徒然草枕

クラシックのコンサートや展覧会の感想など、さらには山城から鉄道など脈絡のない趣味の網羅

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アニメ関係の記事は新設した「白鷺館アニメ棟」に移行します。

白鷺館アニメ棟

芦屋交響楽団のアマオケのレベルを超えたブルックナーの演奏

今日も西宮へ

 昨日に続いて今日も西宮である。昨日はロイヤルコンセルトヘボウの名演を堪能したが、今日はアマオケの雄、芦屋交響楽団のコンサートである。プログラムはブルックナーの8番とこれはまたチャレンジングなもの。

 日曜の午前中に家を出ると車で西宮を目指す。車を選んだのは昨日のJRでかなり疲れているのと、今日の内容だと駐車場が満車という事態はないと予測できたためである。なお車で行くことにした段階で立ち寄り先も決めている。

 阪神高速を突っ走って西宮まで。車を乗り換えての一番のメリットは長距離走行時のガソリン負担がかなり減ったこと。デメリットはまだ車の運転感覚に慣れないことである。まだ車の大きさが感覚的に把握できていないし、運動性能も体感で習得できていないので、どうしても運転がギクシャクするのが自分で分かる。これからさらに老化が進めばこういう対応力が落ちてくるんだろうか? 果たして私が運転を続けられるのは後何年か?

 阪神高速を西宮出口で降りると、国道2号線をUターン。最初の目的地はすぐそこである。

 

 

「西宮市100周年 めでたい松展 祝いましょう。松の絵さまざま」西宮市大谷美術館で11/30まで

 昔から松の絵は縁起物の意味もあって多数描かれてきている。そのような松を描いた作品を展示。

 まずは縁起物として蓬莱山を描いたものなどが登場する。やはり松と言えば目出度いものであるのだろう。桃源郷としての蓬莱山は古くより文人たちのあこがれの地でもある。

 本展は題材的に当然のように展示作は江戸期の日本画が中心となる。もっとも松の描き方はかなり定型化されているところがあり、四条派は写生的に精緻に。狩野派は力強く大胆に。琳派は装飾的に簡略化してというのがある。琳派の松に関しては典型的なのが尾形乾山の屏風絵。まさに装飾的な松が描かれていた。なお乾山に関しては本領とも言える器の方も展示あり。

 展示作は様々であるが、松はやはり単独で描くよりも何かとセットで背景的に描かれるパターンが多い。やはり縁起物として高砂図がやけに多かったが、定番は鶴。松と鶴を描いた岸駒の堂々たる作品があり。これ以外では松に亀を描いた若冲のややユーモラスな作品なども。また松と鷹というパターンも結構多いと言うことは初めて知った。

 まあオーソドックスな日本画ばかりであったので、特別に変な作品はなかったことから無難に楽しめたというところ。


 美術展の鑑賞を終えたところで昼食にしたい。コンサートは兵庫芸文なので近いところということで「ダイニングキノシタ」に立ち寄ろうかと思ったのだが、生憎と駐車スペースに空きがない。諦めてガーデンズに行くことにする。

 ガーデンズの駐車場は入庫の際に大行列ができているが、それは南入口がかなり通行量の多い歩道を横切らないと入庫できない構造になっているから。ダラダラと自転車がやってくるたびに警備員が車の進行を止めるので、いきおい入庫効率が極めて悪い。いっそのこと信号でもついた方が良いが、道路でなくて駐車場入口しかない場所なので信号を付けるわけにもいかずというところである。今日は幸いにしてそれほどひどい行列にはなってなかったが。

 ガーデンズに入るとレストラン街へ。洋食をパスしたのでここで洋食・・・という気もしない。そもそも洋食が食べたかったわけではないし、ここの洋食屋にあまり良いところがない。というわけであまり工夫もなく「さち福や」に入店する。昨今の私は和食の方が無難なのと、この店は今日はあまり待ち客が多くなかったことからである。

ガーデンズの「さち福や」

 5分程度の待ちで入店できる。ここのメニューは焼き鮭の定食のようなバリバリの和食もあるが、メインはハンバーグやエビフライなどのなんちゃって和食が多い。私が注文したのも「アジフライの定食」

ふっくらとしたアジフライが美味い

 さっくりと揚がっていて柔らかいアジフライがなかなか。今の私の気分には概ね合致しているというところか。とりあえず無難に昼食を終える。

 

 

 昼食を終えると車でホールの駐車場に移動する。予想通りというか、まだ開演まで1時間半もあるためか駐車場はガラガラである。とりあえず車を置くと開場までにお茶をしたいと考える。ホール近くの喫茶は、アイスコーヒーを頼むとカップを渡されて自分で氷とBossを入れるというようなとんでも喫茶なので、駅の反対側の「珈琲館」まで足を伸ばすことにする。

珈琲館

 ここはタイミングによっては待ち客が多くて入店できないことがあるのだが、今日は幸いにして空席ありでスムーズに入店。メニューをざっと見渡して栗のホットケーキのドリンクセットを頼むことにする。

栗のホットケーキとアイスコーヒー

 ホットケーキはまずまず美味そう。さてアイスをと思ってよく見たら、ホットケーキ用のメープルシロップは付いてきているが、アイスコーヒー用のコーヒーシロップが付いていない。店員を呼ぶのも面倒くさいのでメープルシロップを少し入れてみたら、やはり固まってしまう模様。ただそのまま飲んでみたら、コーヒーがサッパリしているせいか意外といける。どうせシロップ入れてもこの甘いホットケーキ食いながらだと甘みはほとんど感じなくなるだろうから、このままいただくことにする。

 喫茶でしばしマッタリしたところで開場時刻。私が入店してから待ち客が出ているようだし、さっさと退店してホールに向かうことにする。ホールでは観客がゾロゾロ入場中。相変わらず芦屋響はアマオケにしては集客力があるようだ(とは言っても昨日のロイヤルコンセルトヘボウとは比較にはならんが)。1階席から見渡したところでは、この広いホールに6割ぐらいは入ってそう。これはアマオケの有料コンサートとしてはなかなか。

芦屋響は16型

 

 

芦屋交響楽団 第101回定期演奏会

指揮:粟辻 聡
管弦楽:芦屋交響楽団

ヒンデミット:気高き幻想
ブルックナー:交響曲第8番 ハース版

 芦屋交響楽団は16型編成の大型オケである。だからパワーもあるが、そもそもアマオケにしてはアンサンブル能力も高い。

 それがいきなり発揮されるのが一曲目のヒンデミット。とにかく冒頭から弦楽陣の分厚いサウンドに魅了される。これがアマオケの音とは驚きである。その分厚い弦楽陣をベースにしてそこに華麗な管楽陣が乗っかる形で鮮烈にして生命感あふれた音楽を繰り広げている。

 さて次がメインのブルックナー。それにしてもアマオケでブルックナーに挑むとはなかなかチャレンジングというか、場合によっては無謀とさえ言える。ブルックナーはかなり金官などに過酷であるが、往々にしてアマオケは金管陣に難点がある場合が多い。下手をすると金管大崩壊からグダグダになるという危険を秘めている。

 その点、芦屋交響楽団の金管陣はかなり頑張っていると言えるだろう。トランペット、トロンボーンなどには目立つような粗はなく、大抵金管崩壊の引き金を引くホルンも、概ね無難な演奏を繰り広げた。この辺りの管楽陣の安定性が支えとなって、アマオケとしては非常にレベルの高いブルックナーとなった。華々しくも力強い演奏であった。

 ここまでやられるとむしろもっと高い次元を求めたくなってきたりするものである。一つ気になったのは、強音でバリバリやるときはオケが一丸となって突き進むのであるが、どうしても弱音になるとまとまりが若干悪くなる。シーンとならずにザワザワとする感がある。また単純にストレートな音で鳴らすだけでなく、状況に応じて音色にニュアンスが欲しいところ。もっともこれらはオケだけの問題でなく、指揮者の表現も絡んでくるところである。しかもアマオケに対しては明らかに過剰な要求で、実際にこれが出来ればそこらのプロオケを凌ぐことになってしまうが・・・。

 

 

PAC定期公演ではゲッツェルのハンガリアンクネクネダンスが炸裂

豪雨の中を車で西宮へ

 先日に続いて今日も外出。今日は西宮でのPACのコンサートである。ただそれだけだと味気ないと思って調べたところ、ポートアイランドの日本芸術会館でミュシャ展が開催中との情報が。とは言うものの今更ミュシャである。これまで散々ミュシャ展の類いは行っているので、今更初見の作品なんてほとんどなかろうし、それに大抵はミュシャ展と名乗ってもポスター数点なんてのが多い。ただ私はこの日本芸術会館なる施設を全く知らなかったこともあって、そこに興味を持って立ち寄ることにした。

 午前中に家を出ると今日は車で移動することにする。西宮ならJRと阪急なんだが、もう電車に乗るのに疲れたのと、今日はかなり激しい雨が降っていることからのチョイス。

 阪神高速を突っ走る。ポートアイランドと言えば京橋出口なんだが、カーナビは生田川で降りてトンネルを使用するルートを指示、京橋出口まで到着したところで出口渋滞の案内が出ていることから、カーナビに従うことにする。とは言うものの、生田川は生田川で出口の信号でやたらに待たされるという難点を抱えているので、どちらが早かったかはよく分からない。

 日本芸術会館はポートライナーの北埠頭駅の南西にある。地下駐車場もあるのだが、なぜか入口ゲートが閉まっていて、電話で連絡を取ってシャッターを開けるという奇妙な方式。元々は入口脇に警備員詰め所があることから、恐らくそこに常駐していたと思うのだが、利用者が少ないことからリストラしたか。実際に駐車場に車をおいて入館すると、中は閑散としていて人気が少ない。

 展示室は4階から吹き抜けを挟んだ両側に展示室が並ぶ形式。洒落てはいるが、この展示室間をつなぐ橋を渡るのは高所恐怖症の私にとっては苦痛。やはりこういう「板子一枚下は地獄」感が私には非常につらい。

この中庭の連絡橋を渡るのが怖い

 展示室は人がいないこともあって非常に落ち着いた雰囲気。そこに具象画の美麗な作品や彫刻が並んでいる。作者については私の全く知らない無名作家ばかり。それどころか時々ネームプレートが落ちたのか作者不明になっている作品も多数。

落ち着いた展示室に絵画と彫刻が並ぶ

 ただ作品自体は技術レベルは高く美麗。こうやって眺めていくと、一体著名画家って何がどうなんだろうという気がしてきた。と、思っていたら妙な絵があると思ったらローランサンにダリ。なるほど、著名画家というのは上手い下手の次元でなく、個性が立っているんだと思い至った。

変わった絵があると思ったらローランサン

で、こっちはダリ

 

 

 展示室をフラフラと回っていたら、金は使っていないがやけにクリムト臭い絵があると思ったら、クリムトの模写だった。やっぱり私でも分かるぐらい個性が立っているのか。

なんかクリムト臭い絵だなと思ったらクリムトの認定模写だった

説明プレートがなかったが、これは言われるまでもなくクリムト

 

 上から下まで一回りしたが、当のミュシャ展がどこにもない。そこで再びHPを調査。その結果、3階展示室の奥が怪しそうだという結論になる。そこに行ってみたらそれが正解。小さな展示室2つほどにミュシャのリトグラフポスターをかけてある。大体私が予想していたレベルの最低限をも下回っているレベルの展示であった。もっとも最初からそれが目的ではなかったので問題ないが。

 

小さな展示室2つにリトグラフが数点

四季・夏

 ここにレストランがあるとのことなので昼食を摂っていくことも考えていたのだが、いざレストランに行くと誰もいなくて開店休業状態。それにそもそもこんな環境でまともな飯が食えるとも思えない(下手したら冷凍パスタをチンして出てきそう)。そこで昼食は別のところに立ち寄ることにする。

 これで芸術会館を後にしたのだが、まあ私としては収穫はあったが施設自体は正直なところ「完全に終わっている」感が強かった。

 

 

昼食は洋食レストラン

 さて昼食をどうするかだが、西宮方面で車で立ち寄る店というと私には一軒しか浮かばない。西宮の「ダイニングキノシタ」に向かうことにする。カーナビは高速道路を指定するが、それを拒絶して下道を走る。特に時間に追われているわけではないので、三宮から西宮までに高速を使用するほど私は金持ちではない。どうもこのカーナビは富裕層設定がされているようである。

 ダイニングキノシタの場合、車は目の前の道路に駐車するが、問題はそこに空きがあるか。店が前方に見えてきたが道路は満車の模様。「あちゃー」と思っていたら、信号待ちの間に一台が出て行く「ラッキー」とそこに車を置いた途端に前の車も出て行く。到着時が13時頃だったので、ちょうどお昼の客が入れ替わる時間帯だったようである。

豪雨の中をダイニングキノシタへ

 入店するとハンバーグとエビフライにコロッケのライラックランチを注文。しばし待つ間に原稿執筆である。この店は料理が出てくるのに少々時間がかかることが多い。それが分かっているから時間に追われている時にはここには立ち寄らない。待ち時間が長いせいで原稿執筆が進む(笑)。

 最初にカボチャのポタージュが。このやや甘めのスープが私の好み。そしてサラダは酸味のあるドレッシングが美味。この辺りを頂きながらpomeraで執筆。

かぼちゃのポタージュに

サラダ

 ここまでの原稿がほぼ書き終わった頃にメイン料理が到着する(笑)。エビフライのエビが私の記憶よりも若干大きくなっている印象を受ける。エビがプリッとして美味い。また肉汁が過剰にならない肉々しいハンバーグも美味(私は肉汁がベタベタしてソースを薄めてしまうタイプのハンバーグが嫌い)。そして美味だったのが、全然クリームらしくないエビクリームコロッケ(笑)。かじっても中身がしっかり固まっているのでポテトコロッケかと思ったらエビクリームコロッケだった。すぐに破裂するようなヘナヘナコロッケよりもこの方が私の趣味である。

メインが到着

 正直、昨日の昼が焼き肉(ちなみに朝はモスバーガーだった)ので洋食の気分ではなかったのだが、こうして食べてみると食べれるものである(笑)。

 満足して昼食を終えるとホールまで急いでも仕方ないので、しばしマッタリしてからホールに向かう。しかしこの行程がガーデンズ入りの車列に妨害されての渋滞などで散々、その挙げ句に雨のせいで車客が多かったのか、駐車場入口に満車表示が出ていて入庫不可。結局は近くのコナミスポーツセンターの駐車場に車を止める羽目になって、これだけで大損害である。今から思えば店でマッタリせずにさっさと退店するべきだったか。調べてみたところ、今日は中ホールと小ホールでもイベント開催で、その時間が大ホールよりも早い。どうも危険予知が不十分だったようで、己の読みの甘さを呪うばかり。

 雨に降られながらホールに到着するとちょうど入場時刻直前の大行列ができている。それの末尾に続いてゾロゾロと入場する。会場内はまずまずの入りである。

入場待ちの大行列

 

 

PACオケ第164回定期演奏会

最初は対抗配置10型が、12型になり、最後は通常配置の14型

指揮:サッシャ・ゲッツェル
ピアノ:河村 尚子

モーツァルト:交響曲 第1番
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番
ブラームス:交響曲 第1番

 一曲目はモーツァルトの最初期交響曲。なんと作曲時にはモーツァルトは8歳とのこと。これだから天才という奴は・・・。もっとも天才らしきひらめきは感じるのだが、まだまだ未熟というか、後の作品のような深さはない。またゲッツェルの指揮も中庸というかやや地味な感がある。PACオケのアンサンブルには問題がないのだが、残念ながらまだ音色に味がない。というわけでやや淡白な印象が残る。

 二曲目は河村らをソリストに迎えてのベートーヴェン。冒頭から河村がかなりしっとりと色っぽい音色を出すなと思っていたが、演奏のテンポが上がってくると河村の演奏はかなりガツンガツンとした荒っぽい印象のものに変わる。その変化の激しさというか、落差の大きさにいささか戸惑う次第。

 ゲッツェル率いるPACは無難に伴奏に徹していたところがある。結局この曲は河村のかなり目立つピアノ演奏を中心にまとめてきたというところ。盛上がるとかなりガツンガツンと弾いていた河村が印象的。

 河村のガツンガツンはアンコールのクープランの墓のトッカータで極まる。始終高速店舗に徹するこの曲では最初から最後まで河村はガツンガツンとかなり激しくて硬質なタッチで叩きつける。こうやって聞いていると、かなり腕力もありそうな印象。

 後半はブラームスの1番。この曲に関してはかなり重厚にテンションの高い演奏もあり得るのだが、ゲッツェルのはその対極。そのクネクネとした腕遣いの独特の指揮姿からも想像できるように、音楽自体もしなやかに流麗であることを優先。第1楽章から緊張感よりも弦楽を中心とした滑らかさを正面に出してきた。

 その一方で煽るときには徹底的に煽る印象。興が乗ってくるとかなり露骨にガンガンやる。ただPACは最強音でガンガンやり続けるとアンサンブルがやや雑になってくる傾向があるようで、ところどころ破綻寸前に聞こえる局面もあった。

 その調子でクライマックスには煽りまくりの大盛り上がりでラストまで。場内は大いに沸いていてゲッツェルもノリノリ。このコンサートはカーテンコール後の写真撮影が許可されていたが、ゲッツェル自身が「さあ、撮って」というよなジェスチャーまで。

場内盛り上がり

ゲッツェルもノリノリ

 盛上がりまくったところで珍しくもオケアンコール。ゲッツェルが「No1」と言ったことしか私には聞き取れなかったんだが、ブラームスのハンガリー舞曲の第1番ということだったようだ。しかしこれが始まった途端に、ゲッツェルのクネクネした指揮ぶりが腕だけでなく全身にまで及び、ひざは曲げるわ腰は振るわのハンガリアンクネクネダンス状態に。どうやらゲッツェルはノリまくっているようだが、見ているこっちは正直笑いをこらえるのが必死。PACのオケメンもよくもこんな指揮の前で真面目に吹いていられるものだと感心。これは広上のタコ踊りと双璧ともいえる。

 結局はゲッツェルのハンガリアンクネクネダンスもかなりの好演。場内はさらにヒートアップして、ゲッツェルも場内に「はい、写真どうぞ」という感じで盛上がっていたのである。

相当満足げなゲッツェル

 

 

スペインADDA交響楽団はノリノリの大盛り上がりとなる

連日の大阪へ

 昨夜大阪から帰ってきたところだが、今日はまた大阪にとんぼ返りである。本来なら大阪で宿泊したいところだったが、とにかく昨今の異常なホテル代高騰とインバウンド公害で宿泊が確保できなかった次第。少々疲れるが仕方ない。

 土曜の午前中に家を出ると途中で朝食を摂ってからJRで大阪へ。さて今日の目的だが、ちょうど現在来日中のウィーンフィルのコンサート・・・に行きたいのはやまやまなんだが、なんせアホノミクスの結果の円暴落で天井桟敷の最安席で25000円と言われると、完全に予算オーバー。結局は日程の被る裏コンサート(笑)に行くしかなく、選択したのがスペインADDA交響楽団なる謎のオケのコンサート。C席(例によって3階の見切れ席であるが)で5000円という妥当な価格。というわけで、台湾フィル、カナダナショナル管、プラハフィルに次いでの「海外マイナーオケシリーズ第4弾」と相成った次第である。

 大阪に到着したのは11時過ぎ。開演が14時からなのでいささか時間がある。さてどうしてつぶしたものかと迷った時に頭を過ったのは、確かグランフロントで藤城清治展をやっていたはずとの情報。ただし今更藤城清治というのもというのが本音(今まで既に数回行っている)。そこで入場料が2000円以上だったらパスという基準を設定してグランフロントに向かう。会場近くにポスターが張り出しているので入場料を確認したらジャスト2000円。これでパス確定である。

 さてこれからどうしたものかと悩んだ時に、空中展望台を備えた梅田スカイビルが目に入る。そう言えば今まであのビルは行ったことがなかったし、確かあそこには絹谷幸二天空美術館という個人美術館があったはずと記憶を手繰り、とりあえずそちらを目指すことにする。

空中展望台を持つ梅田スカイビル

 ビルへのルートはJRの貨物駅跡を絶賛再開発中である。かつては地下トンネルで反対側に抜けた記憶があるが、今は地上が公園整備されつつある。そこを抜けると件のビルが見えてくるが、空中展望台が下から見上げても「板子一枚下地獄」感が半端なく、美術館があそこだったら嫌だなという考えが頭を過る。

下から見上げると高所恐怖症を刺激する

 幸いにして美術館はそこではなく、西館のビルの27階に普通にある模様。入場券を購入しようと思ったら2500円という数字が目に飛び込んで来て引き返そうかと一瞬思ったが、それはどうやら展望台とのセット券で、美術館単独は1300円の模様。ハルカス美術館と似たシステムである。

美術館に入館する

 

 

「絹谷幸二 平和へ」絹谷幸二天空美術館で12/7まで

 洋画家絹谷幸二が昨今の紛争相次ぐ世界を鑑みて、芸術から平和を訴える作品を提言することにしたのだとか。

シンボル作品である「祝・飛龍不二法門」

 作品は絵画と立体作品の両方があるが、とにかくインパクトが強い。9.11のテロをモチーフにしたと思われる作品や明らかに戦争をイメージしている作品など。

明らかに9.11をモチーフにした「発火激情(平和を祈る自画像)」

ノン・ディメンティカーレ(忘れないで)

 仁王や不動明王などを配した作品があるのは、人間の愚行に対する警鐘を鳴らしているのだろう。日本に再び戦争への道を歩ませようとしているような馬鹿総理は、こういうのを見て考えを改めるべきだろう。

オマージュ「平治物語絵巻」

天駆ける仁王

 

 

 立体作品もインパクト大で奇天烈であるが、龍などをモチーフにした作品が多い。

スカイビルをモチーフにした立体作品

朝陽富嶽玉取り龍 不二法門

 また絹谷幸二はフレスコ画の技法を研究してアフレスコの技法を確立している。青山の国立総合児童センター用に制作されたアフレスコ画を、同館の閉館に伴って剥がして移設した作品も展示されている。古くて新しいという印象の絵画となっている。

アフレスコ画の壁画

 どう表現してよいか分からない強烈なインパクトのある作品群だった。理解不能な点も多々あるが、まあ意外と嫌いではないというのが正直な感想。もっとも強烈故に一回り見学すると飽きてくる面もあるので、この美術館に再訪があるかは微妙なところである。

 

 

昭和レトロ風の地下レストラン街で昼食

 美術館の見学を終えるとホールに向かう前に昼食を摂ることにする。ここの地下に滝見小路なるレストラン街があるというから覗いたら、今時流行の昭和レトロの風情を再現したレストラン街となっている。もっとも昭和レトロにしては店の案内は英語が並びまくっていてインバウンド大全盛であるのが歴史設定が狂っている。

昭和レトロな風情を出している

ビクターのニッパー君が

昭和なお茶の間の復元

 一渡り店を調べてから「鉄板焼 えん」なる店に入店。当初は赤身ステーキのランチを考えたが、オージーだというので「黒毛和牛の焼肉ランチ(1200円)」を注文することにする。

鉄板焼き えん

 まあ普通の焼き肉。特に驚きもしないが失望もしない。黒毛和牛を名乗っているので脂っこいことを警戒したが、それはさして気にならない。場所のことを考えるとまずまずの昼食と言えよう。

和牛の焼肉ランチ

 昼食を終えるとホールまで歩く。まあ軽い気分転換の散策のようなもの。ホールに到着したのはちょうど開場時刻の3分前である。

開場3分前にホールに到着

 ホールに入場すると今日は少々暑いので、喫茶でアイスコーヒーを頂きながらこの原稿を執筆である。喫茶はかなりの混雑。ガラガラだったカナダナショナルやプラハと違って結構観客が来ているんだろうか?

アイスコーヒーでまったりする

 時間が来たところで席に着くが、今回は右手の見切れ席でステージ上のヴァイオリンしか見えない状態。今まで見切れ席ばかりだったが、今回は一番悪い席か。なお場内は結構入っている。一階席はほぼ満席、三階席もほぼ満席。二階正面席の中段に空席があるが、後段はほぼ満席。つまりはA席の悪い席が残っているという状態か。全体では9割近く入っている印象。

 

 

スペインADDA交響楽団

かなりひどい見切れ席である

[指揮]ジョセップ・ヴィセント
[ピアノ]マルティン・ガルシア・ガルシア
[ギター]村治佳織

ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 op.21
ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
ラヴェル:ボレロ

 スペインADDA交響楽団は地中海岸のアリカンテを拠点としたオケで、現代音楽やポピュラー音楽などまで幅広いレパートリーを持つという。ヴィセントは同団の首席指揮者であるという。オケ自体はオーソドックスな12型のオケである。

 一曲目はいきなり冒頭からホルンの奏でるメロディがどうにも不安定でややずっこけるが、弦楽陣のアンサンブルは決して悪くない。また管楽陣もそう悪いというわけでもない。むしろ個々に見ていったら結構上手いように感じる。ただ音楽自体は美しくはあるが、もっと切々とした情感が欲しい気はする。

 二曲目はショパンのピアノ曲。ピアニストはいかにもラテンな感じの名前のガルシア・ガルシアであるが、もういきなりラテン的というかかなりの無手勝流の演奏であることが分かる。とにかく溜だの揺らしなどを多用する良く言うと実にロマンティックな演奏なのだが、端的に言うとバックのオケのことを全くかまっていない演奏。だからピアノセッションは情感豊かで良いのだが、元々オケとピアノの融合にやや難のあるショパンの曲の、その難点をもろに拡大したような演奏になってしまう。ピアノとオケが全く別に音楽を奏でている雰囲気。

 第2楽章以降は、ガルシアが歩み寄ったか、オケが合わせてきたのか、それとも曲調の影響かは不明だが、最初よりはまとまりは良くなる。第2楽章はガルシアが歌いまくり、そのまま怒濤の第3楽章で曲を終える。美しい音楽ではあったが、ただ最後までどことなくチグハグ感はつきまとったのである。

 ガルシアのアンコールはアルベニスのナバーラとのことだったが、これがまた凄かった。ガツンガツンとまさに怒濤の演奏で、激しくて実に奔放。これがどうやらガルシアの本領であるということがよく分かる。やはりガルシアにはオケの縛りが入る協奏曲は向かないのだろうか。

 前半はやや借りてきたもの感があり、今ひとつしっくりとこない印象を受けたが、これが一変するのが後半。

 村治のアランフェスは私自身も既にその演奏を何度か聞いたことがあるぐらいで、村治にとってはまさに自家薬籠中の曲。それだけに安定感が抜群である。

 ここで分かるのがバックのオケが基本的に非常に陽性なオケであるということ。アルトオーボエが奏でる第2楽章のメロディのように、奏者単独だと哀愁を帯びたメロディを奏でることもできるのであるが、オケの斉奏になると問答無用で音色が陽性を帯びる。この辺りがラテンなオケと言うべきか。もっともアランフェスはオケにとっても自家薬籠中の曲のようで、ようやく本領発揮というかまとまった見事な演奏を披露する。

 村治のアンコールはギターではド定番の「禁じられた遊び」。物悲しい旋律が心に沁みる演奏となっている。会場も盛上がる。

 盛上がった勢いのままに最終曲のボレロに突入する。ボレロは各楽器がソロを受け持ちながら曲を回していくが、とにかくソリストが歌いまくる。かなりノリノリなのが伝わってくる。管楽陣の技量がさく裂している。ボレロはそもそもスペインの舞踏とのことなので、彼らにとってはある種のご当地音楽ということにもなる。ボレロは終盤に向けて曲を盛り上げていくが、その盛り上がりのテンポが通常よりもやや早い印象。そしてラストはまさにホールが一体となっての大盛り上がりとなる。

 この時点で観客が大爆発の大盛り上がり。立ち上がって拍手をする観客もチラホラ。後半プログラムが軽めなのでアンコールは絶対あるとは思っていたが、その準備中に日本人らしきコンミス(どうやらフランスで活躍されている田中綾子氏がゲストコンマスだったらしい)が「大阪がやっぱり一番」という類いのトークで時間をつないでこれも盛り上がり。

 そしてアンコールがマルケスのダンソン第2番。メキシコの作曲家の現代音楽らしいが、エキゾチックなリズムでガンガンと行く曲。ヴィセントが会場内に手拍子を求めて大盛り上がりで、オケの方もブンチャカとまさに本領発揮。やはりこのオケはかなり陽性のオケである。こういう曲がまさに本領のようである。

 場内さらに爆発。ついには村治まで引っ張り出してきていきなりファリャの三角帽子の序奏というショートショート。場内爆笑と共にさらに盛り上がって収拾のつかない状態になってくる。ここでヴィセントはコンミスと「どうする?」という雰囲気でゴニョゴニョ相談。その結果、やはりこれが出ないとという「カルメン」が登場して場内手拍子の大盛り上がりになる。結局は最後はやや強引に終了ということに。

 とにかく前半はやや疑問もないではなかったのだが、後半にしっかりと帳尻を合わせて最後は大盛り上がりの大成功に持って行ったという、なかなか巧者なコンサートであった。

 

 

芦屋で「山崎隆夫展」鑑賞後に、西宮で宝塚市交響楽団のコンサート

西宮まで車で走る

 この週末は西宮へアマオケ宝塚交響楽団のコンサートに出向くことにした。通常これだけだとJRと阪急を乗り継いでいくところだが、今回は電車では立ち寄りにくい美術館に立ち寄るのと、つい先日に乗り換えた車の長距離テストを兼ねて車で繰り出すことにする。

 車は17年落ち(走行12万キロ)のノートがつい先月に不慮の事故で全損になったのをきっかけに、ノートのe-powerの中古(8万キロ走行の年代品でバッテリが少々心配)に乗り換えたところ。e-powerはハイブリットというよりも、ガソリン発電機付き電気自動車なので走行感覚は今までのものとまるで違う。とにかくアクセルを緩めると回生ブレーキでガッと減速するので、エンジンブレーキが超強い車という感触で、以前の車だと信号前の減速はアクセルから足を離してブレーキ操作だけで詰めていたが、今の車はアクセルに足をかけたままアクセルを緩めて回生ブレーキを緩めながら距離を詰め、止まる所でアクセルから完全に足を離して停止という操作になる。今までとはアクセル操作がかなり異なるので戸惑うことも多い。また回生ブレーキが車が完全に停止するレベルで効くので、緊急操作以外はワンペダルで運転できてしまうところがある。しかしこれは慣れてしまうといざという時に緊急ブレーキを踏めなくなったりアクセルを間違って踏んだりの危険があるような気がする。また後続車からしたら、ブレーキランプの点灯なしにグッと減速する車は怖いのではないかなんてことも考える。

 高速を走っていても車重が重いせいか、加速にしても減速にしても以前のガソリンノートに比べるとやや鈍重な感覚。特に加速がガソリンAT車のキックダウンのような荒っぽい加速がない。そのために前の車に置いて行かれる感覚があるうえに、前が急ブレーキを踏むと慣性で一気に車間が詰まる(ここでピピピという警告が鳴る)ので、どうしても車間を長めにとった運転になる。危なくて前の車の後ろに付けられない(まあ元々車間0の煽り運転をしたりする人間ではないが)。

 試行錯誤を繰り返しながらしばし高速を突っ走るが、高速走行はe-powerにとっても低燃費走行が可能なのか、メーターの残り走行可能距離の数字がグングンと増えていくのに驚いた。家の周りをウロウロしていた時には、せいぜいリッター15キロ程度だったのが、最初の目的地に到着した時にはリッター26キロをたたき出していたのには流石に度肝を抜かれる。

 最初の目的地は六甲アイランドの小磯記念美術館。地下の駐車場に車を置くと美術館へ。

小磯記念美術館

 

 

「時をかける版画 小磯良平の版画と藝大版画研究室の人々」小磯記念美術館で12/14まで

 小磯良平は戦後に東京藝術大学で教鞭をとり、版画教室の開設に尽力したという。小磯自身の版画作品及び、その時に版画教室で指導に当たった木版画の小野忠重、石版画の脇田和、銅版画の駒井哲郎らの作品及び、小磯の銅版画制作の一部を担当した中村忠良、その同級生の星野美智子、野田哲也、柳澤紀子ら版画家たちの作品を展示する。

 小磯の版画作品に関しては、彼の端正なスケッチをそのまま版画にしたというようなもので、殊更に版画向けの技法を駆使したというような印象は受けない。なお小磯はエッチングを好んだとのことだが、私の目には小磯の作品は線が柔らかくなる石版画の方がマッチしているように感じられた。

 小野の木版画は社会的ネタの多いやや重苦しさのある作品。それに対して脇田のリトグラフは抽象に見える表現が多くて私には理解しにくい。なお駒井哲郎は言うまでもなく日本を代表する銅版画の巨匠であり、その作品には独特の雰囲気が濃厚に漂っている。

 中林ら弟子組の作品は、時代の違いか技法に凝ったものが多く、また写真を取り入れたりデジタルを使用したりなどいかにも今風になっている。内容もやや抽象に近づいていくという現代アート的なものであり、私には理解しにくいものであると同時に、版画を使う必然性が感じられなかったりする。


 小磯記念美術館の見学を終えると次の目的地へ。次の目的地こそが住宅地の奥にあって鉄道ではアクセス不可能なかなり難儀な美術館である。ここに立ち寄るつもりだったのが、わざわざ車を持ってきた大きな理由の一つである。

芦屋市立美術博物館

 

 

「山崎隆夫 その行路 ―ある画家/広告制作者の独白」芦屋市立美術博物館で11/16まで

 大阪生まれで神戸育ちの山崎隆夫は画家を目指していたが、家業がうまくいかなくなったことから芸術学校への進学を断念して神戸高等商業学校(今の神戸大学)に入学、芦屋在住の小出楢重に師事して洋画を学び、さらには3年後に小出が死去すると林重義に学んで画家としての修行を重ねた。

小出楢重「仏蘭西人形」

同じ人形を描いた山崎隆夫「人形」

林重義「雪景山水」

山崎隆夫「卓上の電話」

 

 

 その一方で三和銀行に就職し、そこで画才が見込まれて広報担当に抜擢され、菅井汲、吉原治良らと組んで、人気女優の写真やイラストなどを使用した斬新な数々の広告を打った。そしてその活躍が注目され、今のサントリーに招かれ、有名なトリスウイスキーの広告などを手掛ける(イラストは菅井汲によるもの)。

有名なこの広告を手掛けたのが山崎

トリスのこの有名なキャラも(イラストは菅井)

 晩年の山崎は茅ケ崎に居を構え、画家としての絵画制作に打ち込んだという。そのような複雑な経歴を送った山崎の生涯の創作を追いかけている。

 初期の絵画を見ると見事なほどに師匠の影響を受けているのが分かるが、その後も画壇の流行などに乗っかった作品があったようである。どうもスタンスが定まらずミーハー的な印象も受けるが、そういう感性が広告を担当するとなった場合に武器になったのではという感が強い。

こういう抽象画を描く一方で

こういう写実的な作品も描いている

富士を描いた「山下雷電」

一方でこれも富士が題材の「きつねのよめいり」

 晩年の作品なんかはまさに好き勝手という印象で写実絵画に近いものから抽象絵画の手前まで脈絡なく気分の赴くままに創作をしていたという印象を受ける。こういう自然体がこの人物の真骨頂のようである。

一見抽象画っぽいが実は「大池寺刈込庭」を描いたもの

具象とも抽象とも言い難い「燃え上る雲」

 

 

 これで美術館関係の予定は終了。後は14時に兵庫芸文で開催のコンサートに駆けつけることなるが、その前に昼食は摂っておきたい。さて気分であるが、洋食は少々重い。そこでそば屋を検索したところ、近くに「手打ちそば 相田」なるそば屋がある模様。グーグルで調べたところ、駐車場もあるようであるのでそこに向かうことにする。

かなり年季の入った雰囲気の店

 美術館からそば屋へは10分とかからずに到着。駐車場が空いていたので車を入れると入店する。

 何を食べるか迷う。メニューが写真がなくて文字だけのタイプなので内容をイメージしにくいのは難点。最初は鴨なんばを注文したのだが、鴨が品切れとのことなので天ぷらそばの大盛りに切り替える。

ボリュームはかなりある

 しばし待った後に天ぷらそばが登場。いささかボリュームがあり、これを見た時に「大盛りにする必要はなかったな」と感じる。天ぷらの油の匂いがいささかくたびれているように感じるのが気になる。

 そばは二八とのことだが、ずっしりと重めのそばである。しかも微妙に太めであるので温そばにするとやや団子感があってのど越しが良くない。こりゃ冷そばにするのが正解だったかなと少々後悔。

 昼食を終えるとホールへ。しかし車に搭載の純正ナビがどうも見にくいこともあって(パイオニアのナビ画面に慣れすぎていた)、途中で道を間違えてガーデンズ周辺の渋滞に巻き込まれる羽目になっていささか時間をロスする。それでもとりあえず問題なく会場に到着。

 既に開場時刻になっているのでさっさと入場。またホールの中は閑散としているが、待っていると次第に客が増えていく。最終的には1階席で7割程度、4階席までどうやら観客が入っているというアマオケにしてはかなりの入りとなる。

場内はほどなく席が埋まっていく

 

 

宝塚市交響楽団 第76回定期演奏会

指揮:髙谷光信
管弦楽:宝塚市交響楽団

ショスタコーヴィチ:ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲 op.115
ハチャトゥリアン:組曲「仮面舞踏会」
チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 op.17

 一曲目はショスタコが民謡を主題にした作品。音楽祭のための祝典序曲であるとのことで、かなり派手でにぎやかしい作品である。特に中盤から終盤にかけてはショスタコ的な乱痴気騒ぎになるという印象。

 宝塚市交響楽団の演奏であるが、中盤以降正真正銘の乱痴気騒ぎになっていた。また髙谷の指揮が結構煽るタイプの指揮であり、それでなくてもブンチャカやりがちのアマオケを更に乗せるところがある。まあそれでも宝塚市交響楽団のアマオケにしてはレベルの高いアンサンブルは崩れることはなかったが。

 二曲目はハチャトゥリアンの仮面舞踏会。彼らしく音楽自体にどことなく異国情緒が漂うところがある。快活な一曲目のワルツからなかなかに盛上がっていたが、コンマスのソロが冴える二曲目の夜想曲はなかなかに美しい。緩急の差も十分に付けられるのが宝塚市交響楽団の技量ではあるのだが、全体的にやや元気に偏っている感もあった。

 休憩後の後半がチャイコの交響曲の中では比較的演奏機会の少ない第2番。民謡などから主題を取っていることもあってやや泥臭さもある曲である。

 この曲についても今までの演奏と同傾向で、やっぱり髙谷はかなりガンガン行くなという印象。一応歌わせるべき部分ではそれなりに歌わせるのであるが、それよりはフォルテッシモでガンガンとやる方が真骨頂という雰囲気で、本人自身がかなり楽しそうに腕を振り回している印象。オケもそれに煽られてかなりガンガンとしたパワー押しの演奏となっている。まあ悪くはないのであるが、もう少し陰影が欲しい気もする。

 なお宝塚市交響楽団は全体的にレベルの高いアマオケであるが、やはりどのアマオケでも概して持っている「ホルンが弱い」という弱点を抱えている。どうもホルンという楽器はかなり難しい楽器らしく(ホルンどころか楽器一般が全くできない私には技術的なことは全く分からないが)、プロでもしでかしがまま見られることから、アマとなれば相当にしんどいのだろう。本公演でも特にチャイコの2番がホルンが重要な部分を担当するだけに、それがかなり危うかったのはどうしても耳についた。演奏自体の難点を指摘するならやはりそれに触れないわけにはいかない。

 コンサート自体はなかなかの盛り上がりで、それを受けてのアンコールがチャイコのエフゲニー・オネーギンよりワルツ。これがなかなかに美しい曲であり、宝塚市交響楽団のアンサンブル力を披露するのに最適な曲となっていた。

 

 

福田美術館で美人画を堪能した後は、オッテンザマー指揮のPACで魅力あふれるザ・グレイト

西宮への移動の前に嵐山に立ち寄る

 その晩はかなり爆睡したようで、目が覚めたと思ったら既に9時になっていた。10時間以上爆睡していたことになる。これは最近あからさまに睡眠力が落ちて中途覚醒が多くなっていた私としては驚異的。

 爆睡したおかげか朝から体は怠いが調子は悪くない。とりあえずさっさと着替えると2階のレストランスペースに出向いて簡易朝食。ちなみにかつてはここにレストランが入居していて、朝はおばんさいバイキングがあったのだが、レストラン撤退で今ではパンだけの粗末なものになっている。景気の悪さと物価の高騰が露骨に反映しているのがこのホテル。なんかダメになっていっている日本の縮図でもある。

朝食のパンをトースターで焼きすぎてしまった

 このホテルのチェックアウト時刻は11時で、会員は12時まで滞在可能。そこで昨日全く作業が出来なかったこともあって、しばし原稿作成。しかし頭の回りがあまり良くないようで作業がはかどらない。

 さて今日の予定だが、西宮で開催されるPACオケのコンサートが15時から。ただしその前に昨日立ち寄れなかった美術館に立ち寄るつもり。12時までホテルにいたら流石に出発が遅くなりすぎるので、11時ごろにチェックアウトする。

 このホテルの一番のメリットは交通の要衝に位置すること。これから向かうのは嵐山の福田美術館なので、烏丸から阪急でダイレクトである。

 秋の行楽シーズンのせいか、嵐山はインバウンド中心にごった返している。灼熱地獄だった前回訪問時がまだ閑散としていたのとは対照的。歩道が大混雑しているせいで、キャリーを引きずりながらの移動がかなりの苦痛。

嵐山はこの調子でインバウンド大混雑

 福田美術館の前の角のカフェが異常な行列で大混雑しているが、そこを抜けた福田美術館周辺はいつものように閑散としている。

美術館周辺の一角だけが別天地

 

 

「上村松園と美人画の軌跡」福田美術館で11/8まで

 上村松園生誕150年とのことで、松園を初めとする美人画コレクションを展示する。

 第一展示室は美人画の走りと言える江戸時代の作品から始まって、上村松園の作品が一堂展示。見たことのある作品から初めてではないかと思われる作品まで様々。こうしてまとめて見てみると、描き方が定型化していると思われていた松園の美人画だが、実はモデルの顔立ちが様々であることが分かる。

勝川春章「桜下遊女之図」

上村松園「四季婦女」

上村松園「人生の花」

上村松園「かむろ」

上村松園「雨を聴く」

上村松園「初雪」

 

 

 さらには池田蕉園、島成園、伊藤小坡といったところのこのジャンルでは忘れてはならない女流画家たちも登場。個人的にはこれがなかなかの収穫。

池田蕉園「もの詣で・春の日」

島成園「舞子」

伊藤小坡「初雪」

 第二展示室は美人画と言った時に外すことはできない鏑木清方の清澄な作品、さらには個人的にはあまり好きではない伊東深水の作品が登場。残念ながら共に著作権の関係か撮影は不可。なお私が伊東深水の作品があまり好きでないのは、どことなく媚がみられるからであるが、本展展示作は深水にしては媚があまり感じられない作品が並んでおり、この深水ならまずまずいける。これ以外では門井掬水の大作屏風など当時の東京画壇を代表していた画家たちの作品。さらには京都画壇の異才、甲斐庄楠音に岡本神草と言ったクセの強い面々の作品が登場。

門井掬水「舞踏の楽屋」右隻

同左隻

岡本神草「追羽根」

甲斐庄楠音「舞之図(汐汲みを描く)」

 

 

 第三展示室は急に洋画になる。岸田劉生に始まって唐突にルノワールが来たと思えば、小磯良平に岡田三郎助、さらには東郷青児という脈絡のないラインナップである。

岸田劉生「村娘之図」

ルノワール「女の頭像」

小磯良平「婦人像(装い)」

岡田三郎助「裸婦」

東郷青児「草上の三人の娘」

 なお第三展示室は以前より窓から差し込む日光が額縁のガラスに反射して、絵が見にくいうえに撮影してもまともに映らないという難点があったのだが、本展では窓にカーテンを引いてあった。展示室内は薄暗くなってしまうがこれで正解。

 

 

 本展は嵯峨嵐山文華館が第二会場となっており、私も共通券を購入している。そこで第二会場に足を延ばす。前回訪問時はこの行程が灼熱地獄で大変だったが、まだ少々暑いとはいえ前回とは比較にならないレベルなので移動での消耗が少なくて助かる。

嵯峨嵐山文華館へ移動

 第一会場が近代美人画中心だったが、第二会場の一階展示室は江戸期の美人画中心。いわゆる肉筆浮世絵の展示である。

梅翁軒永春「雪卯模様着衣立美人図」

川又常正「見立て寒山拾得図」

東燕斎寛志「雪中美人図」

蹄斎北馬「雪月花」

円山応挙「美人図」

祇園井特「芸妓図」

 

 

 二階展示室では妓女などを描いた近代美人画を展示。第一会場でもあった上村松園、伊藤小坡らに加えて北野常富、中村貞以らの作品が登場する。

栗原玉葉「お七・お染」

上村松園「花のさかづき」

中村貞以「春粧」

中村貞以「蛇皮線」

北野常富「むすめ」

伊藤小坡「花見之図」

 以上、美人画というジャンルにこだわっての展示。同じような女性を描くにしても、画家によって描き方の個性があるのが分かって興味深いところでもあった。

 

 

 これで後は今日の予定は西宮でのコンサートだけ。とりあえず阪急で西宮北口を目指すが、昼食を摂る必要があるが例によって食欲が今一つ。面倒ということで、乗り換えの梅田駅で構内の「たちまちカレー」に立ち寄る。

阪急大阪梅田駅構内の「たちまちカレー」

 その名の通りまさにたちまちカレーが出てくるが、500円のオーソドックスなカレーは具なしの模様。どうやらこれをベースに具をトッピングしていくのがここの流儀か。ルーはやや甘口。悪くないが別段美味くもないというところ。どことなく24時間戦うビジネスマンが乗り換え時に3分チャージをしていくための店という印象が強い。

シンプルな具なしカレーがすぐに出てくる

 大阪駅から西宮北口に移動。どうも先ほどのカレーが中途半端に過ぎたので、何かを少しはらに入れたい気分。そこで駅内の宝塚線ホームにある「若菜そば」に立ち寄ってざるそばを腹に入れていくことにする。

西宮北口駅宝塚線ホームの「若菜そば」

 「当店は生麺を使用」と書いてあったが、確かに駅内のこの手の蕎麦屋にしてはすぐにそばが出てこずに数分待たされる。どうやら麺をゆでている模様。それもあってか出てきた麺は腰はまずまずである。ただ残念なことにそばの味がしない。どうも二八そばならぬ八二そばぐらいではないかという印象。私は特にそばマニアというわけではないが、それでもそばを食べた感があまりしないのが本音。

麺の色からしてそばが少なそう

 というわけで駅内で適当に食べたらそれなりでしたという話。まあ共にワンコインに収まる額というのはこのご時世にはありがたいが、やはり食事というよりはエネルギーチャージという感が強いのがいかにも。

 そばを食べ終わったころには開場時刻を過ぎているのでホールに向かう。ホールはまずまずの入りである。

 

 

PACオケ第163回定期演奏会

今回の出し物

指揮:アンドレアス・オッテンザマー
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調
シューベルト:交響曲 第8(9)番「ザ・グレイト」

 オッテンザマーはクラリネット奏者として活躍しており、つい先日には大フィルの定期でそのクラリネットの演奏を聞いたばかりであるが、今回は指揮者として登場。どうやら彼は指揮者としての活動も行っているらしい。

 一曲目はメンデルスゾーンのド定番曲。エーベルレは6歳からヴァイオリンを始め、17歳でラトル指揮のベルリンフィルとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で共演し、国際的に注目を浴びるようになったという才媛。多くの一流オケとの共演も重ねているという。

 流石に技術的には安定感があり、この定番曲なんてサラッと弾いてしまうから、非常に簡単な曲に聞こえてしまうというところがある。演奏自体は極端なクセのない意外にオーソドックスなもの。ただ一つだけ気になったのは、非常に強い演奏をするが故にいささか音色が固めに聞こえたこと。時折カツンカツンという感じに聞こえてくる場面があった。

 なおバックのオッテンザマーの指揮ぶりがかなり大きいので、ヴァイオリン側にグワッと接近してきて、エーベルレがいささか窮屈そうに見える場面もあったのはご愛敬。

 熱の入った演奏に大盛り上がりの場内の歓呼を受けて、アンコールではオッテンザマーがクラリネットを持ち出してメンデルスゾーンの演奏会用小品を素敵な二重奏。美しいアンサンブルに場内は再び大いに盛り上がった。

 休憩後の後半はオッテンザマーによるグレイト。シューベルトのこの交響曲はとにかく長大であるので、下手にメリハリのない演奏をしてしまうと眠気がこみあげてくる危険もある曲である。それに対してオッテンザマーの指揮は極めて快活であり、音楽が躍動するという印象。この曲は元々陽性な要素が強いのであるが、それを徹底的に陽性側に振っている印象。

 第二楽章などは演奏によってはやや哀愁を帯びた印象になるものもあるのだが、オッテンザマーの場合はとにかく明るい。ひとひねりあるコミカルな音楽という印象で響く。オッテンザマーの快活な指揮が、PACオケの若さと呼応した感がある。なかなかにオケから鮮烈な音色を引き出していた。オッテンザマーはこのオケとかなり相性が良さそうである。

 その調子で最後の最後までとにかく活気に満ちて生命感が躍るという調子の演奏であり、眠気など訪れる隙さえなかったというところ。なかなかに興味深い演奏であった。

満場の歓呼に応えるオッテンザマー

なかなかの演奏であった

 

 

この遠征の前日の記事

www.ksagi.work

 

 

京都の美術展を駆け回ってから京響のコンサートへ

京都の美術館を駆けずり回る

 この週末は京都方面に遠征に出ることにした。メインは京都市響の定期演奏会。さらに京都方面の秋の美術展を網羅しようという計画。コンサートは14時半開演だが、回るべき美術館の数が多いので、開館と同時に入館するべく早朝から家を出ることに。

 JRで京都まで移動するとそこを通り過ぎて次の山科まで。ここから地下鉄に乗り換えて東山。最初の目的地は京都国立近代美術館。ここで開催中の「堂本印象展」を見学することが目的。今日は早朝出発のせいで朝食を摂っている暇がなかったので、山科で地下鉄に乗る前に朝食としてうどんを腹に入れてから移動する。

 美術館に到着したのは開館の5分前ぐらい。計画通りである。この時点でどうやら開館待ちしているらしい観客が10人ほど。私は事前に電子チケットを確保してあるので券売所に並ぶ必要がないのでスムーズに入館できる。

 

既に開館待ち客が数人

 

 

「没後50年 堂本印象 自在なる創造」京都国立近代美術館で11/24まで

堂本印象具象画の頂点と言える「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」

 日本画の大家の一人である堂本印象についての大規模回顧展である。

 堂本印象であるが、当然私もよく知っている画家の一人だが、そうでありながらいかなる画家であるかというのは私も把握しかねているところがあった。というのも、かなり正統派のカッチリした日本画を描くかと思えば、抽象絵画まで手掛けており幅が広すぎる。その感覚は京都にある堂本印象美術館にもろに反映されているのだが、あれだけ爆発した外観は岡本太郎美術館並みである。というわけで私は今までこの画家に対する統一したイメージを確立することが出来ていなかったのである。

かなりぶっ飛んだ外観の堂本印象美術館

 本展では堂本印象の最初期からの画業を振り返っている。堂本印象は1918年に京都市立絵画専門学校に入学し、1920年には西山翠嶂が設立した画塾「青甲社」で研鑽を重ねた。やがて帝展で認められて画家としての名声をなした。この頃の作品が展示されているが基本的な技術の高さだけでなく、当時の社会潮流となっていた大正デカダンスの流れもその色遣いに感じられる。

 官展で実績を重ね、昭和の初期の頃には具象画家として頂点を極めた。その頃の代表作が本展の表題作にもなっている「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」となる。華麗にして絢爛豪華な作品で、まさに彼の具象画を代表する作品と言える。一方で寺社の障壁画なども手掛けることが多かったことから、色彩を抑えた水墨画なども多数手がけたという。

 

 

 その画風が一変するのが戦後である。当時画壇に流行し始めていた抽象画の流れに彼も対応、まずはキュビズム的な作品を描き始める。そして60歳で渡欧したことで完全な抽象画を描き始める。

晩年はこういう調子の絵画になる

 その後はそちらの世界を突っ走る。最終的にはアンフォルメルと出会ってそちらの画家と認められるところまでいった。その一方でかつてのような具象画も時々描いていたようだから、果たしてその切り替えはどうなっていたんだろうと私のよう素人などは感心するぐらい。なおこのような絵画を描き始めても、油絵には走らずに基本的に日本画の範疇にとどまっているのが興味深いところ。

 しかも彼の創作は画業にとどまらず、若い頃から茶道に造詣が深かったこともあって自ら土をこねて器の創作まで行ったとのこと。そこに施された抽象画的絵付けがまた見事に器と合致しているのには感心した。

 一度成功して名を成して巨匠と呼ばれるようになると、そのスタイルの周辺に生涯とどまる画家が多い中で、彼のようにスタイルを激変させるのには驚く。その辺りに執着がなかったか、興味のままに動くタイプだったのかなどと思うところ。なおその都度、大正デカダンスや戦後の抽象画の潮流など、結構流行に流されるタイプだったのかなどとも思わないでもない。

 何にせよ、今回この画家の作風を年代を追って体感することで、ようやくこの画家について理解できたような気がする。これは有意義であった。また一度堂本印象美術館を訪問したい気も起ってきたが、とにかくあそこは京都でもかなり外れで交通の便が良くないのが難点。

 

 近代美術館の見学を終えると次の目的地に移動。美術館前のバス停から市バスで東天王町まで移動。ここの近くの美術館に立ち寄る。

泉屋博古館

 

 

「生誕151年からの鹿子木孟郎 -不倒の油画道-」泉屋博古館で12/14まで

 近代日本洋画壇に写実表現を持ち込んだ鹿子木孟郎の足跡をたどる展覧会。

 鹿子木は岡山で生まれ、画塾である不同舎で洋画の基礎を徹底して学んだという。そこでは線画によるデッサンや、西洋的遠近法を徹底的に仕込まれたとのこと。

 その後、フランスに留学してアカデミスム派の巨匠であるジャン=ポール・ローランスに師事してフランス古典派絵画の写実を追求したという。

 というわけなので鹿子木の作品は後に渡欧して印象派などの影響を受けた画家たちと違って、かなり正統派のガチガチのところがある。また印象派の影響を受けた洋画家たちが黒田清輝などの「影は紫」などとかなり明るめの作品を描いているのに対して、重厚でガッチリとした色遣いの渋い絵画であるというのが最大の特徴。

 一言でまとめてしまうと「古臭い絵画」と言えなくもないのだが、そのまま古臭くてつまらないにならないのがこの画家。彼は彼の観点で表現を極めようとしているのはその作品から伝わってくる。

 明治画壇の保守本流という感じがして、それはそれで面白いのが彼の作品である。黒田清輝とかの作品(結局最終的に天下を取ったのは彼らの流派の方だが)とかと比較して見るとなかなかに楽しめるところがある。


 現在時間は正午ごろ。当初の計画では後は昼食を摂ってからホールに向かうことも考えていたのだが、予定よりもスムーズに進行したため、まだもう一か所回る余裕がある。そこでバスで烏丸丸太町まで移動すると、そこから地下鉄で烏丸御池に移動。そこの最寄りの博物館へ立ち寄ることに。

 

 

「世界遺産 縄文」京都文化博物館で11/30まで

 2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録されたことにちなんで、これらの地域からの出土品やその複製などから、当時の縄文文化について考察しようという展覧会。

 最初は石器などのマニアックでやや地味な展示から始まる。正直なところこの辺りはそこらの石とまぎれて転がっていても、私のような素人では見過ごしてしまいそうなもの。狩猟採取を基本に置いていた縄文集落らしい実用的な石器が並ぶ。

大型板状土偶

石器

土器片

土器

骨製の銛頭

 

 

 次にはさらに文明が高度化してきた時代の土器などが登場する。漆塗りの土器などなどかなり特徴的なものが登場、さらには縄文の名の由来となった文様入りの土器など。

縄目入りの土器

これはかなり装飾的

奇妙な形態の土器(中国の青銅器に似ている気がする)

漆塗りの土器

 そして縄文を代表する土偶が登場、いわゆる「縄文ヴィーナス」から始まって、オカルトマニアだったら「宇宙人を模した」などと言い出す有名な遮光器土偶の一群。なお私は恥ずかしながら、同じスタイルの遮光器土偶がこんなに大量に各地から出土しているとは初めて知った。

遮光器土偶

これも遮光器土偶

微妙にタイプの異なる遮光器土偶

これは有名な縄文ヴィーナス

 

 

 最後は縄文人の生活や一生を伝える品々。出産を形どった土偶や当時の獲物であった動物をかたどった土偶、さらにはそれらをとらえるための弓矢など、最後は埋葬の様子など興味深い展示があった。

出産をかたどったとされる土偶

合掌土偶

こげのついた縄文土器

 なお一番最後に復元した土偶を触れるコーナーがあったのだが、その質感は私がイメージしているものとややことなった。もっと素焼き的なものをイメージしていたのだが、指でかるく叩いてみるとカンカンとかなり甲高い音がして磁器のような感触があり、思っていたよりも強度もありそうに感じた。これが私にとっては一番の驚きの体験。

シルバニア縄文住居?

 流石にそろそろ昼食を摂ってからホールへ移動する必要がありそう。しかし昼食を摂る店に心当たりが・・・。とりあえず北山に移動するが、あの界隈もこれという店はない地域。結局は間に合わせでモスバーガーに入店することに・・・どうも最近は体調の悪さから食欲の低下があり、それが意欲の低下にもつながっていて特に朝食と昼食がぞんざいになっている。あまり良い傾向ではない。食事をおろそかにすることは生きる意欲の低下につながる。現に今の私は何が何でも生きてやるという意欲がなく、苦しめずに死ねるのならそれもありかという考えがしょっちゅう頭を過るのが現実。実際、こんな何かの罰ゲームのようなクソ人生はリセットして、もっとマシな境遇に転生でもしたい。

 

 間に合わせの昼食を腹に入れるとホールへ。最近の京響は非常に人気が高く、今回も9割以上の席が埋まっておりほぼ完売に近そう。

京都コンサートホールへ

 

 

京都市交響楽団 第705回定期演奏会

いつもこの辺りの席になる

[指揮]ピエール・デュムソー
[サクソフォン]上野耕平★

ピエルネ:「ラムンチョ」序曲
トマジ:バラード -サクソフォンと管弦楽のための★
ショスタコーヴィチ:交響曲 第10番 ホ短調 op.93

 一曲目のピエルネと二曲目のトマジは共にフランスの作曲家。年代的にはピエルネの方が40年ほど早いことになる。「ラムンチョ」はピエルネが1908年に作曲した曲でバスクの民謡を使用した曲である。

 曲調は明るい舞踏的な音楽のように感じられるが、時折暗い影が差すのは元々の劇の内容から考えると当然ではあるか(あらすじを聞く限りでは悲劇である)。デュムソーの演奏はその辺りの明暗のメリハリをしっかりと付けた煌びやかな印象の演奏である。

 二曲目はトマジが1938年にサクソフォン奏者のマルセル・ミュールのために作曲したものだという。サクソフォンが縦横に活躍する曲である。

 ソリストの上野の演奏を聴いた感想としては、「なんて綺麗な音を出すんだ」というもの。サクソフォンは私にはあまり馴染みのある楽器ではないのだが、サクソフォンがこのような鳴り方をするとは知らなかったというところである。

 休憩後の後半はショスタコーヴィチの10番。以前より「どういう意図のある曲か」というのが議論となっており、様々な深読みなんかもされている曲である。時期的にはスターリンの死亡後であり、それまで質の悪い独裁者あれやこれやと干渉や弾圧を受けていたショスタコとしては、解放感が滲んでいるのではとも言われている。

 デュムソーの演奏であるが、体全体を使った大きい指揮動作が印象に残る。その指揮ぶりは極めて躍動的であり、音楽もまさにその通りのもの。その音色は生き生きとして、ショスタコの曲の中では明るめであるこの曲を、さらに明るい表現をしている。

 短く激しい第二楽章はスターリンのことを表現しているのではという分析もあるようだが、確かにやたらにやかましい乱痴気騒ぎは、自分の個人的趣味に意味不明の屁理屈を付けてはショスタコの作品に鑑賞してきた迷惑な独裁者の支離滅裂ぶりを示しているのかもしれない。

 生き生きとした明るさは一貫して曲の終わりまで続く。デュムソーは京響の奏者たちの技量の高さを十分に使い切って、実に色彩的で鮮やかな演奏を繰り広げた。なかなかの快演。

 ショスタコがこの曲に込めた意図などという高尚なものは私の理解の及ばないところであるが、今回の演奏を聴いた限りでは「鬱陶しい独裁者が亡くなったことを単純に喜んでいるんでは」という気もした。本音としてはファンファーレでも書きたかったところだが、さすがに社会主義体制自体は温存されている状況下ではそれはまずいので、交響曲内に祝祭的雰囲気を潜めたのではなんて邪推する。


 コンサートを終えるとホテルに向かう前にもう一か所立ち寄る場所がある。地下鉄で京都まで移動。目指すはあの不快な駅ビル内の美術館。

 

 

「生誕100年 昭和を生きた画家 牧野邦夫 -その魂の召喚-」美術館「えき」KYOTOで11/16まで

 牧野邦夫は昭和の改元直前の大正14年(1925年)に生まれ、昭和61年(1986年)に没した、まさに昭和を生きた画家である。

 牧野は1943年に東京美術学校油絵科に入学、安井曾太郎らの指導を受ける。1945年に召集されるが、実際には戦場には行っていないという。卒業後は個展で作品を発表し続けて画壇の権威とは無縁の活動を続けてきた。そのために彼の作品は美術館などにはほとんど所蔵されておらず、熱心な個人ファンが個人的コレクションとして秘蔵してきた作品が残っている状態とのこと。

 その画風は写実的であり、絵画技法的には古典的であるとも言える。レンブラントを敬愛していたとのことで、自画像の多さもその影響もあるのかもしれない。しかしその写実能力を生かして描くその画面は極めて幻想的というか猟奇的と言うか、自画像を主なモチーフとして使用しての超現実的な絵画(自身を悪魔に見立てた作品が多い)であり、一瞥しただけでも非常にインパクトが強い。それ故に熱心なファンも一部付くことも何となく納得できる。

 牧野はレンブラントよりも自分は30年遅れているから、63才で亡くなったレンブラントに追いつくのは自身が90才を過ぎた時だと考え、50才の時から5層の塔の絵を描き始め、10年ごとに1層ずつ足していくことにしたららしい。しかし残念ながら2層の制作途上の61歳でこの世を去ることになる。本人にとっては不完全燃焼だったことだろう。

未完に終わった塔

 技術的には優れたものがあり、感性にも独特のものを感じるのであるが、執拗に自身をモチーフにした超現実的な作品を多作しているあたりに、どことなく歪な自己顕示欲や厨二臭のようなものも感じられるのが事実。なんかこういうタイプに以前に当たった記憶が・・・と思い返したら、まさにこの美術館でつい数か月前に鑑賞した鴨居玲であった。

 なんとも独特だなという印象を受けた展覧会。もっともこういうタイプの作品は実は私は嫌いではない。やはり私も多分に厨二要素が強いんだろう。

 

 

 美術展の見学を終えると夕食を摂る必要がある。最初は駅ビル内のレストラン街をウロウロしたのだが、物価高騰とインバウンドの影響で飲食店の価格が異常。ここの店はいずこもおひとり様3000円からというのが相場で私の予算と全く合致しない。

 結局は諦めて駅地下の方に移動するが、こちらの飲食店はどこも待ち客で長蛇の列。あほくさくなってもう地下鉄で移動しようかと駅に向かったら、どうやら東側にも飲食店はある模様。ざっと見渡すとちょうど「一風堂」に空きがありそうだったから入店する。

京都駅地下の一風堂

 注文したのはオーソドックスに白丸のチャーシュー麺。これに餃子のハーフをつける。典型的な細麺の博多ラーメン。そう個性の強い味ではないので無難に美味いというところ。

細めんの白丸チャーシューメン

ハーフサイズの餃子を付けた

 

 

 とりあえず腹を膨らませたところでようやくホテルに移動である。今日宿泊するのは久しぶりに四条のチェックイン四条烏丸。例によって撤退した1階のセブンの跡がテナントが埋まっていないようなので、開店休業の雰囲気があってよろしくない。セブンは今落ち目だし、ローソンは道路を隔てた向かいにあるので、せめてファミマでも進出しないだろうか。正直、ここの道路を渡るのも大変なんで不便で仕方ないのだが。

1階はテナント募集、2階は貸ワークスペースになってしまっている

 部屋は毎度の狭小和室。ここに来るのも久しぶりだが、それにしても最近の物価高騰とインバウンド公害でここの宿泊料金も上がったものである。昔はこのタイプの部屋だと4000円台ぐらいで宿泊できることもあったのだが、今だと7000円を超える。チェックイン手続きを機械化してあからさまにフロント人員を減らすということまでしているにも関わらずである。

相変わらずの狭小和室

部屋は布団でいっぱい

 部屋に入るとまずは仕事環境をさっさと構築してから、シャワーで軽く汗を流して館内着に着替え、大浴場に入浴に行く。とにかく体に疲労が半端なく溜まっていると思ったら1万5千歩を超えていた模様。これは限界突破である。浴槽の中でよく体をほぐしておく。

仕事環境を構築したものの、結局まともに使えずじまい

 入浴を終えて部屋に戻ってきて一作業・・・と思ったが、デスクに向かう気力がない。やっぱり体の疲労が限界突破している。仕方ないので布団の上で転がりながらタブレットをボーっと眺める無為な時間を過ごす。どうしても老化に伴う体力の低下で、若い頃のように限界ギリギリまで効率的に動くということが出来なくなった。老化の何が一番嫌と言ってもやはりこれである。人生の先が見えてきているというのに、無為に過ごさざるを得ない時間が増えているのである。これは今のように「タイパ」なんて言われだす以前から、録画番組の倍速視聴などのいわゆるタイパ行為をやってきたような私にはかなりの苦痛。

 結局この日は、何もできないままいつもよりもかなり早めに布団の上で意識を失ったのだった。

 

 

この遠征の翌日の記事

www.ksagi.work

 

 

アール・デコ展とビュフェ展の後はプラハフィルでド定番の「新世界」を

2日続けて大阪出陣

 昨日に続いて今日も大阪遠征である。昨日は本来なら大阪で一泊するところを家の事情で帰ってきたのだが、やはりそれだけ疲労がある。とりあえず出来るだけ無理は避けたい。

 今日行くのはプラハフィルのコンサート。指揮は日本でもなじみのあるスワロフスキーである。昨今のチケット価格高騰で外来オケは軒並みパスだったんだが、本公演は最安席がかろうじて予算内に収まったことから確保した次第。また以前から言われる「チェコのオケに外れなし」に期待したこともある。

 午前中に家を出るが、昨日同様に今朝も雨天で傘を持っていく必要があるのが鬱陶しい。とりあえずJRで大阪まで移動すると例によってコンサート前に美術館である。今回は肥後橋周辺の2館をはしごする。まずは先週に続いて中之島キューブへ。

2日続けての中之島キューブ

 

 

「新時代のヴィーナス!アール・デコ100年展」中之島美術館で'26.1.4まで

現在の出し物

 アール・デコは第一次大戦後の 1910年代から1930年代にかけて、新しい芸術潮流として世界を席巻した(アール・デコを訳すると装飾美術とか)。それ以前のアールヌーヴォー(訳すると新芸術)のクネクネとした生体的な装飾と異なり、簡潔で工業デザインを意識したものであることが最大の特徴である。ガラス細工の世界で言えば、キノコやトンボなどをモチーフにして流線型デザインを使用したエミール・ガレがアールヌーヴォーの代表。簡潔でスッキリとして工業的大量生産も意識したルネ・ラリックがアール・デコになる。

 本展ではやはり当時の雰囲気をよく伝えるポスターなどが中心で、さらには宝飾品やガラス工芸品、衣装から車までを展示している。また「アール・デコと女性」というのがテーマであるとか。確かにアール・デコの時代は女性の社会進出が始まってきた時代でもある。

サカロフ夫妻のダンスのポスター

ポーランド総合博覧会

プレッサ展ポスター

 またこの時代は自動車の量産化による普及、飛行機、鉄道、船舶などの交通手段の発達で世界が結びつき始めた時代でもある。このような車のデザインもアール・デコが取り入れられた。

クラシックカー(BMWらしい)

同じくBMWのロードスター

ルノーのポスターも格好良い

鉄道旅の宣伝ポスター

 

 

 そしてやはりアートと言えばファッションである。直接的なファッションデザインだけでなく、女性向けの化粧品な小物類、さらにはその宣伝ポスターまでがアール・デコの世界となる。

ヴィオレ社、2枚の切り札

ヴォーグの香水

イヴニング・ドレス

ラリックによる香水瓶及びパウダーボックス

 また女性の社会進出により、経済的に自立した女性たちはレジャーなどを楽しむようにもなる。この時代には鉄道網などが整備されていたので、これらを使ってのレジャーが女性をターゲットにしたものとして登場する。

ローランサンが書いたパリの夜会

鉄道でウィンタースポーツへという宣伝ポスター

 

 

 この時代に登場した時代の寵児が、人気女優となったミスタンゲットだという。パリ中の劇場でショーを掛け持ちしたという彼女の特徴的な顔を描いたポスターも多数ある。どうもアール・ヌーヴォーにおけるサラ・ベルナールのような位置づけにいたようである。

ミスタンゲット

同じくミスタンゲットだが、これは顔の特徴をかなり強調

同じくミスタンゲット、これは漫画的

 ちなみにアール・デコ博に参加しなかったアメリカであるが、当時の摩天楼はまさにアール・デコ様式を体現したものであったという。また多くのアメリカ人が海を渡ってアール・デコ博を訪れており、やはりその影響はアメリカにも及んだ。本展にはまさにその摩天楼を描いたファッション誌ヴォーグも登場する。

摩天楼が描かれたヴォーグ

付録 大阪アール・デコ建物Map

 以上、芸術の一潮流であったアール・デコに当時の女性を取り巻く環境なども絡めた展覧会である。展覧会としてはやや散漫な印象があるが、とりあえず時代の空気は感じることが出来たような気はする。そしてこの時代、意外と現代に近い気もする。


 次は駅に戻りつつ近くの美術館に立ち寄る。

 

 

「ベルナール・ビュフェ-「線」に命を捧げた孤高の画家-」中之島香雪美術館で12/14まで

 ビュフェは1928年にパリに生まれ、ナチス支配下の抑圧的なパリで物資不足に苦しみながら絵画を描いていたという。戦後、ようやく自由を回復したと思ったら突然の母の死にしばし呆然自失となってしまい、そこからようやく立ち上がって太い直線的な描線で描く現在のスタイルを確立した。

 彼の作品は抑圧と不安を感じさせるところがあるが、それが戦後の社会不安を抱えたパリの閉塞感漂う空気と合致して、一躍時代の寵児となったという。

 ビュフェは若くして名声を得、その華やかな生活なども注目されたという。ただやはり成功者には毀誉褒貶は付き物で、美術界が抽象絵画へと突き進んでいく中で、あくまで具象にこだわるピュフェはワンパターンで商業主義的であるとの批判も浴びたという。

 そのような雑音を避けるように、やがてビュフェは美術界と距離を置きながら自分の世界を追究するようになったという。その作品は虫を描いたものとか、明らかに個人の関心のままに芸術を追及していたのが分かる。

 本展ではビュフェの作品を所蔵するベルナール・ビュフェ美術館(静岡県長泉町)の所蔵品からビュフェの生涯にわたる作品を抜粋して展示してある。なおビュフェの作品については生涯を通じてスタイルが変化しなかったとされるが、私の見たところでも明らかにまだ成功前のビュフェ自身が不安を抱えている時代の作品と、社会的に成功してからいわゆるリア充になってからの作品では、その精神的厳しさが違うのは見て取れる。こういう辺り、やはり作家の社会的地位からの影響は如実に作品に反映するのだななどと改めて感じさせられたのである。


 芸術家にとって社会的成功は、それが精神的安定に結びついて作品に深みが出る場合と、逆に内面衝動が減少して感性が鈍ってしまって作品が衰える場合の両パターンがあり得るものである。そのことを感じさせられた。ちなみにビュフェの場合は深まったでも衰えたでもなく、方向が変わって自由になったという印象を受けたが。

 

 

 これで肥後橋での予定は終了、大阪まで移動することにする。さて昼食であるが、やはり胃腸の調子は最悪で食欲はイマイチ。あまり重いものを腹に入れる気がしない。エキマルシェを適当な店を探してウロウロ。しかし「だし茶漬けえん」にまで行列ができている状況で入る店がない。そんなときにたまたま「利久」に待ち客がいないのが目に入ったので、ここはあっさりと塩タンでも食うかと入店する。

駅マルシェ内の「利久」(私の退店時には行列が)

 牛たん定食(3枚)を注文する。私はたんシチューが好きなのだが、さすがに暑いのと体調が悪いのとで塩タンだけにしておく。目論見通り塩タンは肉ではあっても結構あっさりと頂くことが出来て今の体調にはちょうど。

牛たん定食(かなり高くなった気がする)

 それにしても以前よりも価格がかなり上がっている気がする。無能な自民党政権のせいで物価は爆上がりである。その挙げ句に高市が大失敗したアベノミクスの継承なんて言い出すから、世界中が日本のオワコンを確信して円が大暴落。いよいよ狂乱物価が近づいてきている気さえする。そうなったら弱者から死んで行くことになる。嫌な世の中だ。

 

 

 昼食を終えるとホールに向かうことにする。今日も昨日と同じザ・シンフォニーホール。ただし入りは昨日の方が多かった。

雨のザ・シンフォニーホール

 喫茶でアイスコーヒーを飲みつつ、カツサンドをつまみながら時間をつぶす。

今日も喫茶で時間をつぶす(堕落である)

 開演時刻が近づいたところで座席の方に。このクラスのオケだと昔なら私の予算でももっとまともな席が取れたんだが、アホノミクスからの貧困化及び物価高騰で、今の私では3階サイドの見切れ席が限界。残念ながら客の入りはかなり悪く。上から見下ろした感じでは入りは3割行くかどうかというところ。3階貧民席は満席に近いが1階席などはホール中央以外はガラガラ。2階席は観客が極めて少なく、一番シュールだったのは2階正面席が前の2列と料金が安い後ろの2列にしか客がいないこと。

 

 

プラハ・フィルハーモニア管弦楽団

3階の見切れ席

[指揮]レオシュ・スワロフスキー
[ピアノ]松田華音
[管弦楽]プラハ・フィルハーモニア管弦楽団

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」より“ポロネーズ”
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 op.18
ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調 「新世界より」 op.95

 プラハフィルはオーソドックスな12型と中規模編成のオケ。さてその演奏であるが、最初の音を聞いた時に感じたのは「ああ、典型的なヨーロッパの二流オケの音色だな」というもの。アンサンブルに破綻はないのであるが、例えばチェコフィルのような一流オケと比較した場合には差は明らかである。音色まで揃ってくるレベルで弦楽セクションが丸ごと巨大な1つの楽器として聞こえてくるチェコフィルなどと違い、「ああ、12台のヴァイオリンが鳴っているな」という印象。またこのオケ特有と言えるレベルの味も薄い。破綻もないし下手でもないという印象が真っ先に立つ感覚である。

 スワロフスキーの指揮もことさらに彼自身の解釈を展開するというよりも、比較的安全運転に感じられた。正直なところ難点もないが、とりわけ強烈な魅力うすいのが本音。

 2曲目は松田をソリストに迎えての有名な曲。松田の演奏であるが、テクニック的に十二分なのは言うまでもないのだが、この超甘美な曲にしてはやや表現が抑え気味のように感じられた。アンコールなどを聞いた限りでは、特にテンポ変化などを多用するタイプのピアニストでもないが、もう少しロマンティックな表現もするピアニストに感じられたのだが、この曲に関してはやや抑え気味。はっきり言って安全運転に感じられた。そしてバックのスワロフスキーの指揮もやはり安全運転。正直なところ「もっとメロメロにやってもいいのに」と感じさせられる部分があった。

 さて休憩後の後半であるが、これはチェコのオケのド定番の「新世界」。チェコのオケならどこでも目をつぶっていても演奏できるという曲であり、チェコのオケならもれなく、この曲になると演奏レベルが問答無用で2段階ぐらいアップするという新世界チート能力という固有スキルを有している。そして当然ながらプラハフィルもこの固有スキルを有してるようだ。先ほどまでと比べて明らかに演奏に余裕が出てくるし、アンサンブル精度が一段向上する。

 スワロフスキーは、そのチート能力から生まれた余裕を存分に生かして、自らの表現を加えてきたようだ。指揮動作の大きさは先ほどまでとそう変わらないが、揺らしや強弱変化など明らかに仕掛けを増やした演奏を仕掛けてきた。そしてそのスワロフスキーの指揮にオケもこの曲に関しては問題なく追随できるようである。

 結果としてはやはりこの曲が本公演で一番楽しめる演奏になった。スワロフスキーが描いたの都会的ではなくあくまでチェコ的な新世界であった。それがこのオケの場合はしっくりくる。

 観客は少ないが結構盛上がっていた。立ち上がる観客も数人。まあ総じて決して悪い演奏ではなかったので、新世界で盛上がる観客がいても不思議ではないかもしれない。客席からの歓呼にこたえてのアンコールは、これまたド定番のスラブ舞曲第10番。チェコらしい曲でコンサートを締めくくる。

 

 

 

近代建築を見学してから、関西フィルの定期演奏会でヴェルレク

今週も大阪

 なんかろくでもないことが大量に押し寄せてきて翻弄されている今日この頃だが、こんな時こそ平静を保たないと精神が崩壊する。というわけでいつものように遠征である。それにしても人生において怒濤のように運命が訪れる時期というものがあるが、概してろくでもないことばかりの方が怒濤となる。良い話も来るときには怒濤となるのかは、何かの罰ゲームのような私の人生では今までそんな経験が全くないので分からない。

 今日は関西フィルの定期演奏会。藤岡によるヴェルレクである。先に京響のモツレクの公演もあったが、今回は正当派なモツレクとは違い、死者が棺桶蹴飛ばして甦りそうな曲になる。

 公演はザ・シンフォニーホールなので大阪へ直行・・・となりそうだが、例によってその前に神戸に立ち寄ることにする。ここで開催されている展覧会をはしごすることにする。それにしても毎度のことながら、ここの美術館は駅から嫌な距離がある(距離もさることながら、神戸の特徴で起伏があるのがしんどい)。

ここは来るだけで疲れる

 

 

「リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s-1970s」兵庫県立美術館で'26.1/4まで

 1920年代以降のル・コルビュジェなどの建築家による新たな機能的な住宅に関する実験的なアイディアについて紹介する。

展示室風景

 最初に登場するのはル・コルビュジェによる両親のためのコンパクト住宅。いかにも彼らしい実に機能的な設計であるが、残念ながらここは撮影禁止。

 次に登場するのが一転して実に和の風味のある藤井厚二による「聴竹居」。大山崎に建築した藤井の自邸だという。実にバランスよく自然に和洋折衷しており、京都の風土とのマッチも良さそうである。

和のテイストの強い「聴竹居」

ただしその内部は実は和洋折衷

 イタリア出身のリナ・ボ・バルディがサンパウロに建てた自邸カサ・デ・ヴィドロは斜面の地形に広大なワンフロアを建築したもの。解放感はありそうであるが、日本の場合なら土砂崩れや地震が気になりそう。

カサ・デ・ヴィドラ

 

 

 フィンランドのデザイナー、アルヴァ・アアルトはムーラッツァロ湖の島に自然との調和を目指す住宅をデザインした。フィンランドデザインと言われると何となく納得するような内容である。

ムーラッツァロの実験住宅

 エンジニアだったジャン・プルーヴェは、自身の工場の部材を用いて傾斜地に最小限の平地を整えてナンシーの町を見下ろせる細長い建物を建築した。

ナンシーの家

 サーリネンによるミラー邸は豪邸と呼べる代物であり、これだけは他と雰囲気が違っている感がある。

豪邸のミラー邸

 

 

 菊竹清訓、菊竹紀枝によるスカイハウスは、その名の通りコンクリートの柱で持ち上げた居住スペースの周りに台所などのユニットを設置したものだという。メタボリズムの思想に基づいての建築とのことだが、雰囲気的には現代の高床式倉庫。

現代の高床式倉庫の趣のあるスカイハウス

斜面を活かした構造になっている


 ルイス・カーンの設計したフィッシャー邸は、キューブ状の建物を45度ずらして接続したという奇妙な形をしたもの。かなり大きな窓を取っているのが印象的。

フィッシャー邸はキューブの変則接続

 最後のフランク・ゲーリーの自邸は量産品の建材を組み合わせて既存の住宅を大幅改造したものらしいが、何となくハンドメイド臭が漂っていて「DO IT YOURSELF」という感覚を受けるものである。ある意味でアメリカ的であることを感じる。

ハンドメイド臭のあるゲーリーの自邸

 以上、建築に関する展示群。斜面の傾斜を利用して立体的に構成していたものが多かったという印象。いずれもなかなかモダンで面白い建築だったが、果たして実用性はどうなんだろうかということが頭を過った。どうしても吹き抜けやワンフロアの建物が多いので、光熱費が気になるところである。月々電気代の支払いに追われている身としては、どうしてもそういう実用面が気になる。

 なにせ会場自身が「非実用建築設計大家」の安藤忠雄(コンクリート打ちっぱなしの吹き抜け建築は、光熱費がとんでもないことになる)の建物だけに。今回の会場も「使い勝手が悪い」ことで定評があるこの美術館の展示室構成のせいか、途中で順路がクロスするというかなり錯綜したものであった。

 県立美術館の見学を終えると、駅に戻る途中の美術館に立ち寄る。

 

 

「2025年度コレクション展Ⅱ 日本画との対話―自然と人間」BBプラザ美術館で10/26まで

BBプラザ美術館に立ち寄る

 所蔵の日本画コレクションを展示した展覧会。そういえばこの美術館の日本画コレクションにまとめて触れたことはないような気がする。

 展示品は高山辰夫の淡い幻想性のある絵画から、青の東山魁夷、赤の奥田元宋の優品もあり、平山郁夫にさらには加山又造のダイナミックな日本画など、かなり多彩ではあるが重要なところを網羅している印象。

 インパクトの強さでは下村良之助の紙粘土などを用いた半立体の作品群。独特の存在感を持ってアピールしてくるところである。

 予想していた以上に内容が濃いものであり、会場は小さいがなかなかに見応えがあった。入場料(500円)以上の価値はあると言って良いのではなかろうか。


 これで今回の美術展の予定は終了。後は大阪への移動である。まだ時間に余裕があるし、目的地が福島ということで、旅費の節約もかねて岩屋から阪神での移動となる。御影で特急に乗り換えてから、尼崎で再び普通に乗り換えるという時間のかかる旅程。結局は車内でタブレットで「キングダム」を読みながら時間を潰すことに。

 

 

 福島に到着するとホール入りの前に昼食を摂る必要がある。阪神福島からプラプラと北上する道すがらにはラーメン屋などもあるが、どうもそういう重いものを腹に入れる気分でない(ここのところ胃腸の状態が最悪)、そうこうしているうちにスシローの看板が目に入ったのでそこに立ち寄ることにする。

 座席の方は一杯だったが、カウンターに空きがあるのですぐに入店できる。適当に7皿ほどつまんで支払いは1500円ほど。例によって美味くも不味くもなし。

マグロ系に

その他を計7皿ほどつまむ

 昼食を終えるとホールに移動。到着したのは開場数分前だったので少し待ってから入場。観客は結構多そうな雰囲気で、待ち客の列も普段より長め。

結構入りは多い

 入場後はしばし喫茶でアイスコーヒーを飲みながらの堕落タイム。

喫茶で過ごす堕落タイム

 藤岡のプレトークが始まった辺りで席に着く。藤岡はこの曲が好きらしく(実際に関西フィルでも数年前に一度取り上げている)、その思い入れのほどがにじむトークを。ヴェルディがこの曲を作曲した頃は、ちょうど彼が20才下のソプラノ歌手との不倫にうつつを抜かしていた頃で、それまで連れ添っていた妻と軋轢が生じていた時だとか。だからここまで人間的な曲になったのかなんて話も。しかしそれだと神ではなくて妻に許しを請う情けない曲になっちまうような・・・。あの「怒りの日」はヴェルディが「私が悪かったです」と地面に頭を擦り付けながら妻に謝罪する曲なんだろうか(笑)。まあ結局ヴェルディは妻とよりをもどして、妻が先立つまで共に暮らしたそうだが。

 

 

関西フィルハーモニー管弦楽団 第359回定期演奏会

2台の大太鼓が見える

[指揮]藤岡幸夫(関西フィル総監督・首席指揮者)
[ソプラノ]並河寿美
[メゾ・ソプラノ]福原寿美枝
[テノール]福井 敬
[バリトン]大西宇宙
[合唱]関西フィルハーモニー合唱団
[管弦楽]関西フィルハーモニー管弦楽団

ヴェルディ:レクイエム

 

 レクイエムの一曲プログラム。なお一気通貫での演奏も少なくないが、藤岡によると長大な第2曲とそれ以降の曲ではかなり調子が異なるので、自分的にはこれを続けて演奏するという気にはならないし、ヴェルディが演奏した時もここで休憩を入れたとの話。確かに第3曲から雰囲気がやや変化しているのは聞いていても分かる。

 クライマックスの「怒りの日」では、藤岡がヴェルディの指示通りに用意したという2種の大太鼓が大活躍する。1つは皮をビンビンに張って高く響く強烈な音を出し、もう1つは皮を緩めて張ることで、低い不気味な音を出すのだという。この2種を曲に合わせて打ち分けており、ヴェルディの深い意図を感じさせるものになっている。

 曲自体は「聖衣を着たオペラ」とも言われるように、ソリストと合唱が絡み合ってオペラ的な音楽を展開している。その響きは時には優美に時には荘厳にと流石に音楽を使った劇的演出に長けたヴェルディによるものであると感じさせる。優美な音楽を重ねている途中で、いきなり全曲を通じての共通モチーフとして乱入してくる「怒りの日」がかなりインパクトのあるところである。

 さて演奏の方であるが、ソリストたちの歌唱は安定感があってキレもある。ただ合唱団についてはやはりプロのソリストたちに比べると一段パワーが落ちるのは感じさせられてしまう。もう少し歌唱に明瞭さとキレが欲しいところである。

 関西フィルの演奏もかなり頑張っているとは感じるのだが、基本的にやはり関西フィルは大音量でブンチャカやる演奏は本領ではないという感を受ける。大曲に合わせてトラで増量したオケでは、盤石なアンサンブルとまでは及ばないところがある。そのためにオケ全体の一体感がどうしても若干落ちてガチャガチャした感が出てきてしまう。ダン、ダン、ダンダンといってほしいところが、ドワン、ドワン、ドワーンとなってしまうようなところがある。その辺りが若干残念。

 

 

 

小出楢重展を鑑賞してから、大フィルの定期演奏会はダウスゴーによるご当地ニールセン

大フィルの公演の前に美術館へ

 翌朝は目覚ましをかけた7時半まで爆睡。目が覚めても体がすぐには動かず、しばしゴロゴロしてからの起床となる。老化に伴って目覚めが悪くなっており、やはり朝一番からエンジン全開とならない悲しさ。

 ようやく起き上がるととりあえずはさっさと着替えて朝食に。朝食は例によって近くの「喫茶 京」へ。アイスコーヒーとミックスサンドを注文する。しめて1050円・・・ん?値段が上がった気がするが・・・まあこの内容でこの価格だと不満はないが。

近くの「喫茶 京」に立ち寄る

アイスコーヒーとミックスサンドを頂く

 朝食を終えて部屋に戻ってくるとチェックアウトの11時までシャワーを浴びたり、原稿作成したりなどで時間をつぶす。

 11時になるところでチェックアウト。さて今日の予定だが、メインはフェスティバルホールで開催される大阪フィルの定期演奏会。これが15時からなので、それまでに美術館を2ヶ所立ち寄る予定。

 1ヶ所目は天王寺の大阪市立美術館。「NEGORO展」が開催されているのでこれに立ち寄る。

流石にこの地味な出し物だと行列とかは皆無

 

 

「NEGORO 根来-赤と黒のうるし」大阪市立美術館で11/9まで

美術展案内

 古来より根来寺周辺では朱塗り器の生産が行われていたようである。そのことからこのような漆器は「根来」と呼ばれて各地に広がったとのこと。その根来の漆器について紹介する展覧会。なお朱塗り漆器の中には宗教的意味を持つものも少なくなかったようだが、赤という色が目に映える上に血の色であり、顔料の朱は腐敗防止作用を持つ水銀を用いることを考えると、これらが宗教的意味に容易に結びついたのは想像に難くない。

展覧会の表題にもなっている輪花盆

 とはいうものの漆器という性質上、形態的にそう奇をてらったり趣向を凝らしたりというものがあるわけではなく、あくまで日常使用品の延長線でしかない。いわゆる民藝的な美をそこに見出す向きもあるだろうが、私はそこまで高尚な趣味の持ち合わせがない。また朱漆が剥げてきて素地の黒漆が見え始めているという風合いの変化をわびさびとしてとらえられるほどには私はまだ枯れておらず、どうしても古ぼけただけに見えてしまう。

 というわけで私的には残念ながら今一つピンとこない展覧会であったというしかない。まあこういうこともちょくちょくある。

 

 

 特別展を見学した後は、ついでに常設展の方を回ってみる。最初の展示室はアジアの石像だが、中国の隋代の鳳凰像なんかが面白い。

隋代の鳳凰像と南北朝時代の簫楽天像

 次の展示室は古代中国の青銅器。泉屋博古館でも見たような獣型の酒器や香炉など、さらに定番の鏡類も展示されていて面白い。

西周の獣頭じこう(儀式用注酒器)

隋唐時代の銅鏡

六朝時代の香炉

 次はカザールコレクションから根付や印籠など。こういう細かいところに細工を凝らすのはいかにも日本的。芸術的価値も高いので外国人がコレクションするのは理解できる。

日光東照宮牙彫印籠

カザールコレクションの根付収納箪笥

 

 

 一番面白かったのは煎茶道に関する展示。江戸時代までのいわゆる茶道は葉をすりつぶした抹茶を使用していたのに対し、江戸時代の初めに中国から茶葉をお湯で煮出す煎茶が伝わり、最初は黄檗宗の僧らが行っていてものであるが、それが文人らの間に広がっていったという。

隠元が使用していたと伝わる白泥涼炉

 煎茶の普及に大きく貢献した人物に売茶翁がいる。京で煎茶を売り歩きながら禅の精神を説いた彼は、池大雅や伊藤若冲らとも交流があり、煎茶が広く普及していくきっかけともなった。後にこれらの煎茶の淹れ方などは体系化されて煎茶道として成立していくことになる。

伊藤若冲による売茶翁像

売茶翁はこの旗を掲げていたとか

今に伝わる売茶翁の茶器

 本展では売茶翁が用いた茶器や若冲による売茶翁の肖像などが展示されている。なお売茶翁は先のライジング若冲でも重要人物として登場していたが、こうして見るとなかなかに上手く本人の雰囲気を再現していたと感じる。さすがにNHKの正月ドラマだけあって、単なるBLドラマでは終わらないキチンとした描写もあったようだ。

江戸時代に花月庵で持ち入れられた急須

色絵紫陽花文重鉢

 煎茶道は現代にまで引き継がれていて、茶器なども多数展示されている。これはなかなかに面白かった。


 というわけで特別展の方は今一つで、常設展の方が私には楽しかったということになった。まあこんなこともたまにはある。

 

 

 美術館を後にすると移動だが、肥後橋まで移動してしまうと昼食を摂る店があまりない。それにとにかくしんどいので店を探してウロウロするのは嫌。というわけで天王寺駅の地下にある「心斎橋ミツヤ」に入店することにする。

天王寺駅地下の心斎橋ミツヤ

 注文したのは大した工夫もなくランチメニューを。ハンバーグ、とんかつ、エビフライのランチに追加でカキフライを一つつける。これにスープとライスを追加。

 最初はコーンスープ。まあ普通のカップスープである。

普通にコーンスープ

 続いてメインの料理が。ボリュームはまずまずであるが、残念ながら現在の私はボリュームよりは質に重点を置きたいところ。味についてはまあ普通というしかない。悪くはないが特別に美味いと感じるわけではない。ただこれで1500円ほどなら場所を考えるとCPは良いだろう。実際に私が店を出た時(正午過ぎ)には店の前には行列ができていた。

比較的ボリュームのあるランチ

 大フィルの公演はフェスティバルホールで15時から。そこで肥後橋に移動すると、そこから15時までの間に最寄りの美術館に立ち寄ることにする。私が個人的に「中之島キューブ」と呼んでいるあそこである。

中之島キューブ

 

 

「小出楢重 新しき油絵」大阪中之島美術館で11/24まで

 近代日本洋画壇の代表的な画家である小出楢重の四半世紀ぶりの大規模回顧展とのこと。小出楢重は独特の油彩画で知られ、特に静物画や裸婦像が有名。「裸婦の楢重」と言われるぐらいその裸婦像は有名である。

 大阪に生まれた楢重は油絵に魅力を感じ、画家になるべく東京芸術学校を受験したが、準備不足のために本命の西洋画科に不合格となり、最初は日本画科に入学したとのこと。その頃の作品と思わる作品が展示されているが、かなりカッチリとした作品。

美術学校時代に描いた出山釈迦図

 その2年後、当初からの志望であった西洋画科に転科、西洋画家としての修行を開始する。この時代の作品は後の片鱗は伺えているが、まだ伝統的な作風ともいえる。

自画像

銀扇

池畔初夏

 美術学校卒業後、大阪に戻った楢重は文展への応募を続けたが落選が続くなど不遇の時代を送ることになる。しかし「Nの家族」が二科展で評価を獲得したことが転機となる。そして1921年に渡欧、正味5か月ほどの短期滞在だったようだが、これが彼の画風に劇的な変化をもたらす。それまでの厚塗りの野暮ったい作風から、薄塗りを重ねる鮮やかな色彩へと変化し、これがいわゆる楢重スタイルの確立になった。

N婦人像

静物

パリ・ソンムラールの宿

 

 

 帰国後は二科展などで活躍する

帽子のある静物

貝殻草

地球儀のある静物

 1924年、楢重は大阪で信濃橋洋画研究所を鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎ら同志と設立、戦前の関西洋画壇を牽引していくことになる。これらの関連画家の作品の紹介のコーナーが続くが、当時の関西洋画壇の空気が良く分かる。

国枝金三「都会風景」

松井正「都会風景」

鍋井克之「春の浜辺」

黒田重太郎「静物・デッセール」

田村孝之介「裸女群像」

高岡徳太郎「巴里」

 

 

 その後の楢重は芦屋にアトリエを構えて円熟した画業を重ねていくことになる。しかし43才で夭折、「枯れ木のある風景」を絶筆としてその画業を唐突に終えることになってしまう。

卓上静物

菊花

帽子を冠れる自像

遺作となった「枯木のある風景」

 最後には「裸婦の楢重」と言われた楢重の裸婦像を集中展示。画風は共通していてもその描き方は様々であることを感じさせる。

様々なパターンの裸婦像

 

 

 楢重展は以上であるが、本展では付属として同館が誇るモディリアーニ、佐伯祐三などのコレクションを展示。流石に選りすぐりの名品だが、私的にはシャープなキスリングの作品が好み。

モディリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」

佐伯祐三「郵便配達夫」

藤島武二「カンピドリオのあたり」

キスリング「オランダ娘」

パスキン「腰掛ける少女」

 以上、正直なところ小出楢重は私の好きな画家ではないが、こうやって年代を追った回顧展を鑑賞することでこの画家に対する理解を深めることが出来、彼の作品に対する考え方も若干は変化した(とは言っても、あまり好みのタイプの画家ではないことは変わらないが)。彼の同志であった黒田重太郎の絵画も私はあまり好きでないことを考えると、どうも信濃橋系の作品とは相性があまり良くないようだ。


 美術展の鑑賞を終えた時には既に14時を回っていた。もう開場時刻になっている。ホールへと急ぐことにする。

今回の出し物

 

 

大阪フィルハーモニー交響楽団 第591回定期演奏会

指揮:トーマス・ダウスゴー
クラリネット:ダニエル・オッテンザマー

ニールセン:序曲「ヘリオス」作品17
ニールセン:クラリネット協奏曲 作品57
ニールセン:交響曲第4番「不滅」作品29

 

 日本では決してメジャーとは言いがたいデンマークの作曲家ニールセンの作品を、デンマーク出身の指揮者ダウスゴーがニールセン国際クラリネットコンクール入賞経験のあるオッテンザマーをソリストに迎えてのいわゆるご当地ものになる。

 デンマークは陸地でドイツと国境を接しているが、半島と島嶼部を含めた海洋国家であり、海峡を隔ててスウェーデンやフィンランドと接するというその立地的にも北欧国家に分類されることになる。またニールセンの生年はフィンランドを代表する作曲家であるシベリウスと同年の1865年であり、ノルウェーを代表する作曲家であるグリーグよりは20年ほど後になる。

 そういうわけであるので、ニールセンの音楽はドイツ・オーストリア系のものよりも北欧系のものを思わせる響きを持っている。ただその音楽自体はやや難解なところがあり、私自身も耳慣れないこともあって、一曲目に関してはよく分からないうちに終わってしまったという印象。

 二曲目のクラリネット協奏曲は、オッテンザマーの独特の演奏が前に出る。決して旋律的とは言い難い音楽を、オッテンザマーはややくぐもったところもあるように聞こえる独特の音色で展開している。流石にニールセンの音楽に対しての深い理解があるのだろう。その演奏はニールセンの音楽に対して理解がほとんどない私には完全には把握できない点が多々ある。演奏は素晴らしいものだったのだろうが、残念ながら私には現在のところは曲自体があまり面白く感じられない。

 休憩後の交響曲は私も一応数回は聞いたことがあるので比較的理解しやすい。荘厳さと荒々しい派手さが共存しているような独特な曲であり、クライマックスのティンパニ大乱打などは下手をするとやかましいだけのから騒ぎになる危険もあるので、ダウスゴーは野卑に落ちない演奏に配慮していたように感じられた。


 正直なところ私のニールセンに対する理解が浅いために、なかなか理解しきれなかったというのが本音のところ。決して嫌いなわけではないのだが。

 

 

この遠征の前日の記事

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神戸の大ゴッホ展を堪能してから、アンサンブル金沢のコンサートへ

神戸のゴッホ展へ

 今週は飛び石休。仕事が体にキツいのでこういうのは助かる。なお昔なら赤と赤にはされると赤になるの法則で、月曜日も休みにしてぶち抜きでどこかに出かけたところだが、今の私にはそれだけの体力も資金力も年有休暇の残りもない。昨日は年休取得者が多くて閑散としたオフィスで、孤独に仕事に打ち込んでいたところである。

 先週は週末遠征に平日は仙台出張まであったので体の負担は結構ある。年を考えるとこういう日は家でおとなしくゴロゴロしているべきなんだが、それはそれで精神が参ってくるという困った性分。この日もコンサートの予定を入れている。

 ちなみにコンサートに出かけるとなると、ついでを入れるのが私の毎度のパターン。今回のコンサートは大阪で開催されるアンサンブル金沢のものだが、その前に神戸に立ち寄って神戸市立博物館で先週末より開催されている「大ゴッホ展」を鑑賞していくことにする。

 ゴッホと言えばキラーコンテンツの一つ。特に休日は混雑が懸念されると言うことで、土日祭日だけは日時指定の前売り券が販売されている。今日の遠征はかなり前から計画済みだったので(「私はいつも用意周到なの」という脳内浜辺美波の声が)、本日の10時半からの分の時間指定チケットを確保済みである。

 予定よりもやや早めに家を出たこともあって、三宮に到着したのは9時半過ぎ。そこからプラプラと三宮の町を博物館まで散策する。やがて博物館が遠方に見えてくるが、どうも博物館前がとんでもないことになっている模様。なおこの時点で10時前だったのでここで待たされるのは嫌だなと思ったが、入り口に「10:30-のお客様入場中」の看板が出ていたので入場できる。

博物館前は既に行列が

 開催直後でまだ宣伝が行き渡っていないのが幸いしているのか、混雑はあるものの私が想定していたほどの最悪の状況ではない。内部の混雑を避けるために改札規制がかかっているようで入口前で数分待たされるが、10時頃には入場できる。場内は過剰な混雑もなく普通に見て回れる状況で、改札規制は正解だろう。もっとも会期末までこの状態が保たれるかは疑問(というか、主催者側としてはもって大勢来てほしいだろう)。

 

 

「阪神・淡路大震災30年 大ゴッホ展 夜のカフェテラス」神戸市立博物館で'26/2/1まで

 ゴッホがまだ無名な頃から注目してコレクションに加えてきたというクレラー=ミュラー美術館の所蔵品でゴッホがゴッホとなっていった課程を追う展覧会である。なお2027年には第2期として「アルルの跳ね橋」をメインにゴッホの人生後半の画業に迫るとしている。

 最初に展示されているのは、ゴッホが影響を受けたというバルビゾン派やハーグ派の画家たちの作品。ミレーの作品が2点展示されていたのが注目。やはりミレーは良い。落ち着いた農民画である。この後にゴッホの初期の作品が登場するが、その色使いを見ているとミレーらに影響を受けたのは明らかである。

 次に来るのはゴッホが農民画を描いていた頃の作品群。またデッサンの練習のために大量に描いたスケッチの類いも登場する。細かくミッチリと書き込んだスケッチを見ると、細かい点に稚拙さが窺える作品もあったりするが、ゴッホがかなり必死でデッサンの練習をしていたことが窺える。なおゴッホによるとデッサンの歪みは、写真のように描いたのでは動きが感じられないので、意図的に歪めてあるとのことである。まあこの辺りは様々な見解もあろう。

 ただしこの辺りまではまだゴッホがゴッホになっていない時期ともいえる。バルビゾン派の影響を引きずるその色彩はどす黒くて陰鬱で、後のゴッホの色彩爆発とは似ても似つかない。恐らくゴッホの画業がこの頃に終わっていたら、ゴッホはバルビゾン派周辺の無名画家として埋もれてしまっていただろう。

 やがてゴッホは印象派の画家らとの交流なども重ね、その影響を受けていく。その過程で色彩が爆発していくことになる。会場には当時のルノワールやモネ、ピサロらの作品が展示されているが、その明るい色彩はゴッホに影響を与えるに十分だったろう。実際に1885年の「秋の風景」辺りから本格的に色彩が登場するようになる。

初めて色彩が登場し始めた「秋の風景」

 また後期印象派のスーラなども含まれており、実際にゴッホは独自の点描画法に至ることになる影響を受けたと考えられる。ゴッホは自身が直接に印象派に加わることこそなかったが、交流をしていたのは間違いない。なおゴッホの評によると「マネは世間で評価されているほど優れた画家とは思えない」「モネの風景画、ドガの人物画は素晴らしい」とのことのようである。

 パリに出てきたゴッホは花瓶の花などの静物画を量産するが、この時に色彩の研究を重ねることになる。なお静物画に取り組んだのはモデルを雇うだけの金がなかったからとのことである。

野の花とバラのある静物

石膏像のある静物

 その後、より鮮烈な色彩を求めたゴッホはアルルへと移動する。このアルル時代に描かれた代表作が本展の目玉ともなっている「夜のカフェテラス」となる。ゴッホはこの風景の星空に魅了されたとのことで、このような星空は後の作品にも登場しており、まさにゴッホがゴッホになった瞬間だったと言える。

夜のカフェテラス

 

 

 1時間弱ほどで見学を終えて会場を後にする。ゴッホ展と言えばつい最近に大阪でも開催されたところなので、必然的にそれと比較することになるが、展示作としては初期作品に絞られていたのが本展の特徴。ゴッホの家族の絆というテーマを正面に出していた大阪でのものと違い、オーソドックスにゴッホがゴッホに至った道を紹介していたので、私としては本展の方がしっくりくる。ただいわゆるいかにもゴッホらしい絵が少ない(目玉として展示されていた「夜のカフェテラス」以外は地味な絵が多い)ので、一般受けとしては大阪でのものの方が良いだろうという気はする。

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 なお今どきの美術展の常として物販コーナーはかなり充実。私も絵葉書などを購入する。ちなみに物販コーナーに入場時にはチケットの呈示が求められるが、これは転売ヤーなどへの対策だという。拝金主義に取りつかれたつまらない輩のせいで、関係ない多くの者が不利益を強いられる今の世の中は明らかにおかしい。立法を含めた本格的な転売ヤー対策が必要とされるところである。

充実した物販コーナー

 

 

とんぼ玉ミュージアムに立ち寄る

 展覧会の見学を終えると、さらに混雑の度合いを深めている美術館前を抜けて、駅に向かってプラプラと歩く。ただ時間的に余裕があるので途中にあるとんぼ玉ミュージアムを覗いていくことにする。ミュージアムはビルの2階に入居している。

とんぼ玉ミュージアムはビルの2階

 とんぼ玉ミュージアムではとんぼ玉を中心に、様々なガラス工芸品を展示している。最初にはガラスの歴史のような展示もある。

歴史的ガラスの展示

 そして現代の作家によるガラスの銘品たち。とんぼ玉ミュージアムらしくガラス玉の中に細工をしたものなどがあるが、その細工の精細さは圧巻。

とんぼ玉の作品群

細工の精密さに圧倒される

動物を意識したとんぼ玉

 さらには楽しいガラス彫刻もある。個人的には都昆布やどかりはかなり笑える。

なかなかに楽しいガラス細工

都昆布が一番笑える

 またゴッホ展とのタイアップ企画として、ミクロモザイク作品(小さなガラス片を組み合わせた作品)による「夜のカフェテラス」が展示されている。

夜のカフェテラス

 ガラス細工製品の展示などもあったが、展示室自体は決して大きくなく(展示物も小さいので、展示点数は結構あるが)、どちらか言えばガラス細工制作の体験工房などの方が中心のミュージアムの模様。ちなみに私は学生時代に化学部でガラス細工は経験済み(当時の化学者は実験器具は基本的に自分で作るものであった)なので、ある程度は出来るという自信はあるが、今更それをする気もない。

 

 

 ミュージアムの見学を終えると駅に向かって散策。これからザ・シンフォニーホールまでの移動だが、途中でさんちかに立ち寄って昼食を摂っていくことにする。表通りにはこれという店がないのは分かっているので裏通りを散策。実は頭の中にイメージしていた店はあったのだが、なんとそこは閉店してしまった模様。そこで近くに「森のなかまたち」なる洋食屋を見つけたので入店することにする。チキンカツとローストビーフの日替わり定食(830円)を注文する。

さんちか裏通りの「森のなかまたち」

 ニンニクの効いたローストビーフはなかなか美味い。ただチキンカツは胸肉使用だと思うが、やはり肉質が淡泊に過ぎ旨味が薄い。味の薄さを濃いめのソースでカバーしているのだろうと思うが、やはりそれだけでは誤魔化しきれないところがある。

私にはいささかボリューム過剰

 ボリュームが多いこともあり、全部は食べきれずに店を後にする。CPは悪くないし若者がガッツリ量を食べるには良いだろう。ただ年と病気のせいで食事量が低下し、量よりも質を重視の方向に向かっている私には残念ながらマッチしない。

 

 

 昼食を終えるとザ・シンフォニーホールのある福島への移動だが、時間にやや余裕があることから阪神で移動することにする。やはり阪神は特急はともかく、普通列車は駅間が狭いせいもあって異常に遅い。尼崎で乗り換えてから福島までがとにかく長い。

 福島で降りてからホールに到着したのは開場15分前ほど。入口前に詰めても仕方ないので近くの公園で待機していようかと思ったら、ちょうどタイミングを合わせたかのように雨がぱらつき始めたので雨宿りをかねてホール前へ。結局は入口前の行列に並ぶことになる。

 開場するととりあえず喫茶へ。アイスコーヒーと高級サンドイッチで一息。やっぱり人間は一度堕落すると戻れないようだ。ところで本当はサンドイッチセットよりもケーキセットの方が良いんだが、ケーキ販売の再開はあるんだろうか?

毎度のように喫茶で堕落タイムを送る

 サンドイッチをつまみつつ、pomeraで原稿作成をしていたらロビーの方がザワザワとし始める。振り返ってみたらどうやらロビーコンサートをする模様。こういうのは関西のオケではなかなかない趣向である(今まで遭遇したのは新日フィルに札響ぐらいか。九響もあったっけ?)。弦楽四重奏でしばしくつろぐ。

ロビーコンサートが始まった

 そのうちに開演時刻が近づいてきたのでゾロゾロとホール入り。客席の入りは大体7~8割というところだろうか。まずまず入っているとの印象。

 

 

オーケストラ・アンサンブル金沢 大阪定期公演

やはりアンサンブル金沢は小編成である

[指揮]広上淳一
[ピアノ]トム・ボロー
[管弦楽]オーケストラ・アンサンブル金沢

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 「皇帝」 op.73
ベートーヴェン:交響曲 第6番 ヘ長調 「田園」 op.68

 アンサンブル金沢の編成は8-6-4-4-3型の2管編成ということで、室内オケ以上一般オケ以下という微妙なサイズである。小編成であることからそのアンサンブルの良さを前面に出した演奏となるところであるが、ホールの音響効果も活用することで決してこじんまりとした演奏にはならないのがこのオケの特徴。

 一曲目の「皇帝」だが、ピアノのボローの演奏がどちらかと言えば軽妙でオーソドックスなものであるので、今一つ重厚感がないという気がしないでもない。新進気鋭の若手イケメンピアニストとくれば、もう少し演奏に甘さやもしくは我の強さのようなものが出てくるのが一般的であるが、今回聞いた限りでは彼の演奏はオーソドックスなものであり、殊更わざとらしい揺らしやタッチの極端な変化というものは感じられなかった。その結果として安定感はあるのであるが、いささか地味な演奏というのが正直な感想である。

 バックのアンサンブル金沢も、ソリストに合わせてオーソドックスに音楽をまとめてきた感があり、安定感の方が表に出た感じの演奏。結果として「魂揺さぶられる」というような感覚はない。

 後半は田園。アンサンブル金沢の編成を考えると、最近の流行の一つとなってきている室内楽的田園で来るかと思っていたが、広上の指揮は普通に14型オケなどと同じような振り方をしてきている。また流行のノンビブのピリオドアプローチなどは取らず、オーソドックスにモダンアプローチである。

 その分、広上らしさは随所に現れている。とにかくゆったりと構えて振幅のあるロマンティックな演奏。音色を膨らませることに留意しているように感じられる。多彩で豊かな音色で音楽を組み立てていく印象。

 第2楽章なんかはまさにそのような広上のスタンスが端的に現れ、彼の指揮姿自体もネットリヌットリのいわゆる広上のタコ踊りが全開となる。非常に情緒豊かな音楽世界が繰り広げられる。

 舞踏的な第3楽章を経て、怒涛の第4楽章。ただここに来ると8型という弦楽陣の物理的制約の限界があり、ティンパニがドンガンやると弦楽陣の音がほとんど聞こえてこないという局面があり、これは若干気になったところ。そして雨上がりの爽やかな第5楽章となって、音楽は極めて爽快な気分のまま終了である。

 ホール内はまずまずの盛り上がり。その好評を受けての広上は「一曲だけ」とのゼスチャーを見せてからアンコールを演奏。これはビゼーのアルルの女からアダージェットという弦楽中心の美しい曲。こういう曲になるとアンサンブル金沢の弦楽アンサンブルの技術が披露される曲になる。

 しっとりと曲を終えたところで、いきなり広上が全く違う曲調の曲を続けて演奏を始める。「?」となっていると、そのうちにどこかで聞いたことがあるような旋律が・・・というわけで始まったのは広上版「六甲おろし」。大阪でこれは反則技というものである。場内は奇妙な盛り上がりに。流石にお祭り男広上淳一である。そう言えば広上は2年前にもこれをやったっけ。その時とはまたアレンジが変わっている気がする。

 というわけで何だかんだで盛上がるコンサートにはなったのである。北陸の雄・アンサンブル金沢は今年もその技量のほどを披露してくれた。

 

 

京響定期は沖澤指揮で圧巻の極彩色シェエラザード

京都遠征に出向く

 この週末は京都までコンサートを聴きに出向く。午前中に家を出ると新快速で京都まで。それにしてもまだまだ暑い。乗車時に弱冷車を避けないと熱中症になりかねない。

 昼前に京都に到着。今日のコンサートの開演は14時半。例によってそれまでの間に展覧会に一件立ち寄りだが、それよりもその前に昼食を摂る必要がある。考えるのも面倒なので伊勢丹に上がると「美々卯」に入店する。

私が店を出た時には既に待ち客がいた

 待ち客がいたら嫌だなと思っていたが、昼の部開始直後だったのか、待つことなく入店できる。注文したのは「鴨うどんの膳」

鴨うどんの膳

 厚切りの鴨肉が流石に美味い。ただうどん自体は腰があって良いのだが、なぜか味の方があまり感じない。そういえば付けられていた飯ものも味があまりしなかった。京料理は薄味と言ってもそういう次元ではないような・・・私の体調が悪いのか、それとも味が落ちたのか、あるいはその両方か。

 

 昼食を終えるとバスで目的地に移動する。今日の立ち寄り先は京都国立博物館。ここで開催されている宋元仏画展を鑑賞するのが目的。

京都国立博物館へ

 

 

「宋元仏画-蒼海を越えたほとけたち」京都国立博物館で京都国立博物館で11/16まで

 中国の宋と元の時代に制作された仏教絵画が宋元仏画であり、日本は正式には宋とは国交はなかったが、商人によってそれらの物品は日本に持ち込まれた。

 これらの絵画は非常にレベルが高く、後の時代まで絵師たちの手本として日本の絵画に大きな影響を与えてきたという。これらの絵画を紹介するとともに、それに対する日本の反応なども併せて紹介する。

 第一部は「唐物」として尊ばれた名品を紹介。重文や国宝クラスの名品が登場。中には徽宗皇帝の手によるとされる山水画があり、これは皇帝陛下の手慰みというレベルではない本格的な作品である。徽宗皇帝はかなり文化的素養が高い人物だったようである。もっともこういうタイプの人物は往々にして統治者としては失敗する例が多く、彼ももろにそれに該当してしまったのであるが。

 なおこのコーナーでは絵画だけでなく陶器や工芸品なども登場し、中には曜変天目なども含まれる。個人的には実はこの茶碗類が一番面白かったりする。

 第二部には仏ならぬ高僧達の像が描かれている作品が多数。定型化している仏画よりも、モデルがいる人物画であるこれらの作品の方が生き生きとしていて絵画としては面白い。

 この後は仏画が中心となるのだが、正直なところを言うと残念ながらこの辺りは私的にはあまり面白くなくなってくる。信仰の対象として寺院内で飾られていたりした作品であるので、どうしても劣化がかなりあって絵自体が不鮮明になっているものが多いのがまずで、さらには描き方が定型化していてパターン通りであるからである。ただかなり精細で技術レベルが高いことはわかる。

 また後の日本美術界にも大きな影響を与えた牧谿らの水墨画なども登場。これらは日本で禅宗文化を花咲かせることになる。

 面白いのササン朝ペルシア発祥というマニ教の図像なども含まれていること。これらは仏教図像の形を借りていたので、マニ教が布教されていない日本でも仏画と区別されずに伝わったらしい。ただよく見ると図像がどことなくキリスト教的にも見え、さらに人物の顔立ちが微妙にあちら系の濃いものになっていたりするのが面白い。

 最後はこれらの作品の研究から生まれた日本の作品などで、曾我蕭白の群仙図屏風などが登場。この作品自体は何度も見ているが、それにしても相変わらずインパクトの強い作品である。しかしこの精細で大胆な表現は確かに唐物の研究の結果であると言われると納得はできる。

次回の催しは来年のこれのよう

 

 

 展覧会の見学を終えるとバスで京都駅に引き返す。しかしこのバスが異常な混雑で不快そのもの。まさにインバウンド公害の縮図である。この路線は以前から異常に混雑するのが最大の難点。

 京都駅に戻ってくると、ここから地下鉄でホールに移動する京響は大人気のようで今回の公演も完売の模様。なお沖澤のプレトークがあったが、それによると京響は来年度に沖澤指揮で3回に分けてプロコフィエフの交響曲全曲演奏会をするらしい。いわゆるベートーベンやブラームスのチクルスはよくあるが、プロコなんて変化球が来るのが沖澤らしいところではある。ベトチクは大フィルが今年やっているし、ブラチクはなかったが以前に4オケで一気演奏というのはあった。大フィルは以前にチャイコとメンデルスゾーンでもやっている。京響がこの手のイベントをするのは初めてである。

京響公演は完売の模様

 

 

京都市交響楽団 第704回定期演奏会

最初は12型で後半は14型に拡大

[指揮]沖澤のどか(京都市交響楽団常任指揮者)

L.ファランク:交響曲 第3番 ト短調 op.36
リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 op.35
《[ヴァイオリン]石田泰尚(京響ソロコンサートマスター》

 

 一曲目のルイーズ・ファランクは1804年パリ生まれの女性作曲家だという。一般的知名度の低い女性作曲家の作品を積極的に取り上げている沖澤らしい選択ともいえる。

 ファランクは「作曲家は男の仕事」という社会的差別の中でかなり苦労したようであり、正式に作曲を学ぶことが出来ず、アントニーン・レイハの個人レッスンを受けて作曲を学んだとのこと。ただ彼女はその作品がシューマンに絶賛されたことなどから、生涯無名で終わった女性作曲家が大多数の中では比較的成功した例だという。ただピアニストだった愛娘が1959年に早逝し、その失意のせいか晩年はほとんど作曲をしなかったことが没後にその作品が忘れられてしまう原因になったのではとのこと。

 彼女が交響曲を作曲したのは1840年代で、今回の3番は1847年に作曲されたという。ちょうどシューマンなどがバリバリ作曲をしていたロマン派全盛期といえる時代になる。ただその割には彼女の作品は保守的というか、やや古典的に聞こえるところがある。この作品についての私の感想は、やや哀愁を帯びた主旋律などメロディ面では独自の優れた魅力を感じるのであるが、残念ながらその後の展開などが定型的でやや退屈という感がある。正直に言うと、曲自体があまり面白くないのである。

 そういうことがあるので、12型中規模のアンサンブル重視の京響の演奏自体は見事でもあり、沖澤の解釈なども適切なものであると感じるのであるが、どうしてもその奏でる音楽自体の魅力が薄くなってしまっているのが否定できない。

 

 休憩後の後半は編成を14型に拡大してのシェエラザード。これは見事に色彩的というか、音が粒立って聞こえてくる感じで非常に解像度の高い演奏である。圧倒的な極彩色の音楽絵巻に飲み込まれるという印象。管楽器を中心に京響奏者の名人芸が際立っている。

 ヴァイオリンソロは石田組長。流石というか堂々としたインパクトの強い演奏である。また力強くもあるが、時には囁くようにとメリハリが強い表現力豊かな演奏。ヒロインのシェエラザードによる王に対する寝物語という本曲のシチュエーションを思い出させる表現となっている。

 魂を揺さぶられるような圧倒的なサウンドに、聞いていて背筋のあたりがゾクゾクとしてきたというのが本音であり、久々に血沸き肉躍るような演奏であった。この曲は実は下手に演奏をすると、ただうるさいだけでむしろ眠気を誘ってしまうこともある難儀な曲であるのだが、一睡の余地さえないというか音楽の奔流の中で心遊ばせているうちに気が付けばラストになっていたというのが今回の私。これは久々にすごい演奏に出くわしたと感じた。

 非常に満足度の高い演奏に改めて京響のレベルの高さを感じさせられたし、これが沖澤の音楽かと納得させられたところ。なおアンコールがドビュッシーのベルガマスク組曲から月の光という沖澤らしい美しい曲で、これでやや過熱した場内をしっとりと落ち着かせてコンサートを閉めたのである。

 

 

 非常に満足度の高い公演であった。これだけの演奏が聴ければわざわざ京都まで出張ってきた価値があったというものである。この後は翌日に備えて大阪にとんぼ返りすることにする。明日はなんばパークスシネマでのMETライブビューイングのアンコール上映を鑑賞する予定。宿泊ホテルは堺に確保してある。今回宿泊するのは堺浜楽天温泉祥福

 堺沖の埋め立て地に立地しているので、車なら阪神高速湾岸線経由でアクセスが楽なのだが、鉄道利用の場合は住之江公園駅からピストン輸送の専用バスを使うしかない。バスの時間を読みつつ地下鉄を利用することになるが、待ち時間の間に「ミンガス」に立ち寄ってカツカレーを夕食として腹に入れる。ただこれも何となくあまり美味しくない。やはり体調が良くないのか、それとも味が落ちたのか。

体調が悪いのか、味が落ちたのか、今回はいまいち

 住之江公園に到着して所定のバス乗り場で待つこと10分ほど、中型バスが到着するのでそれで祥福に直行する。

 祥福は日帰り温泉施設に宿泊用のカプセルを付けたという構造。なおカプセルは21時まで入浴客も利用することが出来、21時半以降は布団を敷いて宿泊客専用になるというシステム。それまでは休憩所などで時間をつぶすことになる。

 風呂は内風呂に露天風呂で壺湯だの電気風呂だのと多彩。湯はアルカリ単純泉とのこと。強いヌルヌル感はないがさら湯よりは肌当たりは柔らかい。とりあえずはここでしっかりと汗を落とすとともに体をほぐす。

 なお私のプランは岩盤浴もついてくるとのことでそちらも覗いてみるが、基本的に蒸し風呂は性に合わないので適当に終えて汗だけを流しておく。

 風呂の設備はなかなか良いのであるが、この施設の最大かつ私にとっては致命的と言える問題点は、ワークスペースがないことである。一応はPCも持参していたのだが、結局はキャリーから取り出すことが最後までなかったのである。せいぜいが夜になってカプセルに入ってからポメラを取り出したぐらい。やっぱりあくまでくつろぐのが目的の日帰り温泉施設であり、こんなところで仕事なんてするなということだろうか・・・。

 

 

この遠征の翌日の記事

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フィンランドデザインを鑑賞してから、PACの2025シーズン開幕コンサート

今日も元気だ朝飯が美味い

 翌朝は目覚ましをかけた8時まで爆睡していた。起きだすとまずはとりあえず朝食である。おかずには豚バラ大根なんかもあってガッツリ食える(昨日の昼食も豚バラ大根だった気はするが)。これもこのホテルのポイントの高いところである。

ボリューム十分なルーマ朝食

 朝食を腹に入れるとルーマの湯へ。朝から露天風呂が心地よい。アルカリ天然水の男前の湯で朝から男っぷりをあげておく。

 さて今日の予定だが、メインは西宮でのPACオケの定期演奏会。PACオケは今月からが新シーズンだから、新体制でのお披露目コンサートになる。後は西宮に行く前に一か所立ち寄り。

 コンサートの開演は15時からなので、立ち寄り先が一か所であることを考えるとそう急ぐ必要はない。入浴を終えるとしばしネットブースに立て籠もって昨日仕上げた原稿をアップ。なんかやっぱり私の日常って休暇先でも仕事のことを忘れられない猛烈サラリーマンみたいなんだよな・・・。「仕事は遊ぶように、遊ぶ時は真剣に」というのが私の座右の銘でもあるが、確かに必死で仕事しているときは「暇そうですね」と言われて、遊びまわっている時は「お仕事ですか」と言われる。

 

 

伊丹に立ち寄る

 ホテルをチェックアウトしたのは10時半ごろ。昨日よりは体調は良くなっているが、やはりこの暑さはなかなか堪える。荷物を抱えて京都河原町まで移動すると、そこから特急で西宮方面へ。ただし途中で塚口で乗り換えて伊丹ミュージアムに立ち寄るのが今日の予定。

 塚口から伊丹までは起終点含めて4駅の盲腸線。一応複線のようだが、この時間帯は四両構成の一編成がピストン運転されているようである。沿線は住宅街のただ中で、終点の伊丹駅はビルの3階に入っておりちょっとしたターミナルになっており、利用客も結構多い。なおこの路線、私は以前に全国鉄道乗りつぶしの時に乗車しているはずなのだが、それがとにかく前であるので記憶に全く残っていない。

伊丹駅は行き止まりである

駅ビルの3階にある

 

 

伊丹駅前で名店発見

 伊丹駅に到着するとここから荷物を引きずりながらミュージアムへ。しかしもう昼時なので途中で昼食を摂ることにしたい。店は事前にいくつか候補を絞っていたが、気分に合わせて「ハンバーグ&ステーキ LOG's」に入店する。

阪急伊丹駅前の商店街にある

 4人掛け席が10席ほどの店内にはそこそこ客が入っている。私が注文したのは「和牛ハンバーグ150グラム(1180円)」。ライスとサラダにスープは付属するらしく、私はライス小を注文。

 しばらくしてサラダとスープが出てくる。特別に凝ったものではなく、オーソドックスであるが意外に悪くない。

サラダとスープ

 その後にハンバーグが到着。切ってみると圧力をかけた際に肉汁が滲み出るが、中までキチンと火が通っている。これには感心する。というのもどこかの馬鹿が肉汁が出てくるハンバーグが至高のように触れ回ったせいで、肉汁を出すために中身が赤いままのハンバーグを出す店が増えていたからである。ステーキ肉ならともかく挽肉であるハンバーグでこれをされると食中毒の危険さえある。また要は肉汁が出れば良いんだろうと、つなぎをたっぷりと入れて肉汁ならぬ野菜汁が滲み出てソースがベチャベチャになってしまうようなハンバーグも少なくない。昨今の私はこんな出来損ないハンバーグの氾濫に閉口していたのである。

ハンバーグが登場

 ここのハンバーグは過剰な肉汁が流れ落ちることもなく、それでいて肉汁十分なのでパサパサせずに柔らかいハンバーグである。ただこういうシンプルなハンバーグは、シンプルさゆえに肉質がもろに味に出てしまう。だからオージーなんかを使うチェーンレストランではこのタイプのハンバーグにしたら味も素っ気もなくなって誤魔化しがきかなくなるので敬遠するもの。このタイプのハンバーグで勝負するということは、肉質に自信があるということだろう。伊達に和牛を名乗っていないということか。確かにシンプルでありながら肉の旨味が良く出たハンバーグである。それでいて良心的価格であるのだから驚き。この価格は駅ビルのテナント店とかでは不可能だろう。

過剰でない肉汁に中まで火が通っているのがポイント

 思わぬ場所で思わぬ名店に出会って満足というところ。こういう出会いがあると気分も上向くというものである。暑さが身に染みるものの気分は軽やかにミュージアムまで移動する。

市立伊丹ミュージアムに到着

 

 

「タピオ・ヴィルカラ 世界の果て」市立伊丹ミュージアムで10/13まで

 タビオ・ヴィルカラはフィンランドモダンデザイン界の大物である。1946年にイッタラのデザインコンペで優勝して同社のデザイナーに起用されてから、ガラスに限らず磁器、銀食器、宝飾品、照明、家具、紙幣、グラフィックなどあらゆるジャンルと素材を活かしたデザインを生み出してきたという。ちなみに彼の妻はやはりこれもフィンランドデザインを代表する作家として有名なルート・ブリュックである。

彼の妻のルート・ブリュックによる「ライオンに化けたロバ」

 第一展示室には彼の工業デザイン製品が展示されている。確かに驚くのはその素材の多様性。彼はあらゆる素材を活かして洗練された製品を設計したようである。そのためには彼自身が素材を手にして様々吟味したらしい。彼のデザインはいかにもフィンランドデザインらしく、シンプルにして機能的、それでいて高度に洗練されているという特徴を持つ。

木目を生かしたテーブルトップ

ガラス器類

銀製品類

磁器

電球

ステンレス製品

スタジオの扉

 

 

 第二展示室は実用デザイナーとしてではなく、芸術家としてのオブジェを展示。ここでも彼は職人の技巧を駆使して斬新で芸術性の高い作品を制作している。これは彼自身も素材に対して通じていることが必須であるのは明らかである。なお以前よりフィンランドデザインは日本人と感性の近いものがあるように感じていたが、今回はさらにそれを濃厚に感じることになった。

巻貝をモチーフにした木工作品

これはクジャクの羽だそうな

ガラス製のマドンナ

こちらにはエルクの姿が

様々な素材で鳥をモチーフに

この作品の名はなぜか「トキオ」

貝殻

これは地衣類らしい(何となくエノキのように見える)

 第三展示室は彼がヴェネチアのガラス工房のデザイナーとして、ヴェネチア職人を使って制作した作品。保守的なヴェネチアの工房が外部のデザイナーを迎えることは極めて異例だというが、彼はミラノ・トリエンナーレで2回連続の3冠を成し遂げるなど、イタリアでの活躍もそれ以前にあったのだという。色鮮やかなヴェネチアンガラスを駆使しての彼のデザインセンスがさらに冴えわたっている。

カラフルなヴェネチアンガラス

色彩豊かである

これは鳩と卵だそうな

様々な色ガラスを使用

そしてこれがスタンドライト

 以上、フィンランドデザインには以前よりシンパシーを感じていたが、それをさらに深めた展覧会であった。

 

 

 なお伊丹ミュージアムではタピオ・ヴィルカラ展に併せて戸田勝久展も開催されていたので、そちらも併せて見学した。

ヴィルカラ展に併せて戸田勝久展も開催

 戸田勝久は1954年生まれで、アクリル画、銅版画、南画などを学び、1978年に挿絵画家としてデビューしてから、各地で個展などを開催して活躍してきたという。また彼は与謝蕪村の書画に傾倒して、句と書と画が一体となった俳画の世界に憧れてきたという。

 とにかく多彩で何でもやる人物という印象だが、そのアクリル画はかなりしっかりとした作品であり好感を持てる作風。そこに流れる幻想的で独特の詩情が蕪村に触発されたというものだろうか。また銅版画についても完成度は高い。

 蕪村に傾倒したというように、いかにも蕪村的な作品まで描いている。とにかく多彩であるという印象。もっともそのように多彩な人物は、往々にして単なる器用貧乏に落ちてしまいがちであるのだが、その点では彼は全てにおいて一定レベルをクリアしているのは驚きではある。ただいずれは彼が本当に目指すべきものに向かって、収斂していくことになるのではと感じてはいるが。


 美術館の見学を終えたところで、PACの開演時刻が気になってきたのでホールに直行することにする。

 PACオケの新シーズンは欧米流で9月からになる。元々奏者の育成を目的としているこのオケは、メンバーは最長で在席が許されるのは3年であり、それを過ぎると各々が独立した演奏者として巣立っていくことになる。今年も10数名のメンバーの卒業及び新規加入があったらしい。

なかなか良好な席が取れた

 

 

PACオケ第162回定期演奏会 佐渡裕 渾身のオール・ブルックナー!

指揮・芸術監督:佐渡 裕
ソプラノ:並河 寿美
メゾ・ソプラノ:清水 華澄
テノール:小原 啓楼
バリトン:青山 貴
合唱指揮:矢澤 定明
合唱:ブルックナー「テ・デウム」合唱団
管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団

<オール・ブルックナー・プログラム>
交響曲 第0番
合唱曲「キリストは従順であられた」
テ・デウム

 今回のプログラムはオールブルックナーという仕掛け。最初はブルックナーの番外交響曲。最初はこの曲はブルックナーが1番を書く前に習作として書いたものと考えられていたが、近年の研究では1番の完成後に2番の前に制作されたものらしいことになったようだ。ということは本来はこれが2番になるべきだったのだが、ブルックナーのどういった気の迷いか、この曲は発表されずにお蔵入りになってしまったらしい。とにかく人の意見を聞きすぎるブルックナーなので、誰かに酷評でもされて自信を失ったのかもとの説もある。ただそこで破棄せずに、スコアは残したまま後に「ヌルテ」と表紙に記したらしい。つま不採用とかそういう意味らしい。とはいうものの、破棄しなかった辺りにブルックナー本人としては本音としてはそんなに出来が悪いとは思ってなかったのかもしれない。

 かくいう経緯があるのであまり演奏機会が多い曲ではない・・・はずなのだが、どうも私の場合は珍曲マニアの下野のコンサートなどに行くせいか、この曲は今まで数回聞いたことがある。で、この曲に対する私の正直な感想は「いかにもブルックナーらしい部分は多々あるが、曲としての完成度はあまり高くない」というものである。特に第一楽章などまとまりがなくて無駄に冗長であるように感じられる。

 実際に今回の佐渡指揮のPACの演奏でもそのことが感じられた。演奏自体は悪くないが如何せん曲が退屈なのである。第一楽章などはひたすら冗長で散漫。第二楽章は美しいのだがインパクトがないせいで眠気を誘う。

 曲としてらしいのは第三楽章。この緊迫した音楽は後のブルックナーの交響曲を連想させる。また長すぎないのも良い。最終楽章はなんか途中であらぬ方向に行きかけている感はあるがまあこんなものか。というわけで所詮ヌルテはヌルテというのが正直な感想である。

 なお新生PACの演奏であるが、初っ端からなかなかまとまりが良いのを感じた。昨年のPACは初っ端はもっとバラバラだった印象があったが、今年の新メンバーは優秀なんだろうか。もっともまだ突き抜けた部分が見えてないので、その真価は未だはっきりしないが。

 後半はブルックナーの声楽曲。まずはアカペラの合唱曲から。非常に美しい曲で、ブルックナーの本領は宗教曲だったのかと思わせられる内容。

 そしてテ・デウム。荘厳で重厚でそれでいて激しさも含む壮大な曲である。いつものブルックナーの交響曲に声楽部を加えたという印象。実際に彼の交響曲で耳にしたブルックナーフレーズとでも言うべき節回しも聞こえてくる。ここで私は初めて、これこそがブルックナーの本領だったのだと気づかされた。教会のオルガン奏者だったブルックナーとしては、まさに彼らしさが発揮されるのはこういうジャンルだったか。実は今までブルックナーの交響曲を聞くたびに「何かが足りない」という感があったのだが、どうやらそれは声楽部だったのかもしれない。交響曲に声楽部を加えたというよりも、実は彼の交響曲は合唱曲から声楽を引いたものだったのかもしれない。

 圧倒的なサウンドに圧倒されて感動させられているうちに終わってしまった。今回はオールブルックナープログラムで、ブルックナーとはいかなる作曲家かを伝えることが目的だったのか。何となく佐渡の策略にまんまと嵌められた気もするが、私としてはこれはこれで貴重な体験であった。

 

 

 コンサートを終えると今日の宿泊ホテルに向かう。今日宿泊するのはJR難波駅近くのJ-SHIP難波というカプセルホテル。JR難波は他の難波駅からやや離れた位置にあるので、JRで行こうとしたら、新今宮で折り返しの乗り換えになる。難波に向かう本数が少ないせいでここでしばし待たされる。

 難波駅もかつてはミナミの中心で、大阪の和歌山や奈良方面への玄関口だったはずなんだが、今はこれらの路線もキタの方に集約されてしまい、環状線から外されているせいもあって今では奈良方面行きの普通が1時間に4本だけというかなり寂れた駅の印象になってしまっている。まさに地盤低下が懸念されているミナミの象徴のような空気がある。

 地下駅の地上にはバスターミナルの入るビルがあり、ここの5階にレストラン街があるとのことなので、夕食はそこに立ち寄ることにする。しかしビルを登ってみたらこれもまた活気がない。どの店も客がいないということはないが、夕食時にも関わらす満席からは程遠い状態で大繁盛とは言い難い感がある。これは下手したら遠からずシャッター街になってしまう予感もないではない。そんな中で見かけた中華料理店「中華酒家旺宴」に入店する。

レストラン街の「旺宴」

 オーダーはスマホオーダーシステムになっている模様。どうもその辺りは省力化か。その割には国籍不明(インド系?)の店員を見かけたりなど意味不明な店である。とりあえず酢豚の定食に単品で唐揚げを付ける(1580円)。

可もなく不可もなくの定食

 味は悪くない。しかしだからといって美味いわけでもない。つまりはあまりに可もなく不可もなくばかりなのである。細かく言っていけば全体的に味にインパクトがない。化調ギトギトの不快さもないが、かといって高級中華のような深みもない。そういうわけで、価格を考えるとCPが悪いとは言わないが、あえてここに入るべき魅力もないという結論になってしまう。

 

 

 何とも中途半端な印象の夕食になってしまった。後は今日のホテルを目指して難波の駅地下を南口までトボトボ歩く。ホテル南口から地上に出たら見える場所にある。

南口を出たらその先に見える

 このホテルを使用するのは初めて。見た感じはなかなか綺麗で、何となくインバウンド客を狙っている雰囲気が漂っている。

何となくインバウンドを想定していると思われる玄関口

 カプセルについては普通。というか、昨日止まったルーマプラザと良く似た仕様。こういうのも業界でパターンがあるようだ。なおロッカーがルーマプラザよりもかなり大きく、ルーマプラザでは私の最小キャリーも無理やり押し込む必要があったが、ここのロッカーは余裕どころか、もう一回り大きい私の連泊用キャリーでも入りそう。

カプセルルーム

カプセルは標準的

 一応大浴場付き。まずは汗を流すことにする。風呂はまずまずで規模としては一般的なルートイン大浴場レベル。豪華ではないが必要十分というところか。

 汗を流してさっぱりすると仕事である。5階にラウンジがあり、そこが飲食及びネット可能とのことなので行ってみる。コンセントもデスクもあり、本格的に仕事をするのに十分。ここでしばし執筆作業に勤しむことにする。

5階のラウンジ

仕事環境構築

 執筆して疲れたら少しゲームをして気分転換などをしていたら夜も更けてきた。気が付くと結構客が増えてきている(買い込んできた夕食を摂りに来ているようだ)。そんな中で一人だけ仕事スタイル(実際は遊んでいるんだが)の私はどうも異様な存在の模様。そうこうしているうちに疲れも出てきたし、荷物をまとめるとカプセルに潜り込む。

 

 

この遠征の翌日の記事

www.ksagi.work

この遠征の前日の記事

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京都の秋音楽祭開幕コンサートに出向くと共に民藝美術を堪能

京都まで出向く

 この週末は京都方面に出向くことに。京都では「京都の秋音楽祭」に関連して京都市響のコンサートが開催されるのでそれに出向くことにした。この三連休はコンサートの予定3件に美術館を絡めるつもりである。

 出発は午前だが、出発直前にドタバタがあったせいで予定よりも遅い出発。京都山科に到着した時には当初の予定よりもかなり遅れていた。地下鉄に乗り換えてとりあえず最初の目的地である京セラ美術館を目指す。それにしても既に9月も半ばに差し掛かるというのに相変わらず暑い。

京セラ美術館に到着、この時点で汗だく

 

 

「民藝誕生100年-京都が紡いだ日常の美」京セラ美術館で12/7まで

 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが京都に結集し、日常に潜む美に注目して始めた芸術運動が「民藝」と呼ばれるものである。

 民藝が誕生したのは1925年、関東大震災で被災して京都に転居した柳が、ここで木喰仏について河井らと意気投合したのが始まりであるという。本展は最初にこの木喰仏が登場するが、正直なところ私の趣味とは言い難いが何となく愛嬌があって、非技巧的なところに自然な魅力を感じさせる像である。

木喰明満「葬頭河婆跏像」

木喰光満「十王坐像」

 次に登場するのが人間国宝である黒田辰秋による家具類の数々。素朴で実用性がありながら、装飾性にも優れるという民藝の精神に叶った作品である。奇をてらったり過剰装飾などによる芸術のための芸術にならず、あくまで正面には実用が出ているのがポイントである。なお黒田辰秋にいつては2024年12月に京都国立近代美術館で大規模な展覧会が開催されており(私はスケジュールの関係で未訪問だが)、そこで展示された作品の一部であると推測できる。

黒田辰秋「黒漆鞍掛」

黒田辰秋「螺鈿卍文蓋物」

朱漆の三面鏡及び円卓

 

 

 さらには博覧会の民藝館パビリオンとして出品された作品や、柳らが全国から蒐集した日常使いの工芸品などが展示。大津絵や唐津、沖縄の衣装など素朴な民芸品らの展示となる。

伊万里の壺

河井寛次郎「スリップウェア線文鉢」

大津絵

唐津の緑釉の鉢

沖縄の衣装

囲炉裏で使う自在鉤、このようなものにも美を見出していた

 次が個別の作家らの作品。富本憲吉は金ぴかの派手な器のイメージがあるが、ここで登場するのは白磁などの彼にしては比較的地味なもの。

富本憲吉「白磁八角壺」

どちらかと言えばこのような作品の方が富本憲吉らしく感じるが

 

 

 さらに河井寛次郎のいかにも彼らしい陶芸作品が登場。この後にさらに濱田庄司、バーナード・リーチ、芹沢銈介、棟方志功といったいかにもの面々のいかにも作品が並ぶが、この辺りは版権の関係か撮影不可。

河井寛次郎「白地草花絵扁壺」

河井寛次郎「鉄薬丸紋隅切鉢」

黒田辰秋「屋久杉棚」

 最後は彼らの理念に基づいて建てられた建物、河井寛次郎の自邸(現在は河井寛次郎記念館となっている)などの紹介があって終了である。確かに民藝の理念は建物と一体となってこそ完成するものであり、その方向に運動が向かうのは必然ともいえよう。なおこれらの建物は今でも多くが京都に現存しており、情緒ある建物で知られる料理屋「十二段家」などもそれに含まれるそうな。

向日庵について伝える当時の雑誌記事

現在の模様

このような品が使用されていたとか

 最後には河井寛次郎の次の世代に当たるという上田恒次の作品も登場。民藝の意識は今日にも残っているようである。

上田恒次「赤絵陶箱」

上田恒次「色絵大皿」

 民藝運動については河井寛次郎や芹沢銈介絡みなどで知ってはいたのだが、未だに私の頭の中には体系的なイメージは出来ていなかった。今回、本展によって初めて私の頭の中で民藝についての系統的なイメージを形成することができた。そういう意味では予想外に収穫があったと感じた展覧会である。

 

 

昼食は京都のおばんさい

 美術館の見学を終えたところでちょうど正午頃。コンサートの開演が14時からなのでその間に昼食を取る必要がある。どうも京都の昼食といえばここのところ抜きか間に合わせばかりだったので、今回は事前に下調べをしてきている。東山にある「卯sagiの一歩」に向かうことにする。

住宅の中の一角にひっそりと看板が出ている

 目的の店はいかにもの飲食店的な店構えはしておらず、普通の町家の中でひっそりと看板を出している模様。実際に店内も普通に町家を使用している模様。客は女性のグループか落ち着いたご夫婦というところなので、おっさん(もうほぼ爺さんだが)一人の私はやや浮いているか。いささかアウェイな空気を感じるが、カップルゾロゾロよりはまだマシか。

店の構造ではなく、明らかに普通の町家

 ランチメニューは数種類。私は「豚バラ大根(2500円)」を注文する。いわゆる京都的なおばんさいの店である。

 注文してから「もし京時間採用の店だったらやばいな」ということが頭を過る。普通に昼食を摂るには十分な時間を確保しているはずだが、京都にはたまにその想定を上回る雅な京時間で料理が出てくる店がたまにある。以前にそのような店に出くわして、美術館訪問前に立ち寄ったら美術館を見学する時間がなくなって(料理が出てきて食べ終わるまでに2時間近くを要した)予定変更したという経験がある。まあその時には料理自体はうまかったのがまだ救いではあるんだが・・・。

 なんてことが頭を過っていたが、無事に数分という常識的な時間で料理が出てきて安心する。まず豚バラ大根の大根から頂こうと思ったが、ここで驚いたのは大根がかなり固くて箸で切るのも難儀するレベルだったこと。しかしこれでは味が染みてないのではと思えば、味はしっかりついている。これには驚いた。大根らしい辛みやかすかな苦みも感じられてなかなか美味。おばんさい類が総じて味が良い。もっとも本来の伝統的京都味付けからみると、今時のやや濃いめに感じないでもないが。庭を眺めながらゆったりと摂るオシャレな贅沢ランチというところか。

庭を眺めながらゆったりといただく豚バラ大根

 まあ女性に受けるのはよく分かる。量も明らかに女性向き。今の私にはちょうど良いが、これが10年前なら間違いなく不足を感じ、20年前なら迷わず昼食をはしごしたろう。

 

 オシャレでやや贅沢なランチを堪能するとホールへ向かう。今回の公演は京都の秋音楽祭の開幕コンサートとのことだが、入場料が3000円というお祭り価格で安価なので(その上に京都市民には抽選で無料招待とかもある模様)、チケットは完売。私もチケット争奪戦に出遅れた(発売日の昼頃まで気づかなかった)せいで1階席の確保は断念、結局は毎度の3階席になってしまった次第。京都市響もだんだんとチケットの確保が難しくなりつつある。

京都コンサートホールには大勢の観客が押しかけた

 プログラムはエルガーのチェロ協奏曲とホルストの惑星というポピュラー曲とマニアック曲を組み合わせた内容。一応テーマはイギリスか。

 

 

「第29回 京都の秋 音楽祭 開会記念コンサート」

いつもの三階席しか確保できなかった

[指揮]沼尻竜典
[チェロ]上村文乃
[管弦楽]京都市交響楽団

エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
ホルスト:組曲『惑星』 作品32

 エルガーのチェロ協奏曲は、先にちょうど大阪フィルの神戸公演で聞いたところである。ただ上村の演奏はかなり表現力豊かであることを感じる。音色に振幅があり、かなり多様なニュアンスを含んだ濃厚な表情付けが行われている。

 ただそのことがこの曲の場合に最適であるかどうかは判断が難しいところ。私は個人的にはエルガーはその茫洋としたところが苦手であるので、このような表情付けはその茫洋さに拍車をかけている感があり、そういうところにエルガーの音楽の魅力を感じる者には良いだろうが、私のように最初からエルガーが苦手な者の場合は、茫漠たる音楽の荒野に案内なしで放り出された感があり、行方を見失ってしまったような感覚を受けた。これはあくまで好みの世界の話であり、決して上村の演奏が悪いわけではないのであるが・・・。

 後半はホルストの有名曲。沼尻のアプローチはややアップ目のテンポでサクサクと明快かつ簡潔な演奏という印象。決して無感情で淡泊なものではないが、かと言って過剰に濃厚な表情付けはしなかったように感じられた。トータルで言うと非常にわかりやすい演奏であると感じた。もっともいささかあっさり目の味付けだったので、これが広上とかだったらいかにもお祭りらしい虚仮脅しな演出も入っただろうななんてことが頭を過った。

 

 

 コンサートを終えるとホテルに移動だが、今日の宿泊は祇園なのでバスで河原町まで一気に行こうかと思ったが、ちょうどバスが出た直後で次は20分後。とても待っていられないので地下鉄で四条に移動してから、夕食を摂る店をプラプラと探しつつ向かうことにする。

 とはいうものの夕食を摂る店の目星は全くついていない。大丸のレストラン街に上ってみて看板を見渡す。正直なところ洋食の気分ではないしガッツリと中華を食う気分でも、ラーメンという気分でもない。で、眺めるとそば屋「よしむら」があるようなのでそばにすることにする。ちょうど夕方からの営業が17時からで今は5分前ほど。入店待ちの客が行列を作っているのでその最後尾につく。間もなく開店して順に問題なく入店。

大丸最上階の「よしむら」

 注文したのはとろろそばに親子丼をつけたもの(2000円)。ただここに来て、「よしむら」 という名前に覚えがあることに気づく。そう言えば、北山にあるそば屋が「よしむら」だったような・・・思わず「しまった」という言葉が口から出そうになる。北山からやってきて、わざわざ北山の店に入ったんでは意味不明である。

とろろそば

加えて親子丼

 出てきたそばを見て「ああ、やっぱりあのよしむらだ」と確信する。細めのそばがいかにも覚えがある。なお私の好みから言えば、もっと太めの武骨でいかにものそばの方が好きなので、ここのそばは実はやや好みからずれる。ただそんなことよりも今日は体調の悪さが想像以上だったようで、どうも食欲が今一つで正直なところそばがあまり美味くない。結局のところ丼はなんとか完食したが、そばは少し残した状態で店を出ることに。店が悪いわけではないのだが自分の体調が考慮に入ってなかった。これは失敗だ。

 

 

 大丸では「世界ふしぎ発見展」を開催するとかで仁君人形が立っている。仁君が実際にこの人形のモデルだった頃のように元気なら良いのだが、最近見かけた草野仁氏はめっきりと衰えていたから心配なところ。マッチョ草野もさすがにもう年か。そもそもこの番組、だんだんと出演者の高齢化が目立って近年では見ていて痛々しい感が強かった。

往年のマッチョ草野を連想させる仁君像

 とりあえず夕食を終えるとホテルまでキャリーを引きずりながらトボトボと歩く。今日の宿泊ホテルだが、以前にも利用したルーマプラザを確保している。どうも最近はカプセル率が増えてきている。それもこれもインバウンドの影響によるホテル価格の高騰が原因。私は参政党のような差別主義者とは違うので外国人は日本から出ていけなどという気はないが、さすがに京都とかは過剰なインバウンドによるインバウンド公害の対策も考えた方が良さそう。実際にここ最近は国内観光客が京都を避ける傾向が出てきているとか。もっともインバウンドの問題だけでなく、アホノミクスによる庶民貧困化の結果、観光なんてする余裕がなくなっていることもあるだろうが。

 それにしても暑い。8月の灼熱地獄という感じはなくなっているが、それでも気温としてはそこそこ高く、地味に体力を削られる感覚。ようやくホテルに着いた時にはヘトヘト。これはチェックイン前にクールダウンが必要そう。ホテルからさらに足を伸ばし、「茶寮都路里」に立ち寄ることにする。「都路里氷(1694円)」を注文する。

都路里のカフェに立ち寄る

 流石に美味い。価格がかなり高めなのと小豆がもう少し欲しいのが気になるところだが、氷の味自体が非常に美味いのは流石に都路里。そのおかげで小豆がやや少なめであることが気にならなくなってくる。

都路里氷は高いが流石に美味い

 

 

 これでサッパリとクールダウン。心なしか体調もやや戻った感じ。風邪を疑っていたのだが、もしかしたら単に暑気が体に入っただけだったのかもしれない。もっとも老化に伴う体力の衰えで、少しのことで体調を崩しやすくなっているので要注意である。特に来週は仕事の関係で体調を崩すわけにもいかないので。

ルーマプラザは今日も満室

 ホテルにチェックインすると、とりあえず荷物をロッカーに押し込んで管内着に着替えると最上階の風呂に直行する。体中が汗でベトベトなのでまずはそれを流す。そして信楽のアルカリ天然水を運んで沸かしているというルーマの湯に入浴(ローマなら分かるんだが、ルーマって何だろう?)。ヌルヌルした湯が心地よい。曰く男前の湯だそうなので、これで私の男っぷりをしっかりと上げておく。

 入浴をしたら後は疲れが一気に出てくるもの。当初予定ではこの後はインターネットブースにお籠りするつもりだったが、この状況だと椅子に座っているのがツライ。とりあえずカプセルに直行してゴロンと横になりながらタブレットで漫画でも読みつつ英気を養う。2,3時間後、ようやく活力が出てきたところで機材をまとめてネットブースにお籠りする。

カプセル階の一角にあるネットブース

仕事環境を構築してお籠り

 そのまま日付が変わる手前まで作業。眠気がこみ上げてきたところでカプセルに潜り込む。

 

 

この遠征の翌日の記事

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京響定期演奏会で天才少女ヴァイオリニストの演奏を堪能する

夏の京都は灼熱地獄

 さて先週より遠征再開と相成ったのであるが、この週末は京都に出向くことにした。目的は京都市響の定期演奏会。デ・フリーント指揮でモーツァルトのレクイエムという結構濃い内容。

 家を出たのは土曜日の午前。今日はそんなにスケジュールがタイトではないのでややゆっくり目の出発。コンサートまでの予定は一か所だけ。嵐山の福田美術館に寄って万博展の後期を鑑賞するのが目的。阪急で嵐山まで移動するとそこから美術館へ。

 それにしても暑い。もうとっくに盆を過ぎているのに焼けつくような暑さである。直射日光でおかしくなりそうので、最近の私はもっぱら日傘男子(ジジイ)。

日傘ジジイになっている私の愛用品 購入はAmazon

 この暑さのせいか、流石の嵐山も夏休み最終週末にもかかわらず人出はやや少なめである。これがまた秋の行楽シーズンにでもなったら馬鹿みたいに混雑するんだろうと思ったらいささかうんざりする。暑さでぼんやりとしながら美術館に到着する。

渡月橋を渡る観光客もいつもよりも少なめ

 

 

「万博・日本画繚乱 ー北斎、大観、そして翠石ー」福田美術館で9/28まで

福田美術館

 明治時代、万博に出展した日本画家たちの作品を展示した展覧会の後期である。一部の作品に入れ替えがある。

 葛飾北斎の作品や岸竹堂の龍虎、望月玉渓の鳳凰図などは前期でも展示のあった作品だが、なかなかにインパクトの強い作品。

葛飾北斎「武士図」

岸竹堂「龍虎」

望月玉渓「鳳凰図屏風」右隻

同、左隻

 後期展示の特徴としては横山大観の作品が多く加わったこと。いかにも大観らしく富士を描いた大型作品が目立つが、渋い秀作も展示。

横山大観「富士図」右隻

同、左隻

横山大観「水国之夜」

横山大観「緑陰高士」

 

 

 また橋本雅邦、川合玉堂、上村松園らの名品も展示されている。

橋本雅邦「谿間富嶽図」

川合玉堂「渓村春晴図」

上村松園「軽女悲離別之図」

 二階展示室はタイガー大橋コーナーとも言える状況だが、後期には二点がさらに加わった。迫力満点の「月下双虎之図」と応挙の影響が見られるという「猛虎之図」。さすがに大橋翠石らしい見事な虎の絵である。

大橋翠石「月下双虎之図」

「猛虎之図」は応挙へのリスペクトで、後の作品とは書き方がやや異なる

 そして第三展示室には万博時には既に日本画家としての評価を確立していたのに、大橋翠石の金賞に対して、自身は銅賞にとどまってしまったことに衝撃を受けるとともに、いたくプライドを傷つけられたらしき竹内栖鳳による執念ともいえる虎の絵。

竹内栖鳳「猛虎」

 

 

 福田美術館の見学を終えると、第二会場の嵯峨嵐山文華館も覗くことにする。しかしこの炎天下ではこの長いとは言い難い工程が非常に体力を削ってくる。

灼熱の中、嵯峨嵐山文華館に足を伸ばす

 こちらも一部作品入れ替え。一階展示室には横山大観の「春夏秋冬」が加わっている。

横山大観「春夏秋冬」

 二階の展示室には野沢如洋の躍動感あふれる馬の屏風絵が登場。また上村松園の人形遣いを描いた作品。

野沢如洋「駿馬図」右隻

同、左隻

上村松園「人形遣之図」

 

 

 さらに下村観山や山元春挙の静かな作品も美しい。

下村観山「筒井筒」

下村観山「蓬莱山」

山元春挙「蓬莱仙閣図」

山元春挙「白狐図」

 そしてタイガー大橋は虎の絵のみならず、カンガルーに白熊、さらには狸とバリエーション豊かな作品が登場する。

大橋翠石「カンガルー之図」

大橋翠石「茗茶睡描之図」

大橋翠石「秋叢遊狸図」

大橋翠石「白熊」

大橋翠石「双虎之図」

 決して両館共に大幅に展示入れ替えというわけでもなかったのであるが、それにも関わらずなかなかに楽しめる秀作が目白押しであった。それにやはり大橋翠石の虎の絵には圧倒されるものがある。

 

 

 美術館の見学を終えたがこれだけで既にかなり疲れている。再びこの灼熱地獄の中に繰り出して行くには一準備必要そう。喫茶の方に移動すると「宇治金時(700円)」でクールダウンを行う。

この界隈ではありえないまともな価格の宇治金時

 それにしてもこの界隈にはありうべからざるまともな価格である。下手な店に入ったらこれで2000円以上は取られかねないのがこの界隈の異常な常識。何しろ私が以前にあまりにひどすぎて呆れた店にまで行列ができている始末。インバウンドの一見客が多すぎるせいで、本来淘汰されるべき店が淘汰されないという資本主義のイレギュラー状態。こんな状況だから当然目をつけて参入してくる中国資本なども多く、それがさらにインバウンド向けボッタクリに拍車をかける始末。

 

 とりあえずクールダウンが終了したら、意を決して灼熱地獄の中に繰り出す。京福電鉄と地下鉄で北山まで移動だが、京福は単両編成だったせいで車内はごった返しの地獄の惨状。太秦天神川での地下鉄への乗り換え時に付近の店で昼食を考えていたが、さっきの喫茶で時間を取ったせいで余裕がなくなった上に、そもそも頭にあった店がなぜか閉店していたので結局は昼食を摂れずにホールに直行することに。

灼熱地獄の中をホールにようやく到着

 ホールに到着したのは開場後。今回のチケットは完売とのことで、場内は大勢の観客でごった返している。天才少女HIMARIがやはり世間の注目を集めているのだろう。

 昼食を摂っていないのでやむなく喫茶で超高級サンドイッチとアイスコーヒーを頂く。しかしテーブルが空いていないのでカウンターの隅でコソコソとサンドイッチを腹に入れる状態。何となく惨めである。

喫茶で購入した超高級サンドイッチで急場をしのぐ

 

 

京都市交響楽団 第703回定期演奏会

オルガンの用意がされている

[指揮]ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(京都市交響楽団首席客演指揮者)
[ヴァイオリン]HIMARI ★
[ソプラノ]石橋栄実 ◆ 
[メゾソプラノ]中島郁子 ◆
[テノール]山本康寛 ◆
[バス・バリトン]平野 和 ◆
[合唱]京響コーラス ◆

 

ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 op.11★
ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲 op.20★
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626◆

 

 ソリストは日欧のコンクールを弱冠14歳にして総なめしたという天才少女HIMARI。今回の公演はチケット完売だというが、それもHIMARI人気によるものか(デ・フリーントの人気とは、先の公演での入りを見ると考えにくいし・・・)。なお今回はNHKのカメラが入っているが、いずれNスぺかプロフェッショナル辺りで特集でも組まれるんだろうか。

 さてその天才少女の演奏だが、確かに堂々とした弾きっぷりには早くも巨匠の風格さえもある。とはいうものの音色の美しさはあるものの、やはり弱冠14歳では体力的にも制限があるだろう。その音色はやや繊細に過ぎて力強さはまだ少ない。また今回は曲調もあって、美しくはあるがいささか陰影に欠けるようなところが感じられた。まあこの辺りは彼女がこれから年齢を重ねて人間的に成長していくにつれて充実していく部分であると感じられる。未来の大器たる予感を抱かせるには十分である。

 アンコールはイザイの無伴奏ソナタでテクニック的なものを聴かせてくれたが、あくまでテクニックをこちらに押し付けてくるタイプの演奏ではない。やはりまだまだ優等生的であまり突き抜けた感はないが、変なアピールや押し付けのない素直な演奏はむしろ好感が持てる。今後人間的成長に伴う表現力の向上が見られると、かなり期待できる才能であるといえるだろう。

 後半はデ・フリーントによるモツレク。デ・フリーントは以前に読響での第九で、ピリオド演奏でありながら極めてロマンチックでドラマチックという演奏を聴かせたのであるが、今回もそのスタンスである。その演奏は極めて明快であり、その音色はシンプルでありながらも非常にシャープな変化を含むものである。

 そのドラマチックさは「怒りの日」などに端的に現れている。音色は古典的で淡泊にもかかわらず、そこから繰り出される音楽は大スペクタクルとなっている。大スペクタクルと言えば近代オケの大編成でブンチャカやるのが通常だが、ヴェルレクならともかく、それだとモツレクではない。あくまでピリオドの「モーツァルトも聴いたかもしれない状況での大スペクタクル」というのが最大のポイントとなっている。この辺りはデ・フリーントの真骨頂とも言える。

 またオケの構成を10-10-8-6-4の変形10型という比較的小型にしたことで、声楽部が正面に出てきて声楽協奏曲的な色彩を帯びている。独唱陣も実力者ぞろいであるので、その環境を生かして歌唱で魅了してくる。

 京都市響も小規模編成で各人の技量を見せつけてくる。特にソロトロンボーンなどはその音色でかなり魅了してきた。全般的にオケの技量がハッキリと出ており、その辺りはデ・フリーントの誘導でもあるのだろう。

 ただ全体のレベルがそのようにかなり上昇している故に、京響コーラスにももう1レベル上の表現力とまとまりを求めたくなるのが本音。決して京響コーラスにケチをつける意図はないが、正直なところこれが読響の第九で登場した新国立歌劇場合唱団だったらという無い物ねだりを思わずしてしまいそうになるのも事実。

 

 

 コンサートを終えると今日の宿泊ホテルに移動することにする。今日宿泊するのは以前にも利用したことのあるルーマプラザ。男性専用のカプセルホテル付きのサウナである。

 ホテルは祇園界隈にある。地下鉄で四条まで移動すると、夕食を摂る店を探しがてらキャリーを引きずりながら河原町方面までプラプラ散策。例によってこの界隈は店自体は多いのだが、相場が異様に高い。ここという店は大行列だしと、結局どこにも入れないまま河原町を通り過ぎてしまう。

 南座のある界隈にまで到着。南座の出し物はルパン三世だとか。なんじゃこりゃと思うが、実際には歌舞伎は昔から赤穂事件を題材にして仮名手本忠臣蔵が誕生したりなど、実は世間の動向に敏感なので、ある意味では歌舞伎の原点にはかなっている。まあ石川五右衛門や銭形平次の子孫が登場する作品なので、ある意味ではONE PIECEなどよりは歌舞伎向きかもしれない。

南座の出し物はこれらしい

なんか妙に合っているような、根本的に間違ってるような

 

 

間に合わせの夕食の後、祇園のサウナで宿泊

 なんだかんだでルーマプラザに到着してしまう。もう面倒くさくなったので、ルーマプラザのビルの地下にあるスシローに入ってしまう。またも京都間に合わせ飯になってしまった・・・。

ルーマプラザの建物の地下がスシロー

 寿司を数皿にあさりのうどんを注文。しかしこれを食べていたら丸亀製麺に行きたくなってしまった・・・。

寿司を数皿つまむ

ほとんどヤケクソ

あさりうどんを食べてたら丸亀製麺に行きたくなってきた・・・

なんかわけのわからん景品が出てきた・・・いらね

 間に合わせ夕食を終えるとホテルにチェックイン。何はとりあえず入浴して汗を流したい。このホテルは階上にサウナや浴場がある。アルカリ泉の露天風呂でゆったりと汗を流す。ヌルヌルしたアルカリ泉が心地よい。これがこのサウナがいうところの男前の湯らしい。これで私の男っぷりもさらに磨かれるというもの。

 入浴して汗を流すと、ネットブースなるワーキングスペースにPCを持ち込んで作業。流石に週末のサウナで仕事をしようという者はほとんどいないようで、ここにこもっているのは私だけ。とはいうものの、私も入浴を終えると疲れが出てきて全く頭が回らない。結局はおこもり時間の大半はKindleでコミックを見たり、ゲームをやったりで無為に過ごしてしまう。

 ちなみに最近のネットワークゲームはとにかく課金誘導やCM挿入でウザい。私は最初の寺銭代わりのわずかな課金だけをする微課金派(今時のゲームはとにかく当初に数百円程度の課金をしないと、その後のゲーム進行が不可能ではないが異様に大変になる仕掛けがある)。

ネットブースにおこもりする

例によっての仕事環境構築

 なんだかんだでぼんやりしているうちに夜も更けてくるので、お仕事セットをロッカーに押し込むと、カプセルに移動して就寝する。

 

 

この遠征の翌日の記事

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六甲アイランドの美術館を回ってから、佐渡オペラで「さまよえるオランダ人」

暑さに大分参っているが、遠征は最終日

 疲労で爆睡していたのだが、それでも昼前まで爆睡といかないのが老化による睡眠力低下の悲しさ。きっかり夜中の4時頃に目が覚めてしまう。こうなるとすぐに再就寝とならないのは経験上分かっているので、寝床で漫画でも読みながらグダグダとしばし過ごし、眠気が湧いてきたところで二度寝する。次に目覚めたのは7時半の目覚ましで。

 しかし体のダメージは相当のものである。目が覚めても体が起き上がれない。ゴソゴソ歩いて地味に体力を消耗しているが、やはり最たるものは熱疲労だろう。大量の発汗で水分が相当に失われている模様なのに、体の脱水に胃腸の吸収がついて行っていないのでとにかく異常にのどが渇く。いくら麦茶を飲んでも際限なく喉が渇く状態。体は軽い熱中症状態で火照っている。

 元気があればこの朝に原稿アップなども考えていたが、とてもそんな状況でないのは明らか。とりあえず昨日に購入しておいたパンを間に合わせの朝食として腹に入れるとしばしグダグダ。

 今日の予定だが、14時から西宮で開演の佐渡オペラ(こう書くといつも佐渡おけさを連想する)に行くというもの。2日続けての庶民向けオペラである。今回の出し物はワーグナーの「さまよえるオランダ人」であるので、庶民向けオペラにしては高尚な内容。

 ただ会場直行だと時間が余るので、そこは例によって美術館に立ち寄る予定。今日は六甲アイランド方面の小磯記念美術館と神戸ゆかりの美術館をはしごする。

 10時前に宿を出ると、機動力を損ねるキャリーはJR三ノ宮東口のロッカーに放り込んでおく。身軽になったところでJRと六甲ライナーを乗り継いでアイランド北口へ。六甲ライナーに乗るのは久しぶりだが、やけに揺れるのが気になる。本来は新交通システムはこんなにガタガタと揺れるべきものではない。保線管理がうまく機能していないのではという気もする。

 目的の美術館は平面距離では駅からそこだが、高さの差がかなりあるので延々と降りていく形になる。それにしても今日も凶悪な暑さである。

美術館に到着したのは良いが、とにかく死ぬほど暑い

 

 

「藤田嗣治 7つの情熱」神戸市立小磯記念美術館で9/15まで

 レオナール・フジタことパリで活躍した日本人画家・藤田嗣治の生涯にわたる創作を7つのキーワードに注目して紹介するという。

 最初のキーワードが自己表現であるが、藤田と言えば連想するあの前髪パッツンのヘアスタイルは、そもそもはファッションではなく髪が伸びてきて邪魔になったら自分でカットしていたことから始まったとか。それが知らない間に自身のトレードマークのようになってしまったとのこと。

 2つ目のキーワードが風景で、初期の藤田は各地を旅しながらその風景をスケッチしまくっていたという。その頃の作品がいくつか展示されているが、細かい描き込みに藤田らしさを感じさせるものの、傑出した特徴はまだ見られていないような気がする。もっとも藤田らしい絵があまり得意でない私から見たら、むしろ好ましく見える作品が少なくなったのであるが。

 3つ目のキーワードは前衛。これは渡欧した日本人画家がもれなく体験する通過儀礼のようなもの。当時の最先端の芸術表現に1度はかぶれてみるのである。藤田の場合はちょうどキュビズムが台頭していた時期らしく、明らかにキュビズムの影響を受けた作品が数点展示されている。ただこれに関しては藤田らしさはほとんどなく、正直なところこの路線で進んでいたら藤田は凡百の画家の中に埋もれていたろう。

 4つ目が東方と西方とのことで、藤田は自らが東洋人であることを意識し、その感覚を絵画に取り入れようとしたという。特に浮き世を意識したらしく、明快な線表現に浮世絵的な目つきの女性を描いているが、私の目には浮世絵と言うよりはエジプトの壁画表現に近いように感じられた。

 5つ目が女性で6つ目が子どもになる。この女性はまさに藤田が時代の寵児となった乳白色の下地に面相筆で繊細に書き込んだ女性像になる。これが一般的に藤田と言ったときに誰もが連想する絵画群で、藤田はこれらの作品で世界に認められることになる。さらに時代が進むと藤田の画題は女性から子どもへと変化。あの独得のクセの強い子供像でこれも藤田を象徴する作品。ちなみに私が藤田を苦手というのは、どうもこれらの作品と相性が良くないからであるが。

 最後が天国と地獄。晩年の藤田はキリスト教に入信し、宗教を題材にした絵画などを制作することになる。藤田らしい細かい筆致で天国と地獄をテーマに描いたモノクロ作品が非常に目を惹く。個人的には本展の中で一番面白さを感じさせたのがこれらの作品。

 以上、今年は藤田の生誕140年とのことで、様々な藤田絡みの展覧会が企画されているがその一環である。藤田に強い興味があるとは言い難い私であるが、それでもなかなかに興味深いものがあった。


 小磯記念美術館を後にすると南下する。しかしこの天候ではこういう行程がキツい。屋外歩行が10分を過ぎれば熱中症になりそうになる。途中でダイエーに逃げ込んだりしながら、何とか目的地へとたどり着く。しかしこうして歩くと、六甲アイランドはポートアイランドと違って店が結構いろいろあることが分かる。これはその内にポートアイランドの方はゴーストタウンになりそう。私の知っている外資系企業なんかも、生活がしやすいとのことでポートアイランドから六甲アイランドに続々と移転しているということも聞いたし。

灼熱地獄の中をようやく美術館にたどり着く

 

 

「西田眞人 日本画展 ー再生の祈りをこめてー」神戸ゆかりの美術館で9/15まで

 神戸出身の日本画家である西田眞人の作品を展示した展覧会。風景画を描いてきた彼は、阪神・淡路大震災に衝撃を受けて震災後の風景やその後の復興の姿を描いてきた。これらの作品が高い評価を受けた。なお日本画家と言うが、それは画材が日本画の画材と言うだけで、表現的には西洋絵画と大差がないといういかにも最近の日本画家でもある。

 初期の作品は普通に「映える」風景を描いている感があり、技術的なものはともかくとして精神的な深さをあまり感じさせないところがある。それが一変するのがやはり震災体験によるようである。彼が震災の廃墟を描いた風景には、そこから何かが語りかけてくるような妙な静けさが感じられ、この頃を境に彼の作品が一気に精神性を帯びてくるようになる。

 震災から復興していく町の風景などを描きながら、時には抽象的な風景を描くようにもなったようである。明らかに精神世界に傾倒していった象徴とも言える。

復興する神戸を描いた「輝く街」(2001年)

 近年では全国の一の宮を訪問して作品を描くことをライフワークとしているとのことで、まさに題材からして精神的なものが強く、独得の静けさを感じさせる絵画となっている。それと共に初期のギラギラした色彩がなくなり、モノトーンの絵画へと変化してきているのが特徴的である。

 1人の芸術家が体験を通して深まりを増して進化していく過程をまざまざと見せつけられた印象の展覧会であった。こういうのもなかなか面白い。

 

 

 これで本日の美術館の予定は終了。後は西宮に移動して昼食を摂ってからホール入りである。JR住吉から摂津本山で降りて岡本まで移動(これが今日はキツい)、後は阪急で西宮北口。この気象でなければなんてことない行程が、今日は覿面に体に響く。

 さて昼食をどうするか。妥当なところで西宮ガーデンズに向かったが、相変わらず人が多すぎてどの店も30人待ちとかいう馬鹿げたことになっている。開演が14時からなのであまりゆっくりもしていられないので、さっさと見切りを付けて駅まで戻ってくると、結局は駅北のケンタでCPの悪い間に合わせの昼食になる。どうもこのホールはこのパターンが多い。思いの外ガーデンズが使い物にならないのが原因だが(混雑を抜きにしても、ボッタクリがひどすぎる店も多い)。

間に合わせのケンタ昼食

 間に合わせの昼食を済ませるとホールへ。チケットは完売しているようなのでかなりの大勢がゾロゾロと入場である。私が確保したのは4階サイドの最安席。実際に席に着いてみると見事なまでの見切れ席である。ステージの左側の1/3ぐらいは見えない。オケだと音が聞こえれば良いが、オペラだとこれは少々キツいか。また高所恐怖症の私にはかなりツラい席でもある。

もろに見切れ席の上に高さがかなりある

 

 

ワーグナー「さまよえるオランダ人」

指揮:佐渡裕
演出:ミヒャエル・テンメ
ヨーゼフ・ワーグナー(オランダ人)、ルニ・ブラッタベルク(ダーラント)、シネイド・キャンベル・ウォレス(ゼンタ)、ロバート・ワトソン(エリック)、ステファニー・ハウツィール(マリー)、鈴木准(舵手)

 佐渡裕企画のオペラも兵庫芸文の開館20周年に合わせて20作目となったという。毎回佐渡オペラは日本人キャスト中心の回と外国人キャスト中心の回を交互で上演するが、今回は外国人キャスト中心の回となる。

 勇壮な音楽は実に分かりやすいし、上演時間も3時間ということでワーグナー作品の中では比較的手頃な感覚があるので、ワーグナー初心者に向くと言われている作品である。もっとも話自体は他の作品と同様にワーグナーらしい価値観・宗教観などが現れているので理解しにくい部分がある。正直なところ、不幸なオランダ人を献身的な愛で救った少女の物語というよりは、現実逃避して空想上の推しに入れ込みすぎた少女が、そのまま身を滅ぼしてしまった話というようにしか私には見えない。

 それはともかくとして、壮大で複雑な音楽はやはり魅力的なものがある。そして主演陣の安定性はなかなかのもので、オペラという芸術の醍醐味を観客に感じさせるには十分な公演であったようには思われた。

 陰の深いオランダ人を演じたバスバリトンのワーグナーと、財宝に釣られて脳天気に彼と娘の縁談を進めてしまうダーラントを演じたバスのブラッタベルクの対比ぶりがなかなかに興味深いところであった。そして狂気を秘めた夢想少女のゼンタのウォレスは少女の揺れ動く心というか、自己陶酔の危ない性格を表現していて興味深い。一番まともであるが故に悲劇的な存在であるエリックのワトソンは、純粋に恋人を心配する男を好演していたが、やや歌声にか細さがあるのが少々気になったところではある。

 取っつきやすい作品を中心に取り上げていた佐渡オペラとしては、珍しい重厚な企画であったがなかなかに聴き応えがあったと言える。

カーテンコールの模様

佐渡も加わって

 楽しめたのではあるが、やはりオペラは見切り席はツラいなと感じたのも事実。次に席を取るとしたら、ケチりすぎずにもう少し正面からの席にしようかと思った次第。

 

 

本遠征の前日の記事

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