のチャーシュー麺。これに餃子のハーフをつける。典型的な細麺の博多ラーメン。そう個性の強い味ではないので無難に美味いというところ。

細めんの白丸チャーシューメン

ハーフサイズの餃子を付けた
とりあえず腹を膨らませたところでようやくホテルに移動である。今日宿泊するのは久しぶりに四条のチェックイン四条烏丸。例によって撤退した1階のセブンの跡がテナントが埋まっていないようなので、開店休業の雰囲気があってよろしくない。セブンは今落ち目だし、ローソンは道路を隔てた向かいにあるので、せめてファミマでも進出しないだろうか。正直、ここの道路を渡るのも大変なんで不便で仕方ないのだが。

1階はテナント募集、2階は貸ワークスペースになってしまっている
部屋は毎度の狭小和室。ここに来るのも久しぶりだが、それにしても最近の物価高騰とインバウンド公害でここの宿泊料金も上がったものである。昔はこのタイプの部屋だと4000円台ぐらいで宿泊できることもあったのだが、今だと7000円を超える。チェックイン手続きを機械化してあからさまにフロント人員を減らすということまでしているにも関わらずである。

相変わらずの狭小和室

部屋は布団でいっぱい
部屋に入るとまずは仕事環境をさっさと構築してから、シャワーで軽く汗を流して館内着に着替え、大浴場に入浴に行く。とにかく体に疲労が半端なく溜まっていると思ったら1万5千歩を超えていた模様。これは限界突破である。浴槽の中でよく体をほぐしておく。

仕事環境を構築したものの、結局まともに使えずじまい
入浴を終えて部屋に戻ってきて一作業・・・と思ったが、デスクに向かう気力がない。やっぱり体の疲労が限界突破している。仕方ないので布団の上で転がりながらタブレットをボーっと眺める無為な時間を過ごす。どうしても老化に伴う体力の低下で、若い頃のように限界ギリギリまで効率的に動くということが出来なくなった。老化の何が一番嫌と言ってもやはりこれである。人生の先が見えてきているというのに、無為に過ごさざるを得ない時間が増えているのである。これは今のように「タイパ」なんて言われだす以前から、録画番組の倍速視聴などのいわゆるタイパ行為をやってきたような私にはかなりの苦痛。
結局この日は、何もできないままいつもよりもかなり早めに布団の上で意識を失ったのだった。
この遠征の翌日の記事
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